永禄八年戦死者交名
永禄八年三月二十四日・五月朔日 / 冊子 139頁
永禄八年三月二十四日および五月朔日の戦死者を掲げた交名。吉満善左衛門久張、日置狩野介忠光、財部武蔵守盛慰らの名を伝える。
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永禄八年三月二十四日・五月朔日 / 冊子 139頁
永禄八年三月二十四日および五月朔日の戦死者を掲げた交名。吉満善左衛門久張、日置狩野介忠光、財部武蔵守盛慰らの名を伝える。
年月日未詳 / 冊子 104頁
永禄五年の郡山および六月三日の横川城合戦などで戦死した島津方の武士を列挙する殉国名簿。尾辻佐左衛門尉、貴島図書助をはじめ各地の従軍者名を伝える。
永禄七年三月十四日・五月晦日・七月十八日 / 冊子 131~132頁
永禄七年の戦死者交名。三月十四日および五月晦日の今城合戦で戦死した宇都源十郎、大河平隆次・隆堅・隆光以下の一族・郎党を多数列挙し、七月十八日に櫛間桂原で戦死した新納新三郎忠衡も付記する。
永禄九年三月五日・四月廿七日・六月十六日・八月十六日 / 冊子 146頁
永禄九年の戦死者を月日別に掲げた交名抄。三月五日、四月二十七日、六月十六日、八月十六日の各戦闘で亡くなった篠河左衛門兵衛、蓑輪狩野介重親、久木崎丹後、野村助三郎経長らを列記する。
永禄元年~永禄九年 / 冊子 157~159頁
永禄元年から九年までの北郷氏と守護島津方の軍事行動を、年月日、城の攻防、戦死者数などとともに編年で記す。飫肥・末吉・廻・竹原山・松山・志布志・新山・福島・岩川などをめぐる伊東・肝付両氏との戦い、城の受け渡し、北郷時久の初陣に伴う神社奉納、各戦闘の討取・捕虜・負傷者を載せる。
永禄十一年二月廿一日~十二月十九日 / 冊子 185~186頁
永禄十一年二月二十一日の飫肥方面の合戦を中心に、同年各月の戦死者を日付別に列挙する交名抄。北郷忠俊・久周、本田親豊、土持頼綱、和田匡郷ら多数のほか、三月九日の寺山直久、同月二十三日の佐多経久、八月・十二月の戦死者を記す。
永禄十一年正月~元亀二年九月 / 冊子 241~242頁
永禄十一年正月から元亀二年九月までの北郷家周辺の軍事・外交を日付順に記す。飫肥・酒谷城の伊東方への引渡し、泰心による北郷・肝付和睦、菱刈口での島津方戦死、大口・戸神尾合戦と首級数、肝付との和睦交渉、菱刈番衆派遣、大口城受取などを載せる。末尾は元亀二年九月に伊東方が下河内高小場へ陣を置き、時久が弓箭相談のため供衆を伴って鹿児島へ参上したと記す。
永禄元年九月廿三日 / 冊子 60~63頁
永禄元年九月二十三日に催された和漢連歌。『雲にふけなれも月をや松の風』を発句とし、漢句と和句を交互に連ね、秋夜、旅、望郷、雪月花、神仏、治国などを詠む。
永禄二年五月十八日 / 冊子 71~73頁
永禄二年五月十八日、聖廟法楽として催された『初何』の連歌。花・夏・五月雨・月・旅・恋・神祇・無常などを題材に、貴久らが百韻を連ねる。
永禄三年十二月十一日 / 冊子 83頁
永禄三年、島津貴久の代に大隅国正八幡宮の遷宮が十二月十一日に行われたことを簡潔に記す年代記記事。
永禄四年十二月吉日 / 冊子 100頁
薩摩国田布施村の伊勢大神宮に奉納された鰐口の銘文。日新軒、座主俊英、鮫島藤原宗増の名と永禄四年十二月吉日の年紀を刻む。
(永禄五年)三月十八日 / 冊子 104頁
飫肥を伊東氏へ、志布志を肝付氏へ渡して福島へ退いた島津忠親が、永禄五年九月十七日夜に飫肥城へ忍び入り、伊東方百余人を討って城を奪回した経過を記す。冒頭の『弘治七年壬戌三月十八日』は、本文注記により永禄五年の誤りとされる。
