兼宗・経水連署状
応永十四年十一月廿四日 / 冊子 228頁
兼宗・経水が新納越前守へ、屋形のため求めた薬が見つからないこと、屋形が市来へ入ること、山北で二十六日に軍事行動を予定することなどを報じ、堅固な祈祷を求めた連署状。
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応永十四年十一月廿四日 / 冊子 228頁
兼宗・経水が新納越前守へ、屋形のため求めた薬が見つからないこと、屋形が市来へ入ること、山北で二十六日に軍事行動を予定することなどを報じ、堅固な祈祷を求めた連署状。
二月廿三日 / 冊子 518頁
島津忠昌譜所収の書状として、島津国久が新納越前守へ新春の祝意と今後の繁栄を述べ、近日の参会を望み、扇子を贈ったことを伝える記事。
永正八年二月廿六日 / 冊子 599頁
島津忠治が肝付越前守に、山北・南方の軍勢動員に応じて出陣し、忠節を尽くす者を選び出すよう命じ、その功を賞すると伝えた書状。
「天文四年」十月三日 / 冊子 736頁
島津勝久が肝付越前守に、当地の衆をまとめて郡山・限城方面へ進めるよう求め、外部からの援勢も要請して今後の軍事行動を相談した書状。
二月十三日 / 冊子 756~757頁
島津勝久が肝付越前守に、舟での往来や所用、所持地の扱いについて述べ、佐藤兵部左衛門尉を派遣して相談を進めるよう求めた書状。
文月十四日 / 冊子 784頁
島津勝久が肝付越前守に、宿所の手配や使者の往来への配慮を謝し、妻子への書状送付など今後の取次を依頼した書状。
八月十一日 / 冊子 784頁
島津勝久が肝付越前守に、益房から安楽将監を遣わしたことを知らせ、急いで渡海できるよう便船の手配を求めた書状。
十月五日 / 冊子 784~785頁
島津勝久が肝付越前守に、加治木をめぐる疑義は北原方へ尋ねるよう求め、忠節を尽くした舎弟刑部少輔の遺児養育への配慮と、流言への慎重な対応を依頼した書状。
霜月十四日 / 冊子 785頁
島津勝久が肝付越前守に、益房のもとから忠朝へ使僧を派遣するため、渡船の便宜を図るよう重ねて依頼し、詳細は局から伝えるとした書状。
十二月十二日 / 冊子 785頁
島津勝久が肝付越前守に、島津家の滅亡が目前に迫る状況を訴え、この時の忠節は末永く忘れないとして、引き続き援助するよう強く求めた書状。
(天正三年)三月五日 / 冊子 430頁
進藤長治が、島津家からの使者として不断光院が下向するため書状を送ったことを肝付越前守へ知らせる。詳細は自ら説明するとし、当地で使者を厚くもてなし、島津義久へ取り成すよう依頼する。
天正18年6月15日 / 冊子 472頁
島津義久が税所越前守の忠勤を認め、今後も私心なく細部まで心を配って奉公すれば、肝要の者として取り立てる旨を保証する。 二度の神載を頼むほどの慎重な誓約で、主従関係と奉公評価を示す証状。
天文20年8月26日 / 冊子 601頁
前加賀法眼東尊が執印越前守へ、大隅国正八幡宮の執印職に紀越後儀景が補任されたことを通知する。 石清水八幡宮善法寺法印掌清の命を受けた執達文で、任命を承知し、儀景が神事に専念できるよう取り計らうことを求める。中世の大隅正八幡宮と石清水八幡宮の人事関係を示す史料である。
文禄2年2月7日 / 冊子 668~669頁
薩州隈城内の城岡之門をはじめ、屋敷・田畠・山畑などの所在と面積を列挙して長谷場越前守へ与えた領知目録。 新知三十石に九石一斗を加え、先知行と合わせて六十石の役を勤める条件で付与したことを明記する。三奉行が連署し、給付地の内訳と軍役負担を結び付けた家臣知行文書。
