箕輪伊賀覚書
永禄十一年五月上旬 / 冊子 198頁
永禄十一年五月上旬、山野・羽月・平泉の番替えが行われる時機を狙い、大口城から野伏が仕掛けられたことを記す簡潔な覚書。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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永禄十一年五月上旬 / 冊子 198頁
永禄十一年五月上旬、山野・羽月・平泉の番替えが行われる時機を狙い、大口城から野伏が仕掛けられたことを記す簡潔な覚書。
年月日未詳 / 冊子 525頁
同月十五日以降、薩摩守重久と相良為續が牛屎へ進み、修理亮忠廉らと菱刈方面の軍議を行ったのち、五月一日に鹿島で参会し、忠昌の使者を介して加治木・入来院・東郷・吉田・菱刈・羽月・山野らが鹿児島へ参上した経過を記す譜記事。
正平12年10月5日(1357、同文参照)~永和3年10月28日(1377)の記事 / 冊子 431頁/原整理番号 13-3
冒頭は『諸家系図文書』10の5号文書と同一のため、正平十二年十月五日付島津師久書状を省略する。参照先は加治木合戦中の師久が牛屎左近将監へ援軍を求めた書状である。続いて康安元年九月二十六日、牛屎左近将監高元が一族、和泉下司諸太郎兵衛尉政保、隅州馬越藤四郎行家、肥州芦北七浦等の一族と同心し、官領武州の合戦に関して肥後路で約三年間戦った軍歴を記す。永和三年十月二十八日には将軍家方として四十五人が一味同心の一揆契約を結び、そのうち当家一門七人として高元、羽月石見守元豊、山野左衛門尉元詮、牛屎河内守元息、太田沙弥元清、青木沙弥元生、鳥越隼人佑義元を列挙する。系線は元息(法名祖英)から元勝(同彦太郎・法名聖元)へ続く。
2月20日(年未詳、同文参照)~万治元年(1658)の記事 / 冊子 431~437頁/原整理番号 13-5
冒頭は『諸家系図文書』10の7号文書と同一のため島津忠国書状を省略する。参照先は忠国が牛屎へ、菱刈方から詳細を聞いて早く来訪・決断するよう催し、対面を望んだ二月二十日付書状である。久元(牛屎越後守・法名光久)は永享十年の福昌寺仏殿造営勧進で、羽月元忠・山野頼元・北原久兼ら八十七人とともに馬一疋分の代銭を奉加した。歓元(同越後守・法名光秀)は文正二年梅雨吉日に牛屎家系図一巻を作り、薩摩守陳元から元親までの系譜を収め、文正元年から文明九年までの島津家系図・覚書も伝えた。応仁元年、牛屎院の兵乱で一門が日向真幸院へ移り、北原家との親族関係を頼ったこと、元親が大隅守・法名梅岳源春を称したこと、重元が永正六年に六十余歳で鷹書一冊二十五枚を書いたことを記す。天文十二年三月二十七日、実元は牛屎家先祖を覚書や本朝の大家系図と照合して記し、宗実兄弟が源頼政嫡子・仲綱の娘を母とし、建久七年に頼朝の恩免を受けて遠流先の薩摩へ下向し、羽月・山野・平泉を与えられ、子孫が牛屎・淵辺を称したとの家伝を載せる。元継の女子は兄弟不和のなか系図・文書を保持し、国分御前様に仕えた後に加藤金右衛門へ嫁いだため古文書が加藤家へ伝わり、頼朝御教書は公用のため提出されたとする。淵辺主計元継は慶長・元和の上地や宮越との田地争論で知行を減らし、寛永頃には約十石となった。弥兵衛は家に凶事が多く繁昌しないため母方の淵辺へ名字を改め、肥後の聖山伏を氏神として正宮・荒神宮に祀ったとし、元亀三年五月四日の真幸院における義弘と伊東家の合戦で五十四歳で戦死した。