島津氏重書目録
宝徳四年十月七日 / 冊子 427~428頁
藤野氏蔵本に収められた島津家伝来文書の目録。源頼朝の御状・下文、畠山重忠自筆状、足利将軍家の御教書、歴代の譲状・置文・綸旨などを文書種別と通数ごとに整理し、鎌倉以来の島津氏の所領権・家督継承を裏付ける文書群を示す。
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宝徳四年十月七日 / 冊子 427~428頁
藤野氏蔵本に収められた島津家伝来文書の目録。源頼朝の御状・下文、畠山重忠自筆状、足利将軍家の御教書、歴代の譲状・置文・綸旨などを文書種別と通数ごとに整理し、鎌倉以来の島津氏の所領権・家督継承を裏付ける文書群を示す。
慶長十四年七月九日 / 冊子 227~228頁
慶長十四年七月九日、宝性院法印政遍が島津家久に、高野山蓮金院は源頼朝草創と伝わる金剛峯寺の別院で、義弘・家久の連署した再興記が永代の証文になると述べ、学業を修めた住持を置いて島津氏の護持寺とするよう願った書状。
十二月□ / 冊子 228~229頁
十二月、青巌寺法印政遍が島津家久に、源頼朝の願所と伝える蓮金院を弟子が再興し、学問所・茶の間などの院家が完成したことを報告して造営援助に謝し、翌春に使僧を遣わす予定と油煙・筆の贈答を伝えた書状。
(寛永十四年)二月廿九日 / 冊子 640頁
「光久公御譜中」の記事。前年冬に父・島津家久が病臥した際、光久は江戸にいて見舞えなかった。寛永十四年二月、家久は平田盛右衛門純正を介し、島津家伝来の愛染明王像・摩利支天像・鷹之巣の御刀・鳥利作の太刀・光忠作の腰刀を光久へ譲った。愛染明王像は弘法大師作で「谷渡愛染」と呼ばれ、源頼朝が所持したのち信濃深草山の光忍を経て家久へ伝来したと記す。本文は宛所・署名のない譜記事であり、索引の「文書・島津光久書状」と形式が相違する。
享保九年正月日 / 冊子 505頁
僧観覚宛の源頼朝判入り掛物一幅について、前年に江戸で名越右膳が求めて進上した品であり、後世まで御記録所で堅固に保管するよう指示した島津久兵の添書。
寛政五年正月八日 / 冊子 505頁
源頼朝筆とされる掛物一幅を下付するので、御記録奉行に引き渡して厳重に保管するよう求めた西某・谷村某連署の添書。
十二月十八日 / 冊子 505~506頁
源頼朝筆とされる掛物を古筆了意に鑑定させ、判形の模様や補修部分を検討した結果、偽物ではなく頼朝の真筆に疑いないとの回答を得た旨を報告した児玉喜藤太添書。
年月日未詳 / 冊子 176頁
島津家久父子が高野山金剛峯寺を信仰し、祖島津忠久にちなむ宿坊として蓮金院を創建するため、白銀を投じて院地を取得し、比志島紀伊守を奉行として寺宇・仏具・文庫等を整備したことを記す系譜記事。
元禄十四年三月 / 冊子 215~216頁
林信篤が鎌倉将軍右大将公の自筆文書の後に記した跋文。文書が永禄年間に器中へ封蔵され、豊臣氏滅亡後も島津家に伝わった経緯と、頼朝以来の由緒ある自筆を忠実に保存する意義を述べる。元禄十四年春三月に閲覧して作成した旨を記す。
文治三年五月日 / 冊子 32頁
No.226と同文として本文を省略した源頼朝下文の重出。島津荘に関する頼朝の処分を示す文書として番号を立て、本文は参照先に譲るという『旧記雑録』の重出処理が分かる。
寿永三年四月十一日 / 冊子 42~43頁
源頼朝が平氏追討の軍勢に対し、諸将を統率して軍功を励み、独断や濫行を避け、命令に従って進退するよう指示した下文。
十月二日 / 冊子 43頁
源頼朝が遠江四郎に、書状二巻を額田判官代へ届けるよう命じた書状。額田判官代が京都へ送るべき用件を申しているため、先度の指示に違わず至急持参し、使者の往来を滞らせないよう求める。
十一月三日 / 冊子 43頁
僧観覚が申す河内国古市郡内の竜井・壺通法寺敷地と浮免等について、解状・証文を添えて処置を求めた源頼朝書状。原資料に年次未詳・本文疑義の注記がある。
元暦二年六月十五日 / 冊子 47~48頁
