新納忠元譜
年月日未詳 / 冊子 697頁
水俣城攻めの矢文連歌を伝える古書付の写し。城主を入道宗雲とし、薩摩方から『秋風にみなまた落る木の葉哉』を送り、城中の返句に続いて新納忠元が第三句を付けたとする。ただし国名・城主名・伝来者には本文自身が不確かさを残す。
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年月日未詳 / 冊子 697頁
水俣城攻めの矢文連歌を伝える古書付の写し。城主を入道宗雲とし、薩摩方から『秋風にみなまた落る木の葉哉』を送り、城中の返句に続いて新納忠元が第三句を付けたとする。ただし国名・城主名・伝来者には本文自身が不確かさを残す。
八月廿九日 / 冊子 41頁
薩摩出水・肥後水俣の侍や百姓が男女を薩摩・大隅・日向などへ売買していると聞き、法度に従って元の居所へ返し、違反者は直ちに言上するよう命じた朱印状。
元弘三年七月廿九日 / 冊子 616頁
薩摩国御家人萩崎小次郎入道浄意が、水俣へ馳参して軍忠を尽くしたことを届け、後日の証拠となる証判を求めた着到状。
(天正16年)8月29日 / 冊子 409頁
薩摩和泉・肥後水俣から、侍・百姓が男女を問わず薩摩・大隅や近隣国へ移住していると指摘する。 法度に従って早急に召し返し、元の居所へ還住させ、命令に背く者は厳しく成敗するよう命じた、領民移動統制の朱印状。
天正八年 / 冊子 655~656頁
天正八年の水俣方面出陣に参加した諸地頭と配下を編成別に列挙する陣賦。大口の新納忠元、伊集院久治をはじめ、羽月・曽木・平泉・湯之尾など各地の将と軍勢を記す。
天正九年八月 / 冊子 676頁
天正九年八月の肥後水俣城攻めについて、城郭・島津軍の陣地・攻撃方向などを示した攻城図。『新編島津氏世録正統系図義久信』に基づく図と注記する。
天正九年九月十六日 / 冊子 694頁
天正九年八月の水俣城攻囲における島津軍の陣配置を示す図。本文ではNo.1171と同図であるため省略すると注記されている。
年月日未詳 / 冊子 429頁/原整理番号 177
水俣城を攻めた際、忠元が矢文で発句を送り、宗雲が返歌したという軍談を記す。さらに忠元が籠城の労をいたわる文を送ると、宗雲は城外で対面し、楽しみを共にしたとする。義理を尽くす名将として忠元を評する。後記は、京都で暦学を学ぶ礒永孫四郎が宝暦年間に古書を持参し、本書を写したが筆者は不明とする。
巻六/冊子 88頁
関ヶ原合戦後、義弘が日向美々津へ帰着した時、伊東氏旧臣で清武の宰である稲津掃部助が黒田長政の命と称して兵を挙げ、穆佐城を奪おうとした事件を記す。稲津は使者が帰らないことを怪しみ、先に宮崎城を落として城代権藤平左衛門とその子らを討ち、穆佐内的野村へ侵入した。十月四日には穆佐城を攻めるが失敗して退き、追撃を受け、のち慶長七年に稲津父子三人が清武で処刑されたと注記する。後半では、加藤清正が小西行長領の宇土・八代を奪おうとしたため、小西美作守が義久へ救援を求める。義久は島津図書頭忠長・忠倍父子を水俣へ送り、佐敷浦で加藤方の井口伊賀介率いる船団と戦わせた。島津船の多くが散るなか、竹内備前守実房と甥納右衛門が小船で救援し、鉄砲を撃ち返して忠長父子を救った。関ヶ原後の日向騒乱と肥後水軍戦を併記する。
文書日付:二月九日 / 冊子 260頁/原整理番号 三二二/整理ID TMP-P02-NENE2-D0322
先に送った状への返事を期待し、佐敷陣に滞在していたことに触れる。 津奈木・湯浦が敵となり、当地が難儀で、天草へ引き退いたことを伝える。 水俣蔵人や和泉に触れ、相良からの音信がないことを遺憾とする。 境のことを心配し、深重の人々と談合して一途に籌策を廻らすなら喜ばしいとする。
康永三年二月四日 / 冊子 757~758頁
紀伊国冷水浦住人後藤三等が、航海中に船荷を奪い取られた事件を訴えたことを受け、小河小太郎・弥次郎ら関係者を召し出して事情を糾明し、押収物を処理するよう命じた幕府奉行人連署奉書。
年月日未詳 / 冊子 127頁
