島津義久袖加判福昌寺領目録
天正20年9月3日 / 冊子 602~603頁
福昌寺領として、田方五十二町七段余・分米五百二十七石余、畠方九町余・大豆四十五石余、山畠二十四町八畝余・大豆六十石余を列挙する。合計は田畠・山畠九十五町八段余、分米・大豆六百三十四石余とする。 町田久倍が署名し、島津義久が袖判を加えた寺領目録で、豊臣政権期の検地後に福昌寺領の規模を確定した数量史料である。
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天正20年9月3日 / 冊子 602~603頁
福昌寺領として、田方五十二町七段余・分米五百二十七石余、畠方九町余・大豆四十五石余、山畠二十四町八畝余・大豆六十石余を列挙する。合計は田畠・山畠九十五町八段余、分米・大豆六百三十四石余とする。 町田久倍が署名し、島津義久が袖判を加えた寺領目録で、豊臣政権期の検地後に福昌寺領の規模を確定した数量史料である。
応永七年十二月六日 / 冊子 197頁
島津元久が、重代相伝の薩摩国鹿児島郡坂下内中薗一か所(良本の居屋敷)を福昌寺へ寄進し、雑公事・諸役を停止して永代知行を認め、違乱する子孫を否定した寄進状。
(応永九年)九月十一日 / 冊子 206頁
島津元久が、鹿児島城の蔵に置く料足・銀・唐物・武具類について、自身に不慮の事態があった場合は、蔵を預かる北原新左衛門尉・福崎太郎次郎が法印実賢の誓文をもって福昌寺へ引き渡すよう命じた書状。両人に支障があるときは、その跡を相続する者が引き渡すことも定める。
応永十二年九月廿一日 / 冊子 218頁
島津元久が、薩摩国谷山郡宇宿村の福昌寺寺領で殺生を行うことを禁じ、親類・若党を含め違反を停止させ、境界付近へ入った鷹は放すよう命じた禁制。
八月十八日 / 冊子 571~572頁
宗祇が福昌寺衣鉢禅師に、贈答への礼と近況を述べ、屋形への礼意や今後の取り次ぎを依頼した書状。
永正十二年十一月廿七日 / 冊子 608頁
島津忠隆が福昌寺の定法と寺家の特権を確認し、逃亡者や犯罪人の扱いを含む寺内秩序を安堵した証状。
天正17年2月16日 / 冊子 440~441頁
島津義久(龍伯)が福昌寺の僧衆へ、師命に背く者や師の死後に逆心を起こす者の相続を認めず、寺務・公役を厳格に守るよう定めた証状。 寺僧の派中統制、住持継承、公儀への訴訟や他寺への出頭を規制しており、島津氏菩提寺の内部秩序を知る重要史料である。
慶長五年五月十一日 / 冊子 548頁
島津義久(龍伯)が福昌寺に与えた掟。盗人を匿う場合の処置を第一条とし、同日付の大乗院・福昌寺向け掟と同案であるため、本文の残余は省略されている。
慶長六年五月二十三日 / 冊子 761頁
平田増宗が、唯怒参の墓所で酒肴を供え、後年も供養を絶やさないよう福昌寺へ田地を寄進した書状。
八月十八日 / 冊子 309頁
宗祇が福昌寺衣鉢禅師に、尊書と贈物への礼を述べ、屋根普請等の配慮を頼み、扇・筆・蘇香円・美濃紙などの進物を列挙する一方、老後は隠居して心安く暮らしたいとの心情を伝えた書状。
天正十八年カ七月廿五日 / 冊子 29頁
在京中の福昌寺から伊勢勘解由を通じて懇切な報告を受けたことを喜び、関東がまもなく平定され自身の下国も年内にかなうとの見通しを述べ、縮一端を贈った書状。
弘治四年正月吉日 / 冊子 55頁
鹿児島郡内の池上権現領弓場の返地について、永吉名など計四反の田地を所在地・名請人とともに列記した坪付。
(天正18年)7月25日 / 冊子 476頁
島津義久が京都滞在中の祈祷巻数や黄金の到着を慰労し、伊勢参詣を済ませた近況を伝える。 関東が平定され、年内の帰国を見込むとして、今後の連絡と寺院側の祈祷を求めた書状。
応永七年五月下幹日 / 冊子 197頁
