島津氏久・基久連署安堵状
貞治六年六月廿七日 / 冊子 47頁
島津氏久・基久が河上次郎左衛門尉に、申談の内容に基づいて市来院内河上村地頭職を安堵し、領掌に相違がないよう定めた連署安堵状。
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貞治六年六月廿七日 / 冊子 47頁
島津氏久・基久が河上次郎左衛門尉に、申談の内容に基づいて市来院内河上村地頭職を安堵し、領掌に相違がないよう定めた連署安堵状。
寛正三年四月十五日 / 冊子 443~444頁
市来院内の河上・いてのこは・牛の江・いむた・山の城・かきのほそり・なかやま・柳かまり・松下山野などの田地について、面積と四至を列挙し、河上次郎左衛門方に伝えた坪付。
三月十三日 / 冊子 567頁
島津忠昌が肝付次郎左衛門尉に、横川へ出張した敵へ早々に馳せ向かい勝利した働きを賞し、今後も油断なく対処するよう求めた書状。
(明応四年)六月廿九日 / 冊子 568頁
島津忠昌が肝付次郎左衛門尉に、加治木方が帖佐城へ攻め寄せたとの報を伝え、社家衆・本田氏・日置美作守らとともに防戦へ加わるよう求めた書状。
(明応四年)七月三日 / 冊子 568頁
島津忠昌が肝付次郎左衛門尉に、城之坂口での合戦で敵七人を討ち退けたこと、なお敵勢への備えが必要なことを伝え、加勢を求めた書状。
明応八年三月廿八日 / 冊子 574~575頁
沢永観が、水田四段などの所領処置と代替地、年貢・役負担の扱いを定め、土屋次郎左衛門尉へ伝えた仮名書きの証状。
(文禄元年)7月17日 / 冊子 586~587頁
島津歳久(晴蓑)が、「晴蓑めが魂の在り処を人が尋ねても、白雲の行方のように分からないだろう」と詠んだ辞世。 死後の魂の行方を白雲に託した簡潔な歌で、追討を受けて死を迎える歳久の覚悟と無常観を直接伝える。白浜次郎左衛門・比志島紀伊守宛の形で残る。
慶長三年六月吉日 / 冊子 218頁
上井神五郎里兼が川上次郎左衛門尉に交付した加増分の知行方目録。薩州隈城西手村内の山下・山崎・中田・柿木原・瀬戸山などの田畑について、場所ごとに石・斗・升・合・勺で石高を列記する。
八月十一日 / 冊子 58~59頁
川上久隅が河上次郎左衛門尉に、久しく音信がなかったことへの案じと、上洛により延期された企てについて返答した書状。愚息左衛門尉の行末を頼み、贈られた中紙二束への礼を述べる。本文末尾は八月十二日、巻末目録は八月十一日であり、切り抜き照合により原資料内の日付異同と確認した。
七月廿五日 / 冊子 59頁
川上久隅が河上次郎左衛門尉に、次郎左衛門尉の役務が無事に整ったことを喜び、今後も励むよう求めた書状。途絶えかけた連歌を再興するため連衆を差し出したこと、日州の役務も御老中衆と相談して進めることを伝える。
二月廿七日 / 冊子 86頁
明真が斎藤次郎左衛門尉に、島津殿に関する用件で使節に選ばれたため、急いで渡海・参向するよう求めた書状。松浦山代方へも書状を送り、決して等閑にせず対応するよう念を押す。
二月十七日 / 冊子 245頁
明真が、島津領内の倉上に関する措置に伴って使節に指名されたため、急いで赴いて引き渡しを行うこと、松浦・山代方へも特に書状を遣わしたので心得て等閑なく勤めるよう斎藤次郎左衛門尉へ命じた書状。
七月廿六日 / 冊子 307頁
本文はNo.705と同文のため省略されている。No.705によれば、野頸方面での働きと井手を切り落としたことを賞し、今後も境目を堅固に用心するよう肝付次郎左衛門尉に求めた島津忠昌書状。
七月廿六日 / 冊子 307頁
島津忠昌が肝付次郎左衛門尉に、前日の野頸方面での働きが成就し、井手を速やかに切り落としたことや人数の奔走を賞し、今後もその境目を堅固に用心することが肝要だと命じた書状。
文禄2年10月2日 / 冊子 751頁
