御感給旨所望輩交名
年月日未詳 / 冊子 296~301頁
軍功に対する御感状・給付を望む者百八十三人を、名乗りと家督、親子・一族の討死、軍功などの注記を付して列挙した交名。
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年月日未詳 / 冊子 296~301頁
軍功に対する御感状・給付を望む者百八十三人を、名乗りと家督、親子・一族の討死、軍功などの注記を付して列挙した交名。
明治2年六月4日知政所(年は朱書) / 冊子 674頁/原整理番号 877の3/整理ID 877-3
従来は諸向の勤方の年功勤労により身分・品能を定めることもあったが、制度刷新に伴い、今後は文武および軍功を除く平常の年功勤労について身分の取扱いを行わず、功労に応じて加増等を行うと定める。才器・徳望が抜群な者を召し出す扱いは別段とし、関係先へ知らせるよう求める。朱明治二年己六月四日、知政所。原の評価基準と例外を区分し、すべての昇進・加増の禁止や個人への適用済み結果とはせず、加増額・対象人数は補わない。
年月日未詳 / 冊子 233頁/原整理番号 333-18
有吉舎人佐・澤村宇右衛門・築紫大膳・萩図書(編者注『薮カ』)の各組について、軍功衆の氏名を列記した人名書上。年月日・宛先や各人の具体的な働きは本文に記されない。
明治8年10月 / 冊子 952~954頁/原整理番号 1220の1/整理ID 1220-1
家禄・軍功禄の総額と現米払・代金払の内訳を示し、石高別の現米・代金換算を定める。秋の収入不足米は過去三年の平均相場で大蔵省から受ける石代金とし、家禄高に応じて現米を按分し、不足分を代金で渡す。旧藩士族の家禄取扱いと関係各課の分担を整理する。
明治9年5月 / 冊子 962頁/原整理番号 1237の2/整理ID 1237-2
従前士族・旧附士以下の家禄・軍功禄について、五分五厘分を代金で支給し、米による支給分との扱いを定める旨を布告する。
三月朔日 / 冊子 321~328頁/原整理番号 370
寅二月二十八日に有馬原城本丸へ乗り込んだ者と、市来八左衛門尉に従って戦場へ同行した者について、氏名と軍功・被害を列記した注文。市来八左衛門尉、三原大蔵太輔、平山七兵衛尉、新納佐左衛門尉、有馬九郎左衛門尉、福崎新兵衛尉らをはじめ、多数の人物ごとに鑓合、鉄砲・弓、首、討捕、手負、戦死、屏越、本丸乗などを記す。中途に『出水衆討捕、合頸数百三拾八』と総数を掲げ、その後も市来八左衛門尉の戦場同行者らを続ける。末尾には曽木衆有村掃部助、坂本四郎兵衛尉、福崎覚兵衛尉の本丸乗を記し、寅三月朔日付。作成者・宛所は記載されない。編者注は『旧記雑録後編五』二一七〇号文書と同文とする。
年月日未詳 / 冊子 328~330頁/原整理番号 371
寛永十五年二月二十八日未刻、肥前有馬原城本丸で鑓を働かせた大口衆を中心に、手負、首取得、射撃、屏越、戦死などを列記した注文。高城七郎左衛門尉、肱岡左近丞、松下惣左衛門尉、濱川西市丞らの手負と各証跡人を記し、続く『首注文』では松木平兵衛、小城弥左衛門尉、寺師刑部左衛門尉、帖佐喜兵衛、原田新兵衛らについて首一つずつと証跡人または無証跡を区別する。さらに敵への弓射、敵の鑓・道具の取得、屏越、加賀守鑓場・本丸での戦死を記す。本文に作成者、宛所、差出日はなく、目録年月日欄も空欄。編者注は『旧記雑録後編五』二一四三号文書と同文とする。
年月日未詳 / 冊子 313頁/原整理番号 339-8