文禄2年5月29日 / 冊子 701~703頁
薩摩国内の諸所に散在する田畠・屋敷を、地名、旧給人、面積ごとに列挙して長谷場越前守へ与えた領知目録。 中原・岩崎・畠田・柳原・長野田・横手屋敷など多数の土地をまとめ、長寿院盛淳・町田久倍・鎌田政近が連署して給付内容を確定している。
慶長五年十二月八日 / 冊子 721頁
長谷場氏文書に収める、島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近の連署宛行状。慶長五年十二月八日付で長谷場越前守への知行宛行を認めた文書で、本文は史料上で省略されている。
慶長五年十二月八日 / 冊子 721頁
島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近が連署し、合計二百四十石を加増分の知行として長谷場越前守に宛行うことを認めた宛行状。
(慶長五年)十二月十日 / 冊子 721-722頁
近衛信尹が長谷場越前守に、日本の情勢や帰国の見通しを伝えた書状。寒中の困窮を気遣い、皆が下国を望むものの内府との内儀が整わず日数を要していること、詳細は中原坊から伝えることを述べる。
六月朔日 / 冊子 281頁
本文差出人が、御屋形へ使者を立て、分国で修行する覚悟について納得を得たいこと、詳細は光明寺から申し入れることを村田越前守へ伝えた書状。目録標題は島津勝久書状。
十一月六日 / 冊子 310頁
島津忠治が肝付越前守に、世間の雑説に対して二心のない旨を起請文で明らかにしたことを神妙と評価し、今後どのような風聞があっても信用しないと誓い、八幡大菩薩・諏訪上下大明神の加護をかけて保証した書状。
三月廿四日 / 冊子 310~311頁
島津忠治が肝付越前守に、境目で長く在陣した労をねぎらい、帰陣するとのことだが今しばらく逗留して鳥取播州と相談するよう求め、委細は老者たちから伝えるとした書状。
天文廿一年八月六日 / 冊子 901頁
島津貴久が大友方の重臣らに、日州千戈の儀をめぐる当家の妨げが深刻であるとして、宗綱への取り次ぎと堅固な申し談じを求めた書状。
(天正16年)正月21日 / 冊子 376~377頁
二度にわたる籠城の労苦をねぎらい、今回は戦いが長引かなかったものの、才覚によって無事に帰属させた働きを評価する。薩摩国内の端地で堪忍している事情にも触れ、今後の奉公と速やかな対応を求めた書状。
(天正16年)2月2日 / 冊子 377頁
昇殿をめぐる噂について、本人に望みがないのに世上で取り沙汰されていると知らせる。今出川家への照会や近衛信尹への確認を検討し、前年冬以来の事情で直接連絡していないことを説明した、公家社会内部の調整を伝える書状。
(天正17年)2月16日 / 冊子 441頁
島津義弘が屋形造営と旧来の借物返済、又一郎夫婦の在京費用を整理するため、鎌田出雲守を国元へ派遣すると伝えた書状。 関係者間で帳簿と負担を突き合わせ、双方に遺恨が残らないよう精算することを三名の奉行へ求めている。
(文禄元年)4月1日 / 冊子 540~541頁
島津義弘が、渡唐に必要な米・船・人員などの処置を示し、国元の重臣四名に相談のうえ速やかに実行するよう求めた書状。軍船・兵粮・人員の調達遅延が出陣と家中の体面に関わるとして、各所への催促と役割分担を厳しく督促する。
(天正20年)4月2日 / 冊子 541頁
落合重次が、長く書状を送らなかったことを詫び、鷹之巣の件で朱印を受けたものの、椎葉山に以前からの主張があるため下向を延引していると伝える。先に使者を遣わして根拠を調べ、前年に置いた鳩もこの便で渡してほしいと頼み、朱印を持参したので受け取るよう四名へ求めた。