永禄五年三月四日 / 冊子 105頁
永禄五年、国家安全と民衆の安楽を祈るため、三月四日から福昌寺で一万部の法華経を読誦し、代賢和尚が修行したことを記す。
永禄五年仲秋 / 冊子 118頁
田布施常珠寺に伝わる妙法蓮華経巻第八の奥書。永禄五年仲秋、薩摩国加世田庄の大願主・在家菩薩日新が法華経八巻を寄進したことを記す。
永禄五年九月十八日 / 冊子 118頁
永禄五年九月十八日、島津尾張守忠親が策をめぐらして飫肥へ向かい、伊東勢を攻めて勝利し、再び飫肥の領地を取り戻したことを記す。
永禄五年十一月吉日 / 冊子 119頁
島津貴久が法華経十部を寄進し、八角形の金塔に納めて御嶽社内に安置したことを記す金蔵院の書出。塔銘には貴久の奉納名、三千番神・十羅刹女と永禄五年十一月吉日の年紀を載せる。
永禄五年十二月十九日 / 冊子 119~120頁
島津良久が永禄五年十二月十九日に日向国広原で生まれ、母は伊東義祐家臣福永入道月甫の長女であったことを記す。天正二年、十三歳で広原八幡宮において元服し、又三郎良久と称した。
永禄六年二月八日 / 冊子 120~121頁
薩摩国高城郡の千華医王山泰平寺薬師堂へ奉納した推鐘の銘。住持・大檀那・奉行・大願主・勧進沙門・作者の名を列記し、永禄六年二月八日の年紀を刻む。
永禄六年二月十日 / 冊子 121頁
永禄六年二月十日、守護方の軍勢が三山へ進み、敵陣を破って勝利し、多数の敵を討ち取ったことを記す年代記事。新藤殿が下向したことも付記する。
永禄六年二月十日 / 冊子 121頁
永禄六年二月十日、島津貴久が薩摩・大隅両国の軍勢を三山城へ向けて伊東勢と戦わせ、多数の首級を得たことを記す。球磨へ退いていた北原兼親を真幸へ復帰させたのち、薩摩国伊集院上神殿村へ移した。
永禄七年 / 冊子 128頁
永禄七年、島津貴久が陸奥守を称し、島津義久が修理大夫に任じられたことを記す年代記事。
永禄七年 / 冊子 128頁
永禄七年、島津貴久の受領と義久の官途について、近衛稙家が朝廷・幕府へ取り成して成就させ、祝賀書を送った経過を記す。続く近衛家文書群の導入記事。
(永禄七年)四月 / 冊子 131(本文省略)頁
本文はNo.314と同文につき省略される島津日新請書案。日新が貴久の修理大夫受領と義久の又三郎官途について、将軍家の書状と使節を頂戴し、自身にまで書状が下されたことを前代未聞の厚恩として感謝し、祝儀の進物を差し出して取り成しを求める内容に当たる。省略注記には年紀を永禄七年とする旨がある。
(永禄七年)四月 / 冊子 131(本文省略)頁
本文はNo.315と同文につき省略される島津忠良書状案。日新が官途に関する書状を頂戴し、貴久の修理大夫受領と義久の文三郎官途を伝えられたことを喜び、国元では戦事が繁忙で十分に報謝できないとして、わずかな進物を添えて披露を求める内容に当たる。省略注記には年紀を永禄七年とする旨がある。
永禄七年春 / 冊子 131頁
永禄七年春、北原兼親が飯野と今城の守備兵維持は費用が大きく、今城有事には飯野から援軍を出せるとして撤兵を義弘へ勧め、義弘が三月に守兵を退けたことを記す。後に、兼親が宗旨を改めない大河平一族を滅ぼす意図だったとの説も伝える。
永禄七年五月晦日 / 冊子 133~134頁
永禄七年五月晦日、伊東勢が夜明けから申刻まで今城を攻め落とし、大河平隆次の一族・郎党九十余人が戦死した経過を記す。十六歳の隆次も一族全滅を嘆いて大軍へ突入し、伊東方にも五百余人の死者が出たが、城内の妻子・下人は捕虜となった。