各家中の討死・手負を一手ずつ吟味し、諸大将から神文をもって上使衆へ達したとしたうえで、二月二十八日の総軍引取り後、本丸一番乗をめぐる申出を吟味した経過を記す。長岡佐渡守が松平伊豆守の陣場を訪れ、伊豆守は細川勢が三ノ丸を崩して本丸へ最初に人数と旗を入れたのを見届けた一方、柳川家中や他家の侍にも証拠を添えた一番乗申出が多いと説明する。佐渡守は各所から同時に入れば複数の一番乗があり得るとして、無用の争論を避けるよう求めた。
8月帯刀;去月19日戦闘・子8月21日二本松で拝見・後日写置注 / 冊子 378頁/原整理番号 541/整理ID 541
去月十九日の長州勢の襲来で諸家の警備が崩れ公卿御門が危うかった際、軍勢が駆け付け、鳥丸通で戦って敵を退け天朝の危急を救ったことへの勅書を伝える八月帯刀の通知。家の面目を示す功労に満足し、今後の軍功への賞も考えているが、在陣中は軍功に応じた賞を個別に定めにくいため、後で取り調べるとして心得るよう求める。子八月廿一日、二本松御屋敷で一統へ拝見を命じ、後日写したとの注を持つ。武功評価と今後の賞賜方針を伝える文書で、ここには各人の確定軍賞額を収めない。
明治2年己巳九月(日不記、二年に枠・朱イ注) / 冊子 700頁/原整理番号 917の1/整理ID 917-1
海陸兵の軍功により、従三位源朝臣忠義に高一万三千三百石を三年間下賜する旨を記す。明治二年己巳九月、二年に枠と朱イ注。旧御番所御文書四番箱中、包紙には島津従三位忠義とあり、広紙一通との注がある。石高・期限・包紙・保管注を区分し、日付や発給者を補わず、No.917の2・4の石高と重ねて合計しない。
明治6年9月5日・7日 / 冊子 930頁/原整理番号 1168の2/整理ID 1168-2
戊辰戦争で奥羽・北越へ出軍した者への軍功禄を、朝廷の指令に基づき九月から軍功賞典禄として支給する。戦死者約四百人には祭祀料として給米三か年分を支給し、追加願の裁定までは各人が心得るよう通知する。
元亀3年、天正元年3月18日、天正4年、天正6年11月、天正8年10月・11月、天正12年3月24日、天正14年6月、天正15年4月6日 / 冊子 280~281頁/原整理番号 111
元亀三年から天正十五年まで、上原長門守ら上原氏諸人の外交・地頭職・合戦での働きを年代順に列挙した軍功書上。元亀三年には禰寝方との和談使者を上原長門守・忠元・久治の三人が務め、同年三月中旬の伊地知方との合戦、天正元年三月十八日の肝付方との合戦では長門守が軍功を立て、天正四年には高原地頭を与えられた。天正六年十一月の耳川合戦では長門守と太郎五郎が軍功を挙げ、天正八年十月の矢崎城合戦で勘解由左衛門・内蔵助が戦死し、同年十一月の肥後合志方との合戦、天正十二年三月二十四日の島原合戦にも長門守・右衛門尉・勘解由兵衛尉らが参加し、彦五郎の分捕を記す。さらに天正十四年六月の筑紫出陣、天正十五年四月六日に京勢が日州高城へ着陣した際の防御人数に上原長門守を挙げる。
文禄二年正月 / 冊子 275頁/原整理番号 24の28
『征韓録』巻十一から、文禄二年正月に加藤清正が甲山から帰陣して北青城の相良頼房を救援した記事を抄出する。島津義弘が敵地を通る使者に猿渡掃部兵衛らを選び、鉄砲火の中を突破して軍情を伝えた軍功を考証し、義弘・久保の感状と石田三成書状へ続くことを示す。
五月(日不記)、朱注:辰 / 冊子 564頁/原整理番号 732/整理ID 732
私領・持切在を与えられた者や祖先の軍功による拝領高を持つ家にも、家の盛衰で上地したり他人へ譲ったりした分があると聞いたと述べる。それでは祖先の功労が立たず家にも遺憾であるため、特別の取計として蔵入高の分を外持高で繰り替えるとする。他人へ譲ってある高についても、心を尽くして精々取り纏め、十分相応の奉公を勤めるよう命じ、その旨を向々へ知らせるよう五月に龍衛・隼人が伝える。朱注は辰。