薩摩国鹿児島郡に福昌寺を創建し、新たに青銅の洪鐘一口を鋳造したことを記し、寺風の隆盛と鐘声の功徳を漢文の銘文でたたえた福昌寺鐘銘。
永正十六年七月十六日 / 冊子 620頁
玉龍山福昌寺西方の卵塔に刻まれた島津忠隆の碑銘。忠隆の没年月日、家系上の位置と生前の事績を記し、墓塔建立の由来を示す。末尾には追悼の偈頌を掲げ、故人の徳をたたえて菩提と後世の供養を祈念する。
年月日未詳 / 冊子 629頁
福昌寺の恕岳が禅定門の祠堂物と寺内での配分・処置を定め、後日の証拠として認めた証状。
安永四年三月九日 / 冊子 451~452頁/原整理番号 1248/整理ID 1248
高百五十石を宥邦院殿の菩提のため寄付するとし、御霊前の諸用を怠りなく行うよう命ずる。末尾は安永四年三月九日、福昌寺宛。宥邦院殿には島津継豊の注がある。冒頭は仝上、正文在福昌寺とし、袖の花押No2の表示を付す。差出人は目録の重豪袖判寄進状に対応する。本文は寄付した高と菩提の対象・寺を明示するが、高の具体的な土地所在や仏前諸用の内訳は記さない。花押の番号表示を実物の花押画像と同一視しない。前後にも百五十石の寄進状があるため、宥邦院殿菩提・福昌寺宛の一通として区別し、他の菩提対象と一件にまとめない。
安永四年三月九日、寛延二年巳七月以来の仏前諸料を回顧 / 冊子 452頁/原整理番号 1249/整理ID 1249
高百五十石について、慈德院殿の菩提のため寛延二年巳七月から仏前諸料を相渡していたと述べる。後に重年の御判物でこの高を寄付しようと考えていたが、まだ整わないうちに重年が卒したので、この度その高を寄付すると記す。御霊前の諸用を怠りなく行うよう求め、末尾は安永四年三月九日、福昌寺宛、袖に御判とある。慈德院殿には島津宗信の注、正文は福昌寺とする。差出人は目録の重豪袖判寄進状に対応する。
安永四年三月九日 / 冊子 452頁/原整理番号 1250/整理ID 1250
高百五十石を圓德院殿の菩提のため寄付するとし、御霊前の諸用を怠りなく行うよう命ずる。末尾は安永四年三月九日、福昌寺宛、袖に御判の表示がある。圓德院殿には島津重年の注、正文は福昌寺とする。差出人は目録の重豪袖判寄進状に対応する。
目録年月日記載なし / 冊子 522~523頁/原整理番号 65
福昌寺・悟性寺の寺領、住持と旧記、修造・御位牌・石塔の由緒を長文で照合する。加世田城や鹿児島の社寺、諸家の書出・御記録を引き、寺社方の取扱いを考える。
元禄8年3月5日(目録) / 冊子 542~543頁/原整理番号 86
久豊公らの御茶毘所の所在を御記録所から寺社奉行へ尋ね、福昌寺が書付を急ぎ提出する。元禄八年二月二十六日から三月五日までの往復を記す。
元禄8年4月19日(目録) / 冊子 543頁/原整理番号 89
忠治公・久豊公・久保公・忠昌公らの御灰塚の場所と石塔の建立をめぐり、福昌寺からの照会と旧記・見聞を記す。次頁上段右側まで続く。
元禄9年11月5日(目録) / 冊子 543~544頁/原整理番号 90
福昌寺免僧祖養の書付を引き、久豊公の御灰塚や石塔の所在について、旧事の聞き取りと書面の返答を記す。子十二月五日の日付を付す。
年月日未詳 / 冊子 247頁
島津元久と仲翁和尚を中心に、福昌寺住持や女子らの系譜・年齢・没年などを図示した略系図。人物ごとの注記を系図上の配置どおり保持する。
年月日未詳 / 冊子 294頁
伊集院・伊作・川邊方との和睦を進めるため、久豊と伊作勝久が会談し、久世を介して川邊への帰還を図った記事。交渉中に家臣団の内紛と暗殺の疑いが生じ、福昌寺和尚の仲介にもかかわらず小田原弾正らの対立が激化した経過を記す。
永正六年八月日 / 冊子 594~595頁
