伊予守宛行状
明徳五年四月九日 / 冊子 153~154頁
伊予守が楠橋対馬守・設楽駿河守に、薩摩国山門院内の田地などを市来崎弾正忠へ付すよう命じた宛行状。
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明徳五年四月九日 / 冊子 153~154頁
伊予守が楠橋対馬守・設楽駿河守に、薩摩国山門院内の田地などを市来崎弾正忠へ付すよう命じた宛行状。
(天正17年)10月22日 / 冊子 453頁
島津義久(龍伯)が、上洛前に伝授した三か条の「まじない」を秘密として口外しないよう河田駿河入道へ命じた書状。 伝授内容の扱いと相伝の方法を指示し、あわせて槨絵一枚を送っており、島津家中の秘法・呪術伝承をうかがわせる珍しい史料である。
(慶長十九年)七月十五日 / 冊子 532頁
慶長十九年七月十五日、山口駿河守の現地到着を知った島津家久が、三原重種を先に派遣したことを伝え、有馬方面の情勢を尋ね、必要な人数は注進次第で差し向けるとした書状案。
元和七年四月吉日 / 冊子 768頁
諏訪兼安が町田駿河守へ、御荷内役を命じられたことを受け、別心なく奉公すること、御前で承った隠密を他言しないこと、親子兄弟・縁者でも不忠の者には同心せず上聞に達することを神仏に誓った起請文。
(永禄八年)正月十四日 / 冊子 139頁
義久が新年の慶賀を申し述べ、自身が修理大夫に任じられ官途を定めたことを知らせた書状。祝儀として太刀一腰・馬一疋を進上し、今後も賀意を重ねて伝えるとする。
二月 / 冊子 208~209頁
前年十月、琉球大島へ小型唐船一艘が漂着し、積荷を買い取って送ったことを報告した。遠島のため連絡が遅れたが、長崎来航船は長谷川の検使管轄であることから荷物を用向に供すると注進し、さらに小船二艘が流来したとの風説も伝え、長谷川の指示に従うとした書状案。
本文4月;添書・外包:安政6年4月16日 / 冊子 214~215頁/原整理番号 290/整理ID 290
新納駿河に対する宰相の沙汰。先祖武蔵忠元が天文・慶長の戦国期五十余年に武功を重ね、危険な境目の大口地頭となり八十五歳まで警衛・領地の安定に尽くしたこと、先代の朝鮮出陣中には鹿児島の勤番をしたことを回顧して顕彰する。先年大口に忠元霊社を創建し、駿河も大口の職務を精密に吟味して勤め、忠元の遺志と家訓に違わぬことを評価する。京都吉田家へ忠元霊社の神階加級を進め、忠元明神・大明神への加級を不日とする記載があり、駿河が今後も御奉公の心掛を励むよう諭す。添書は、昨日玉里御休息所で宰相が駿河を呼び、取次がこの沙汰を伝えたので、後年の参考として御記録所へ書き留めるよう指示する。安政六年四月十六日、永江休之丞から御記録奉行へ。外包も同日、永江から佐多徳八郎へ渡し白木御文書十番箱に収納した旨を記す。
(慶長十年)十二月廿九日 / 冊子 44~45頁
本多正信が山口直友に、島津忠恒が歳暮の祝儀として徳川秀忠と忠恒側へ使者を立て、呉服を進上した件は酒井雅楽頭によって披露され、御内書が下されたと伝えた書状。使者への小袖五重の下賜にも触れ、引き続き取り計らうよう求める。
(慶長十年)十二月廿九日 / 冊子 45頁
徳川家康が山口直友から音信として砂糖千斤を贈られたことを喜び、謝意を示した御内書。
(寛永九年)十一月十三日 / 冊子 323頁
島津家久が、世上への配慮と諸人の風評、宗門に関する沙汰、他国との相談や江戸の落書、礼儀、図書頭新八郎の出立・病気、江戸にいる家臣間の情報共有、来客応対などについて心得を命じた条書。
