島津忠恒書状
(慶長二年)五月廿三日 / 冊子 102~103頁
島津忠恒が本田源右衛門尉に、三原諸右衛門尉を通じて先に伝えた事項を確認し、奥地への出勢が決まったため、人馬を早急に渡海させるべく八木民部左衛門尉・関帖右衛門尉を派遣したと報じた書状。幸侃が上洛した場合の情報収集を命じ、遅滞や讒言を戒める。
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(慶長二年)五月廿三日 / 冊子 102~103頁
島津忠恒が本田源右衛門尉に、三原諸右衛門尉を通じて先に伝えた事項を確認し、奥地への出勢が決まったため、人馬を早急に渡海させるべく八木民部左衛門尉・関帖右衛門尉を派遣したと報じた書状。幸侃が上洛した場合の情報収集を命じ、遅滞や讒言を戒める。
十一月六日 / 冊子 465頁
伊集院忠真が平野源右衛門尉・高島新蔵に対し、幸侃を糺明せず成敗し、自身も去る三月以来進退を封じられたことを非道と訴える。表裏の行為や龍伯・兵庫頭の神文違背などを別紙に列挙して両所への取成しを求める。また武庫入との会談、大坂が静謐であることを伝え、今後の書信と親交を望む。
七月六日 / 冊子 33~34頁
賦所が、諸士と従者の人数、夫役、船数、乗船地、飯米の受領方法を定めて平田狩野介・上原源右衛門尉へ達した文書。如瀬浦・名護浦へ移動し、山田主計助の指示で乗船すること、三枚帆三艘への割付や三日分の飯米を用意することなどを命じる。
六月十六日 / 冊子 34~35頁
青巌寺法印政遍が、少将の勘気を受けて流浪していた矢野主膳について、川上四郎兵衛尉・本田源右衛門尉へ取り成しを依頼した書状。矢野主膳を青巌寺に招いて勤めさせているが、俗人の寺住まいは不相応であるため、少将への赦免の働き掛けと惟新への伝達を求める。
十一月二日 / 冊子 426頁
十一月二日、南郷忠重が三河国吉田から、京都出立後、大津・草津・水口・関地蔵・桑名・岡崎などを経た一行の宿泊日程、雨天による逗留、女房衆の進行、今後の道筋を報じた書状。
十月十七日 / 冊子 104頁
北郷賀州の案件を国府で裁くため出頭するはずが、祭礼・関係者の病気・奥州下向後の京都用務・自身の腫物で遅れたことを詫び、紹益老人と相談して近日参上すると伝えた書状。
文禄3年4月29日 / 冊子 779頁
忠恒が烏丸兵部少輔を急ぎ差し渡すこと、自身の渡海も近いこと、龍伯の上着が迫ることを知らせる。さらに秀吉の意向で左遷された近衛信輔が坊津に下るため、道中案内の人選を詳しく協議する。 幸侃との折衝の末、本田源右衛門尉に鹿島右衛門祐を添えて案内させる方針を報告した、配流受け入れの舞台裏が分かる書状。
文禄4年9月13日 / 冊子 913頁
義弘は追而書で、栗野衆を帖佐まで移す一方、鹿児島への大量移転は事情があって見合わせたと伝える。 帰朝時に詳しく面談し、本源右衛門尉の件も処置するとし、領内の人員移動と配置を具体的に知らせる。
慶長四年八月十日 / 冊子 426頁
新納旅庵長住・本田源右衛門尉・河上四郎兵衛が、惟新の用のため材木屋与兵衛から銀子二貫目を借用した証文である。一貫目につき一か月四十匁の利息を付し、本利とも年内に返済すると定める。天下一統の徳政があっても他の債務と混同せず返済し、連署三人のうち一人だけになっても弁済することを約す。
(慶長五年)正月十四日 / 冊子 497頁
島津義弘(惟新)が又八郎に、前年十二月十一日付の書状が同月二十八日に届き、詳しく披見して意向を承知したと返答する。当地の様子は本田源右衛門尉へ申し含めて派遣したため、書状では詳述しないとする。
(慶長五年)正月十四日 / 冊子 498頁
島津義弘(惟新)が又八郎に、存松への伝言を承知したと述べ、遠方から音信として銀子五枚と長刀一振を贈られた厚意に感謝する。諸件は本田源右衛門尉へ申し含めて派遣したので、書状では詳しく述べないとする。
(慶長五年)正月十九日 / 冊子 499頁
島津義弘(惟新)が又八郎に、大明の人質「ういひん」を春に薩州から明へ渡すよう命じられたと伝える。内府徳川家康が明へ送る書状をたい長老が調えたので、又八郎も加判するよう求め、詳細は本田源右衛門尉から聞いて確実に処理するよう命じる。日本と明の和平は前代未聞の重大事であるため、渡航船の乗員も改め、慎重を期すよう重ねて注意する。