差出人某が、福昌寺の開創由緒と禅門による教化の功徳を述べ、琉球国との交流継続を求めた長文書状。僧侶・使節の往来を通じて仏法を広めること、海上交通を保って相互の礼節と善隣を維持することを説き、宗教と外交を結び付ける。
年月日未詳 / 冊子 596頁
永正六年五月十五日、向島の御鐵金の鉾を福昌寺十一世天祐が建立したことなどを記す池田氏年代記の記事。
天文九年三月 / 冊子 788頁
島津貴久が、元久創建の福昌寺再興に関し、宇宿の旧地と寺領を寄せて伽藍を復興させる旨を示した文書。本文には御譜未収録との注記がある。
天文九年三月 / 冊子 789頁
島津貴久の花押を据えた再興命令と、福昌寺再住忍岳の申状を併載する。元久創建後に荒廃した福昌寺へ旧地・寺領を寄せ、伽藍再興と大檀越としての功績を記した。
(永禄五年)三月十六日 / 冊子 105頁
金鐘寺の門役が断絶した件について、二度の書状を受けた島津貴久が、代わりの役を立てて寺職を旧来の門派へ返付すると回答した書状。詳細は福昌寺から伝えるとしている。
天正十二年四月十四日 / 冊子 872頁
四月十四日、島津義久は福昌寺住持天海に僧二千人を率いて有馬へ赴かせ、島原合戦の死者のため大施餓鬼を営ませた。同日、八代では島津家久の嫡子が元服を祝った。
年月日未詳 / 冊子 745~746頁
袈裟菊丸が籠る宮之城へ義久方の使者が赴き、母子と家臣の安全、知行の維持を保証して下城を促した交渉経過を伝える。母は歳久と同様の赦免を求め、福昌寺・新納武蔵守らの再度の説得を経て下城したという。 歳久死後の宮之城籠城が、身分・知行の保障を条件に収束した過程を具体的に残す書状。
四月六日 / 冊子 796-797頁
島津忠恒が、惟新からの連絡として、十二日から福昌寺・帖佐で大中公追善の法華三部読誦を行う予定を伝える。忠恒自身の帰国や出水見廻りも含め、今後の移動日程を相談した書状。
年月日未詳 / 冊子 125頁
福昌寺が僧堂用の葺板千四百二十枚を受け取ったことを記す受取状。
八月十八日 / 冊子 12頁
日野町資将が、上洛後に便りがなかったところ思いがけず書状を受けたことを喜んだ書状。春に福昌寺僧の下国に託した書状の到着を尋ね、家門への願いを披露して返書と百人一首の御本を得たことを伝え、唐皮・瑠璃瓶・唐食籠・緞子を贈る。
三月二日 / 冊子 51頁
伊集院忠棟・町田久倍・平田光宗が、福昌寺への合力について諸地頭へ連署した書状。三か国の人勢に関する相談を踏まえ、当年は日州へ回るため、各地で福昌寺に相応の助力を行うよう求め、詳細は寺から伝達するとする。
年月日未詳 / 冊子 330頁
鹿児島福昌寺の釈尊八相画像を修復し、表絹に金襴を用い、さらに寄進を行ったとの記事。
年月日未詳 / 冊子 332頁
過去帳三幅を作り、上段に阿弥陀三尊を描き、下段に戦死した士卒・陪臣・奴僕の姓名をすべて記して鹿児島福昌寺へ納めた記事。頓証菩提を弔わせるため水田三町も寄進し、毎朝・時々の供養を絶やさせなかった。
十二月廿四日 / 冊子 351~352頁
島津貴久が三郎左衛門尉へ、芸州をめぐる私的な事情と長年の疎遠、福昌寺・妙谷寺の進退や所領をめぐる対立の経緯を詳述した書状。関係者間の調停と帰寺を望み、先例に照らした処置への意見を求める。
三月十三日 / 冊子 354頁
島津貴久が摂津介へ、帰宅後の滞留事情を尋ね、龍雲寺方面の動向や別紙の用件を伝えた書状。帰りが遅いことを案じ、福昌寺の奉公人へ申し得た件も含めて事情を知らせる。
永正十八年七月十二日 / 冊子 629頁
智陸が大隅国曽野郡郡田名内の田地について、所在と面積を列記し、後日のため証した文書。
元禄九年十一月九日 / 冊子 973頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2700