島津国史として、至徳二年・南朝元中二年に相良前頼が探題へ背き島津方と連携したこと、佐敷・水俣・八代をめぐる宮内大輔三雄、渋谷重頼、今川了俊らの軍事動向、同年冬の犬追物と参加者順位を記す長文記事。
至徳二年二月四日 / 冊子 128頁
渋谷重頼が、前年八月の二見参陣から佐敷への退却、和泉・水俣への合力、天草渡海時の供奉、佐敷城の守備に至る自身と親類若党の軍忠を述べ、後証となる証判を求めた軍忠状。
至徳二年二月七日 / 冊子 129頁
今川了俊が渋谷五郎に、水俣城への合力を賞し、今後も堅く合力すれば忠節となること、その功を京都へ申し上げる旨を伝えた感状。
年月日未詳 / 冊子 523頁
同月十日、水俣で薩州方と相良氏が対面したことを記す短い文明記記事。
年月日未詳 / 冊子 524頁
同月晦日、薩摩守重久が鹿島を発ち、四月二日に出水へ帰着し、同月十日に水俣で相良為續と対面したことを記す譜記事。
天正七年五月中旬~十月十五日 / 冊子 635~636頁
天正七年五月中旬、菱刈両院の衆三千余騎が新納忠元の計略で水俣の宝川内を忍び取り、岩牟礼に城を構えて守備した。肥後宇土・熊本への通路が塞がれたため、忠元・鎌田政年を大将として十月十五日に矢崎城を攻め落とした。
天正八年五月十五日 / 冊子 645頁
天正八年五月十五日の岩牟礼城攻めで、島津方が矢に『秋風に水俣をつる木の葉かな』と書いて城へ射込み、相良方が『よせてはしつむうら浪の月』と付け返した。島津方は『汝沈我浮』と憤って攻撃を強め、ついに城を陥れたとする逸話。
天正八年八月十九日 / 冊子 663頁
天正八年八月十九日、薩摩・大隅・日向三州の軍勢が肥後国葦北郡水俣城を包囲した。球磨・八代勢七百余が籠城したため相垣を結んで攻め、相良義陽が子息兄弟を人質として差し出して島津旗下へ入り、葦北七浦と七城を明け渡したので島津軍が帰陣したと記す。
天正八年八月十九日 / 冊子 663~669頁
天正八年八月十九日の水俣城攻めにおける三陣の構成を詳述する陣立日記。家久・征久を中心とする先陣、義弘を大将とする第二陣、義久本陣と歳久・忠長らの後陣について、脇大将・役者・各外城地頭・物頭・近習・納殿衆・兵具・人足を列挙する。各陣約三万一千人、旗本を含む総勢十一万五千人の賦とし、水俣城の球磨・八代勢を包囲する配置を記す。
文政十三年十一月廿一日 / 冊子 670~671頁
肥後合戦陣立日記の副書。原本が御記録所で模写・収蔵された後、雨漏りで朽損したため、家老の許可を得て新たな写本を作り、御記録方の担当者が原本と相違ないことを証した。行間朱書では、肥後への陸路確保のため相良氏へ和談を求めたが拒絶されたので、水俣へ三陣を置き、葦北・七浦・八代を攻略した事情を説明する。
天正八年八月十九日 / 冊子 672~675頁
天正八年八月十九日の水俣城攻めにおける陣立日記の別本。笠陣を先陣として家久・征久ら、第二陣に義弘・北郷忠虎ら、本陣・後陣に義久・歳久・忠長・義虎らを配し、各地頭・物頭・近習・兵具持・人足まで列挙する。三陣の総勢を十一万五千人とし、球磨・八代勢が籠もる水俣城を包囲した編成を記録する。
天正九年四月十三日以後 / 冊子 687頁
天正九年四月、龍造寺勢が肥後南関から隈部方面へ進み、二十日ごろ赤星方の城が落ちて熊本の守備が困難になった情勢を記す。相良氏が水俣から豊福までを押さえて往来を遮ったため、まず水俣へ出陣する方針となった。
(天正九年七月) / 冊子 692頁
島津氏老中が伊勢貞知へ、豊後への到着を長山讃岐介から聞いたと述べ、進物の孔雀が急死した事情を釈明する。老中は芦北方面へ在陣中で、相良方が前城三か所の明渡しを求める一方、水俣籠城中の蓑田・高橋らとの条件調整が続き、近日中の決着を見込むと報じた書状案。
天正九年八月十六日~十八日 / 冊子 693~694頁
相良義陽が北原・菱刈との戦いや大友氏の日向侵攻時に島津方へ敵対したため、島津義久が三州の軍勢を催して水俣城を攻めた経緯を詳述する。八景尾・銭亀尾・熊牟礼・軽石尾・井川比良に陣を置き、矢文の連歌を交わしつつ包囲し、義陽が芦北七浦と息子二人の人質を差し出して降伏を請うと、義久は受諾して囲みを解いた。