(慶長五年)五月廿五日 / 冊子 547~548頁
島津惟新が少将殿に、四月二十一日付書状を伏見で披見し、内府の指示で上洛を延期した事情を了承したと伝える。庄内関係の礼を内府へ申し上げるため本田与兵衛を案内者付きで大坂へ遣わし、内府からの返書を持たせて帰したこと、本田源右衛門尉が近日上るので詳細を聞くこと、他の上洛人員も責任者を定め法度を説明して早急に差し上げることを求める。
(慶長十七年)七月廿五日 / 冊子 366~367頁
慶長十七年七月二十五日、島津義弘が宗善へ、肩衝茶入と焼物、唐船商売の銀子、長谷川左兵衛佐・本多源右衛門尉を介した取次について依頼した書状。
(慶長十七年)七月廿五日 / 冊子 368頁
慶長十七年七月二十五日、島津義弘が寺沢志摩守へ、本多源右衛門尉の書状を読み、関東参上の事情と御越しの際の面会、船便などについて伝えた書状。
十二月廿三日 / 冊子 28頁
新納久元が、先日の参上時に受けた厚遇へ謝意を述べ、惟新の体調を尋ねた書状。川上四郎兵衛尉と本田源右衛門尉へも書状で事情を伝えたので、相手方と相談して適切に披露するよう頼む。
六月十二日 / 冊子 78頁
島津久元・伊勢貞昌・比志嶋國隆が、新納仲左衛門尉に縣へ使者として赴くよう命じた連署書状。当日には間に合わないため翌朝早く参上して意向を承り、本田源右衛門尉・比志嶋掃部助と相談して出発するよう指示する。
六月二日 / 冊子 385頁
島津龍伯が、贈られた知行への礼として河上七郎次郎を派遣したことを伝える。また、本源右衛門尉が治少老から神文血判を求められたとの風聞に疑念を示し、心得のため知らせるので他言しないよう求めた書状。
十月九日 / 冊子 84頁
島津義弘(惟新)が、本田源右衛門尉への指示を承知し、出水へ遣わす使者の書状を翌日の面談で詰めると伝え、唐製の見事な火打袋二つを受け取った礼と翌日の来訪を待つ旨を述べた書状。本文範囲内に島津義久・龍伯の表記や明示的宛所はないため、義久関係人物・キーワードから除外した。
六月廿五日 / 冊子 201~202頁
比志島紀伊守の下向時に申し渡した件を本田源右衛門尉から聞き、提案事項を丁寧に聞くこと、各方面の情報や書状を慎重に確かめ、軽々しく命令しないことを求めた。また源二郎家中の者が他国へ誘われる可能性、加久藤・主膳の意外な動き、北郷作左衛門尉の離別などを記した覚書。
二月廿三日 / 冊子 475頁
島津立久が改年の祝意を述べ、報恩寺里主との面会や旅程・参会の希望、使者への返答などを伝えた書状。
(慶長元年)三月九日 / 冊子 11頁
島津義弘が又八郎へ、朝鮮在番衆の辛労をねぎらい、図書頭・石田治部少輔らの供奉、伊勢弥九郎の上洛、光明院・神徳院による渡海祈念について伝えた。さらに、明の勅使来朝に伴い、朝鮮在番衆の各主将は人数を残して帰朝すること、約七百人を伊集院抱節・比志島紀伊守・鎌田出雲守のもとに残し、又八郎らは直接京都へ上ることを指示した。船数を確実に整え、不足時は国元へ連絡すること、残番衆の士気や帰国用の船に配慮し、小西摂津守と相談することなども求めた書状。
正月十四日 / 冊子 288頁
年頭の祝儀として家久から太刀一腰・馬一疋を贈られたことに謝し、義弘側からも同じく太刀と馬を返贈して恒例の賀礼を表した書状。
文禄5年12月2日(付属記事:同月22日) / 冊子 267頁/原整理番号 107-6
文禄五年十二月二日、伊集院右衛門入道幸侃が上原源右衛門尉へ、薩州大口郡山村二十九石九斗八升一勺一才、横河上乃村十九石九斗四升四合八勺九才、曽於郡重久村五十石七升五合の合計百石を配分した判物知行目録。そのうち四十九石九斗二升五合を加増分と明記し、幸侃の花押を据える。付属記事は同月二十二日、幸侃が上原尚氏と平田狩野介宗應へ書状を送り、重久名の件を協議させたと記す。
年未詳12月22日(付属記事:慶長4年~同6年2月3日) / 冊子 267~268頁/原整理番号 107-7
