追録8-No.421系図記事(英艦七隻来航と戦闘の叙述)旧記雑録暫定版確認度 中
文久3年癸亥6月28日来航/7月2日戦闘/翌日退去の系図記事 / 冊子 299頁/原整理番号 421/整理ID 421
御系図忠義公の記事。文久三年癸亥六月二十八日、英艦七隻が本府港へ来て来意を告げ、応接がまとまらず、七月二日に薩摩側の汽船三隻を奪ったと記す。薩摩側が砲臺から攻撃し英艦も巨砲で応戦、飛来する砲弾の中で戦い、英側の船将二人の死と多数の殺傷、翌日の英艦退去を叙述する。一方、薩摩側の戦死者は一人だけとする。相手への非難や損害数はこの系図記事の評価・記載として示し、外部資料による損害確定とはしない。第420号の参照記事は来航日を六月廿七日としており、双方の原日付を保持する。 第425号の家譜は薩摩側戦死者を二人とし、この系図の一人とは異なるため双方を原記載で保持する。
- 登場人物
- 忠義公(系図表題)、英艦将領二人、薩摩兵一人(いずれも姓名不記)
- 宛先
- 宛先なし(御系図忠義公の記事)
- キーワード
- 御系図忠義公、文久三年癸亥六月廿八日英艦七隻本府港来航、応接不調、七月二日汽船三隻奪取、砲臺砲撃応戦、英船将二人死他殺傷、翌日退去、系図薩摩戦死一人、第420六月廿七との原日付差
追録7-No.1202系譜旧記雑録暫定版確認度 高
文化9年正月4日生。12月28日を生日とする注。天保14年癸卯養子記事 / 冊子 383~384頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1202
御系図中。斉興・男女17人の見出しから次頁の女子記事へ続き、閑姫・貞鏡院・勝姫を記す。文化9年正月4日生、12月28日を生日とする割書注、母は佐藤氏女。松平左近将監康壽に嫁し、後に絶昏大帰と記す。天保14年癸卯に斉興が養って子としたという後年記事を付す。出生見出しの斉興と養子となった後年を区別し、1203近秘野呂の斉宣公御子見出しへ無断で統一しない。誕生日の変更と実際の出生を区別し、婚姻・帰家の具体月日や死亡記事は本件にないため、1203の詳細を本件の記載として補わない。
- 登場人物
- 斉興(御系図見出し)、閑姫、貞鏡院、勝姫、母佐藤氏女、松平左近将監康壽
- 宛先
- 独立宛名なし(御系図)
- キーワード
- 御系図斉興男女十七人、閑姫貞鏡院勝姫、文化九正月四、十二月二十八生日注、佐藤氏女、康壽嫁絶昏大帰、天保十四癸卯斉興養子
追録7-No.1803系譜旧記雑録暫定版確認度 高
文政4年(辛巳、養子注) / 冊子 602頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1803
御系図の「斉興公御子」の見出しの下に、久光・男二人・女子の枝を示す。女子の項は春姫、幸姫、晴姫、晴雲院の名を列記し、有馬上総介頼永の夫人と記す。文政四年辛巳に「斉興養以為子」とする注がある。各名の列記と夫人の記載、養子の年と原表記を保持する。No.1804の近秘野抄は斉宣の養女と記し、No.1742・1743にも養親の記載差があるため、親子関係を推測で統一せず既存の留保事項と併読する。この系図だけから各改名の年月日や実父母を補わない。
- 登場人物
- 久光、男二人(系図の枝)、春姫・幸姫・晴姫・晴雲院、有馬上総介頼永、斉興(養子注)
- 宛先
- 系図(宛先記載なし)
- キーワード
- 御系図斉興公御子久光男二人女子春姫幸姫晴姫晴雲院有馬上総介頼永夫文政四辛巳斉興養以為子斉宣養女他系譜差留保1742併読
追録7-No.440系譜旧記雑録暫定版確認度 高
寛政9年3月18日出生、慶應元年8月20日卒(本文) / 冊子 141頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0440
御系図中の抄。図の上に斉興、下に女子の二列を示し、一方に於隣と記す。於隣にはチカ・ムラの読み、松樹院・松壽院、種子島伊勢久道室の記載を伴う。寛政9年丁巳3月18日生、母は島津仲久建女、慶應元年乙丑8月20日卒、法名妙悟日全とする。次441は斉宣公御子とするため、この図の斉興表示と同一の父系説明へ推定統一しない。久道室の表記も次の輔時室表記との異同を残す。
- 登場人物
- 於隣、斉興(系図表示)、母島津仲久建女、種子島伊勢久道
- 宛先
- 宛名なし(系図抄)
- キーワード
- 於隣チカムラ、御系図斉興表示、女子、松樹院松壽院、久道室、仲久建女、三月十八日生、慶應元八月二十日卒、妙悟日全
追録8-No.873玉里久光公系図の任叙賞典と位記返還不許の記事旧記雑録暫定版確認度 中
明治2年六月2日の任叙・永世禄記事/後の上書日は不記 / 冊子 672頁/原整理番号 873/整理ID 873
御系図・玉里久光公。明治二年六月二日、久光を権大納言・従二位、忠義を参議・従三位とし、永世の高十万石を賜ったと記す。積年の勤王出兵の勲を記録する宣旨に対し、久光父子は重賞を受けることを恐懼し、上書して事情を述べ位記の返還を願ったが、朝廷は許さなかったという。その後さらに上書して許しを求めたと記し、末尾は詳細を忠義譜へ参照させる。後続の願いの一字は字形判断を留保し、出京などの具体的内容や許可済みの結果を補わない。功績の評価は系図の叙述として扱い、十万石を各人分として合算せず、救荒半額の扱いは本条にないため別のNo.872と区分する。
- 登場人物
- 久光、忠義、朝廷、玉里久光公の御系図
- 宛先
- 宛先なし(系図記事)
- キーワード
- 原873御系図玉里久光公明治二年六月二日久光権大納言従二位忠義参議従三位高十萬石永世勤王出兵宣旨重賞恐懼上書位記返還朝廷不許再上書請許字形留保事詳于忠義譜
旧記雑録拾遺 著作史料集8-文書ID W15_119-2系図・家譜抄旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
目録年月日記載なし / 冊子 481~482頁/原整理番号 119-2
「御系図」と「御家譜」を引き、義天の応永二十二年正月二十一日の没年、年齢、法名・院号を記す。両書の文言を対照するための短い引用である。
- 登場人物
- 引用元は御系図・御家譜
- 宛先
- 宛先なし
- キーワード
- 御系図・御家譜・義天・没年・応永22年
追録7-No.2358系譜旧記雑録暫定版確認度 高
天保元年6月19日出生、天保2年6月10日夭亡(系図本文) / 冊子 833頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2358
御系図に、斉興の娘で久光公の男女三人のうち女子に位置づく濤姫を記す。近衛家の呼称に関する注では初名を波姫とし、天保元年庚寅六月十九日生、母は西良岱成駿の娘、天保二年辛卯六月十日夭亡とする。法名は松濤院殿夢悠了吟大禅童女。夭亡日と忌辰の扱いに関する傍注もあるため、出生・夭亡・法名を分けて保持する。