十二月十三日 / 冊子 584頁
新納家文書に伝わる島津忠治書状。本文はNo.1793と同文であるため省略され、餅原駿河守・吉田六郎三郎の名のみ掲げられる。
天正十二年三月二十四日・十一月二十六日 / 冊子 867頁
天正十二年三月二十四日の島原合戦で戦死した新納駿河守・久永九郎左衛門尉以下の将士と、同年十一月二十六日の戦死者を列記する殉国者名録。各人の実名・父祖・年齢・後裔などを注記する。
年月日未詳 / 冊子 214~215頁
七月二十九日以降、島津義久が豊後侵攻を見据えて川田駿河守らを派遣し、筑後・筑前の諸勢力と城々を処置した経過を記す。和田玄蕃助の帰参、筑紫上野介・蒲池氏・西牟田氏らの帰順、高良山や周辺諸城への入城・警衛、立花方面に兵を残す配置を列挙する。諸氏の服属が一度に完了したのではなく、使者・人質・守備兵の配置を重ねながら豊後への進路を整えたことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 287~288頁
高野山木食興山上人と一色駿河守が豊後府内へ来て、島津義久に豊臣方との和睦と早期帰国を勧めた記事。義久は直ちに帰国せず、三月十八日に長谷川内へ進んで敵を退け、翌十九日に高城へ入った。和平勧告を受けながら軍事行動を続けた島津方の判断と、高城決戦前夜の動きを示す。
文禄4年7月14日 / 冊子 902頁
竜伯は、平田吉兵衛尉が家久のもとから帰り、旧領での処遇や兄弟二人の在陣について相談を受けたことを伝える。 伏見での豊前関係の案件と伊地知駿河らの取次にも触れ、現地で適切に申し付けるよう家久へ求める。
(慶長十年)十二月廿一日 / 冊子 43~44頁
本多正信が島津忠恒に、歳暮の祝儀として呉服十を進上した件は披露され、遠路からの厚意を喜んでいると伝えた書状。さらに呉服・綾・染物などの進物にも触れ、山口駿河守から詳しく伝えるとする。
年月日未詳 / 冊子 45~51頁
慶長十年の国府衆中を家ごとに列記した大規模な交名。町田縫殿助(後の駿河守)をはじめ、各家の当主・子・兄弟・養子・婿・被官らの姓名、入道名、役職、親子・養子関係、居所・移住先、出仕・死亡などの注記を収める。
(慶長十一年)四月十六日 / 冊子 67頁
島津竜伯が島津忠恒に、唐船関係の予定は当年九月ごろ、遅くとも十月には決まる見込みだと伝えた書状。自身の上京時期や現地での手続き、山口駿河守からの書状を踏まえ、今後の日程を知らせるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 521~522頁
慶長十九年日記のうち正月三日以降の記事。年頭の拝礼、家臣や使者の参上、進物、酒宴、江戸・駿河方面との往来など、年初の儀礼と政務を記録する。
年月日未詳 / 冊子 532頁
慶長十九年、長崎・有馬のキリシタン宗旨を退治するため山口駿河守が下向した際、喜入忠続が多数の兵を率いて現地へ赴き、その指揮下に入ったことを記す喜入忠続譜。
(寛永六年)五月十五日 / 冊子 95~96頁
伊勢貞昌が、前朝に男子が誕生したことを急使で報じ、千秋万歳の慶事として祝う。三日中に友野左近を出立させて詳細を伝えること、弓の儀を町田駿河守が勤めること、兄弟も息災であることを知らせた書状。
年月日未詳 / 冊子 407~408頁
弾正への知行三千石について、祢答院と東郷の替地、三千石の加増、当初の約束と今回の処置、町田駿河守・児玉筑後守を使者とした経緯を記す覚書。
