琉球渡海軍衆掟書
慶長十三年九月六日 / 冊子 184~185頁
慶長十三年九月六日、琉球渡海軍に対し、軍議と命令への服従、無用な戦闘の回避、無実の者の殺害・略奪・寺社侵害・放火・人身売買等の禁止、船舶封鎖、兵員・兵糧・武器の編成と負担を定めた掟書。
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慶長十三年九月六日 / 冊子 184~185頁
慶長十三年九月六日、琉球渡海軍に対し、軍議と命令への服従、無用な戦闘の回避、無実の者の殺害・略奪・寺社侵害・放火・人身売買等の禁止、船舶封鎖、兵員・兵糧・武器の編成と負担を定めた掟書。
慶長十四年二月廿六日 / 冊子 206~207頁
慶長十四年二月二十六日、龍伯・家久・惟新が琉球渡海軍衆へ示した十三か条の掟書。軍議への服従、私戦・略奪・抜け駆け・喧嘩・無断離脱の禁止、武器管理、寺社等での狼藉禁止、人数点検、出船・停止命令の厳守を定めた。
慶長二年二月上旬 / 冊子 70~71頁
慶長二年二月上旬、島津義弘が朝鮮へ渡海するため帖佐を出立し、蒲生・鹿児島・串木野方面を経て乗船した行程を日次に記す朝鮮日々記。各地の留守居・供衆の配置、船頭や馬の手配、風雨による滞留、忠恒方との合流など、出国から海上移動までの実務を詳しく記録する。
年月日未詳 / 冊子 212~215頁
琉球渡海軍の三月二日出帆以降を日ごとに記した航海・軍事記録。甑島・奄美諸島方面での暴風と船団離散、寄港・再集結、現地人との交渉と戦闘、上陸・城攻め、船や兵糧の確保、琉球王側との接触までを詳細に記す。
慶長13年9月6日 / 冊子 138~139頁/原整理番号 78
琉球渡海の軍衆に対し、物主の指示遵守、喧嘩の届出、玉薬の浪費防止、舟中秩序、住民・寺社・書籍の保護、無罪者殺害や先駆けの禁止などを定める。渡海衆1500人と兵糧・武具・道具の数量、残銀93貫340目の伏見番衆・駿河質人入目への充当を記し、慶長13年9月6日で結ぶ。
(天正20年)4月28日 / 冊子 552頁
豊臣秀吉が、名護屋に三十日ほど滞在して先に軍勢を渡海させ、その後に本隊を進めるよう命じた朱印状。 十分な軍勢と直轄船を整え、一方面二万人規模で高麗へ進む構想を示し、拙速な渡海を戒めている。
(慶長元年)閏七月一日 / 冊子 35頁
龍伯(島津義久)が忠恒へ、在番支援の人員を渡海させる準備をしていたが、京都から忠恒を帰朝させ渡海衆を召し留めるよう命令が来たため従うと伝える。現地事情を聞くため使者二人を派遣し、帰帆決定時の事前注進を求めた。また和泉で大松三百本を船元まで運び、作業後に上洛する予定も知らせた書状。
(慶長元年)十月卅日 / 冊子 50~51頁
島津義弘が忠恒へ、御城米の返米、渡海軍衆への配分、毛利壱岐らとの相談、船主・兵糧・油などの調達について細かく指示した書状。軍役に関する高額な機遣いを避け、国元と協議しながら船と兵糧を確保し、近く帰陣する者を待たず準備を進めるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 75~76頁
上井仲五兼政が朝鮮渡海に備え、具足・武器・兵糧、従者と扶持、留守中の家政や知行の扱いなど、必要な措置を箇条書きで申し出た申状。
(慶長二年)二月六日 / 冊子 76頁
伊集院幸侃が伊勢弥九郎へ、忠恒の書状を拝見し、高麗奥への出張に備えて軍衆の渡海を進め、武庫の下向によって遅れていた人数も順次渡すと伝えた書状。返上米については京都での取決めどおり銀子を数量に合わせて上納することなど、軍役と財務の処理を指示する。
二月廿二日 / 冊子 89~90頁