年月日未詳 / 冊子 694頁
相良義陽の人質を受け取った島津義久が、九月二十日に比志島国貞へ水俣城を受け取らせ、籠城衆七百余人を八代方面へ送還した記事。二十六日には義陽が佐敷で津奈木・佐敷・湯浦・日名子・久田美・高田などを献じて謝罪し、息子兄弟を人質とした。長子には島津家の通字を許して忠房と名乗らせ、義陽は阿蘇氏攻撃を申し出た。
天正九年九月十六日 / 冊子 694~695頁
島津義久が数万の兵で相良義陽を攻め、義弘が八景尾の陣を守り、諸将が水俣城を包囲した経緯を記す。守兵は九月二十日に降伏して退去し、義陽は津奈木・湯浦・佐敷などを献じ、二十六日に佐敷で義久へ謝罪して息子兄弟を人質とし、阿蘇氏への出兵を申し出た。
年月日未詳 / 冊子 695頁
天正九年八月の肥後水俣攻めで、北郷忠虎が島津軍に従い、島津義虎らとともに陣を構えたことを記す譜中記事。
年月日未詳 / 冊子 695頁
西川氏の伊勢守忠直が天正九年八月二十日、肥後国水俣の戦いで四十四歳にして戦死したと記す系図記事。この時、藤川高兵衛尉・石塚八左衛門尉・八郎右衛門も戦死した。
天正九年八月 / 冊子 695~696頁
天正九年八月の水俣攻めで戦死した島津方将士を掲げる殉国者記事。宮原狩野介景明、切通左馬允、島津出羽守らの名を記す。
天正九年八月 / 冊子 696~697頁
相良義陽が北原・菱刈との戦いや耳川出陣時に敵対したため、島津義久が三州の大軍で水俣城を攻め、新納忠元も談合衆として先陣の家久勢に加わった経緯を記す。矢文連歌を交わしたのち、義陽が水俣・津奈木・湯浦・佐敷・市之瀬と息子兄弟を差し出して和降を願い、囲みが解かれた。
天正九年八月上旬 / 冊子 697~698頁
天正九年八月、相良義照の度重なる敵対を理由に島津義久が芦北出兵を決め、義虎を先陣として水俣城へ迫った経緯を記す。城下で出水衆が反撃を受け、島津出羽守・切通左馬允を失うが、義久が三州の大軍を率いて着陣し、相良方の主要将士が籠城した。
天正九年八月十八日~九月二十日 / 冊子 698~699頁
五万三千余騎とする島津軍が八景尾・銭亀尾・熊牟礼・軽石尾などに布陣し、水俣城を昼夜包囲した長文記事。矢文連歌の応酬とその故事を記し、相良義照が水俣・津奈木・湯浦・佐敷・市之瀬を差し出して和議を求めると義久が許し、嫡子に島津家の通字を与えて四郎太郎忠房と名乗らせたとする。
天正九年八月九日~九月二十日 / 冊子 699~700頁
相良義陽の敵対を受けて島津義久が天正九年八月に水俣城を攻め、義弘・歳久・家久らが諸陣を守って大鉄砲を撃ち込み、相良方を降伏させた経緯を記す。九月二十日に比志島国貞が城を受け取り、義陽は佐敷・湯浦・津奈木を献じて和睦したが、恩に報いるため阿蘇方へ出兵し、甲斐宗運勢との戦いで討死したと続ける。
年月日未詳 / 冊子 701頁
水俣陣中で城受取の際、敵が設けた針を埋めた障害を馬場氏の者が越えて戦死したため、刑部大夫が障害を切り開き、多数の味方を救ったという逸話。現地にその痕跡が残るとする。
天正十年八月十八日 / 冊子 716~717頁
水俣攻囲の五陣と佐敷獲得後、樺山忠助が義久への慶賀に参上したところ熊本警固を命じられ、船で松葉瀬へ渡って宇土を経て熊本へ入った記事。城親正は病で対面できず年末に死去し、熊本衆の心が離れる中、内空閑勢が鹿子木町を焼いたが、忠助は城入道とともに警固した。
天正十年九月二十六日以後 / 冊子 721頁
天正十年九月二十六日に佐敷が島津方の手に入った後、樺山忠助が水俣から慶賀に参上し、熊本警固を命じられた記事。松葉瀬から宇土を経て熊本へ入り、病床の城親正が年末に死去して熊本衆の心が離れる中、内空閑勢が鹿子木市中を放火したため、忠助は城入道と協力して警固した。
(慶長四年)三月十四日 / 冊子 360~362頁