- 登場人物
- 濤姫(初名波姫)、島津斉興、西良岱成駿の娘
- 宛先
- 御系図(個人宛名なし)
- キーワード
- 島津斉興、濤姫、波姫、久光公、西良岱成駿の娘、天保元年六月十九日生、天保二年六月十日夭亡、法名、御系図
追録8-No.327御系図(斉興の子久光)旧記雑録暫定版確認度 中
文久元年辛酉4月(重富家を辞する系図記事);後段年月不記 / 冊子 235頁/原整理番号 327/整理ID 327
斉興の御子久光についての御系図記事。文久元年辛酉四月に重富家を辞し、本氏へ復して和泉久光と改称し、その後居所を移したと記す。後段では内憂外患が迫って海内が動こうとするなか、久光がまず公武一和の基を開いて天下の紀綱を張ろうとし、京師・江戸へ赴いて周旋し王室に力を尽くしたと叙述する。これを斉彬の遺託を奉じたものとするのは系図の評価として扱う。移住先の原地名細字は留保し、後段の周旋時期を四月と一括しない。
- 登場人物
- 斉興公、久光公(和泉久光)、斉彬、王室
- 宛先
- 宛先なし(御系図記事)
- キーワード
- 御系図、斉興御子久光、文久元年辛酉四月、重富家辞去、本氏復帰、和泉久光改称、居所移動、公武一和、天下紀綱、京師江戸周旋、王室尽力、斉彬遺託叙述
追録8-No.556御系図記事(長州征討出兵・謝罪と刀の賞)旧記雑録暫定版確認度 中
御系図:元治元年11月記事/12月19日の刀賞賜記事 / 冊子 391頁/原整理番号 556/整理ID 556
御系図「忠義公」の元治元年十一月の記事。毛利大膳が異図を抱いて福原越後・國司信濃・益田右衛門介に率兵させ禁闕を犯したと述べ、勅によって大家が討伐し諸国に徴兵したとする。島津又六郎久明・喜入摂津久高・島津主殿・島津隼人久芳らが兵三千を率いて筑豊二州間に会し、別に在京の衛士が藝州へ派遣され、高橋縫殿種徳が指揮した。やがて毛利大膳が使者を出して降り、三将の首級を提出したので諸国軍を罷め、久明・久高らは鹿児島へ帰ったと記す。続く十二月十九日には久留島伊豫守通靖が茂久の代わりに登城し、家臣が長州勢を破った功への賞として、大家から刀一腰を賜ったとする。刀には越中國・則重の注がある。異図・反逆と功績、降伏・帰兵はいずれも系図の叙述として示し、兵三千は在京衛士を含む総兵力へ合算しない。
- 登場人物
- 忠義公・茂久、毛利大膳、福原越後・國司信濃・益田右衛門介、島津又六郎久明・喜入摂津久高・島津主殿(注名字留保)・島津隼人久芳、高橋縫殿種徳、久留島伊豫守通靖、天皇、大家
- 宛先
- 御系図記事、宛名不記
- キーワード
- 御系図忠義公元治元十一月長防毛利大膳福原越後國司信濃益田右衛門介勅大家徴兵、又六郎久明喜入久高主殿隼人久芳兵三千筑豊二州、高橋縫殿種徳在京衛士藝州三首級謝罪罷兵鹿児島、十二月十九久留島伊豫守通靖茂久代登城御刀一腰越中國則重
追録8-No.565御系図記事(軍艦借用の謝礼と代理登城)旧記雑録暫定版確認度 中
慶応元年乙丑4月26日(御系図記事) / 冊子 399頁/原整理番号 565/整理ID 565
御系図「忠義公」の記事。慶応元年乙丑四月二十六日、戸田淡路守氏良が茂久の代わりに登城し、大家から鞍鐙と純子を賜ったとする。大家が上京しようとしたときに当方の軍艦を借りたので、その報いがあったと説明する。借用と謝礼の関係は系図の記事として示し、軍艦名や各品の数量は記されない。
- 登場人物
- 忠義公・茂久、戸田淡路守氏良、大家
- 宛先
- 御系図記事、宛名不記
- キーワード
- 御系図忠義公慶応元乙丑四月二十六戸田淡路守氏良茂久代登城大家御鞍鐙純子賞賜上京軍艦借用謝礼
追録8-No.574御系図記事(久光の上京と四侯協議)旧記雑録暫定版確認度 中
慶応3年丁卯3月下旬(御系図記事) / 冊子 404頁/原整理番号 574/整理ID 574
御系図「玉里久光公」の記事。慶応三年丁卯三月下旬に鹿児島を発って上京し、内外の変化と天下の危急に際し、久光が越前・土佐・宇和島の三侯と協議したと記す。禁闕と二条城へしばしば登って激論し、正義で国是を定め朝廷の綱紀を張ることを望んだという。秋には病により国へ下ったが、徳川慶喜が将軍職を辞し朝廷が復古の典を挙げたことをもって、その功が空しくなかったと評価する。行動と後日の政治変化を結びつける功績評価は、系図の叙述として示す。
- 登場人物
- 玉里久光公、越前・土佐・宇和島三侯、徳川慶喜、朝廷
- 宛先
- 御系図記事、宛名不記
- キーワード
- 御系図玉里久光公慶応三丁卯三月下旬鹿児島発上京内外変化危急越前土佐宇和島三侯協議禁闕二条城激論正義国是乾綱皇張秋病帰国徳川慶喜辞将軍職朝廷復古功評価
追録8-No.589御系図記事(茂久の一大隊上京)旧記雑録暫定版確認度 中
慶応3年丁卯9月(御系図記事) / 冊子 412頁/原整理番号 589/整理ID 589
御系図「忠義公」の短い記事。慶応三年丁卯九月、茂久が世態の危急を察し、兵一大隊を上京させて邸内に屯させたとする。危急の判断と派兵は系図の叙述として示し、兵の人数・隊員名や新たな戦果は記されない。先行する履歴記事の九月一大隊と関連するが、別の一大隊を追加派遣したと合算しない。
- 登場人物
- 忠義公・茂久、一大隊の兵
- 宛先
- 御系図記事、宛名不記
- キーワード
- 御系図忠義公慶応三丁卯九月茂久察世態危急兵一大隊上京邸内屯、588履歴同事項関連記事
追録8-No.605忠義公の議定任命と九門警衛の系図記事旧記雑録暫定版確認度 中
慶応3年12月9日(系図記事) / 冊子 427頁/原整理番号 605/整理ID 605
御系図「忠義公」の短い記事。慶応三年十二月九日に議定職に任じられ、諸藩とともに九門警衛を命じられたとする。任命と警衛の記録を記事の叙述として示し、参内人数・警衛の兵数や新たな別の任命を加えない。第604号の任命書付とは同日の関連記録であり、任命を別々の回数として合算しない。
- 登場人物
- 忠義公・茂久、諸藩
- 宛先
- 系図記事、宛名不記
- キーワード
- 御系図忠義公慶応三十二月九任議定職諸藩同九門警衛命茂久
追録8-No.624玉里久光公系図の記事(鳥羽伏見・九州諸侯・東征と辺陲全安)旧記雑録暫定版確認度 中
系図記事:明治元年戊辰正月・二月・五月、征討は翌二年まで / 冊子 454~455頁/原整理番号 624/整理ID 624
玉里久光公の系図記事として、明治元年戊辰正月、当藩兵が詔を奉じ長州等と鳥羽・伏見で慶喜側の兵を退け、慶喜が江戸へ敗走したと記す。同月に勅諭を受けて九州諸侯へ使者を遣わし順逆を問うたが異状はなく、二月には東征の詔により関東へ出兵したという。東北諸道の抵抗に対し多くの兵を送り、最後に函館の拠点を取り、翌二年まで征討が続いたと述べる。五月には辺陲の全安の功を奏したとして、詳しい経緯は忠義譜にあると二度参照する。軍功や敵対者への評価は系図記事の叙述に属する。
- 登場人物