島津義久(龍伯)が、急な上洛の苦労をねぎらい、忠辰の進退をめぐって義久が諸事を画策しているという風聞を否定する。今後も隠し立てする事情はなく、京都で会えれば詳しく説明すると伝える。 島津家中の人事をめぐる疑念を解き、相手を安心させようとした私的な説明書状。
文禄3年3月18日 / 冊子 771~772頁
長寿院盛淳が島津家への奉公と龍伯への忠節を誓い、縁者・親類であっても贔屓せず法に従って処断すると約束する。家中への賞罰は独断せず、上意を受けて相談の上で決定することも明記する。 誓約に偽りがあれば梵天・帝釈・日本六十余州の大小神祇などの罰を受けると誓った、領国統治の原則を示す起請文。
文禄3年7月28日 / 冊子 801~802頁
福崎能安が御広間・台所門の造営で材木調達を任されても、職人から金銀・米銭などの礼物を一切受け取らないと誓う。国元で受け取る米と売却代金、名護屋への替米、薩摩・大隅・日向から上った米にも私的流用がないと明記する。 摂津国能勢郡の代官所でも朱印高を守り、増徴や着服をしないと神仏へ誓約する。建築資材・兵粮米・代官経営にまたがる収賄と横領防止の起請文。
文禄4年6月17日 / 冊子 890~891頁
安宅秀安は、取次役の決定、老中役の免除、家中の訴訟や処分、京都と国元の連絡方法などを箇条書きで定める。 竜伯への奉公や三成との関係にも触れ、讒言・私的対立を避けて法度を堅固に運用し、家中の秩序を保つよう求めた政務覚書。
徳治三年八月日 / 冊子 426頁
権執印妙慶が、伊作庄内花熟里地頭代津野弥次郎左衛門尉の非法を訴えた申状。妙慶の下人犬王童(花熟里百姓又太郎の子)をめぐる負物・逃亡・身柄処置の経緯を述べ、地頭代が前年に犬王童を不当に押し取ったとして、その返還と地頭代の処罰を求める。
年月日未詳 / 冊子 177頁
応永記の記事として、新納実久が驚いて本田次郎左衛門尉を介し伊作久義をたびたび諫め、久義が撤兵したため伊久が喜んで山北へ帰り、三か国が平穏となったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 654頁
本田次郎左衛門尉の専横、本田因幡守の娘と樺山信久の婚姻関係、曽於郡の給付と返還をめぐる経緯を記し、大永五年九月二日に因幡守と太郎左衛門尉がそれぞれ城を築いたとする記事。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 195頁
小苗代原合戦の別方面で、馬越・加治木・市来・伊集院・川辺勢が敵二千余騎を受け止め、肝付兼寛が軍配を執ったことを記す。新納久継が負傷する一方、鎌田政年が敵味方の間を駆けて指揮し、面高真連坊が鉄砲で八代の牧野次郎左衛門を倒し、田実右京亮がその首を取った。日暮れに双方が退いた。
(天正15年)11月10日 / 冊子 363頁
長期の勤番をねぎらい、又一郎家の扱いと諸県郡内の諸城・郷村について、実情を見極めたうえで保全する意向を伝える。上井次郎左衛門尉と同心して各城を実見し、腹蔵なく熟談するよう新納忠元へ求めた書状。
(天正16年)11月10日 / 冊子 421頁
島津義弘が、長期の留守を守った義功の辛労をねぎらい、領内諸城の構えを点検して警固を整えるよう求めた書状。 井吹次郎左衛門尉とも相談し、城郭の状態を見合わせながら用捨・格護を進めることを指示する、帰国後の領国防備に関する内容である。
(天正16年)11月22日 / 冊子 422頁
島津義弘が伊地知伯耆入道へ、渡唐船の件を一途に決着させるよう、油断なく厳重に処置することを求める。あわせて琉球への使者を十分に整えず派遣するのは不適切で、白石治部少輔からもその旨を命じられたとして、細部まで調えるよう促した。 白濱次郎左衛門尉・谷少とも直接相談するため、これらの趣旨をしかるべく披露するよう頼んだ、渡海船と対琉球使節の実務書状。