年月日未詳 / 冊子 333~334頁/原整理番号 376
寛永十五年二月二十八日、有馬原之城本丸の鑓場で、八左衛門尉の同心衆が敵の鑓・刀と戦った際の人名と軍功を列記した記事。前半は同心衆十七名を掲げ、湯田平兵衛尉の手負と川崎織部の戦死を明記する。後半は『八左衛門尉同心不申衆』二十三名について、鑓働き、首取得、取得首の切捨て、鉄砲、屏への取付きなどを個別に記す。本文に差出・宛所はない。編者注は『旧記雑録後編五』二一五三号文書と同文とする。
二月廿九日 / 冊子 334~335頁/原整理番号 377
寅年二月二十八日、有馬之城本丸で戦った出水衆の軍功・手負を列記した注文。鑓を働かせた衆、刀討の衆、弓で射通した衆に分け、阿多六郎左衛門尉らの人名と、鑓疵・刀疵などを記す。寺領衆の池亀伝左衛門尉は鑓疵、本田蔵右衛門尉は刀疵として別記する。末尾に頭数百三十八、二月二十九日と記す。本文に差出・宛所はない。編者注は『旧記雑録後編五』二一六七号文書と同文とする。
辰正月12日沙汰・参内、正月13日留守居報の付記 / 冊子 457頁/原整理番号 626/整理ID 626
薩摩少将へ積年の勤王と朝議の実行・周旋、三日以降の伏見防禦・連戦追撃を賞し、慶喜が浪華城を去ったとの報を受けた感激を述べ、剣を賜う沙汰を収める。続けて藩士の殉国戦死を憐れみ、忠魂を九原の下に慰め、遺族を厚く遇して葬礼を整えるよう命じ、金五百両を藩主へ賜って忠魂の祭祀に充てるとする。辰正月十二日の太守の参内、剣拝領・再拝・戦死人に関する再拝と夜九ツの帰殿を記す。十三日の留守居御用の報として朝廷から松平の称号を止める件、大坂鎮臺を命じられた趣、長州以下の恩賞関係の藩名を付記する。沙汰の評価、賜金目的、参内記事と取伝の付記を区別する。
年月日未詳 / 冊子 314頁/原整理番号 341
『旧伝集』所載の逸話。島原で山鹿越右衛門が高所にいた敵五、六人を一人で突き散らしたが、負傷して鑓下の首を取れずにいたところ、永井信濃守家来の侍が敵を追って首を取り、山鹿へ渡した。後年、山鹿が江戸詰めから下る途中に濃州大垣でその侍と再会し、島原での働きを互いに確認した。さらに後の通行時には侍が山鹿を歓待し、酒を酌み交わして器を贈ったとする。
家譜記事:四年正月3日~二月朔日(任命17日・金24日を原で保持) / 冊子 457~458頁/原整理番号 627/整理ID 627
島津氏家譜の記事として、四年正月三日に大坂から伏見・鳥羽へ進んだ徳川側を当藩兵が朝命で止め、退く意志がないため両道で戦い、淀・八幡・大坂へ追い、慶喜が海路で関東へ退いたと述べる。姫路への征討、十二日の茂久の参朝と剣・勅書、戦死者の忠魂への金五百両を記す。十六日の元服奉賀で太刀と御馬代銀二十枚を献じ、十七日の海陸軍総督任命に対して十八日に若年・不材と職責の重さを理由に辞表を出したとして文言を引用する。二十四日の朝命と金二万両、二月朔日の本姓復帰の命を続け、松平を除いて島津に復し名を忠義に改めたと記す。軍功・勝敗の評価と日付は家譜記事に属し、他の系図・履歴の記事とは区別する。
巻五/冊子 63~73頁