石田三成が忠恒へ、二月中の渡海を勧め、上方から差し渡す諸勢は五月中旬から六月上旬に高麗へ着く予定だと伝えた書状。長陣後は小姓衆を連れて帰朝し、国元へ戻ったうえで上洛して秀吉へ御目見するか、国元の用務があれば先に帰国してから上洛するよう指示する。No.200本文内に島津義久の実名・法号はない。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 91頁
伊集院抱節と比志島国貞が、海上交通が困難ななか自船で渡海して参陣した者の忠節を賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 92頁
伊集院抱節と比志島国貞が、兵船での渡海が難しいなか自力で参陣した者の働きを賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。
年月日未詳 / 冊子 202(表題のみ)頁
『雑旧記』に収められた、慶長十四年の琉球渡海に参加した人々の交名。本文掲載箇所では「琉球渡衆交名」の表題のみが示される。
(慶長十六年)六月九日 / 冊子 338~339頁
慶長十六年六月、島津家久が琉球国司らに、江州へ渡海する使者を遣わすこと、王の帰国後の琉球統治、日本との関係、使者・僧侶への便宜と忠勤を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 303頁
島津武久(忠昌)が、琉球国をめぐる件について二月十一日付の奉書を四月二十九日に受領したことを述べ、船の渡海と敵方への対応、使者を通じた今後の措置を記した書状案。
年月日未詳 / 冊子 517~518頁
高麗渡海に参加する者へ、志のある人物や技能者を主君に取り次ぎ、帰朝後の扶持を保証し、火箭を持参する者の功績も一途に申し立てると約した上井仲五兼政の請文。約束に違えば諸軍神の罰を受けると誓う。
年月日未詳 / 冊子 75頁
慶長二年、前年の地震で崩れた家屋の再建に追われる一方、国中の軍勢が高麗へ渡って陣を張った時期の事情を記す樺山紹剣の自記。家中の祈籤・儀礼にも触れ、国内復旧と朝鮮出兵が重なった状況を簡潔に記録する。
(慶長十四年)五月二日 / 冊子 218~219頁
五月二日、島津惟新が樺山久高に、三月十五日付の注進状が四月二十九日に届き、諸船が無事着岸し大島での事も支障なく進んだことを喜び、遠海での辛労をねぎらい、琉球の処置も順調に済むだろうと伝えた書状。
(文禄2年)2月5日 / 冊子 664頁
高麗へ派遣された船頭・水夫が病にかかり、過半が死亡したため、領国内の各浦から代替要員を渡海させるよう命じる。 要員は十五歳以上六十歳以下を限度とする趣旨で、朝鮮出兵が海上輸送を担う人々に与えた損耗と、補充動員の年齢条件を伝える朱印状抄。
(文禄2年)2月5日 / 冊子 670頁
No.1046の豊臣秀吉朱印状抄と同文であるため、原資料では本文を省略している。高麗へ派遣した船頭・水夫の過半が病死したことを受け、領内各浦から十五歳以上六十歳以下の代替要員を渡海させる命令。 同一命令が別の伝来・収録箇所にも残されたことを示す重複記事。
年月日未詳 / 冊子 186頁
琉球渡海軍の諸隊・役職・人数と氏名を列挙した交名。軍役六十一人をはじめ各組の配属を記し、総人数七百十三人とする。
天正20年4月26日 / 冊子 551~552頁
高麗へ渡る軍勢のうち兵粮のない者へ切手に応じて三人扶持を渡すこと、帰住した百姓・町人には米銭を相応に支払い、勝手に物資を取らないことを定めた掟書。留守宅の財物管理、犯罪者の上申、誓紙による法度遵守も命じ、占領地での補給と住民・財物の扱いを具体的に規制する。
年月日未詳 / 冊子 858頁
文禄四年正月十五日付で仰せ渡された高麗国への動員人数帳から、島津勢に関わる一隊一万八千人の記載を抜き出したもの。 全体の余部は省略される一方、島津家の石高を五十五万九千五百三十三石と付記し、軍役負担の根拠をうかがわせる。