元秋は栗野に生まれ、父の戦死後に飯野・栗野を移り、伊東・大友との戦いを経て天正十五年豊後で戦死した。重綱は井手石氏の養子となり川上忠智に仕え、肥前深江・筑州岩屋城・朝鮮で戦い、朝鮮で左手を負傷して退き、加治木・鹿児島へ移って八十四歳で没した。元貞は父元秋の戦死後、十三歳で義弘に召し出され、吉松鶴丸村二十五石と栗野木場村三十石、計五十五石を与えられた。十五歳で義弘に従って朝鮮へ渡り、忠恒に近習・小姓として仕え、良右衛門の名、包清の脇指や衣裳を拝領し、のち帖佐・平松・加治木・鹿児島へ移住して、万治元年に百二十三石を持って隠居した。
年月日未詳 / 冊子 86頁
菱刈重種所写の旧記。源頼政一族に連なる小松宗実らが平家方との戦いで討死し、遺児が母と山林へ隠れたのち源頼朝に見出されたという由緒を記す。頼朝による平家追討と恩賞、薩摩国羽月周辺への居住・館構築、子孫の所領継承へ至る経過を述べる。
天正13年3月2日 / 冊子 6頁
天正十三年三月二日、羽月郷大島村の若宮社殿造営に際して掲げられた棟札。若宮の由緒と造営の趣旨を記し、島津義久をはじめ島津忠明・新納忠武ら関係者の名を伝える。地域寺社の修造に島津家中がどのように関与したかを確認できる建築・信仰史料である。
明治2年十月10日知政所(年は朱書) / 冊子 705頁/原整理番号 922の3/整理ID 922-3
薩州伊佐郡内の大口・羽月・山野を合郷して牛山郷、隅州菱刈郡内の本城・曾木を合郷して太良郷、同郡の馬越・湯之尾を合郷して菱刈郷と称するよう定める。原「菱刈七ヶ郷」が小郷であること、兵隊編制・治事上の理由を挙げ、旧名の由緒によって合郷と名称を命じ、地頭と関係先へ通知する。朱明治二巳十月十日、知政所。伊佐郡と菱刈郡の原区分、三組の合郷対応を保持し、七郷全てを菱刈郡へ移し替えず、人口・兵員数・現代自治体との一致や実施完了は補わない。
天文十七年十一月二十一日 / 冊子 262頁/原整理番号 24の11
羽月山之門の山之神棟札写。大檀那として藤原氏猿渡備後入道実明と同兵部少輔実昌を記し、両人の子孫繁昌と諸人快楽を祈る。天文十七年十一月二十一日の年紀と、番匠為安・鍛冶家正の名を伝える。
〔正平12年〕10月5日 / 冊子 671~672頁/原整理番号 157-4
巻末目録は〔正平十二年〕十月五日の島津師久書状とするが、本項の書状本文は『諸家系図文書』一〇の五号と同文として省略される。後続する牛屎氏系譜には、康安元年九月二十六日、牛屎左近将監高元らが武州での合戦に関して和泉下司・馬越氏・肥州芦北七浦の一族と同心し、肥後路で戦ったと記す。さらに永和三年十月二十八日の将軍家方への一揆契約は計四十一人、そのうち当家の一門七人として高元・羽月元豊・山野元詮・牛屎元息・太田元清・青木元生・烏越義元を挙げ、元息以下の家系を続ける。書状の内容は省略部分から推測しない。
年月日未詳 / 冊子 471頁/原整理番号 462
山田民部少輔有栄の従者六人が差副として各地頭所衆とともに獅子島警固へ向かった経過を記す。谷四郎左衛門尉重将・平田狩野介宗弘らの名を挙げ、島津勢の国境警備と、松平甚三郎の指示による平田の肥後三角派遣を述べる編者記事である。
年月日未詳 / 冊子 406~407頁/原整理番号 138
川上久辰の耳川合戦日記。天正六年九月十一日の山東への出陣に本田紀伊守・三原右京亮らが旗役を務め、鹿児島などから供衆を集めた。忠元の使僧や諸所の使者を通じ、高城・野尻・紙屋などの番衆交代、雑務の分担、参陣と御陣の人数を調整する。大軍が押し寄せる高城へ軍勢を差し籠め、石之城を得た際の祝言や太刀などの進献も記す。終盤には猿渡らの使僧、山下造酒の中国鉄山からの帰帆報告と進献を載せる。