四月七日 / 冊子 153~154頁
新納久饒が本田伊豆守に、駿河からの使者が前日に到着し、駿府の情勢は早晩勝ちに向かう見通しであると報じた書状。軽率に構えず賢慮を求め、その旨を伊勢兵部少輔にも書き送ったこと、自身は病後で直接申し上げられないため、本田から披露してほしいと依頼する。
(天正十四年)十二月四日 / 冊子 226頁
足利義昭が豊臣秀吉と島津方の対立を憂慮し、和睦の成立を強く望んで一色駿河守を派遣した御内書。交渉が円満にまとまるよう求める。
十二月四日 / 冊子 226頁
足利義昭が豊臣秀吉との対立を憂慮して和睦を望み、一色駿河守を派遣したので交渉成立に尽力するよう島津兵庫頭へ求めた御内書。
(天正十四年)十二月四日 / 冊子 227頁
足利義昭が豊臣秀吉との対立を憂慮して和睦を望み、一色駿河守を派遣したので交渉成立に尽力するよう伊集院右衛門大夫へ求めた御内書。
永禄十二年五月六日~九月 / 冊子 219頁
戸神尾・稲荷山に二段の伏兵を置き、家久と大野・宮原勢が大口・相良勢を破って百三十六首を得たとする雑本の記事。八月十八日に大口城を包囲し、敵の降参後、九月に城内で太平の祝宴を行ったことも記す。
(慶長九年)七月三日 / 冊子 937頁
山口直友が島津忠恒の側近へ、上様からの贈物を甚兵衛に添えて届けた旨を伝える。前日の愛宕参詣を祝い、詳細は甚兵衛の口上と後日の面談に委ねた。
(慶長九年)九月朔日 / 冊子 942頁
山口直友が龍伯側近へ、使者三原諸右衛門尉の帰国に託して両御所の無事を報じる。忠恒は当年在国し、翌春早々に上洛するよう命じられたとして、準備と相談を怠らないよう求めた。
(慶長九年)十月廿四日 / 冊子 943頁
山口直友が忠恒側近へ、将軍家康は翌月下旬、右大将秀忠は翌年二月上旬に上洛予定と報じる。本多正純の内意により、忠恒も遅滞なく上洛するよう促し、樺山権左衛門にも伝えた。
(慶長九年) / 冊子 944-945頁
島津義弘が、呂宋渡海船について山口直友へ照会し心配不要との返答を得たと報じる。海路・京都滞在中に家臣の狼籍がなく、所司代板倉勝重からも薩摩衆の宿取りを称賛されたとして、阿久根で定めた法度の効果を喜んだ。
(寛永八年)十二月十九日 / 冊子 253頁
江戸から国元への連絡覚書。上洛時の供衆は騎馬二十~三十騎ほどとし、追加の駄乗馬衆を後から召し寄せる準備を指示する。牧野内匠の照会に対し、江戸に詰める夫婦・父子の証人衆と知行高を書き上げた経緯、高力摂津守の所望品、薩州から黄門様・兄弟への年頭の樽と肴、美々津への船配置ができないこと、能の際に縁へ敷く幅広の毛氈の送付を伝える。
天保2年4月28日(本文・朱注) / 冊子 877頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2459
島津重豪から島津駿河殿への四月二十八日付礼状。従三位昇進の嘉儀として使者を通じ目録の品を贈られたことを喜び、「欣然之至」と謝意を伝える。贈答品の具体名・数量はこの書状本文には記されない。忠公・越前島津家の傍注。同文型の隣接する礼状と宛名を区別し、原本877頁の本文・日付・重豪の花押と宛名を一通として確認する。
安政5年9月19日(記録);外包:9月廿日 / 冊子 189~190頁/原整理番号 265/整理ID 265