永禄七年八月天正日 / 冊子 135頁
陸奥守島津貴久が又五郎へ「忠長」の名を与え、「忠」「長」両字の読みを反切で示した加官状。永禄七年甲子八月天正日の年紀を載せ、忠長譜中の記事にいう俊安和尚が書したものとみられる。
永禄八年 / 冊子 138~139頁
永禄八年、島津義虎が長島城主天草越前守を討って同地を得たこと、伊東義祐が飫肥新山城を落として日置忠光を討ったことを記す。五月の足利義輝殺害後、義昭が還俗して上洛を図り、島津貴久・義久へ忠節を求める使者が送られた中央政局も載せる。
永禄八年二月七日~五月朔日 / 冊子 140頁
永禄八年、伊東勢が板敷田に伏兵を置いて本城兵十三人を討ち、新山外屋尾・楠原へ進出した経過を記す。五月朔日に忠親方が新山外屋尾を攻め破り敵二十八人を討ち四十人を捕らえ、物具七百を得たが、味方も三十人戦死・四百八十人負傷した。
永禄八年二月五日 / 冊子 140頁
永禄八年二月五日、本田刑部少輔が使者として霧島権現へ参詣し、神意に従って曽於郡を神領とするという貴久の意向を伝えたことを記す私覚。内容は法印頼継と本田の二人以外に漏らさない密儀とされた。
永禄八年五月十九日ほか / 冊子 140頁
永禄八年五月十九日に将軍足利義輝が殺害されたことを記し、松永久通らの動向に触れる。また大隅国吉田若宮が神名帳に載せられ正一位となり、島津貴久が檀那であったことを記す。
永禄八年八月廿四日 / 冊子 141頁
永禄八年八月二十四日、島津義久が大隅国帖佐郷を文四郎幸久へ与えたことを記す。幸久が後に以久・征久とも称したことを注記する譜中記事。
永禄八年十月廿六日 / 冊子 141頁
永禄八年十月二十六日、日向国の城攻めで落城に至り、惟新公島津義弘が負傷したことを記す古戦書付。
永禄九年 / 冊子 141~142頁
永禄九年、島津貴久が将軍足利義輝一周忌のため二月彼岸に剃髪し法名を称したことを記す。六月の肝付氏による岩川攻撃、九月九日の霧島山火災、伊東氏の三山築城と飯野侵攻計画を述べ、十月二十六日に義久を大将、義弘・歳久を副将として三山を攻め、義弘が重傷を負って退いた経過を載せる。
永禄九年二月彼岸 / 冊子 145頁
永禄九年、前年に没した将軍足利義輝の一周忌に当たり、島津貴久が二月彼岸に剃髪して法名を称したことを記す。
永禄九年三月廿二日・四月廿日 / 冊子 145頁
永禄九年三月二十二日に伊東勢が目井へ陣を置いたことを記す。四月二十日、飫肥宮之浦の兵が海上で伊東勢と戦い、敵二十九人を討ち九人を生け捕り、合わせて六十三人を討ち果たし、船五艘を奪った。
永禄九年五月十八日~七月十七日 / 冊子 145~146頁
永禄九年五月、北郷時久が松山へ初陣し、忠徳らと出立の儀礼を行った後、福島方面で伊東勢を待ち伏せして十一人を討ったことを記す。六月十六日の肝付勢による岩川攻撃と双方の損害、七月の時久の飫肥出陣、肝付勢による福島攻撃と守兵の戦果も載せる。
永禄九年二月彼岸・三月・十月廿六日 / 冊子 146頁
永禄九年、島津貴久が将軍足利義輝一周忌のため二月彼岸に剃髪したこと、三月に福昌寺で季節外れの桜が咲いたことを記す。十月二十六日には島津勢が三山を攻め、城周辺を焼いたものの落城には至らなかった。
永禄九年六月十六日 / 冊子 146頁
永禄九年六月十六日、肝付氏が岩川へ出兵した際、北郷時久が配置していた城兵が防戦して敵の首二十六級を得た一方、味方も久木崎丹後以下十余人が戦死したことを記す。
永禄九年十月 / 冊子 150頁