正保二年一月十日 / 冊子 1頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0001
新納忠清が、金山外垣の縄結いと朽木の取り替えを二十日までに修理するよう各地の役人へ命じた廻状。定番衆の指図に従い、普請衆が欠けないよう主人を付けて堅固に施工し、鹿児島からの検分にも備えるよう求める。
建武三年正月廿五日 / 冊子 648頁
新田右衛門佐義貞の謀叛に関する前年の関東御教書を受け、肝付八郎兼重以下が日向国各所で挙旗したため、守護代・島津庄惣政所の申請により羽月四郎右衛門尉元貞を派遣したことを述べ、廣武又次郎入道に一族を催して急ぎ現地へ馳向するよう命じた少弐貞経軍勢催促状。
永禄十年八月~永禄十一年十一月 / 冊子 175~176頁
菱刈家の幼主を立て新恩地を返上して帰服する案を樺山玄佐が仲介したものの、菱刈老臣らが三之山方と通じて破談となった経過を記す。玄佐は内談に関与したため島津諸将から疑われながら馬越攻めに従い、落城後は平泉城の警固を命じられた。羽月・平泉・山野の守備配置が大口城への通路を十分遮断できず、同城を強固にしたとの見方も述べる。
永禄十年十二月七日~永禄十一年三月九日 / 冊子 176~177頁
吉田地頭となった寺山直久が、永禄十年十二月七日に羽月へ守兵を率いて軍務に就き、翌年三月九日の帰陣途中に大口城から出た球磨勢の伏兵に遭ったことを記す。吉田衆と家臣約二十人が戦死し、直久も深手を負って吉田本城へ戻った後に死去した。
永禄十一年五月 / 冊子 198頁
永禄十一年五月、山野・平泉・羽月の守兵交代を狙って敵が伏兵を置いたため、遠方の兵の危難を考え、球磨方へ和議を求めたことを記す。山野を相良氏へ渡す条件で弓箭を収め、相良氏もこれを受け入れた。
永禄十一年五月上旬 / 冊子 198頁
永禄十一年五月上旬、山野・羽月・平泉の番替を大口方が狙って伏兵を仕掛けたため、日新が山野を相良方へ渡して一時和睦するよう勧めたことを記す。味方を多く失えば戦いの進め方が悪くなるとして、天意が巡れば敗れても後に勝てるとの判断から、相良氏との和議を成立させた。
永禄十二年 / 冊子 209~210頁
永禄十二年の主要事件を編年で記す。琉球漂流民送還への謝状、相良・菱刈両氏との和睦と蒲池越中守殺害による破綻、羽月城救援、戸神尾・稲荷山の伏兵による大口勢撃破、祁答院長野城攻略、伊東軍の桶比良・田原撤退を載せる。八月以降は大口城を包囲し、相良・菱刈方の降伏を受けて質を交換、九月十八日に義久・義弘が入城し、新納忠元を大口地頭に任じた。あわせて功賞・社寺領寄進などを記す。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 211~212頁
前年から相良・菱刈方が求めていた和睦は、日新没後の永禄十二年正月二十日に成立した。しかし三月十八日、大口城を守る深水頼兼が平泉へ向かう蒲池越中守と従者十七人を殺し、往来は再び断絶した。島津方は羽月城に肝付兼寛・新納忠元を置き、五月六日、家久を囮として戸神尾・稲荷山の伏兵へ敵を誘導し、前田豊前守らが四方から攻めて敵首百三十六を得、一人を捕虜とした。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 212頁