(慶長二年)二月廿二日 / 冊子 89頁
石田三成が羽兵方へ、忠恒が着陣すれば長陣中の羽兵は帰朝するのがよいとし、上方から差し渡す諸勢は五月中旬から六月上旬に高麗へ着く予定だと伝えた書状。帰朝後は国元で支配を整え、京都へ上洛して秀吉に礼を述べること、小姓衆の扱いなどを指示する。
元禄四年十一月廿一日 / 冊子 875頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2350
光久が琉球国司へ、先年、大清へ礼聘のため渡海した使者が、彼地で首尾よく用事を済ませて帰帆した旨を書面で承知したと述べる。目録どおりの贈物を過分の厚意として謝する。
年月日未詳 / 冊子 27頁/原整理番号 41-1
伊地知季安が、この日、島津久賀らが御袖判の条書に檄を添え、甲禰と亀の川で物頭を務める者たちへ触れ渡したと記す。任意に有馬へ行く者には自ら飯米を用意させ、往来にも自船を使わせ、さらに後日処分する場合があるとの命令も通達されたという記事。
二月十日 / 冊子 116頁/原整理番号 184
川上久国・三原重庸が岩切信堯・川上久康・市来宗友へ、当地へ向かう軍衆のうちこちらの手形を持たない者には船も兵糧も与えないよう命じる。違反は軍法の妨げとなり後日処分の対象になると警告する。
永禄六年二月廿八日 / 冊子 122頁
日向国櫛間湊の天神丸船頭・日高但馬守が琉球へ渡海することを島津貴久が認め、朱印を据えた航海許可状。
天正二年四月一日 / 冊子 338頁
島津義久が坊津の宮一丸船頭渡遣三郎五郎に発給した琉球渡海の朱印状で、天正二年四月一日の年紀を持つ。
天正九年十二月二十一日 / 冊子 707頁
大隅国根占湊の船『小鷹丸』に対し、天正九年十二月二十一日付で琉球への渡海を認めた島津義久の朱印状。
天正十年正月十七日 / 冊子 708頁
薩摩国坊津の船『権現丸』に対し、天正十年正月十七日付で琉球への渡海を認めた島津義久の朱印状。
天正15年2月25日 / 冊子 277~278頁
島津義久が、大隅国根占湊の小嶋丸船頭・橋本右京亮に琉球への渡海を許可した朱印状。航海と積荷を島津氏の統制下に置いた史料で、豊臣軍との戦時下にも南方航路が維持されていたことが分かる。
天正18年9月28日 / 冊子 481頁
島津義久が大隅国根占湊の船・小鷹丸に対し、琉球への渡海を許可した朱印状。 船頭の橋和泉掾を名指ししており、島津氏による航海許可・海外交易統制の実務を示す。
承応元年九月十九日 / 冊子 225頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0452
前将軍家光薨去への弔使として金武が薩摩へ渡海した労をねぎらい、委細は家老から伝えるとした光久の書状。
宝永七年閏八月廿五日 / 冊子 919頁/整理ID 2982
吉貴が閏八月二十五日、琉球国司へ、公方様の代替祝儀として美里按司が渡海したことに祝着の意を伝える。これに伴い目録どおりの贈品を受けたことを喜び、入念な配慮に謝す。
宝永七年閏八月廿五日 / 冊子 920頁/整理ID 2983
吉貴が閏八月二十五日、琉球国司へ、前年の尚貞死去に伴って送った弔札・香奠に対する謝礼として使翰を渡海させたことを入念とし、謝意を述べる。
宝永七年十二月 / 冊子 946頁/整理ID 3043
琉球人が帰国するため、島津吉貴の家来を召し連れて薩摩国へ渡海する際、海上の風波が荒れれば浦々の船を出して迎え、急用があれば滞らせず通すよう伝える。松平薩摩守の家来への可相渡者として八木勘十郎らを挙げ、領内外の浦々へ通達する。
宝永八年正月 / 冊子 948–949頁/整理ID 3052