年未詳十二月二十二日、伊集院右衛門入道幸侃が平田狩野介宗應と上原源右衛門尉尚氏へ、重久名の件が持合で未解決となり各所に難しい問題が生じているため、二人で談合して処理するよう求め、詳細は追って協議すると伝えた書状。付属する由緒記事は、慶長四年に島津義久(龍伯)が尚氏を兵具奉行とし、平田宗應・三原七左衛門・川上彦左衛門らと兵具方を掌らせたため、尚氏が朝鮮出兵を免除されたと記す。前年に島津義弘・忠恒が朝鮮から帰国し、忠恒が朝鮮での功により五万石を加増され少将任官と宝刀を受けると、龍伯は国政を忠恒へ譲る意向を強め、二月に尚氏へ時雨御旗を持たせて京都の忠恒へ届けさせ、忠恒は二十日に受領して謝恩した。尚氏は初め朝鮮へ出役しなかったものの、この使者勤仕を忠恒から賞され、隅州敷根小牧門三十二石五斗・末吉深川十八石を加増された。本文は加増を五十一石と記す一方、内訳の通計を五十石五斗とし、慶長六年二月三日に比志島国貞・平田増宗・鎌田政近・島津忠長が目録を授けたとする。龍伯は尚氏の使者勤仕には百石が相当で五十石では少ないと不満を述べたとの季安按も付される。
慶長6年2月3日 / 冊子 270頁/原整理番号 107-11
慶長六年二月三日、島津図書頭忠長・比志島紀伊守国貞・平田太郎兵衛尉増宗・鎌田出雲守政近の四名が上原源右衛門尉へ、隅州曽於郡敷根の小牧之門三十二斛五斗と、末吉・深川之内十八斛を加増として宛行った連署目録。個別高を合計すると五十斛五斗となるが、本文の『惣合』は五十一斛と記すため、この数量不一致を原文どおり保存する。
慶長4年11月6日(傍注は慶長5年か) / 冊子 571~572頁/原整理番号 74
伊集院源次郎忠真が平野源右衛門尉・高皇新蔵へ、幸侃の罪科を糺明しないまま成敗したことを迷惑だと訴え、忠真自身も三月以来取り籠められ、誠実な申し立てが非道と受け止められていると述べる。竜伯・兵庫頭と通じたなどの嫌疑は根拠がなく、忠真は今後も毛頭背くつもりはないとして、内府様に事情を申し上げる機会を求める。薩州へ使者一人を出して公に説明し、必要なら自分一人で出頭して咎めを受ける覚悟だとし、志摩守による取次ぎと召し出しの手配を両人に頼む。本文末の年次は慶長4年11月6日だが、欄外には慶長5年かとの推定が付く。付属の包紙については、庄内の騒動時に忠真が寺澤志摩守へ示した証文の後証として伏見で志摩守・惟新が封目に判を据えた旨の説明がある。
慶長十一年二月上旬・二月十五日 / 冊子 59頁
島津家久譜の記事。慶長十一年二月上旬、島津忠恒が江戸へ向かうため鹿児島を発ち、官道を通って同月十五日に京都へ着き宿泊した。供奉の家老は比志島紀伊守国貞・伊勢兵部少輔貞昌・山田民部有栄で、ほかの従者名は伝わらない。島津義弘は本田源右衛門尉親同・伊勢平左衛門尉貞成および旗手の士を遣わし、忠恒を乗船地の港まで見送らせたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 143~146頁
天正十四年二月十八日から同月末まで、上井覚兼が参会・贈答・酒宴・連歌・寺社参詣と、豊後・肥後方面の軍事情報や秘密書状の取次を記した日記区間。二十三日条では、関白となった豊臣秀吉から九州の停戦と国境裁定の受諾を求める書状が、細川玄旨・宗易の副状とともに届いた件を終日協議する。義久は秀吉を「無由来仁」と評し、頼朝以来の由緒を持つ島津家と対比して低く見るとともに、その関白への返書を「笑止之由共候」と評した。一方で勅命を伴う停戦要求には従う姿勢を示し、細川玄旨を介して返書を整える。九州征伐直前の島津側の秀吉観と、反発しつつ現実的に外交対応する姿勢を伝える著名な記事。
八月七日 / 冊子 138頁
国元への出立時に三山まで見送られたことと在京勤番をねぎらい、普請について老中・両院へ取り次ぐよう頼んだ。義久の帰国許可を祝い、自身が公家成りして羽柴薩摩侍従となる命を受けたこと、左京亮は人質扱いではないので一旦下向させる意向を伝えた書状。
慶長十四年十一月六日 / 冊子 396~397頁/原整理番号 151
伊集院忠真の書状。幸侃の処分後の自身と家中の立場、庄内をめぐる交渉、惟新・龍伯らとの行き違いを説明し、公平な取次ぎを求める。慶長十四年十一月六日付、平野源右衛門尉宛て。
11月27日 / 冊子 429~430頁/原整理番号 402