永禄十二年正月二十日に大口方との和睦が成立したが、三月十八日に深水頼兼が蒲池越中守主従十七人を殺害し、再び敵対した。義虎が維持できなくなった羽月城へ肝付兼寛・新納忠元を派遣し、五月六日、家久が大口城下で敵を挑発して戸神尾西まで誘い出した。戸神尾・稲荷山の伏兵が前後を遮断して敵を破り、百三十六の首級と捕虜一人を得て大口方の勢力を削いだ。
永禄十二年三月十八日~五月六日 / 冊子 213頁
本文はNo.480記事の後半と同文のため省略される。羽月守備と、家久を囮に戸神尾・稲荷山の伏兵で大口方を破り、百三十六の首級を得た合戦の内容に当たる。
永禄十二年三月~元亀元年六月 / 冊子 214~215頁
羽月城救援後、新納忠元・肝付兼寛が島津家久と相談し、永禄十二年五月六日に戸神尾・稲荷山・白木河内へ伏兵を置いた。家久が兵糧輸送を装って敵を誘い、前後から挟撃して百三十六首を得た。八月の大口包囲と九月の降伏後、忠元は大口地頭・菱刈両院惣押となった。さらに喜入季久の家存続を願う伊勢・愛宕への立願、忠元のもとへ飛来した鎌を祀る飛諏訪大明神、菱刈両院の地理・名称由来も記す。
永禄十二年五月六日 / 冊子 219~220頁
羽月城を守る新納忠元・肝付兼寛から伏兵策への同意を求められた家久が、五月六日に戸神尾・稲荷山へ兵を伏せた。敵が城から出なかったため家久は大口城下で鉄砲を放って挑発し、雲霞のように追う敵を戸神尾西へ誘導、自ら敵首を取った。合図で伏兵が四方から攻め、百三十六人を斬り一人を捕虜として大口方を弱体化させた。
永禄十二年五月六日~九月十八日 / 冊子 220~221頁
永禄十二年五月六日、羽月・大口境の戸神尾で島津方が勝ち、敵百六人を討ち取ったとする。初秋から相良氏と和平を協議し、九月十日に双方が人質を交換した。十八日巳刻、貴久・義久が大口城へ入り、鎌田政年を役者として太平の祝宴を催した。
天正20年12月6日 / 冊子 617頁
薩州羽月のうち、石林庵先の青木の本・窪牟田などの田地を早水豊前守へ宛行った領知目録。 複数の小字と地積を列記し、羽月地域における知行地の構成を具体的に示す。
慶長十三年八月八日 / 冊子 181頁
慶長十三年八月八日、新納武蔵入道為舟が薩州大口・羽月・山野三か所の十七筆、合計田畠屋敷九反八畝十歩・分米十石六斗三升余の知行坪を柳田吉兵衛へ宛行った坪付。
寛永十一年六月廿九日 / 冊子 432頁
伊地知左衛門の弟弥右衛門尉を羽月衆として召し移し、当初の二十石ではなく京都からの指示どおり三十石を支給するよう奉行衆へ達した連署達書。
『寛永十六~十八年頃』八月十五日 / 冊子 140頁
新納加賀守忠清が、廻国の聖を領内でどのように扱うか国元役人へ問い合わせた書状。通手形を持って到着し、羽月若王寺へ経納に向かう聖に一人を付き添わせ、菱刈九左衛門を遣わしたと聞いたことを記す。このような修行者を内場へ通すことは法度であるため、鹿児島へ連行して指示を仰ぐ案を示し、薩摩・大隅・日向での巡回を終えた者なので最終的には下知に従うとしている。本文年紀注は「寛永十六、十七、十八比カ」、インデックスは「寛永十七、十八年比」で、八月十五日は一致する。
〈延享五年〉四月十五日 / 冊子 88頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0239
島津久甫ら五名が、清水姫城村・羽月烏巣村・羽月大嶋村・高原蒲牟田村などにある高百斛の地を、弥勒院の寺領に加える知行目録。土地を村ごとに掲げ、名寄帳は別冊とし、後年も違失なく収納させる旨を連署で定める。