- 玉里久光公、慶喜、当藩・長州等の兵、九州諸侯、東北諸道の敵対者(記事の呼称)、忠義
- 宛先
- 宛名なし(系図記事)
- キーワード
- 玉里久光公御系図明治元戊辰正月慶喜反記事鳥羽伏見長州等詔江戸敗走忠義譜参照同月九州諸侯順逆使節二月東征関東東北多兵征討函館翌二年五月辺陲全安
追録8-No.625忠義公系図の記事(戊辰初戦の隊別行動と茂久の参朝・軍職・賜物・復姓改名)旧記雑録暫定版確認度 中
系図記事:明治元年戊辰正月3~29日 / 冊子 455~456頁/原整理番号 625/整理ID 625
忠義公系図の記事として、明治元年戊辰正月三日の鳥羽・伏見での戦闘に至る慶喜の辞職、会津・桑名等の下坂と奉行所滞在、諸藩警衛を記す。当藩の小隊・大砲隊・遊撃隊について鳥羽と伏見の配置、増援、四日の進撃、五・六日の追撃と淀・橋本方面の動き、七日の楠葉進出と諸隊の大坂下り・京都帰還を日ごとに列挙する。慶喜の江戸逃走、九日の大坂城火災、十日の仁和寺宮入坂を続ける。十二日に茂久が召されて参朝し、引用勅書で軍功を賞され、剣一口と陣亡者への金五百圓などを賜ったと記す。十五日の天皇元服とその翌日の茂久の参賀、太刀一腰・御馬代銀二十枚の献上、十八日の海陸軍務惣督任命と辞任、十九日の姫路征伐・二十一日の明石到着と姫路降伏、二十二日の帰還、二十五日の金二万両、二十九日の松平姓から本氏島津への復姓と忠義への改名を収める。評価と勝利叙述は記事に帰属し、隊番号・隊数・賜物の対象と原単位を分ける。
- 登場人物
- 茂久・忠義、慶喜、松平容保・定敬、会津・桑名諸藩、当藩の各小隊・砲隊・遊撃隊、長州・土州・因州・藝州、仁和寺宮、岩倉侍従、岡元左兵衛尉、天皇・准后
- 宛先
- 宛名なし(系図記事。引用勅書と参賀あり)
- キーワード
- 忠義公御系図明治元戊辰正月三鳥羽伏見慶喜会津桑名松平容保定敬諸藩小隊砲半隊遊撃隊当番小銃隊四進撃五六追撃淀富森八幡堤橋本七楠葉大坂京都九城火十仁和寺入坂十二茂久参朝勅剣一口陣亡金五百圓賜酒十五天皇元服翼日茂久参賀献太刀一腰御馬代銀二十枚十八海陸軍務惣督辞任十九姫路二十一明石二十二帰二十五金二万両二十九島津復姓忠義改名
追録8-No.836玉里久光公御系図の任官記事と勅文引用旧記雑録暫定版確認度 中
明治2年三月6日(御系図の任官記事) / 冊子 648頁/原整理番号 836/整理ID 836
御系図「玉里久光公」。明治二年三月六日に参議に任じられ、左近衛中将を兼ね、従三位に叙せられたと記し、続けて「且行政官傳」とある。この末語の職名・意味は確定せず原表記を留保する。引用勅文は、積年の勤王の勲労を慰めるため勅使を国へ遣わしたこと、久光が病を押して早く上京し宮闕へ詣でて拝謝したことを述べ、天皇が自ら着た御打柏一領を特に賜い、一新の大業を助けるよう勉励を求める。原文の「賛補」には補を輔カとする注がある。系図の任官記事と勅文を区別し、上京日は三月6日と断定せず、勲労の評価や病状は原文の叙述として記す。
- 登場人物
- 玉里久光公、天皇(引用勅文)、勅使(姓名不記)
- 宛先
- 久光(引用勅文の汝、系図の対象)
- キーワード
- 原836御系図玉里久光公三月六参議兼左近衛中将従三位行政官傳職名留保勅曰積年勤王勲労勅使国病押上京宮闕拜謝親服御打柏一領賛補輔カ一新鴻業勉励
追録8-No.860忠義公御系図の函館方面陸海戦と降伏記事旧記雑録暫定版確認度 中
明治2年四月16日~五月18日の戦況記事(系図、発給日なし) / 冊子 662~663頁/原整理番号 860/整理ID 860
忠義公御系図。4月16日に二番・三番兵具隊と加治木砲隊半座が江差へ着き、二番隊が長州・福山・大野・備前の兵と木子内口へ向かう。17日の木子内塁攻撃と笹子屋への退保、22日の三石村への進軍、23日の三番隊と砲隊の二俣等の戦闘、25日の当別村・茂邊地塁攻撃と艦砲支援を記す。25日の箇所には十四日とする戦状の原注があり異同を保持する。5月2日は大川村で二・三番隊と砲隊が戦う。4~6日に港内の綱を調べ切断、7日暁五時に諸艦が攻撃し、陽春・丁卯は陸砲台、春日・甲鉄・朝陽は相手艦を撃ち、回天の座礁・艦卒退去や春日艦の死傷が多いとの記載がある。11日には陸海の挟撃、弁天台場砲撃、朝陽と蟠龍の戦闘、春日甲鉄の追撃、蟠龍の沙州衝突と兵の上陸、函館街の大戦から五稜郭への敗走を記す。16日津軽陣屋を陥れ、18日に原名で榎本釜次郎・松平太郎・大鳥圭介・荒井郁之助らが降伏したとして北方の平定を結ぶ。軍勢評価は系図に帰属させ、原地名・名前を保持し、部隊番号や砲二門を人員・死傷総数へ換算しない。
- 登場人物
- 忠義公、二番・三番兵具隊、加治木砲隊、長州・福山・大野・備前・松前・水戸の兵、官軍、原「賊」とする相手、榎本釜次郎・松平太郎・大鳥圭介・荒井郁之助(原名)
- 宛先
- 宛先なし(御系図の記載)
- キーワード
- 原860御系図忠義公明治二年四月十六江差二番三番兵具隊加治木砲半座木子内笹子屋三石村二俣四月廿五戦状十四異同当別茂邊地備前白砲二門五月二大川四港綱五六切断七暁五時陽春丁卯陸砲台春日甲鉄朝陽回天座礁死傷多十一陸海挟撃弁天台場朝陽蟠龍沙州函館五稜郭十六津軽陣屋十八榎本釜次郎松平太郎大鳥圭介荒井郁之助降伏北方平定系図評価
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:102系図・前田茂右衛門家旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
系図全体は無年次(天正7年の飫肥移住・同14年7月27日の戦死を記載) / 冊子 598~599頁/原整理番号 102
加世田士前田茂右衛門家の系図。祖先の前田兵部左衛門尉兼政が加世田に住み、天正七年に日州飫肥へ召し移され、同十四年七月二十七日に飫肥で戦死したと伝える。家伝では三代前まで肝付を称したが、家が盛んでなかったため前田を名乗ったといい、兼政の弟兼定は谷山へ移り、弟兼長は加世田に住んだと分けて記す。後続の兼昌・兼逸・兼通・兼明・兼治らの系線には、日向から母と姉妹が加世田へ移った話、幼くして知行を受けた記事、宮原・若松・河野・相徳武などへの女子の婚姻と早世も添える。
- 登場人物
- 前田茂右衛門、兼政、兼定、兼長、兼昌、兼逸、兼通、兼明、兼治、宮原傳左衛門頼常、相徳武左衛門全延、若松十左衛門忠秀、河野彦兵衛
- 宛先
- なし(系図)
- キーワード
- 前田茂右衛門家系図、加世田士、前田兵部左衛門尉兼政、肝付から前田への改姓、天正7年飫肥移住、天正14年飫肥戦死、兼定谷山移住、兼長加世田居住、幼年知行、女子婚姻
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:103系図・前田宇兵衛家旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