年月日未詳 / 冊子 458頁
天正十八年、島津義弘が飯野から栗野へ移った際の「御在城御家」として、川上四郎兵衛・有川雅楽助・上井次郎左衛門の名を記した国老記の記事。 居城移転に伴って近侍した家臣を具体的に示し、義弘の身辺組織を確認できる。
年月日未詳 / 冊子 511頁
豊臣秀吉が諸侯へ、翌年に朝鮮へ渡海して八道を征伐する大事業を命じたことを記す島津義弘譜の記事。命令を薩摩へ伝えるため白浜次郎左衛門尉と良庵が五月二十四日に京都を出発し、六月二十一日に鹿児島へ到着した。対外出兵命令が中央から国元へ届く経路と日程が分かる。
年月日未詳 / 冊子 858頁
島津義弘が栗野から帖佐へ移り、同地を居城としたことを記す。あわせて阿多長寿院・上井次郎左衛門・伊集院肥前入道一雄を家老として掲げる。 義弘の本拠移転と、その時期の家老構成を同時に確認できる記事である。
(文禄五年)九月十七日 / 冊子 47頁
石田三成が島津義弘へ、帰国の報を喜び、吉田美作・白浜次郎左衛門・福崎新兵衛尉の加増は竜伯と相談して扶助するのがもっともだと伝えた書状。長寿院盛淳への讒訴に注意して糺明すること、朝鮮在陣や度々の上洛で辛労した奉公人にも加増することを求める。
慶長十一年 / 冊子 53頁
国老用人記の記事。慶長十一年、島津義久が帖佐から平松へ移った後、二年間在城した際の家老として、新納旅庵・新納弥七左衛門・伊勢平左衛門・上井次郎左衛門を挙げ、御使衆として新納本右衛門入道一甫を記す。
慶長十一年五月二日 / 冊子 73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、高山内の知行名寄目録。赤池屋敷の田畠・屋敷を玄清・和泉・藤左衛門・与介・次郎左衛門・藤兵衛らの知行人別にまとめ、田位・面積・石高を列記する。総高二十石のうち合計七石一斗余を名寄し、残る十二石九斗余を財部へ遣すとする。
年月日未詳 / 冊子 433頁
家久の慶長十九年正月の案文中に、上床藤右衛門入道・曽木五兵衛尉・上井次郎左衛門尉・蒲地備中守を宛所とする案文があることを記した雑抄。
七月十七日 / 冊子 55頁
上井秀秋が、図田帳の借用について土持大膳亮と瀧聞越後守へ協力を求めた書状。迫田次郎左衛門尉と相談し、南郷の福永が所持すると聞く図田帳も調査・借用して差し上げるよう依頼する。
十一月十日 / 冊子 140~141頁
長期の留守勤番をねぎらい、当院付の諸県一郡について又一郎の安堵が済んだため、郡内諸城のあり方を検討して保全したいと述べた。上井・次郎左衛門尉とともに城々を見分し、遺恨なく熟談するよう頼んで返事を求めた書状。
延徳四年正月廿八日 / 冊子 559頁
阿久根郷の高津宮大明神宝殿の上棟に際し、天下泰平・海晏河清・子孫繁栄などを祈り、大工以下の関係者を記した棟札。
(慶長十九年) / 冊子 520頁
家久の妹が現地へ無事に到着したことを喜び、道中で尽力したことを賞するとともに、以後も諸事を怠りなく取り計らい、女房衆への配慮を続けるよう求めた書状案。
寛永六年三月廿六日 / 冊子 92頁
久永源兵衛ら六名が、進上された大小の角石合計百本を確かに受け取ったことを連署して証明した請取状。
「寛永十七年」五月廿三日 / 冊子 113頁
宮原景之ら三名が伊地知弥右衛門・谷口次郎左衛門へ、求麻表に変化がなく、佐敷・水俣の番手衆も従来どおりであると伝えた連署書状。相良内蔵の死去を聞いたこと、ある遺骨を高野山へ上らせるため前日に鹿児島を出て阿久根から出船したことを知らせ、追而書では相良喜平次の妻が京都から船で水俣へ到着したと報じている。
貞享五年十月十八日 / 冊子 821~823頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2167