8月16・21・26日、閏8月11・16・21日(出立表示、年不記) / 冊子 270頁/原整理番号 374/整理ID 374
八月十六日・廿一日・廿六日、閏八月十一日・十六日・廿一日の六つの出立日ごとに、人名と出府する郷別人数を掲げる一覧。最初は谷村十右衛門・宮里新次郎と樋脇・東郷・隈之城各五人。続く各群には国分・清水・串木野、櫻島・小根占・高山・鹿屋、加世田・志布志・蒲生、始羅郡山田・帖佐・伊集院・市来、福山・伊作・指宿・羽月を列記する。江戸の守衛のため出府を命じたとの末注がある。郷別人数の表示合計は第一群十五人、他の五群各二十人、参考合計百十五人。前に掲げた人名十四人が郷別数へ含まれるかは記さないので加算しない。
年月日未詳 / 冊子 533頁
島津氏二代忠時の六男・大炊助を祖とし、その子孫に羽月の士彦右衛門尉久光がいると記した阿蘇谷氏系図抄。
七月十日 / 冊子 536~537頁
千台川切・祁答院境、出水・羽月・山野、高城・水引境目などの検地と刀狩について、前年に幽斎が検地済みの土地を再調査することへ異議を示す。一方、全国一律の刀狩や指出に基づく知行確定には従うとした島津義久書状。
年月日未詳 / 冊子 124頁/原整理番号 198
『伊地知杢右衛門付衆中小原織部佑取払帳』。二月十二日、羽月米として真米一斗五升を受け、上津浦で瀬戸山主左衛門から酒代分の銀子五匁六分を受け取ったことを記す。目録年月日欄は空欄。
年月日未詳 / 冊子 193頁/原整理番号 317
『伊地知杢右衛門付衆中小原織部取払留』の「米請取方并銀子銭」。二月二十六日、銀子二匁五分を小屋一つの代、すなわち村尾源左衛門の家の代として記す。また、羽月蔵米の真米二石四斗について、年内に羽月から出水知識村へ下した米であると注記する。村尾源左衛門は代価の対象となった家の主として記され、宛先ではない。
二月廿八日 / 冊子 333頁/原整理番号 375
伊尻三郎右衛門祐永が、寅年二月二十八日、有馬春之城本丸の屏内で長野正右衛門が敵の首を取ったことを確かに見届け、相違ないと伊地知杢右衛門重政へ証明した文書。冒頭に、羽月士長野式部左衛門の由緒書から写した旨を記す。
年月日未詳 / 冊子 365頁/原整理番号 431
小原織部の取払帳は、三月四日に真米一斗五升と赤米一斗五升を先掻で受け、三月七日から十日まで主従十五人分の引飯米としたこと、米合計十石四斗三升八合の先掻・前掻別および米種別内訳を記す。伊地知重政の在陣中、地頭所加久藤・羽月での持留、出水の米津・天草の上津浦・有馬で主従三十五人から漸減した兵糧だとの編者注を付し、同四日の小鯛等の買物と米之津宿賃も記録する。
正月29日(写) / 冊子 337~338頁/原整理番号 130-22
河上氏文書のうちから正月二十九日に写した別紙の某覚書。大隅国の吉内左衛門尉家長に関わる山城守の許可、松山地頭となった人物が和泉から日新斎へ供奉して中村に居住した由緒、羽月居住者と貴島常陸一族、南郷氏との争い・永吉での討死、薩州時代に小湊を領した人物、市来助次郎の曾祖父山城守の妹婿にあたる和泉の市来氏など、一族・姻族の関係を伝える。付随系譜は九代家政が次郎左衛門尉・山城守を称し、法名を長盛としたことを記す。
保元3年8月13日(1158)~文治3年5月(1187)の記事 / 冊子 428~430頁/原整理番号 13