源頼朝が、平信兼の謀反により没収した伊勢国波出御厨を惟宗忠久へ与え、地頭職に補任した下文。忠久に先例どおり所務を執行させ、御年貢・公役を怠りなく勤めるよう命じる。
元暦二年八月十七日 / 冊子 48頁
源頼朝が惟宗忠久を島津御庄下司職に補任した下文。庄官・住民に補任を承知させ、領家下文と先例に従って庄務・年貢収納を執行し、違失なく下司職を勤めるよう命じる。
元暦元年十一月廿八日 / 冊子 48頁
源頼朝が、院から与えられた平家没官領の若狭国玉置領を三井寺へ寄進した文書。仏法興隆のため寺領として知行させ、寺領を妨げないよう命じる。
文治二年正月八日 / 冊子 53頁
源頼朝が惟宗忠久を信濃国塩田庄地頭職に補任した下文。庄内の所務を執行し、御年貢以下の公事を先例どおり納め、地頭として現地支配を行うよう命じる。源頼朝下文に関する当事者の行為、対象となる所領・権利、実施条件とその後の取扱いまで記す。
文治二年四月三日 / 冊子 54~55頁
源頼朝が島津御庄の濫行を停止した下文。地頭惟宗忠久の下知に従わせ、庄民への押領・追捕を止め、年貢以下を忠久の沙汰で納めるよう庄官・住民へ命じる。
文治二年四月三日 / 冊子 55頁
No.102と同文として本文を省略した重出。島津御庄での押領・追捕などの濫行を停止し、地頭惟宗忠久の下知に従って庄民を安堵し、年貢以下を納めさせる源頼朝下文である。
文治二年八月三日 / 冊子 55~56頁
源頼朝が、島津御庄で千葉介常胤の代官紀太清遠らが行った押領・狼藉を停止した下文。庄内の地頭・庄民への非法を止め、忠久の所務を回復し、国司・本家への年貢と公役を正しく勤めさせる。
文治三年五月三日 / 冊子 59~60頁
源頼朝が薩摩国牛屎院を惟宗忠久の所領として安堵した下文。小城八郎重道らによる押妨・押領を停止し、忠久側の由緒と旧来の知行を認めて院内の所務を回復させる。
〔文治三年〕五月三日 / 冊子 60頁
牛屎院を惟宗忠久の所領として安堵する件について、源頼朝の意向を伊豆藤内殿へ伝えた御教書。
文治三年五月三日 / 冊子 60頁
No.117と同文として本文を省略した重出。薩摩国牛屎院について小城八郎重道らの押妨を停止し、惟宗忠久の旧来の知行と所務を回復・安堵するよう命じた源頼朝下文である。
文治三年九月九日 / 冊子 61頁
源頼朝が藤内民部遠景の使人らによる島津庄への押領・追捕・住民拘束を停止した下文。遠景側の使者を庄内から退け、惟宗忠久の地頭支配と庄民の生活を妨げないよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 66頁
源頼朝の奥州征伐記事。文治五年七月十九日に鎌倉を発し、多数の軍勢を率いて伊達次郎泰衡・西木戸太郎国衡らを追討する。奥州平定後、十月二十四日に鎌倉へ帰着するまでを記す。
文治五年二月九日 / 冊子 67頁
源頼朝が島津庄地頭忠久へ、庄官らを召集し、足軽・武器を整えて参陣するよう命じた下文。帯兵杖の者を率い、七月十日以前に関東へ到着して奥州追討の忠節を尽くすよう求める。
文治五年七月十日 / 冊子 67頁
島津庄官らに対し、地頭忠久の下知に違背せず、庄内の役務・所務を履行するよう命じた源頼朝御教書。
文治五年八月十五日 / 冊子 67~68頁
源頼朝が奥州征伐に関して忠久へ軍勢の催促・先陣の勤仕を命じた御教書。家譜記事中に引用され、八月十五日付を持つ。
文治五年八月廿日 / 冊子 72頁
源頼朝が庄司次郎殿へ、奥州征伐の軍勢・出陣と勤仕について仮名書きで指示した書状。
文治五年十月三日 / 冊子 73~74頁
北郷弥太郎兼秀の訴える弁済使職について、解状を提出させ、相違なく安堵・処理するよう命じた源頼朝御教書。
文治五年十一月廿四日 / 冊子 74頁
源頼朝が藤内康友へ奥州への供奉・軍役を終えたことを認め、暇を与え、今後も所務に励むよう伝えた御教書。
(建久二年)十二月十一日 / 冊子 80頁
源頼朝が島津庄住人に対し、忠久の下知に従わないとの風聞は不当であるとして、忠久の命令に従うよう命じた下文。あわせて、僧を殺害した故二院平八成直の行為を敵対行為とし、その所知を忠久の沙汰とするよう定める。前書には『島津譜』が頼朝から忠久へ故二院を賜ったと記す旨、後注には御文庫三番箱中の文書を写した旨がある。年月日は索引の括弧補記どおり「(建久二年)十二月十一日」を保持する。