系図全体は無年次(寛文11年・延宝6年・元禄6年などの没年を記載) / 冊子 599~601頁/原整理番号 103
前田兵部左衛門兼政の弟兼定を祖とする前田宇兵衛家の系図で、兼定が加世田から谷山へ召し移されたことを記す。家伝は、兼定が高麗出陣で本田六左衛門の手に付き、陣中に詰めて帰陣時に伏見へ上り、感状を受けたが、のち平田盛右衛門に文書を差し出して返却されたという。子孫の兼長・兼延・兼家・兼倍・兼貞・兼賢らには加世田居住、官職・法名・没年、藤崎・馬場・島田・岩切・吉井・有馬などへの婚姻を付し、寛文・延宝・元禄期の記事と末代の出生までたどる。前項の前田茂右衛門家系図とは、兼政の弟兼定から分かれた谷山移住系統である。
- 登場人物
- 前田兵部左衛門兼政、兼定、兼長、兼延、兼家、兼倍、兼寛、兼里、兼次、兼貞、兼賢、兼陳、兼基、兼敬、本田六左衛門、平田盛右衛門、藤崎藤左衛門、馬場傳右衛門
- 宛先
- なし(系図)
- キーワード
- 前田宇兵衛家系図、兼定、加世田から谷山へ移住、高麗出陣、本田六左衛門、伏見、感状、平田盛右衛門、兼長、兼延、兼家、兼倍、藤崎家、馬場家、婚姻、没年
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:104系図・前田軍八家旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
系図全体は無年次(正保2年・元禄6年の没年などを記載) / 冊子 601頁/原整理番号 104
加世田士前田軍八家の系図で、前田兵部左衛門兼政の三番目の弟兼長が加世田に住んだ系統をたどる。兼長の子兼高は主膳と称し、母を宮原吉兵衛の娘と記すほか、兼申・兼明・兼吉らの名乗り、正保二年の兼長と元禄六年の兼明の没年・法名を載せる。後代には医師となって元養と改名した兼周、兼貞・兼西・兼次郎らをつなぎ、河崎・加藤・樋渡・河野・堀之内の家との女子の婚姻も記す。前項の兼定から谷山へ移った前田宇兵衛家とは、兼政の別の弟を起点とする加世田居住の枝筋である。
- 登場人物
- 前田兵部左衛門兼政、兼長、兼高、兼申、兼明、兼吉、兼周、兼貞、兼西、宮原吉兵衛、河崎五左衛門、加藤氏、樋渡氏、河野氏、堀之内氏
- 宛先
- なし(系図)
- キーワード
- 前田軍八家系図、兼政の三番目の弟兼長、加世田士、兼高主膳、宮原吉兵衛、兼明元禄6年没、兼周医師・元養、兼貞、兼西、女子婚姻、河崎氏、樋渡氏
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:105系図・前田七郎右衛門家旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
系図全体は無年次(寛永17年・正保4年・延宝6年・元禄7年などの出生記事を記載) / 冊子 602~603頁/原整理番号 105
前田右近・大炊之助・太郎四郎以下をつなぐ前田七郎右衛門家の系図。兼門の条は、寛永年間に自宅から火を出して証書などを焼失したため、右近より前の祖先は分からないと明記する。兼次が宮里壹岐正親義方に召し出された際の養子関係や、兼治が佐藤諸左衛門信實の婿養子となったことを記し、兼浮・兼貞らの出生年月日、官途、居住・婚姻先を続ける。女子の佐藤・河野・谷山吉井・堀之内・松下・鎌田・入佐家との関係や、養子を兄弟とする記述もあり、証拠文書の喪失と継承の事情が系図自体に刻まれている。
- 登場人物
- 前田右近、前田大炊之助、前田太郎四郎、兼門、兼次、兼治、兼浮、兼貞、佐藤諸左衛門信實、佐藤次郎兵衛、宮里壹岐正親義方、久木田喜左衛門、松下賀兵衛忠之、堀之内慶賀忠清
- 宛先
- なし(系図)
- キーワード
- 前田七郎右衛門家系図、前田右近、兼門、寛永年間の火災、証書焼失、右近以前不明、宮里壹岐正親義方、兼治、佐藤諸左衛門信實、婿養子、兼浮、兼貞、伊集院、谷山、女子婚姻
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w9:107系図・紀姓宮里氏旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
年月日不記(系図記事は文化元年の出生まで) / 冊子 604~616頁/原整理番号 107
紀姓宮里氏の系図で、孝元天皇・武内宿禰に連なる祖先伝承から宮里氏の諸流、近世の子孫までをつなぐ。表紙裏に『丸之内違鷹羽』という旗幕の紋を掲げ、歴代の神主・別当・僧などの職掌や官位、子女の婚姻・養子関係を記す。正賀の条には寛正三年に宮里が没落して一族が分散し、のち島津貴久に属したとあり、正宗の条にも宮里没落後に貴久方へ属したと記す。正平については島津義虎に仕え朝鮮渡海に供奉したとの記載に続き、文禄元年の豊臣秀吉の肥前名護屋出陣と朝鮮渡海、和泉没落で家人が離散したこと、慶長年間に伊佐郡湯田へ移って東郷を経て大村に住んだことを伝える。正安の条には和泉没落後、島津義久の命で東郷、のち大村の外城へ移されたという注があり、末尾は文化元年生まれの正愿に及ぶ。古代の由緒と宮里没落・戦役・外城移住の家伝を一続きに収める点が特徴である。
- 登場人物
- 孝元天皇、武内宿禰、宮里正賀、正宗、正平、正安、正愿、島津貴久、島津義虎、島津義久
- 宛先
- なし(系図)
- キーワード
- 紀姓宮里氏系図、孝元天皇、武内宿禰、旗幕紋、丸之内違鷹羽、神主、別当、宮里没落、寛正三年、島津貴久、正平、島津義虎、朝鮮渡海、豊臣秀吉、肥前名護屋、和泉没落、伊佐郡湯田、東郷、大村、外城、島津義久、文化元年
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w9:108系図・比志島源左衛門家旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
年月日不記(明応四年の譲状などを系図内に記す) / 冊子 616~620頁/原整理番号 108
比志島源左衛門家の略系図で、冒頭に比志島氏九代の河内守義重の二男とし、義信が父義重から満家院郡山内の横瀬・宇都・坂口・満枝など二十町を譲り受け、明応四年九月の譲状があると記す。義住の郡山城での死や、蒲生・菱刈方面の戦功による大村地頭職、蒲生落城後の蒲生地頭職、島津義弘の朝鮮出兵に供奉した国政、関ヶ原の戦い後に泉州平野から大坂へ遣わされ、黒田氏の船と交戦して戦死した国家など、各代の軍歴・地頭職を載せる。国隆については家老職・高岡地頭を記す一方、罪により処刑され跡が断絶したとし、子の国安は赦免され国治の弟家を立てたと記す。国治の代には島津光久・綱久への奉公、参勤時の海路供奉や江戸城での御用、銀山・物産関係の役を挙げ、ほかに婚姻・養子、国廣の島津義弘元服時の脇指拝領と証状の存在も記す。所領譲状から戦功・家の断絶と再興、近世の奉公・職務へ続く点が、この略系図の特徴である。
- 登場人物