島津綱貴が、島津光久(寛陽院殿)の菩提料として、大隅国始羅郡帖佐郷住吉村内の百五十石を福昌寺へ寄附し、霊前の諸用を怠らないよう命じた袖判寄進状。
安永四年未五月朔日 / 冊子 456頁/原整理番号 1263/整理ID 1263
浄岸院の仏餉料として、高百石の所務をもって、銀・米ならびに品物を年々相渡す旨が仰せ出されたので、御霊前の諸用や勤行などを怠りなく執行するよう伝える。仍って執達は件の如しと結び、末尾は安永四年未五月朔日、嶋津仲久健判・川田伊織國福判・小松帯刀清香判、福昌寺宛。浄岸院には継豊継室竹姫の注がある。出典は重豪公御譜中、正文は福昌寺。
天明四年十二月十七日 / 冊子 773頁/原整理番号 2165/整理ID 2165
浄岸院十三回忌の香奠銀四貫百七十五匁九分八厘九毛の配分を記す。内訳は、祠堂銀として寺社方へ二貫七百五十七匁三分二厘六毛、福昌寺住持へ一貫三百七十八匁六分六厘三毛、副司二人へ一人二十匁ずつ計四十匁である。三分の二を祠堂銀、三分の一を住持に与え、副司への二十匁ずつも申し渡すよう十二月十七日に届ける。
天保4年4月(年次目録、月本文、日未記載) / 冊子 969頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2701
央が福昌寺へ伝えた、住持の病気と後住の公辺御目見についての申渡書。住持崑山が病気で御目見できず、一代にかかわる後住の御目見に支障があるという事情を、三位様が寺社奉行脇坂中務大輔安董へ内談したと記す。寺格による御目見ではなく浄岸院の由緒によって仰せ付けられたものなので、世代にかかわる支障について同席で相談するよう、三位様が去る辰八月に極内で書き取って渡し、厳重に保管していた。後住が御目見を願う際、その趣旨で取り調べることができるとする。四月付、央署、薩州鹿児島福昌寺宛。包紙も、病気で継目の御礼に出られず後住の御礼も申し上げない見込みの件と記す。住持個人の病状、寺格と浄岸院由緒の違い、先行の内談と書き取り、後住への適用を分ける。
天保6年9月3日(正月三回忌法事に関する申渡) / 冊子 1009~1010頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2747
重豪公御譜中に掲げ、正文は福昌寺にある「覚」。大信院の三回忌法事に際し、御台所の内々から福昌寺の廟所へ供養料として白銀五十枚が差し越されたことを寺社奉行所が伝える。御台所が廟所へ参拝したことを踏まえ、この銀五十枚は御詞堂と同様に扱い、後年に住職が交代する際にも確実に次へ引き渡すよう命じる。天保六年未九月三日、寺社奉行所印、福昌寺宛。冊子1009頁下段に出典と「覚」の見出しがあり、本文・日付・宛先は1010頁上段へ続く。
11月29日(目録、年次記載なし) / 冊子 525~526頁/原整理番号 68
寺地を有する理由と古来の火鹿の存否について、福昌寺から返答を求める。十二月二十九日の署名を記す。
年月日未詳 / 冊子 598頁
袈裟菊丸らが宮之城に籠城した際、義久が比志島紀伊守や福昌寺・龍雲寺の僧を派遣し、袈裟菊丸の家督と知行を保障して下城を促した交渉経過を記す。 袈裟菊丸の母は、歳久と同様に処断されるなら助命に意味はないと一度は拒むが、重ねて身上・知行の保全を約束され、最終的に下城して入来へ移った。歳久家存続の具体的条件が分かる覚書である。
享保十八年二月三日 / 冊子 202頁/整理ID 484
谷山御仮屋・宇宿村の土地、寺領・社入目、金銭支出など従来の取扱いを六か条で確認する。
年月日未詳 / 冊子 614頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1498
延宝元年四月二十六日夜、福昌寺で火災が起こり、残らず焼失したことを記す記事。