北条安房守と大田和泉守が御料・私領の浦々へ、琉球人が島津吉貴の家来を伴い薩摩国へ帰る渡海で風波が荒れた際は、浦の船を出して迎え、急用でも滞らせず通すよう命じる。No.3043と同趣旨の別通。
慶長12年10月6日 / 冊子 212頁/原整理番号 134
異国渡海の朱印状に伴う白絹の旗について、寸法・縫い方・文言・朱印の配置を図示した資料。慶長12年10月6日の徳川家康朱印を写す。
年月日未詳 / 冊子 396頁/原整理番号 122
文禄元年の朝鮮渡海に向けた出馬を記す日記の抄録。弥生朔日に出馬が決まり、五日に大口を発ち、六日は泉徳寺で念仏を唱えて、ちやうじやと呼ばれる坂を越えた。六月十三日は都を通って川辺で野陣を敷き、宗心の忌日なので念仏を深く心に留め、長い道を過ぎたと記す。前後の文は省略されている。
(天正20年)4月28日 / 冊子 552~553頁
四月二十八日付の豊臣秀吉朱印状を、島津義弘・久保をはじめ、松浦・有馬・加藤・黒田・小西などの諸将へ各一通ずつ交付した目録。 同一命令がどの軍団・大名へ伝達されたかを一覧でき、朝鮮渡海軍の命令網と編成を復元する手掛かりとなる。
天明二年九月二十八日 / 冊子 675頁/原整理番号 1904/整理ID 1904
御養君への祝儀として琉球中山王からの献上が認められ、書翰と献上品が薩州へ届いた。重豪は次使に江戸へ差し出させる予定だが、緞子が琉球からの渡海中に船内で損傷し、直ちに献上できないと報告を受けた。そこで目録と無事な品を先に献上し、緞子は改めて差し出すよう琉球側に伝えてよいか伺う。九月二十八日付で、付札に「可為伺之通」とあり、その扱いが認められた。
明暦二年六月日 / 冊子 494~495頁/原整理番号 627-5
外国から伴天連・キリシタンが密航する可能性や、海外へ追放した南蛮人の子を伴天連に仕立て、日本船・日本人を装って渡海させる企てを警告する。来航船の船頭・水主・浦人に常時監視と奉行所への通報を命じ、宗徒本人でも申告すれば赦免・褒美と船荷物を与える一方、隠匿者は厳罰とする。編者は『旧記雑録追録一』637号と同一文書と注記する。
慶長十六年五月 / 冊子 220頁/原整理番号 5
伊地知重房の琉球渡海日記から、慶長十六年五月十日に那覇へ着いた際、龍伯義久の死去を知らされ、船中の者が言葉を失い涙した記事を抜く。季安はこの反応から龍伯の徳を考え、続けて家久の遺骨を高野山へ運んだ別の先例を付記する。
弘安五年二月日 / 冊子 312頁
比志嶋五郎二郎源時範が蒙古合戦での軍忠を報告した軍忠状。前年六月二十九日、蒙古人の賊船千余艘が壱岐島へ襲来した際、時範が親類河田右衛門尉盛資と渡海して戦い、七月七日の鷹嶋合戦まで奮戦したことを述べ、証拠状を添えて副進し、合戦忠勤の注進を求める。
弘安五年四月十五日 / 冊子 313頁
中沼五郎次郎長久が異国合戦時の渡海・軍忠を誓った起請文。前年六月二十九日、親類河田右衛門尉盛資と壱岐島へ渡り、七月七日の鷹嶋合戦で戦ったことを申告し、偽りがあれば日本国中の大小神祇の罰を受けると誓う。
「永和二年」七月十二日 / 冊子 98頁
今川満範が、使者を介して探題方への吹挙などを伝え、渡海したとの報に反して到着しないことを案じ、探題方との談合と軍勢の派遣を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 471~472頁
文明年間の島津忠昌をめぐる政治・軍事情勢をまとめた国史記事。龍雲寺への禁牌発給、伊東氏との対立、大友氏方への軍事対応、五代友平・行頼ら家臣の動向を記し、さらに琉球渡海船の扱いをめぐる幕府との交渉を通じて、領国内統制と対外交通の課題を示す。
「文明三年」十一月五日 / 冊子 473頁
右衛門尉行頼が島津氏に、琉球渡海船をめぐる紛争・船の留置と積載品の扱いについて、幕府の意向を踏まえて慎重に処理し報告するよう求めた書状。