桓武天皇・葛原親王から高望王、国香、貞盛、維衡以下を経て淵辺家・牛屎氏へ至る平姓系図。牛屎院を薩摩国伊佐郡の牛山・羽月・山野・入山・平泉五か所、祁答院を入来・鶴田・佐司・山崎・宮城・大村・黒木等から成る地域と説明し、両者を『両院』と称して城号でもあるとする。系図上の信基に対応する記事は『信元』が保元の軍忠により両院を知行したと記し、保元三年八月十三日には薩摩四郎元衡が牛屎院へ初めて下向したとする。寿永元年頃、京都の兵乱に際して院内守護を担った赤田一族が牛山に城郭を構えたが、相良・菱刈両家の連合軍に攻略され、院内が両家領となった経緯も付記する。末尾では基光(元光)が夢想により大平から大秦へ改姓し、文治三年五月に頼朝から牛屎院の本領安堵を受けたとして、その御教書を次項に掲げる。
文治3年5月3日(1187、同文参照)~正平12年10月5日(1357)の記事 / 冊子 430~431頁/原整理番号 13-2
冒頭は『諸家系図文書』10の2号文書と同一のため、源頼朝御教書本文を省略する。参照先は文治三年五月三日、大平基光と弟・後平二元能の見参後の帰国を伊豆藤内へ命じた御教書である。続いて、大平家から大平・牛屎・羽月・山野・鳥越・淵辺・太田・青木・入山・屋代・入田の十一家が分かれ、羽月・山野・太田・青木・入山・淵辺・屋代・入田の八家は牛屎院、大平・鳥越の二家は祁答院に村を持ったと説明する。国元(同太郎)の系統では、嘉禎三年四月十九日の足利義氏邸での将軍御遊後、大平太郎が新田太郎とともに第二の御馬の引手を務めたことを記す。元兼(同左衛門尉・法名元覚)は建長二年正月二日の将軍頼経の椀飯で畠山三郎国氏と、同三年正月三日の椀飯で足利三郎家氏と御馬を進献した。元茂の家では、子がなかった妻が二羽の鶴が飛来して食物とともに口へ入る夢を見た後に男子を産み、子孫が繁昌したため『向鶴』を定紋としたという家紋起源譚を載せる。末尾は元尚(大隅守・法名恵仏)、高元(牛屎左近将監・法名普光)へ続き、正平十二年十月五日の島津師久書状を次項へ導く。
明応二年、弘治二年、永禄元年三月十九日、永禄五年五月、天正十七年五月二十五日、慶長五年九月十五日、明暦四年三月二十四日 / 冊子 481~482頁/原整理番号 19
平田重宗から分かれたと伝える狩野之助家の系譜・軍歴・知行記録。筑前守宗勝は日州福島で戦死し、日置美濃守久遂の二男・出羽守宗仍は末吉地頭として居住した後、貴久に召し出され先代同様に家老職を務め、永禄元年三月十九日の肝付勢との宮ヶ原合戦で子の虎五郎と家人六名とともに戦死した。弘治二年生まれの平次郎狩野之助は七歳で北郷家へ付され、のち鹿児島へ戻って日州本城地頭・近村五十余町を与えられ、肥後・豊後、豊臣秀吉の九州攻め、庄内の戦いで奉公したが、慶長五年九月十五日に関ヶ原で四十五歳で戦死した。二男源太は飫肥方面の戦いで福島内市木にて戦死し、宗弘は宗應の跡を継いで羽月・日州野尻の地頭を務めたことまで記す。
年月日不記(各代の生没年・任官年を系図内に記す) / 冊子 627~628頁/原整理番号 112
種子島氏支族・美座対馬守時里の二男から出た国上氏の系図で、時里・時宣・時通以下の系線と婚姻・養子関係を記す。時盛は伊勢長門守貞清の二男で嗣子として養育されたとあり、島津義久の奥向きへの奉仕、小浜村千石の采地拝領、見隆寺建立を記す。後代の時貞は馬術と鉄砲の師範を務めたとされ、時春には高原・羽月の地頭職の記事がある。和田十助正弘の養子になった者や家督を継いだ者、諸家との婚姻も挙げ、国上氏の分流と奉公・知行の継承をたどる。
建久7年2月4日 / 冊子 668~669頁/原整理番号 157-1