- 比志島義信、河内守義重、義住、国守、国貞、国隆、国治、国安、国英、国家、国政、国詮、国廣、島津義弘、島津光久、島津綱久
- 宛先
- なし(系図)
- キーワード
- 比志島源左衛門家略系図、比志島義信、河内守義重、明応四年譲状、満家院郡山、横瀬、宇都、坂口、満枝、二十町、郡山城、大村地頭、蒲生地頭、蒲生・菱刈、国隆処刑、国安赦免、国治、光久、綱久、参勤、国政朝鮮出兵、国家関ヶ原後戦死、国廣、島津義弘、脇指拝領
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w9:111系図・種子島時述家旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
年月日不記(時述の天文十二年事件などを系図内に記す) / 冊子 625~626頁/原整理番号 111
種子島氏十二代武蔵守忠時の四男・出雲守時述から始まる系図。時述が天文十二年に逆意を企てて誅せられると、天文十年生まれの幼い時連は乳母に抱かれて種子島を出て国分辺に隠れ、のち島津家に仕えたと記す。後代には家久・光久への奉公、江戸での長年の勤仕と功労による三百石拝領、南郷家などとの婚姻・養子関係を載せる。時寿の跡をめぐっては、養子時定が家を辞し、寛文九年に光久の庶子松寿君を迎えたが、時寿の死後に松寿君も辞したため時章が継いだと記す。祖の処刑・幼児の避難と、後代の複数回の養子交代が家系継承の中心となっている。
- 登場人物
- 種子島忠時、時述、時連、時秀、時寿、時章、時定、松寿君、島津光久、南郷右京忠清、権山権左衛門久清
- 宛先
- なし(系図)
- キーワード
- 種子島時述家系図、種子島忠時、出雲守時述、天文十二年、逆意、誅殺、時連、乳母、種子島脱出、国分、島津家臣、江戸勤仕、三百石、南郷家、時寿、時定、松寿君、寛文九年、島津光久、時章、養子、家督継承
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w9:112系図・種子島氏支族国上氏旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
年月日不記(各代の生没年・任官年を系図内に記す) / 冊子 627~628頁/原整理番号 112
種子島氏支族・美座対馬守時里の二男から出た国上氏の系図で、時里・時宣・時通以下の系線と婚姻・養子関係を記す。時盛は伊勢長門守貞清の二男で嗣子として養育されたとあり、島津義久の奥向きへの奉仕、小浜村千石の采地拝領、見隆寺建立を記す。後代の時貞は馬術と鉄砲の師範を務めたとされ、時春には高原・羽月の地頭職の記事がある。和田十助正弘の養子になった者や家督を継いだ者、諸家との婚姻も挙げ、国上氏の分流と奉公・知行の継承をたどる。
- 登場人物
- 種子島時里、時宣、時通、時盛、時貞、時春、島津義久、伊勢貞清、和田十助正弘
- 宛先
- なし(系図)
- キーワード
- 国上氏系図、種子島氏支族、美座対馬守時里、時宣、時通、時盛、伊勢長門守貞清、島津義久、奥向き奉仕、小浜村千石、見隆寺、時貞、馬術、鉄砲師範、時春、高原地頭、羽月地頭、和田十助正弘、養子、家督
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w9:113系図・種子島善左衛門家旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
年月日不記(天正十五年・慶長四年などは系図内記事) / 冊子 628~630頁/原整理番号 113
種子島氏支族・河東尾張守時定の八代に当たる因幡守時儀の子から続く善左衛門家系図で、時近・時適以下の系線、養子、婚姻を記す。時近の女子は島津義久の室となった種子島時堯の娘に局として仕え、天正十五年の秀吉西征時に人質として上京する亀寿に随従し、十八年の再上京にも従った。義久はその勤労に感状と三百石を与えたという。この局は義久の許可を得て最上長門守の二男・時弘を養子として跡を立て、時弘は肝付郡百引の地頭職を賜った。時弘は阿多掃部介の二男・時常を養子とし、後の時豊は一時阿多甚左衛門家を継いだが、兄時次が子を残さず死んだため同家を辞して本家を継いだと記す。
- 登場人物
- 種子島時近、時適、時弘、時常、時豊、時方、島津義久、亀寿、豊臣秀吉、最上長門守、阿多掃部介
- 宛先
- なし(系図)
- キーワード
- 種子島善左衛門家系図、河東尾張守時定、時儀、時近、時適、局奉仕、島津義久、亀寿、人質上京、秀吉西征、御感状、三百石、時弘、最上長門守、養子、肝付郡百引地頭、時常、阿多掃部介、時次、時豊、阿多甚左衛門家、家督継承
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w9:115系図・桂彦太夫家旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
年月日不記(天正十九年・寛永十四年などは系図内の生没・事績年) / 冊子 639~642頁/原整理番号 115
桂氏五世太郎兵衛忠詮の三男・忠増(初名忠益)から始まる彦太夫家系図で、子女の生没・婚姻と官職を記す。忠増は仁礼蔵人頼景の三男・忠守(初名頼張)を養子に迎えたが、のちに実子忠保が生まれ、頼景が忠守の帰家を求めた。忠増は二男家として残すことを申し出て田を分け、忠守の家を立てたとする。忠守は明暦三年に境目の紙屋で地頭職に補され、加久藤・横川でも地頭を務め、京都蔵奉行・町奉行・琉球奉行・御用人などの勤めを重ねた。寛文九年の病中には綱久が山次右衛門久包を通じて安否を尋ねたこと、後代の勝政による太刀献上や勝房らの系線も載せる。
- 登場人物
- 桂忠詮、忠増(忠益)、忠守(頼張)、忠保、仁礼頼景、島津綱久、山次右衛門久包、勝昌、勝政、勝房
- 宛先
- なし(系図)
- キーワード
- 桂彦太夫家系図、桂忠詮、忠増、忠益、仁礼頼景、忠守、頼張、忠保、養子、二男家、分知、紙屋地頭、明暦三年、加久藤地頭、横川地頭、京都蔵奉行、町奉行、琉球奉行、御用人、島津綱久、山次右衛門久包、寛文九年、勝政、太刀献上
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w9:116系図・平姓祢寝氏旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
年月日不記(天正八年・文禄四年などは系図内記事) / 冊子 642~644頁/原整理番号 116
平姓祢寝氏の略系図で、重盛から高清・沙弥行西・清重へ続く系線を示す一方、清忠から重弘までの間に十五世を欠くと明記する。重良の条には文禄四年に祢寝を去り、吉利村三千二百石を賜って移ったとあり、重常は姉とともに近衛信輔の薩州からの帰京に従い上洛したと記す。後代の清雄は家老職に任じられて役禄二千石を賜り、島津大蔵久春の二男・清香と三男・清行については、吉貴の命で清行が清香の養子になった経緯を載せる。清行が表御用人や大御番頭を務めた記事も記す。