十一月廿八日 / 冊子 424頁
志岐麟泉経諸が島津方の重臣へ、上意を受けた公私の厚遇に謝し、遠方の知行回復や天草大夫義虎との和融について方策を求める。薩州・天草境の弓箭や訴訟を静謐に導くよう励み、事情の上聞を頼んだ書状。
(永禄二年)三月三日 / 冊子 69頁
琉球国三司官が島津氏老臣に、唐商人来航に備え、貴国商船が来航した際には従来どおり武具・腰刀を那覇で預かり、出船時に返すこと、印判のない船を受け入れないことを求めた書状。織物九端を添える。
文禄2年後9月23日 / 冊子 726頁
諸県郡の逃亡・没収地を久保の蔵入地とする処置は、久保が死去しても変更せず、従来どおり収納するよう命じる。 給人や鎌田杢助が替地を理由に収納を拒む場合は、その旨の墨付を取って証拠を残すよう指示した、久保没後の所領管理に関する義弘書状。
文禄2年後9月廿二日 / 冊子 746頁
諸県郡の逃亡・没収地を久保の蔵入地とする処置は、久保が死去しても変更せず、従来どおり収納するよう島津義弘が命じる。収納を拒む給人がいれば、墨付を取って証拠を残すよう指示する。 No.1181と同文のため本文を省略した、久保没後の所領管理に関する義弘書状の重出。
三月十四日 / 冊子 114-115頁
彦山の福寿坊堯秀ら四人が、従来国中各地へ下向して年二季の祈祷を行ってきたところ、年一度のみとする命令が出たため、従前どおり二度の下向を認めるよう求めた連署書状。新寄進が整っても御分裁判が確定しないことを訴える。
四月廿八日 / 冊子 417~418頁
明宗が島津方三名へ、先年使者を介して受けた厚情と琉球勘合の取り成しに謝し、永興寺の帰国に際する書状を受け取ったこと、両使の扱いと船の遅延について取り成しを求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 518頁
『文明記』が文明十七年の弓箭合戦の次第を記す。薩州勢が伊良山で勝利した後、祁答院・伊牟田など各地で戦闘が続き、北原長門守・菱刈孫三郎・新納越前守らをめぐる交渉と退去が進んだ。戦場の推移と諸勢力の帰属変更を連続して伝える。
年月日未詳 / 冊子 760頁
天文七年、新納氏の没落後に四郎兄弟が日新方へ加わり、十二月二十九日の加世田城攻めで大寺越前守・鎌田加賀守・右馬頭忠将が軍功を立てたことを記す。
十一月六日 / 冊子 786頁
義忠と称した島津勝久が前田四郎左衛門尉に、肝付越前守や局へのたびたびの厚意を喜び、今後も変わらぬ好意を寄せるよう依頼した書状。
天正八年十一月十三日 / 冊子 679頁
十一月二十三日、島津軍が二手に分かれて合志表へ出て久保田千町を焼き、退却時に大津山越前守率いる約四千騎の追撃を受けた。伊集院久治が太刀始めをして負傷しながら敵を討ち、諸将が反撃して大津山越前守以下百三十余人を討ち取った後、熊本へ引き上げた。
天正八年十一月十三日 / 冊子 682頁
十一月二十三日、島津軍が合志表の久保田千町を焼いて退く際、大津山越前守率いる約四千騎と交戦した。伊集院久治が太刀始めで敵を討ち、顔に傷を負って危急となるが諸将が援護し、比志島国貞・新納忠元・忠尭・佐多久政らの反撃で大津山越前守以下百三十余人を討ち取った。熊本へ戻り町口で勝鬨を挙げた。
年月日未詳 / 冊子 74頁
天正十三年秋、島津家久が肥後・筑後での軍功後も高知尾進出を図った記事。家久は高知尾の大友方勢力を警戒しつつ吉田右衛門佐・高崎越前守らを派遣し、小崎城への人員・兵糧の集積と現地勢力の服属を進めた。高知尾を島津方の軍事拠点へ組み込む過程を伝える。