元禄十一年仲春十九日 / 冊子 59–61頁/整理ID 191
源頼朝五百年遠忌に、護持施主が大乗妙法蓮華経十部を供養し、五輪塔婆一基を彫刻して奉納する願文。頼朝の出生・東国草創・平氏征討などの事績と、嫡苗に当たる島津綱貴との系譜を述べ、頼朝の追善、島津家・封域の長久、衆生の利益を祈る。
文治三年五月三日 / 冊子 189頁/整理ID 673
源頼朝が大秦元光へ、薩摩国牛屎院を元光の所領として安堵し、相伝の証拠を持たない小城八郎重道の主張を退けた下文写。元光に牛屎院を知行して島津荘惣地頭惟宗忠久の下で先例どおり公役を勤めるよう命じ、文治三年五月三日付の頼朝袖判を写す。
文治5年11月24日 / 冊子 302頁/原整理番号 119-3
文治五年十一月二十四日、源頼朝の袖判のもと、平盛時が奉じて伊豆藤内へ伝えた御教書。薩摩国鹿児島の藤内康友が頼朝の奥州下向に供奉したのち暇を与えられて帰国を命じられたこと、康友が鹿児島郡司職を以前から相違なく知行していると申したため、その旨を心得るよう命じる。国分氏伝来の古写で、『旧記雑録前編一』247号および『家わけ六』国分文書43号と同一と注記される。
文治3年5月3日 / 冊子 423頁/原整理番号 10-1
源頼朝が大秦元光に対し、薩摩国牛屎院を従前どおり安堵した文治三年五月三日付下文。小城八郎重道が証拠を有すると申し立てたため、島津庄惣地頭・惟宗左兵衛尉忠久を介して郡司・弁済使の処置がなされたが、重道には相伝の根拠がないとしてその沙汰を停止し、元光を本領へ復帰させる。一方で、牛屎院内では庄方・国衙方の双方について先例に任せ、怠りなく課役を勤仕するよう元光に命じる。
文治3年5月3日 / 冊子 423頁/原整理番号 10-2
源頼朝が伊豆藤内に対し、薩摩国住人・大平基光と弟の後平二元能が鎌倉へ参上して見参に入ったので、両人を帰国させる旨を承知させるよう命じた文治三年五月三日付御教書。末尾に『盛時奉』とあり、盛時が頼朝の仰せを奉じて取り次いだことを示す。本文は大平の名を『基光』と記し、前項w6:10・10-1の『元光』表記と異なる。
文治3年5月3日(1187、同文参照) / 冊子 430頁/原整理番号 13-1
前項の『頼朝公之御教書曰』を受けるが、『諸家系図文書』10の1号文書と同一であるため本文を省略した参照注記。参照先は文治三年五月三日、源頼朝が大秦元光へ牛屎院の本領を安堵し、庄方・国衙方の課役勤仕を命じた下文である。続いて元能を『後平二』と示し、鎌倉の公事奉行・平五盛時が鎮西守護・天野藤内遠景へ送った文書を次項に掲げることを予告する。
文治3年5月3日(1187、同文参照)~正平12年10月5日(1357)の記事 / 冊子 430~431頁/原整理番号 13-2
冒頭は『諸家系図文書』10の2号文書と同一のため、源頼朝御教書本文を省略する。参照先は文治三年五月三日、大平基光と弟・後平二元能の見参後の帰国を伊豆藤内へ命じた御教書である。続いて、大平家から大平・牛屎・羽月・山野・鳥越・淵辺・太田・青木・入山・屋代・入田の十一家が分かれ、羽月・山野・太田・青木・入山・淵辺・屋代・入田の八家は牛屎院、大平・鳥越の二家は祁答院に村を持ったと説明する。国元(同太郎)の系統では、嘉禎三年四月十九日の足利義氏邸での将軍御遊後、大平太郎が新田太郎とともに第二の御馬の引手を務めたことを記す。元兼(同左衛門尉・法名元覚)は建長二年正月二日の将軍頼経の椀飯で畠山三郎国氏と、同三年正月三日の椀飯で足利三郎家氏と御馬を進献した。元茂の家では、子がなかった妻が二羽の鶴が飛来して食物とともに口へ入る夢を見た後に男子を産み、子孫が繁昌したため『向鶴』を定紋としたという家紋起源譚を載せる。末尾は元尚(大隅守・法名恵仏)、高元(牛屎左近将監・法名普光)へ続き、正平十二年十月五日の島津師久書状を次項へ導く。