朝鮮在陣中の義弘・久保父子の軍功、久保の死と忠恒の家督継承、豊臣軍の人数・配置を記す。まず秀吉の軍法を掲げ、放火・人取り・百姓への非分な課役を禁じ、兵粮管理、飢民救済、城郭普請など占領地統治の規則を示す。久保は忠清道で敵を単騎追撃して首級を得たとされる一方、秀吉の朱印状には木曾城・釜山浦・金海・加徳島などを攻守する各大名の人数と配置が詳細に列記される。久保は金海で虎狩りを行った逸話の後、文禄二年九月に巨済で病没し、二十八歳で世を去った。翌年、弟の忠恒(のち家久)が家統を継ぎ、義弘とともに巨済・加徳島へ在陣する。秀吉の求めに応じた虎狩りでは、義弘・忠恒の家臣が危険を冒して虎を仕留め、その肉を献上して褒賞を受ける。さらに文禄四年および慶長二年の軍勢帳・陣立書を大量に収め、小西・加藤・鍋島・島津・黒田・毛利・宇喜多・小早川・船手衆などの人数、釜山浦から各城までの在番、先陣の順序、軍議・注進・築城・野陣の規則を示す。末尾は南原攻略へ向かう陣立に続く。個々の武功や家督継承だけでなく、朝鮮役における全国大名軍の編成・兵数・占領統治を具体的に伝える軍事記録である。
年月日未詳 / 冊子 45~47頁
『島津家譜』頼朝公譜の元暦二年記事。平家が京都を退いて西海へ逃れた後、範頼・義経らが追討し、壇浦で安徳天皇・二位尼らが入水して平家が滅亡する経過を記す。さらに頼朝による諸将の軍功評価と官職・所領の処置、鎌倉方の人事、寺社・供養に関する動向を多数の人物名とともに載せる。
年月日未詳 / 冊子 63~65頁
『島津家譜』頼朝譜の奥州征伐記事。文治五年、頼朝が伊達次郎泰衡追討のため鎌倉を発し、諸将を率いて奥州へ進軍する。阿津賀志山方面の城郭・陣地を攻め、泰衡・国衡らを追撃し、降人の処置、将兵の死傷、諸将の軍功と恩賞、平定後の帰還までを記す。
年月日未詳 / 冊子 64~65頁
「島津国史」。文治年間の奥州征伐と泰衡追討、頼朝軍諸将の動向、忠久の従軍・軍功と三州守護の由緒を記す。
年月日未詳 / 冊子 66頁
旧譜として、奥州の伊達三郎泰衡の反逆に対して頼朝が征討を命じ、忠久が従軍して軍功を挙げ、所領を受けたとする記事。
年月日未詳 / 冊子 73頁
酒勾安国寺申状。忠久の奥州従軍、守護代・家臣の軍功、敵方との戦闘と所領由緒を申述べる。
年月日未詳 / 冊子 73頁
山田聖栄自記。忠久の奥州征討参加と軍功、祖先黒かわ一文二たけに関する由緒、越前国を経た伝承を記す。
承久三年七月十二日 / 冊子 121頁
承久の乱で忠時が北条泰時に従い鎌倉を進発し、六月十四日に九十六騎の一員として宇治川を渡った記事。『蘇久次記』を引き、敵七人を討ち二人を生け捕った軍功と、泰時が忠義を賞したことを記す。
(元弘三年)五月廿七日 / 冊子 611頁
武蔵修理亮北条英時誅伐の際、指宿左近兵衛忠貞が分取一人・被疵の軍功を挙げたため、その功を認めて沙汰を進めると伝えた島津道鑑の書下。
元弘三年七月日 / 冊子 614~615頁
山田道慶が、北条英時誅伐の合戦で子息諸三郎忠能ら一族が馳向し、忠能が生虜・負傷などの軍功を挙げたと申告した申状。五月廿五日の誅伐後も合戦を続け、先度の注進に基づいて恩賞を受けられるよう奏聞を求める。
元弘三年八月五日 / 冊子 616~617頁
島津式部諸三郎忠能と亀三郎丸らが北条英時誅伐合戦で分取・生虜などの軍功を挙げたことを確認し、道慶方の注進どおりその功を披露するよう命じた後醍醐天皇の綸旨。
建武二年十二月十一日 / 冊子 639頁
軍功の賞として日向国新納院地頭職を島津下野四郎時久に宛て行い、先例に従って領掌させるよう命じた足利尊氏宛行状。
建武三年二月九日 / 冊子 650頁
大隅国始良西俣地頭代官職を、軍功の賞として下野六郎資久に宛て行い、先例を守って領知するよう命じた島津貞久下文。
建武三年三月十七日 / 冊子 653頁
軍功の賞として島津上総入道に薩摩国河辺郡と大隅国本庄を宛て行い、先例どおり領掌させるよう命じた足利尊氏下文。
年月日未詳 / 冊子 655頁