年月日未詳 / 冊子 293頁
敵の猛攻を受けた島津勢が迎撃と退却を繰り返し、山田越前守らが高城への武具・兵糧輸送を担った経過を記す。戦功への褒賞や酒宴の記述もあり、敗走中にも軍勢を再編し士気を保とうとした現場が分かる。
(天正16年) / 冊子 384頁
若年の「又七」(時期から島津豊久か)について、高崎越前守から幾度も教諭するよう求める。続いて山内の処置を論じ、右松宗納・黒木入道らが関係するなか、日州の巣鷹を義弘が受け取るよう関白朱印で命じられ、その趣旨に従って山内の儀を処理したと説明する。 当事者間の朱印が前後しても後の朱印を実効あるものとし、兄弟間の事情より関白朱印を優先すべきだと説く、領地・権限調整の書状案。
年月日未詳 / 冊子 667-670頁
上方からの早打や関ヶ原敗報で情勢悪化を察した樺山紹剣は、九月末に佐土原へ急行した。逃散する住民が多く、稲津掃部・伊東方の動向も不穏なため、高崎越前守・三原仲右衛門らと城の守備を相談し、城外の屋敷を取り払うなど籠城準備を進めた。伊東勢が宮崎城を攻略し佐土原へ寄せるとの報に、御上様(島津義弘夫人)へ、敵が来れば城下で防戦し、敗れれば入城して城で最期を遂げる覚悟を言上した。野伏らとの交戦を経て伊東方の進出を警戒したが、各地無事との報を受け、警備を引き継いで帰還した。
(記事) / 冊子 151頁
入来院八代重長を起点とする一流の系図。重長の法名に関する注記を付し、出羽守・越前守・山城守・左馬助・宮内少輔などへ続く子孫・一族関係を系線で示す。入来院氏の支流と家臣層の系譜を伝える記事である。
十月十一日 / 冊子 276~277頁
島津勝久が、前日の使者の申し入れ、女房と鹿児島方面の事情、本田・肝付越前守らの動向、海上と船の手配について樺山助太郎へ伝えた書状。
九月朔日(天文十一年) / 冊子 326頁
近衛稙家が島津修理大夫に、古市長門守の下向時に委細を申し伝えたこと、小河越前守が上洛して思いがけず対面できたことを喜ぶ。あわせて扇子三本を贈り、後便を期した書状。
天正九年八月 / 冊子 696~697頁
相良義陽が北原・菱刈との戦いや耳川出陣時に敵対したため、島津義久が三州の大軍で水俣城を攻め、新納忠元も談合衆として先陣の家久勢に加わった経緯を記す。矢文連歌を交わしたのち、義陽が水俣・津奈木・湯浦・佐敷・市之瀬と息子兄弟を差し出して和降を願い、囲みが解かれた。
(慶長十五年)正月 / 冊子 265頁
慶長十五年正月、島津義久が祐乗法印に尾張名古屋城普請に伴う人員差し出しと奉行の進発について知らせ、古今の切紙や墨跡の照会・借覧を依頼し、使者に詳細を託した書状案。
十一月六日 / 冊子 425頁
天草鎮尚が島津方重臣へ、言上に対する懇切な上意と見事な馬の下賜に謝意を述べる。薩州との和談について異見を受けたことを承知し、細目は新納武蔵守と相談するとして、今後も助言と取次を求めた書状。
天正18年6月15日 / 冊子 145頁/原整理番号 28
天正十八年六月十五日、島津義久(龍伯)が税所越前守へ与えた証状。税所越前守が当家への忠勤を尽くす心底を明らかにし、二度にわたる神載(神判・誓約に関わる表現)を頼もしく思うとして、その子細を賞し、今後も怠りなく忠勤することが肝要であると申し渡す。末尾に龍伯の花押を据え、右御包紙にも『税所越前守殿 龍伯』とある。
年月日未詳 / 冊子 517~518頁
鹿児島方の雑説が続く中、島津忠昌を城外へ誘い出そうとする企てと和議交渉を記す。国方修理亮を介した申入れ、匠作による仲介、北原長門守・菱刈孫三郎・新納越前守らの返答を追い、条件が整わないまま諸勢が撤収するまでを示す。