- 登場人物
- 重盛、高清、沙弥行西、清重、清忠、重弘、重良、重常、近衛信輔、清雄、清香、清行、島津吉貴、島津大蔵久春
- 宛先
- なし(系図)
- キーワード
- 平姓祢寝氏略系図、重盛、高清、沙弥行西、清重、清忠、重弘、十五世欠、重良、文禄四年、祢寝、吉利村、三千二百石、移封、重常、近衛信輔、帰京随従、清雄、家老職、役禄二千石、清香、清行、島津吉貴、島津大蔵久春、養子、表御用人、大御番頭
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w9:120-1系図・藤原姓鎌田氏将永流旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
年月日不記(寛永十五年などは系図内記事) / 冊子 652~653頁/原整理番号 120-1
鎌田氏の将永から分かれた支流の系図で、将永は島津元久の子・仲翁和尚に供奉し、福昌寺の代官職を務めたと記す。将永の後には六代分を欠くと明記し、将連から将通・将長・政重らの系線と、鎌田氏家統との関係、養子による継承を載せる。後代には男子がなく女子二人をもうけた家で養子を迎え一女を嫁がせた記事、福昌寺代官に由来する家筋のほか、政の一人が七島の悪石へ流罪となった記事もある。女子の嫁ぎ先として黒木仲左衛門などを記す。
- 登場人物
- 将永、島津元久、将連、昌良、将通、政共、政常、政貞、将長、政重、政晴、政平、島津義久、島津家久
- 宛先
- なし(系図)
- キーワード
- 藤原姓鎌田氏将永流系図、藤原姓鎌田支族略系図、将永、島津元久、仲翁和尚、福昌寺代官職、六代欠、将連、将通、将長、政重、養子、女子二人、七島悪石、流罪、黒木仲左衛門
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w9:120-2系図・藤原姓鎌田氏政年流旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
年月日不記(天文九年・天正十四年・文明十七年は系図内記事) / 冊子 653頁/原整理番号 120-2
鎌田氏政年流の系図で、政年から子の政広へ続く。同三男家と注記し、政広は天文九年生まれ、山田蔵人有親の娘を母とすると記す。天正十四年の九州合戦時には和睦の使いとして上洛し、太刀と衣服を拝領したという。末尾では、鎌田氏正統に文明十七年、日州櫛間の牟田迫で戦死した尾張守政年がいるものの、その人物は政広の父・政年ではないと、同名の二人を明確に区別する。
- 登場人物
- 政年、政廣、山田蔵人有親、鎌田尾張守政年
- 宛先
- なし(系図)
- キーワード
- 藤原姓鎌田氏政年流系図、同三男家、政年、政広、天文九年、山田蔵人有親、天正十四年、九州合戦、和睦使、上洛、太刀拝領、衣服拝領、鎌田氏正統、尾張守政年、文明十七年、日州櫛間、牟田迫、同名別人
前編1-No.65記事確認度 中
年月日未詳 / 冊子 37頁
島津忠久を頼朝と丹後局の子とする正統系図。比企氏との関係、住吉での出生伝承、三国守護補任などを系譜記事とともに記す。
- 登場人物
- 島津忠久・源頼朝・丹後局
- 宛先
- 系図
- キーワード
- 島津忠久、正統系図、源頼朝、丹後局、比企氏、三国守護
前編1-No.69文書確認度 高
年月日未詳 / 冊子 39頁
佐多西方仲次郎家の系図抄。内大臣平重盛から小松殿、維盛、六代殿維清へ続く平家の系統を掲げ、清重・小松七郎ら佐多西方家につながる人物を配置して同家の出自を示す。
- 登場人物
- 佐多西方仲次郎家
- 宛先
- 系図抄
- キーワード
- 佐多西方、仲次郎、系図抄、平重盛、小松殿、維盛、維清
前編1-No.73文書確認度 高
年月日未詳 / 冊子 40頁
源頼家の系図・略伝。左衛門督・従二位征夷大将軍の官位、寿永元年八月十二日の出生、幼名万寿、母が北条遠江守時政の娘であることを記す。
- 登場人物
- 源頼家・北条政子
- 宛先
- 系図
- キーワード
- 源頼家、系図、北条時政、征夷大将軍、寿永元年、万寿
後編3-No.1886文書確認度 高
年月日未詳 / 冊子 916頁
島津義久の息女に関する系図記事。天文二十年八月二十二日に生まれ、母は島津忠良の息女で、島津義虎の室となったこと、慶長八年十一月十二日に上井で五十三歳で没したことを記す。
- 登場人物
- 島津義久息女、島津義虎、島津忠良息女
- 宛先
- (島津義久息女系図)
- キーワード
- 島津義久息女系図、島津義久息女、島津義虎、島津忠良息女、天文二十年八月二十二日、出生、慶長八年十一月十二日、上井、死去、五十三歳、法号
後編3-No.1984文書確認度 高
年月日未詳 / 冊子 959頁
島津尚久一流系図は、慶長九年十二月二十九日に初久が誕生し、母を新納忠増の娘とする。童名鎌安丸、のち文七郎と称し、延宝二年十二月晦日に七十一歳で没したと記す。
- 登場人物
- 島津初久、島津久通、新納忠増女
- 宛先
- (島津尚久一流系図)
- キーワード
- 島津尚久一流系図、慶長九年十二月二十九日、島津初久、島津久通、新納忠増女、誕生、鎌安丸、文七郎、延宝二年、七十一歳、湛水院徳源道智大居士
追録6-No.976-12系譜旧記雑録暫定版確認度 高
年月日なし(目録は安永元年十二月) / 冊子 349頁/原整理番号 976の12/整理ID 976-12
知譜抽記を用いて照合し記録したと朱記する略系図。清閑寺熙房から熙定と尚房の二系統を分け、熙定の下に清閑寺治房と浄岸院を並べる。治房の下には清閑寺秀定、さらに綸房を置く。尚房には万里小路家への養子との注があり、その下に万里小路種房と、甘露寺家の養子である規長を並べる。種房の下に万里小路留房、規長の下に「御前様御兄弟様方」を配する。家を移った養子関係を明示しつつ、生家のつながりを線で示した図である。本文に年月日・署名はない。
- 登場人物
- 清閑寺熙房、熙定、浄岸院、清閑寺治房・秀定・綸房、万里小路尚房・種房・留房、甘露寺規長、御前様御兄弟様方
- 宛先
- 系図のため独立宛書なし
- キーワード
- 略系図、養子、清閑寺・万里小路・甘露寺、知譜抽記との照合
追録8-No.316御系図(久光の子芳之進)旧記雑録暫定版確認度 中
万延元年10月16日出生;文久元年4月入本室;文久2年4月20日夭折 / 冊子 231頁/原整理番号 316/整理ID 316
久光の御子を記す御系図の「男女十七人」の表示の下に置かれた芳之進の記事。万延元年庚申十月十六日に重富第で生まれ、母は櫻井氏妹とする。文久元年辛酉四月に父久光に従って本室へ入り、文久二年壬戌四月二十日に夭折したと記す。法名は篤芳院殿玉雲賢露大禪童子。年月日と本室入居の記録を分ける。
- 登場人物
- 芳之進、久光、母櫻井氏妹