桂忠詮・上井里兼が、大坂出船後に出水へ到着し、鹿児島への通報と出水城の城祝を行ったことを報告する。肥後境目や各城・港、御牧と放馬、在々の侍・中間・百姓・職人の人数を調査し、城絵図・知行帳・目録を提出するとした。さらに寺沢志摩守の代官高嶋新三と百姓・入江・橋本との紛争、高嶋の逃亡、水俣の小西方への引渡しなど、出水郡の仕置と引継ぎの状況を詳述する。
〔慶長五年〕十一月十四日 / 冊子 466頁
本文はNo.1286と同文であるため省略されている。島津惟新が少将に、山田衆が美濃から離れて出水へ逃れ、佐敷・水俣の敵勢は大軍ではないとの報告を伝える。出水へ使者を送ること、庄内山田で粉骨した者への扶持、今回の軍役に進まない侍への対策として身分を問わず一人三石を与える案を示し、龍伯への取成しを求める。
年月日未詳 / 冊子 592頁
関ヶ原敗戦後、小西美作守が島津方へ、旧小西領の肥後国宇土・八代を加藤方が奪おうとしているとして援兵を求めた。太守の島津忠恒(家久)はこれを許し、島津忠倍を肥後国葦北郡水俣へ派遣した。
(慶長五年)十一月八日 / 冊子 611頁
島津義弘(惟新)が、肥後方の先勢が水俣まで進出したとの注進を伝え、在番衆・移衆を励ますよう命じる。伊勢平左衛門尉を急ぎ呼び寄せ、境目を相談して整え、不審な地下人から人質を取り、奉公人を募り、敵方使者の内場通行を防ぐよう指示する。
(慶長五年)十一月十三日 / 冊子 613-614頁
島津忠長が伊勢平左衛門尉に対し、水俣方面の敵情と備えを詳報する。敵勢は黒田・加藤・鍋島らで、柳川・筑紫は残留したとの情報を伝え、少人数での下向は内応への期待によると分析する。宇土の又介探索・討ち取り、地下衆からの重ね人質、鹿屋三右衛門の内情報告、敵来襲時の慎重な出撃、矢羽不足への対応などを指示・報告する。
(慶長五年)十一月十四日 / 冊子 614-615頁
島津義弘(惟新)が、関ヶ原で離散した山田衆が肥後を逃れて出水へ着き、佐敷・水俣の敵はさほど大勢でないとの情報を伝える。佐土原について中務少輔との親類・旧交を理由に龍伯と忠恒の支援を求め、国内神社の屋根修復を進めること、今度の軍役で禄のない侍へ一人三石ずつ与える案を示して龍伯との相談を依頼する。
(慶長五年)十一月十五日 / 冊子 615-616頁
島津義弘(惟新)が樺山久高に対し、出水境の普請を油断なく進めるよう命じる。水俣までは黒田如水・加藤主計頭が兵を出しているが、出水は堅固に備えさせているので安心するよう伝え、しばらく音信がないため見回りの使者を送り、現地の様子を詳しく知らせるよう求める。
(慶長五年)十一月廿二日 / 冊子 618頁
立花尚政が島津忠長に対し、重ねて派遣された二人の使者の口上を黒田如水・加藤清正へ伝え、井伊兵部にも使者を通じて申し入れたため、先勢は退いて一同上洛したと報告する。忠長も上洛し、黒田・加藤から井伊へ申し上げてもらうのがよいと勧め、黒田の書状を持つ飛脚を水俣へ陸路で送り返すよう依頼する。
(慶長六年)五月二十三日 / 冊子 761頁
加藤清正が島津忠恒に、徳川家康へ提出した陳謝の処置や境目の衆への指示、水俣申越の停滞を問い、疑念を解いて返答するよう求めた書状。
慶長五年極月 / 冊子 773頁
慶長五年末、上方勢の薩州来攻や加藤清正の水俣進出との風聞を受け、蒲生城の普請・籠城準備を進めた経緯を記す。松岡勝兵衛の指図で矢倉を上げ、城内へ諸士を召し移した記事。
(慶長十年)三月五日 / 冊子 7~8頁
本田正親が大井右京亮へ、今回の知行配当では先祖以来の由緒を訴える取次が法度によりできないが、後日適切な時期に申し出れば尽力すると答えた書状。以前、水俣に肥後勢がいた際、大井が黒渡の船などを手配して長島への交通を確保した功績を忘れておらず、将来披露すると約している。
十月六日 / 冊子 349~350頁
十月六日付の三原重種書状。水俣の将屋や肥後方面へ人員を遣わし、筑川・高瀬への到着、上使への出迎え、家中衆五人と馬の手配などを報告する。
年月日未詳 / 冊子 711頁
七月二十七日、巡検使大橋親正が肥後水俣から比志島国貞・三原重種へ書状を送ったことを記し、その本文を次号に掲げる島津家久譜の記事。