文治5年10月3日(冒頭付記に嘉暦4年9月日・本ノママ) / 冊子 580~581頁/原整理番号 89
源頼朝の御教書として、北郷弥太郎兼秀が訴える弁済使職について事情を知らないため、まず解状を送るよう宗兵衛尉に命じる。兼秀の申立てに相違がなければ職を安堵すべきだとし、奥人の供をするなど奉公した者でもあると付言する。本文末は文治5年10月3日付、盛時奉。冒頭には『市来士北山新兵衛蔵』の所蔵注記と、『本ノママ』を伴う嘉暦4年9月日という異なる年次の記載があり、両者を同じ日付として扱わない。
文治3年9月9日 / 冊子 581頁/原整理番号 90
源頼朝の下文。藤内遠景が惣追捕使と称して下知し、使者を島津庄へ入れて庄家を侵害しているとの報告を受け、それが事実なら甚だ無道だとする。今後は遠景の使者の入部を停止し、庄目代忠久を押領使として庄の沙汰に当たらせるよう島津庄へ命じる。文治3年9月9日付で、遠景側の権限行使を止め忠久の役割を定める二段の処置が特徴。
文治3年5月3日(巻末目録標題。本文省略) / 冊子 663頁/原整理番号 147
巻末目録は文治三年五月三日の源頼朝下文とするが、冊子本文は『諸家系図文書』一〇の一号文書と同一として本文を省略する参照注記のみである。本項から下文の宛先・所領・命令内容は確認できない。
文治3年5月3日 / 冊子 669頁/原整理番号 157-2
巻末目録では文治三年五月三日の源頼朝下文に当たるが、この箇所は『諸家系図文書』一〇の一号と同文として下文本文を省略する。併記された系譜記事は元能(大平後平二)を掲げ、鎌倉の公事奉行平五盛時と鎮西守護天野藤内遠景に触れて『其状曰』と次の文書へつなぐ。下文が誰に何を与えたかは、この省略箇所だけでは確定できない。
〔文治3年〕5月3日 / 冊子 669~671頁/原整理番号 157-3
巻末目録は〔文治三年〕五月三日の源頼朝御教書とするが、本文は『諸家系図文書』一〇の二号と同文として省略される。その後に続く牛屎氏系図は、国元・元兼(大平左衛門尉、法名元覚)らの系線を示し、嘉禎三年の将軍家の遊興、元兼の将軍頼経への椀飯進献、元茂の鶴にまつわる出生譚を記す。さらに正忠・宗衡・宗正らの大嶋村稲荷神社の墓石、延文三年の筑後合戦で忠長と文済が別方に属した記事、元尚が祁答院から牛屎院へ移り牛山城を居城とした由緒を載せる。省略された御教書の発給内容と、後代の系譜・逸話は分けて読む必要がある。
文治三年五月三日 / 冊子 13頁/原整理番号 7
源頼朝が大秦元光に対し、北城八郎重道の訴えによって一時処分された薩摩国牛屎院について、重道に相伝の証拠がないとしてその沙汰を停止し、元光を本領に安堵した下文。島津庄方・国衙方の区別にかかわらず、先例どおり課役を勤仕することを条件とする。
(文治三年)五月三日 / 冊子 13~14頁/原整理番号 8
源頼朝の意を奉じた平盛時が伊豆藤内殿に、薩摩国住人大平基光と弟の後平元能が鎌倉へ参上して見参を遂げ、帰国を許された旨を伝えた御教書。季安は、大平氏を薩州伊佐郡祁答院の一族とし、基光・元能を牛屎・羽月・山野・烏越・洲辺・太田・青木・入山・屋代・入田など諸家の祖と考証する。
〔文治三年〕 / 冊子 15頁/原整理番号 11-2
大平家所蔵の源頼朝御教書はNo.8と同文のため本文を省略する。続く考証では、伊豆藤内を天野伊豆守の子・天野藤内に比定し、源義経が薩摩へ落ちたとの風聞を受けて下向した事情に触れる。
建武四年十二月廿日 / 冊子 506頁
建武四年十二月二十日付・島津大夫判官宛文書について、年号と判形を足利尊氏に比定し、宛所を島津貞久の子で氏久の兄に当たる島津宗久と推定した考証添書。
元暦二年六月十五日 / 冊子 48頁
No.86と同趣旨の下文。平信兼旧領の伊勢国波出御厨について、惟宗忠久を地頭職に補任し、領内の所務を担当させるとともに、先例に従った御年貢・公役の勤仕を命じる。
元暦二年八月十七日 / 冊子 48頁
No.89と同文として本文を省略した島津御庄下司職補任下文の重出。惟宗忠久を下司職に補任し、領家下文に従って庄務と年貢収納を行わせる内容で、季安の注記を添える。