『平田宗直万曳付留』所収。真米六斗三升四合、赤米十石九斗三升一合を掲げ、双方に「前かき」と付記する。天草一乱に伴い市来湊・串木野から仕立てる船の舟頭・水手・上乗衆の飯米として、市来湊の当出物蔵衆から受け取るよう永山・三原へ申し付ける。
慶長十三年十一月十日 / 冊子 193~196頁
慶長十三年十一月十日、成正院頼真らが伊勢兵部少輔・本田源右衛門尉に提出した蓮金院本堂の作事注文。本堂・護摩堂・客殿・会所・湯殿等の間取り、障子・板戸・畳・天井・仏壇・建具などの数量と配置を詳細に記す。
11月28日 / 冊子 432頁/原整理番号 404
市来湊・串木野で天草行きの船を仕立てた賦帳。本船賦帳からの書抜きとし、船主・船頭・加子を船ごとに列記する。市来湊の船別名簿に続き、串木野で仕立てた大小九艘、加子・舟頭計六十六人をまとめ、そのうち五人は伊作小の原浦、一人は永吉之浦の加子と注記する。末尾に上乗衆の送状がある旨を記す。
11月28日 / 冊子 432頁/原整理番号 405の1
市来湊から天草へ仕立てる六端帆一艘について、舟頭善右衛門尉に赤米二斗、加子七人に一石五升を掲げる。十一月二十八日以後二十日分の海上飯米を舟頭一日一升、加子一人七合五勺で算用して市来湊で渡すとし、到着先での次の飯米は平田民部少輔の指示に従い手配するよう是枝喜右衛門へ知らせる。
天正8年閏3月吉日(付属系譜記事:天正12年3月~慶長16年ほか) / 冊子 262~264頁/原整理番号 107-1
天正八年閏三月吉日、伊集院忠棟・村田経定・上井覚兼・平田光宗・本田親貞の老臣五名が上原隼人佑へ、薩摩国加世田の津貫名牧壇之門内にある、あまつこみ・谷の口・山の下・牟田・坪・宮田尻・陰俣・上公田・堀町などの田地を列記して与えた連署坪付。総量は九町二杖とされるが、伊地知季安は現存する坪付の記載だけでは九町にならず、紙端の脱落ではないかと疑い、丁・畦・町の換算を示したうえで博古の人の検討を求める。後続の系譜注記は、尚常(尚近とも作る)の軍功を略記し、天正二十年九月五日に没して高崎縄瀬村小牧に葬られ、法名を久全源昌居士としたこと、清水押職を務めた人物や尚張、新納忠堯室となった女子を掲げる。尚張については天正十二年三月の隆信合戦への従軍、慶長十六年の国分から麑府への移住、家久の用不足による百石につき四分一の田禄収公と残禄四百八十二石を記す。上原尚氏は天正十四年十一月、島津義久の豊後大友氏攻めに従軍し、天正二十年六月には日州志布志伊屋松門の二町七段八畦五歩を与えられ、島津忠長・伊集院忠棟ら老中から目録を受けたとする。坪付本文だけでなく、その受給者一族の軍歴・移住・知行変動と次の知行文書の背景まで連続して記す点が特徴である。
(慶長六年)八月三日 / 冊子 771-772頁
島津忠恒が本田源右衛門に、諸境目の普請は特に念を入れて進めるよう諸方へ命じたと伝え、担当する境でも油断なく実施するよう命じる。詳細は山鹿弥助の口上に託した書状。
元和八年六月廿四日 / 冊子 769頁
喜入忠政ら五名が本田源右衛門へ、近年生活が成り立たず各地へ離散する者がいるとして、地頭へ届けず他所に居住する者は知行を召し上げ御内から離すこと、無断で他家へ奉公する者は重罪に処すことを諸所の地頭らへ徹底するよう命じた連署書下。
六月十二日 / 冊子 159頁
伊勢貞昌が本田源右衛門に、使者普賢院が九日に到着し、惟新様の書状を受け取ったと伝えた書状。奥州様の上洛延期をめぐり、本多佐州父子や山口殿らが心配していること、駿府・江戸や鹿児島との連絡、御座間敷の整備や進物の沙汰などについて報告する。
六月廿一日 / 冊子 104~105頁
奥州の無事上着と伏見から駿府への下向予定、桑秀坊による佐土原安堵の見通しを報告し、伊勢家の煙草に関する風聞を厳しく取り締まうと約し、上方静謐と尾張・丹後普請の辛労を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 121~122頁/原整理番号 10
年月日を欠く犬追物手組。島津豊後守・次郎五郎・備前守・源右衛門尉らの射手に三・五・八・十六疋などの犬数を配する。検見には大内左近太輔と島津淡路守殿を挙げる。