- 宛先
- 宛先なし(系図記事)
- キーワード
- 御系図、久光御子、男女十七人表示、芳之進、万延元年庚申十月十六日出生、重富第、母櫻井氏妹、文久元年四月本室入居、文久二年壬戌四月二十日夭折、篤芳院殿
追録8-No.352御系図(玉里久光の鎮撫・改称・賜刀記事)旧記雑録暫定版確認度 中
文久2年壬戌4月入京;9月12日改称(原記載);7月2日御刀;閏8月9日御剣 / 冊子 253~254頁/原整理番号 352/整理ID 352
玉里久光の御系図記事。文久二年壬戌四月に京師へ到り詔を奉じて浪士を鎮撫し、その後京畿に凶徒が起こると伏見で誅し、残徒は風を望んで潰えたと叙述する。改称三郎の日は原文に九月十二日と記す。七月二日には「大家」から御刀一腰(注:備中片山一文字)を賜り浪士鎮撫の労を賞したとし、閏八月九日には召しに応じて皇城へ登り天皇を拝し、御剣一口を賜って鎮撫の功を賞したと記す。凶徒・残徒の呼称と賞功は系図の叙述として扱う。改称月・刀の単位・刀銘は拡大画像で確認し、日付順を理由に原字を改めない。
- 登場人物
- 玉里久光公、三郎、浪士、凶徒、残徒、大家(原表記、御刀の授与者)、天皇
- 宛先
- 宛先なし(御系図記事)
- キーワード
- 御系図玉里久光、文久二年壬戌四月京師入、奉詔浪士鎮撫、京畿伏見誅、残徒潰散叙述、九月十二日三郎改称原記載、七月二日大家御刀一腰、備中片山一文字、鎮撫労賞、閏八月九日皇城天皇拝、御剣一口鎮撫功賞
追録8-No.380御系図(斉彬御子の欄・貞姫養女追擬)旧記雑録暫定版確認度 中
文久2年壬戌9月(追擬の記事) / 冊子 272頁/原整理番号 380/整理ID 380
斉彬の御子を記す御系図の男女八人・女子の表示に続く貞姫の記事。貞君・光蘭、近衛内大臣忠房公の簾中とし、文久二年壬戌九月に斉彬の養女へ追擬したこと、実は久光の義子であるとの文を載せる。本文の養女・義子という関係表示を区別し、実父母や出生年月日を補わない。男女八人の表示から貞姫を第八女とはしない。
- 登場人物
- 貞姫・貞君・光蘭、斉彬、久光、近衛内大臣忠房
- 宛先
- 宛先なし(系図記事)
- キーワード
- 御系図斉彬御子、男女八人女子表示、貞姫貞君光蘭、近衛内大臣忠房簾中、文久二年壬戌九月、斉彬養女追擬、久光義子原記載
追録8-No.385系図記事(斉彬の権中納言従三位追贈)旧記雑録暫定版確認度 中
文久2年壬戌11月12日 / 冊子 275頁/原整理番号 385/整理ID 385
御系図・斉彬公の記事。文久二年壬戌十一月十二日、大家が勅を奉じて権中納言従三位を贈り、これは斉彬が生前王家へ忠誠を尽くした功を賞するものだと記す。「大家」は原表記を保持する。短い系図記事であり、宣旨正文や久光の諭達・茂久の添書ではない。
- 登場人物
- 斉彬、大家(原表記)、王家
- 宛先
- 宛先なし(御系図・斉彬公の記事)
- キーワード
- 御系図斉彬公、文久二年壬戌十一月十二日、大家奉勅、贈権中納言従三位、王家忠誠の功
追録8-No.393系図記事(斉彬への権中納言従三位追贈)旧記雑録暫定版確認度 中
文久3年2月2日(追贈記事) / 冊子 282頁/原整理番号 393/整理ID 393
御系図・斉彬公の文久三年二月二日追贈記事。勅は斉彬の忠誠・治安護国への思いを称え、病によって急に死去したことを悼む。弟久光が遺命を継いで国家を守ると述べ、名を後世に伝えて忠魂を慰めるため、特に権中納言従三位を贈るとする。系図に記された勅の称賛として整理し、久光の諭達とはしない。前の文久二年十一月十二日追贈記事と日付を統合せず、両記事を別に保持する。
- 登場人物
- 斉彬、弟久光、勅の主体
- 宛先
- 宛先なし(御系図・斉彬公の記事)
- キーワード
- 御系図斉彬公、文久三年二月二日追、勅斉彬忠誠治安護国、病死悼惜、弟久光遺命継承、後世顕名、特贈権中納言従三位忠魂慰
追録8-No.417系図記事(斉彬の照国大明神神号)旧記雑録暫定版確認度 中
文久3年5月11日 / 冊子 298頁/原整理番号 417/整理ID 417
御系図斉彬公の短い記事。文久三年五月十一日、斉彬の霊を照国大明神として崇めたと記す。後に照国神社と改めたという割注もあるが、改称日はこの条に記さない。関連する第418号の亥五月十二日仰出注とは別の日付として保持する。
- 登場人物
- 斉彬、照国大明神
- 宛先
- 宛先なし(御系図斉彬公の記事)
- キーワード
- 御系図斉彬公、文久三年五月十一日、崇斉彬霊照国大明神、後改為照国神社割注
追録8-No.566御系図記事(久光の娘於民の出生と死去)旧記雑録暫定版確認度 中
慶応元年乙丑5月16日生/慶応2年丙寅5月2日死去 / 冊子 399頁/原整理番号 566/整理ID 566
御系図「久光公御子」に、女子於民について、慶応元年乙丑五月十六日に生まれ、母は櫻井氏の妹と記す。続けて二年丙寅五月二日に死去し、神号は瑞穂稚苗姫命とする。上部の男女十八人の表示と女子の系線を持つ系図の一項で、於民の出生・死去と母の続柄、神号を分けて示す。母の実名、死因や享年の換算値は記されない。
- 登場人物
- 久光公、娘於民、母(櫻井氏妹)
- 宛先
- 御系図記事、宛名不記
- キーワード
- 御系図久光公御子男女十八人女子於民慶応元乙丑五月十六生母櫻井氏妹慶応二丙寅五月二天亡神号瑞穂稚苗姫命
追録8-No.658御系図忠義公抄(先鋒・東下・外国交際建言・行幸先駆・賜書賜品)旧記雑録暫定版確認度 中
明治元年二月、6・11・13・15・20・28日の記事 / 冊子 490~491頁/原整理番号 658/整理ID 658
「御系図 忠義公」の明治元年二月の記事。親征の詔を受け六日に忠義が先鋒を命じられ、銃隊一大隊・砲隊等を先発させたと記す。十一日は一~三番小隊・一番砲隊右半隊と本営諸員・輜重兵卒等凡四百六十余人が東海道を、十三日は四~六番小隊・二番砲隊左半隊と本営諸員・輜重兵卒等凡四百七十余人が東山道を東下したという。十五日は越前・土佐・長門・安藝・肥後の五侯と外国交際の建言を朝廷へ納め、二十日は大坂行幸の先駆を命じられる。二十八日に忠義を召して久しく王事に尽くした忠義と両藩父子の力を称える書を賜り、なお王室の勉励・輔助を求め、兼光作の原注がある御短刀一口を親しく賜り、御文臺一脚・御硯箱一箇も賜ったと記す。
- 登場人物
- 忠義公(島津忠義)、天皇、慶喜、越前・土佐・長門・安藝・肥後五侯、橋本少将・柳原侍従・岩倉大夫・岩倉八千麻呂(総督等の注記)、薩藩部隊・本営諸員・輜重兵卒、備州長船住兼光(短刀作の注記)
- 宛先
- 文書の個別宛先なし(系図の記事、二十八日賜書は忠義を召す)
- キーワード
- 御系図忠義公明治元年二月親征慶喜六日先鋒銃隊一大隊砲隊先発十一日四百六十余人東海道十三日四百七十余人東山道本営輜重十五日越前土佐長門安藝肥後五侯外国交際建言二十日大坂先駆二十八日賜書長藩勅王事王政復古皇運両藩父子王室勉励輔助短刀一口備州長船住兼光御文臺一脚御硯箱一箇