白木御文書十番箱中、忠昌公・持明様の肖像掛物各一幅の表装・付属品目録と修復格護の記録。忠昌公の掛物は紫地牡丹唐草の一文字風帯、茶地桐雲紋唐華の大一文字、金入丸龍の上下を記し、持明様の掛物は白地龍紋金入の風帯、紫地牡丹唐草の大一文字、茶地桐雲紋唐華の上下とする。軸・巻口の金物、縮緬の包み、銘書のある黒塗箱、紐と春慶塗箱等も列挙する。興国寺に安置する二霊像のうち、忠昌公の肖像を臨写して表装を仕立て、持明様の肖像を修復して表装を取り替え、元どおり安置する旨を述べる。持明様の像は御手許で仕上がったため、寺へ後年まで粗末にせず格護するよう伝え、忠昌公の像も寺社方で格護するよう命じる。安政五年九月十九日、寺社奉行新納駿河久仰の判。外包は翌廿日、駿河から伊藤彦介が承知し、御記録所格護と白木御文書十番箱への収納を記す。
未10月廿九日(本文、年は一件の安政6年から) / 冊子 220~221頁/原整理番号 302の1/整理ID 302-1
本丸炎上のため明細書を新規に早く差し出すよう公義から命じられ、各方面へ伝達したとする川上龍衛の書状。明細を御記録奉行が吟味したうえで右筆へ認めさせ、大目付平賀駿河守へ差し出して落手した旨を、別紙首尾書のとおり留守居が報告したと述べる。この内容を各所へ伝え、御記録奉行にも申し渡すよう求める。未十月廿九日、豊後・筑後・伯耆・駿河・伊織の五名宛。
10月(本文年・日不記、安政6年の一件) / 冊子 221頁/原整理番号 302の3/整理ID 302-3
「写」と記す提出命令書取。本丸炎上に伴い明細書を新規に早く駿河守方へ差し出し、寸法等は以前に伝えたとおり心得るよう命じる。十月の記載がある。差出先と命令の発給者・宛先姓名は区別する。
二達とも朱辰七月(日不記) / 冊子 589頁/原整理番号 765の2/整理ID 765-2
通達留の後続二達。東京に当分鎮将府を設け、駿河以東十三国、すなわち駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・陸奥・出羽を支配させると告げる。続く達は、当該十三国の諸侯・中太夫・上士らが上京・帰国する際は鎮将府へ届け、諸願届も同府へ提出するよう定める。諸藩の公務人は一、二人ずつ東京に詰め、詰めた際には早く同府へ届けるとする。両達末は朱書の辰七月で日付はない。第二達の対象身分付近に「下脱」の編注があり、欠落内容は補わない。
明徳5年4月9日 / 冊子 659頁/原整理番号 137
明徳五年四月九日、伊与守が楠橋対馬守・設楽駿河守に、薩摩国山門院針原内の高柳一町三反・桃木田五反と、市来崎内の薗一か所などを沙弥市来崎弾正忠に付するよう命じた書下。二名は文書の宛所で、市来崎弾正忠が土地を付与される対象者である。伊与守が花押を据える。既存概要の合戦出陣・軍忠の命令は本文にない。
天文三年正月十六日 / 冊子 722~723頁
大的の射手交名と各人の的中数を丸印で記した日記。鳴津近江守・孫四郎・駿河守らの成績を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 771頁
天文八年三月十三日の谷山紫原合戦と、その後の神前城・本城・山城攻めに参加した味方の交名注文。島津忠良・貴久のもと、平田宗秀、伊集院山城守、大野駿河守、勝部兵庫允らを部隊・日付ごとに列記し、連続する攻略戦への動員状況を示す。
永禄十二年五月六日・廿五日 / 冊子 217頁
永禄十二年五月六日の大口戸神尾・稲荷山伏兵戦に参加した島津一門・諸将を列挙する交名。島津義久・貴久・家久、新納忠元、肝付兼寛、大野駿河守、宮原景種、前田豊前守らを掲げ、同月二十五日の祁答院長野城攻めで勇功を挙げた比志島氏、新納久鏡、鎌田政年らも付記する。