永禄九年十月、日新の孫である義弘・歳久が大将として軍勢を率い三山城を攻めたが、城壁が堅固で陥落させられず、多数が戦死したことを記す。日新が戦没者の成仏を願って詠んだ弔歌二首を載せる。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 150~151頁
伊東義祐が三山に要害を築き飯野侵攻を企てたため、永禄九年十月二十六日、義久を大将、義弘・歳久を副将として大軍で攻撃した経過を記す。諸将が奮戦したが義弘が深手を負い、阿多中務丞・末弘又左衛門尉・本田治部少輔らが戦死し、城を落とせず退いた。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 151頁
伊東義祐が三山城を拠点に飯野侵攻を企てたため、永禄九年十月二十六日、義久を大将、義弘・歳久を副将として三山城を攻めたことを記す。義弘が強敵と戦って深手を負い、将士が動揺したため落城させられず退却した。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 151~153頁
永禄九年十月二十六日の三山合戦で戦死した島津方将兵を多数列挙した交名抄。阿多中務允久宗、末弘又左衛門尉、本田治部少輔、本田興五郎、鮫島文左衛門宗明らをはじめ、各地・各家に属する人々の名と戦死注記を載せる。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 152~153頁
伊東義祐が三山城を築いて相良氏と通じ、飯野侵攻を企てたため、永禄九年十月二十六日、義久を大将、義弘・歳久を副将として数万騎で攻めたことを記す。勝利を得たものの義弘が深手を負ったため、城を落とさず退去した。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 153~154頁
永禄九年十月二十六日の小林三の山攻めに参加した将兵を、戦闘配置や戦功とともに列挙した交名。城口から二之丸までの攻撃に加わった市来・加世田など各地の武士を掲げ、阿多中務丞、末弘又左衛門尉、本田治部少輔らには戦死の注記を付す。
永禄九年十月 / 冊子 154頁
本文ではNo.343と同文のため省略される記事。永禄九年十月、義弘・歳久が三山城を攻めたものの堅固な城壁のため落城させられず、多数が戦死し、日新が戦没者の成仏を願う弔歌を詠んだ内容に当たる。
永禄九年十月十五日 / 冊子 156頁
永禄九年十月十五日、島津義久が大軍を率いて小林城へ向かい花立口に陣し、義弘が大豆別府口から二之丸へ攻め入って戦ったことを記す。伊東方の援軍が来たため島津勢は陣を開いて退いた。
永禄九年十月十九日 / 冊子 156~157頁
永禄九年十月十九日、島津貴久の使者伊集院下野守が、高原所領を霧島六所大権現へ寄進する旨と祈念を伝えたことを記す私覚。高原は神代以来の神地であるとし、証跡として太刀を座主に渡した後、頼継が日数を置いて返進したこと、使者の子が冠嶽和光院の僧となったことも書き留める。
永禄九年十月下旬 / 冊子 157頁
永禄九年十月下旬、三之山で戦死した人々を弔うため、島津貴久が阿弥陀の六字名号を連ね、成仏を願ったことを記す。命のはかなさ、残された者の悲嘆、先立つ人への思いを詠んだ追悼の詞歌を載せる。
永禄九年 / 冊子 157頁
永禄九年の三之山合戦で戦死した敵味方の霊の成道を願い、日新が南無阿弥陀仏の六字を各句に織り込んで詠んだ詠草。討死によって名を上げた者への追悼、世と身の無常、悲しみを仏教的に表現する。