追録8-No.750忠義公系図の二詔・軍列賜与・出兵変更と奥羽北越部隊戦況の抄旧記雑録暫定版確認度 中
明治元年六月2日起頭、六月・七月の詔・帰国・援兵戦況記事 / 冊子 577~579頁/原整理番号 750/整理ID 750
御系図・忠義公から、明治元年六月二日の東海道探索・裁断委任、五日の軍装参朝・軍列叡覧と賜品を記す。親征を衆議で猶予する宸翰と先鋒への依頼、衣二領・金三万両の賜与を収め、急報により本人を見合わせ兵を仙台近海へ送る指示、八日の帰国率兵海路東行命を続ける。翌九日京都発・十一日大坂乗艦・十五日鹿児島帰着とする。援兵の十二番・私領一二番小隊等が六月十六日に常州平潟へ着いたこと、二十四日棚倉攻略、二十八日の十二番等の泉城方面進撃を部隊別に記す。七月の平潟集合、新庄・庄内方面の四番遊撃隊と長州の戦闘、秋田等の帰順で官軍勢が強まったとの記事、二十四日長岡方面の攻防、二十五日の長岡回復と新発田降伏、二十六日の三春方面進撃、二十九日の長岡・若松方面進出と二本松城攻略を収める。各部隊番号、私領・外城の別を保ち、戦況と地域政治評価は系図の叙述として記す。
- 登場人物
- 忠義、主上、中山前大納言、大総督宮、三條右大臣、家老島津伊勢、薩藩各小隊・番兵・遊撃隊・砲隊・私領隊・外城隊、長州大垣土州佐土原大村因州肥前秋田仙台米沢等、九條奥羽鎮撫使・澤副使三位、松平荘内城主・溝口壱岐守
- 宛先
- 系図記事、引用詔は忠義宛
- キーワード
- 原750御系図忠義公明治元六月二裁断詔五軍装参朝天杯旗剣扇反物宸翰衣二領金三万急報本人見合兵仙台八帰国命九発京十一大坂十五鹿児島帰十二小隊私領一二六月十六平潟廿四棚倉廿八泉城七月平潟新庄庄内四番遊撃長州秋田官勢長岡大學廿四攻防廿五恢復新発田溝口降廿六三春廿九若松二本松隊番号私領外城別
追録8-No.842忠義公御子の系図にある哲丸付記と房姫出生夭亡記事旧記雑録暫定版確認度 中
房姫:明治2年三月24日生/明治4年三月10日夭亡 / 冊子 652頁/原整理番号 842/整理ID 842
御系図「忠義公御子」。哲丸の枝には「斉彬公御子為世子、御夭亡」と付記する。これとは別の女子の枝に房姫を掲げ、明治二年己巳三月二十四日生、母は斉彬の娘と記す。母名の初字は原画像を再拡大しても確定できないため、判読を留保する。房姫は四年辛未三月十日に夭亡し、神号は花蔓豊房姫命と記す。哲丸の付記を房姫へ移さず、生死の日付から現代の満年齢・病名・死因や養子の具体手続は補わない。
- 登場人物
- 房姫、忠義公、斉彬、母(斉彬女、名の初字判読留保)、哲丸(別枝)
- 宛先
- 宛先なし(御系図の記載)
- キーワード
- 原842御系図忠義公御子哲丸別枝斉彬公御子為世子御夭亡女子房姫明治二年己巳三月二十四生母斉彬女母名字形留保四年辛未三月十夭亡神號花蔓豊房姫命
追録8-No.932忠義系図の参朝燕斉彬贈位鶴嶺神社遷魂廃寺令の記事抄旧記雑録暫定版確認度 中
明治2年十一月15日・22日/是月25日(鶴嶺神社遷魂祭儀) / 冊子 711頁/原整理番号 932/整理ID 932
御系図忠義公。明治二年十一月十五日、忠義が徴に応じ参朝し、玉座下へ近く召され燕を賜り、優渥に遇され侍坐して夕に下殿したと記す。二十二日、聖朝が斉彬の忠義を追感し従一位を勅贈したと記す。今茲鹿児島城山南麓に鶴嶺神社を創建し、是月二十五日に遷魂祭儀を行って、福昌寺等で祀る祖宗の霊を遷し神号を諡してすべて神道で祭祀し、これに因り藩内大小梵寺を悉く廃する令を出したとの記事を掲げる。各日と評価・命令の記述を区分し、No.931との燕記事重複計数、全寺院の実廃止完了・施設数・神号の具体名は補わない。
- 登場人物
- 忠義公、上・聖朝(原呼称)、斉彬、祖宗の霊
- 宛先
- 御系図忠義公(宛所不記)
- キーワード
- 原932御系図忠義公明治二年十一月十五應徴参朝玉座下賜燕恩待優渥侍坐夕下殿二十二聖朝追感斉彬忠義勅贈従一位今茲鶴嶺神社鹿児島城山南麓是月二十五遷魂祭儀福昌寺祖宗霊諡神号神道祭祀令悉廃藩内大小梵寺
追録8-No.1007島津忠義の藩政改革・練兵尽力に対する朝旨の褒賞記事旧記雑録暫定版確認度 中
明治4年辛未2月 / 冊子 789頁/原整理番号 1007/整理ID 1007
島津忠義が朝旨を遵奉して藩政改革を行い、練兵に尽力したことを朝廷が褒賞した旨を系図から抄録する。明治四年辛未二月。
- 登場人物
- 島津忠義、朝廷
- 宛先
- 宛先なし(系図記事)
- キーワード
- 島津忠義、御系図、朝旨遵奉、藩政改革、練兵、尽力、褒賞、明治四年二月
追録8-No.1044島津忠義の在京中の国事建言・詔書拝受・天盃拝受を記す系図記事旧記雑録暫定版確認度 中
明治4年7月4日・14日・23日 / 冊子 830頁/原整理番号 1044/整理ID 1044
明治四年七月四日、在京中の島津忠義が国事への憂慮から建言を奉った。七月十四日に詔書を拝受し、二十三日には参内して慰労の勅語と天盃を賜ったことを系図に記す。
- 登場人物
- 島津忠義、明治天皇
- 宛先
- 宛先なし(系図)
- キーワード
- 島津忠義、御系図、在京、国事建言、七月四日、詔書、七月十四日、参内、慰労、天盃、七月二十三日
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w8:62系図・鹿屋氏と伴姓諸流旧記雑録拾遺暫定版確認度 中
成立年未詳(系譜内に嘉祥3年などの年紀) / 冊子 557~561頁/原整理番号 62
鹿屋氏を天智天皇・大友親王から伴姓の余那足・善名・善男へつなぎ、仲用・仲兼・兼遠・兼行以下の多くの枝を図示した系図。善男の嘉祥3年の流罪、兼永が高城で宮方の攻撃を受け兄弟らと討死した記事、兼雄の鹿屋院長谷山城での合戦、忠兼の島津殿惣奉行・鹿屋下城の奪取など、系線に軍事・奉公記事を添える。兼好の加治木・千本などでの合戦と河野辺内五町の給付、兼直の平田との関係と弟の子の猶子化、兼健が幼時に伯父兼直の養子となり高隈を領した経緯、兼家の鹿屋での討死も記す。女性の新納氏・祢寝氏への婚姻、伯父から三俣院を譲られた兼重、鹿屋・肝付・河内・平田などへ広がる諸流の官途・法名・養子・没年を収める。これらは各人物に付された系図上の伝承・注記であり、成立年月日や一つの発給行為を示す文書ではない。
- 登場人物
- 天智天皇、大友親王、余那足、善名、善男、仲用、仲兼、兼遠、兼行、兼永、兼雄、忠兼、兼好、兼直、兼賢、兼健、兼幸、兼家、兼重、兼久、兼国、兼俊、兼宗ほか鹿屋・肝付系諸流
- 宛先
- なし(系図)
- キーワード
- 鹿屋氏系図、天智天皇、大友親王、伴姓、余那足、善男、嘉祥3年流罪、兼永、高城、兼雄、鹿屋院長谷山城、忠兼、島津殿惣奉行、鹿屋下城、兼好、加治木、千本、河野辺五町、兼直、平田、兼健、高隈、兼家討死、新納氏、祢寝氏、兼重、三俣院、分流、婚姻、養子、官途、法名