建久七年二月四日付の頼朝判を掲げ、朝敵とされた平宗実の子孫が源頼政の孫にも当たるとして法皇に罪の赦しを願い、寛宥を得たと記す。続く系譜記事では、小松の子孫が羽月の里村に館を構え、里村十町・平泉五町・下山野五町を知行したとし、盛衡・宗正・信基・元衡・元包らの分岐や牛屎院への下向を示す。前項の平氏祖先系図を受け、家の由緒と菱刈・牛屎院周辺の所領を結び付ける一項である。
文禄四年九月三日 / 冊子 31~32頁/原整理番号 245
薩州伊佐郡羽月の柳瀬村・下殿村・宮里をめぐる知行替について、惣高三百五十九石二斗一升五合八勺九才から返上分三百三十九石二斗七升一合を差し引き、残る十九石九斗四升四合八勺九才を別所で宛行うと証した連署状。両殿の意向による処置で、正式目録は追って出すとする。文禄四年九月三日付。
〔延宝五年〕九月二十五日 / 冊子 219~220頁/原整理番号 1
勝目宗将の書付と猿渡越中守流の系図。猿渡掃部兵衛が羽月地頭時代に高麗へ渡海し、十一月十八日に四十四歳で戦病死したこと、法名、弟による跡目相続、四百石の知行、加治木・帖佐への移動、子女・養子関係を記す。延宝五年九月二十五日、勝目助左衛門宗将から山元孝右衛門へ提出した系譜書付。
〔天和二年〕六月三日 / 冊子 224~225頁/原整理番号 6
猿渡信安が先祖の地頭歴を記録所へ届け出た書付。猿渡越中守が加世田・羽月地頭となり、天正年中に知行を羽月へ移して城内に居住したこと、猿渡掃部兵衛が羽月地頭となったことを記す。さらに猿渡興三の栗野地頭、猿渡喜右衛門尉の川内山田地頭就任を挙げ、不明な年代は追って調査するとする。
〔元禄二年〕正月十四日 / 冊子 225~227頁/原整理番号 7の2
猿渡信安が嫡子監物の初御目見願いに添えた家筋由緒覚。曽祖父猿渡越中の加世田・羽月地頭就任と日向伊東氏・高城での大友氏との合戦、肥前知々輪での軍役、猿渡掃部兵衛の羽月地頭就任と高麗陣での奉公・戦死などを記す。歴代の相続・養子・知行・感状の伝来を述べ、監物へ至る家筋を説明する。
〔元禄十四年〕七月二十二日 / 冊子 245~246頁/原整理番号 21
猿渡信安が二男助左衛門の初御目見と太刀進上を願った口上覚。先に提出した家筋由緒書二通について、その後判明した内容と食い違うため返却を願う。あわせて家老衆から返された感状・書状の経緯と、猿渡越中信光から宇都宮次郎左衛門への羽月移封由緒を鮫島仲兵衛へ書き送ったことを付記する。
元禄十四年七月二十五日 / 冊子 246~247頁/原整理番号 22
猿渡信安が、宇都宮次郎左衛門が羽月へ移された由緒について鮫島仲兵衛の照会に答えた覚書。六代前の猿渡越中が加世田地頭から羽月地頭へ移った経緯と、天正十五年の肥後国合志城主一行に対する島津方の処置、猿渡越中・白坂式部らの役割を述べ、家伝の範囲で回答する。
文明十七年六月二十日条 / 冊子 262頁/原整理番号 24の10
『文明記』文明十七年六月二十日条から、島津国久勢に敗れて猿渡筑前守・同刑部少輔・本田又次郎らが戦死した記事を抄出する。家系図に見えない人物も同時代記録の記載を優先して戦死を認め、備後守実明らの系統と羽月移住を考証する。
天正八年八月ほか / 冊子 267頁/原整理番号 24の16
『大友御退治御日帳』三日条から、羽月の猿渡掃部兵衛尉が使僧を通じて祝儀を申し上げ、新納武蔵守も同様に申し入れた記事を抄出する。あわせて天正八年八月の肥後国水俣陣の軍記勢揃に羽月地頭猿渡掃部兵衛が見え、この時期まで越中が掃部兵衛を名乗ったことを考証する。