建武三年三月二日の多々良浜合戦で、足利尊氏・直義方が菊池武俊軍を破り、尊氏が重久篤兼の軍功を賞したことを記す重久篤兼譜。
建武三年三月廿八日 / 冊子 657頁
肝付八郎兼重以下の凶徒追討について、守護の催促に従って参陣し、軍功を挙げるよう大平平太郎に命じた足利尊氏御教書。
建武三年三月廿八日 / 冊子 657頁
大隅式部三郎忠能が多々良浜合戦で敵の首を取った軍功について、実否を見知者に問い、起請文を付して注進させるよう命じた足利尊氏奉行人連署奉書。
建武三年四月二日 / 冊子 660頁
軍功の賞として筑前国三根西郷地頭職を渋谷河内入道に宛て行い、先例どおり領掌させるよう命じた足利尊氏下文。
年月日未詳 / 冊子 666頁
時盛らが水塞を破った軍功により、百引村地頭代官職へ補任され、官職・恩賞を受けたことを記す肝付兼重伝の記事。
建武三年五月廿七日 / 冊子 666頁
大隅国肝付郡加世田城の水手を夜討ちで先駆けて攻め落とした軍功を賞し、野上田伊与房を百引村地頭代官職に補任して、先例どおり沙汰するよう命じた島津道鑑宛行状。
年月日未詳 / 冊子 666頁
重久篤兼が建武三年五月以降、式部小三郎ら諸将と王子城・加瀬田城を攻めた経過を記す重久篤兼譜。五月五日の軍勢派遣、六日の渡河・先登、九日の王子城攻撃、本田久兼・大隅入道らの参戦、篤兼の軍功を述べる。
年月日未詳 / 冊子 681頁
川上頼久が本田資兼・莫禰重貞・貞国・宮里彦七・東条七郎らと進戦し、二月十二日の資兼進撃、十六日の東条合戦、三月二日の負傷などの軍功を重ねたことを記す川上頼久伝。
年月日未詳 / 冊子 689頁
川上頼久が大隅式部三郎・大寺弥六・大田六郎次郎らと軍功を立て、足利直義から御教書二通と賞を受けたことを記す川上頼久伝の記事。
年月日未詳 / 冊子 692頁
川上頼久が京都へ上り、越前敦賀合戦で大隅前司久長入道道恵・大隅式部亀三郎友久・隠岐七郎行貞らと戦ったこと、益山十郎彦六らを抜いて軍功を挙げたことを記す川上頼久伝の記事。
年月日未詳 / 冊子 705~707頁
建武五年(延元三年)を中心に、島津貞久らの動向と南北朝争乱を編年で記す島津国史の記事。足利尊氏・直義方と南朝方の対立、薩摩・大隅・日向・肥前・越前などでの城攻めと軍勢催促、肝付兼重・新納氏・川上氏・本田氏らの軍功、負傷・討死、所領安堵・恩賞・守護職を、関係文書の日付と発給者を示しながら三頁にわたり詳述する。
暦応元年十一月廿四日 / 冊子 717頁
島津忠兼の白旗城での軍功を賞し、播磨国下揖保庄東方地頭職を先例どおり支配するよう命じた赤松円心書下。
観応二年正月廿四日 / 冊子 800頁
足利尊氏が島津周防三郎左衛門尉忠兼へ、江石見左衛門大夫跡と播磨国布施郷下職などを軍功の賞として宛行い、先例を守って支配するよう命じた下文。
観応二年二月十三日 / 冊子 804頁
足利尊氏が島津下野三郎右衛門尉資久へ、大隅国桑郷などの所領・別府半分地頭職を軍功の賞として宛行い、先例を守って沙汰するよう命じた下文。
観応二年二月廿六日 / 冊子 804頁
足利尊氏が島津周防次郎忠親へ、甲斐国花崎郷の依田将監跡を軍功の賞として宛行い、先例どおり領知するよう命じた下文。
観応二年八月十五日 / 冊子 812頁
足利尊氏が島津上総入道へ、大隅国寄郡内の下大隅郡、大禰寝院、鹿屋院、串良院、西俣村、当小川村などを軍功の賞として宛行い、先例どおり沙汰するよう命じた下文。
観応二年十一月二日 / 冊子 815頁
足利尊氏が島津上総三郎師久へ、島津下野守忠氏跡の所領を軍功の賞として宛行い、先例どおり支配するよう命じた下文。