年月日未詳 / 冊子 288頁
豊臣秀長が二十万騎と記される大軍を率い、四月六日に日向高城・財部間へ五十一か所の陣を構えた。十七日の根白坂合戦で島津方は敗れ、島津忠隣ら三百余人が戦死。興山上人・安国寺・一色駿河守の説得を受けて義久は和議を受諾し、伊集院忠棟を人質として秀長本陣へ送った。五月一日の開陣と義久・義弘の帰国までを記す、九州征伐終結過程の重要記事である。
年月日未詳 / 冊子 335頁
根白坂の豊臣方陣地を攻めて敗れた島津義弘が、木食興山上人・一色駿河守らの仲介で和議に応じ、人質を出して飯野へ帰った経過を記す。五月十九日に野尻の羽柴秀長陣へ出仕すると、さらに人質を求められたため、赤塚三右衛門・佐谷田覚右衛門を桑山重晴へ預けた。両人の父はいずれも島津方で顕著な軍功を立てており、その功績ゆえに子が質として選ばれた事情を詳述する。
元和五年六月四日 / 冊子 702~703頁
島津忠朗が寺田将監・酒井雅楽助・山口駿河入道・石川太郎兵衛尉・牧野豊前守・御幸八幡などへ贈る銀子・太刀・馬代・帷子等の品目と数量を列記した進物目録。
八月二日 / 冊子 207頁
琉球から花の咲く草木が届いたため、仙桑花四本・山丹花四本・茶庭花一本・千年草一本を贈った。植付け方や囲いの仕様に十分注意したとし、詳細を山駿河守に託した書状案。
10月19日(本文年不記、安政6年の一件) / 冊子 221頁/原整理番号 302の2/整理ID 302-2
大目付平賀駿河守から呼び出され木幡松三郎が出向いたところ、用人を通じ書取一通を渡されたとする廻状。二通ずつ提出するよう同席の留守居へ伝える旨を聞き、陸奥守が各所へ通達するよう命じたことを述べる。各家が銘々駿河守へ早く明細書を差し出すべきとして、廻状数通を認めて持ち回らせる。十月十九日、松平陸奥守内の秋保清潔・橋本九八郎の名、修理大夫・有馬中務大輔・南部美濃守側の留守居宛を記す。
年月日未詳 / 冊子 627~629頁
島津家の家老臣が連署して定めた年中行事の式日次第。正月の祝儀・参賀から七夕まで、饗応、使者の派遣、社寺参詣、座敷での座次と役割を日付順に掲げ、田島・伊地知・本田・桑波田・石井ら家臣が担当する儀礼と家中運営の手順を示す。
永禄十年十一月廿三日~廿五日 / 冊子 167~169頁
菱刈氏が島津氏の旧臣でありながら相良氏と結んだため、永禄十年十一月二十三日、貴久・義久父子が栗野から湯尾へ、義弘が飯野から馬越へ進んだ征討を詳述する。進軍中に烽火を認めて敵の謀略を警戒したのち、翌二十四日に総攻撃し、義弘らが城門・城壁を破って井手籠父子を討ち、二百余級を得て馬越城を陥落させた。周辺八城と横川が退去・降伏した一方、菱刈隆秋は大口城に籠り、相良氏の球磨・八代援軍が入城した。
永禄十年十一月廿二日~廿四日 / 冊子 169~170頁
永禄十年十一月の馬越城攻めを義弘の働きを中心に記す。城壁を越えようとした辻・有馬・久富の三人が井手籠氏父子に討たれると、義弘が自ら太刀を取って強敵を斬り、諸将も門壁を破って井手籠父子以下多数を討った。勝利後、菱刈の諸城は大口城へ退き、隆秋は相良氏の援軍を得て同城を守った。
永禄十年十一月廿三日~廿五日 / 冊子 173~174頁
島津方が小林出勢を装って軍路を転じ、永禄十年十一月二十三日夜に般若寺越・構子木越から馬越城へ奇襲した経過を詳述する。義久・貴久が高地に陣し、義弘らが攻め上って井手籠父子以下多数を討ち、翌夜には周辺八城が放棄された。島津方は各城へ守兵を入れ、菱刈方は大口城へ集結して球磨の援軍を待った。