島津久竹ら家老六名が琉球在番三原次郎左衛門へ、対清交易の金銀・商品を減らし、京都・長崎経由の買物、在番奉行・三司官の検査、唐船の船頭・水手による私的売買、現地からの注文品等を統制するよう命じた連署条書。
元禄五年十月十八日 / 冊子 884~885頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2391
六名の連署条書で琉球在番三原次郎左衛門へ、糸・巻物等の密売、在番・附衆家来の私商売、水手の抜刀、薪用木の不正などの取締りを命じる。狩りの催促に多数の人を集めて百姓の耕作を妨げないよう求め、猪・鹿が田畑を荒らすための狩りは別として、遊山の殺生を禁ずる。在番の職務遅滞と定額外買物も戒める。署名は平田新左衛門・肝付主殿・種子島蔵人・新納又左衛門・喜入又兵衛・島津助之丞の六名で、三原は宛所。
(文禄3年)9月21日 / 冊子 80頁/原整理番号 63の20
伊集院幸侃が塚之脇次郎左衛門尉へ、検地奉行中小路傳五の要請により、塚之脇の側から筆者一人・算用者一人の計二人を早急に派遣するよう求める。賄いは検地所で用意するので道中の手配を整え、油断なく送るよう命じる。
貞治6年6月27日 / 冊子 335~336頁/原整理番号 130-17
貞治六年六月二十七日、基久と島津氏久が河上次郎左衛門尉へ連署して出した安堵状。申談の事情を踏まえて市来院内河上村地頭職を計らい定め、今後その領掌に相違がないことを保証する。付随系譜は河上氏六代の家富が次郎左衛門尉・山城守を称し、法名を道周としたことを記す。
天文8年霜月吉日; 永正元年・大永年間(付随系譜) / 冊子 341頁/原整理番号 130-28
天文八年霜月吉日、薩摩国市来院内伊作田名一町七反三十歩の坪付を河上次郎左衛門尉へ示した文書。忠元・本田親信・伊集院大和守忠朗を記し、忠元については「光」異本および正本では忠光との校異を付す。付随系譜は十一代河上年家が平次郎・次郎左衛門尉を称し、入道舟伴斎、法名高山道慶居士であったこと、永正元年に河上信濃守女を母として生まれ、大永年間に清水の本田某が敵対した際、年家の領する重久名を本田某が襲取したことを記す。
慶長6年12月14日 / 冊子 343頁/原整理番号 130-32
慶長六年十二月十四日、伊集院川上次郎左衛門尉へ与えた加増名寄帳の抄録。入野村竹脇門以下の数行を省略し、加増高の合計を三十二石八斗と記して御支配所印を据える。正本は家蔵で、十三代河上忠宅の記事の頭注として掲げられる。
年月日未詳 / 冊子 587~591頁
根白坂合戦の敗北と忠隣らの戦死後、秀吉の九州平定に服さなかった歳久が背反を疑われ、病身のまま追討を受けて竜ヶ水付近で最期を迎えるまでを記す。 白浜次郎左衛門が義久の命を伝えると、歳久は駕籠・船で移動するが、家臣らは追手と戦い、多数が主君に殉じた。義久による葬送・供養、竜伯の哀悼と秀吉の処断への批判まで収め、歳久事件の経過と後世の評価を伝える中核史料である。
年月日不詳 / 冊子 79-80頁
八重尾氏の人物が、木浦木への移住と小林・須木間の山林境界、狩場利用の先例を記した覚書。先祖以来の境を示し、須木衆による木場利用、村尾殿への鹿倉貸与、地頭上井次郎左衛門時代の境界神事、米十五石・銭十五貫文の支給などを詳述する。
延文四年四月五日 / 冊子 13頁
島津道鑑(貞久)が惣領師久へ示した所領相続の譲状。一族・子孫は惣領に同道して奉公すること、不忠者には所領を知行させないこと、男女の子孫を扶持することを条々に定める。道仏・道儀・乙寿丸、本田兼阿らの所領処分も明記し、惣領制の下で子孫が遵守すべき家法を示す。
延文五年八月廿二日 / 冊子 19頁
島津道鑑(貞久)が、本田兼阿跡の薩摩国山門院内葉成河地頭代官職を兼阿の孫・本田金太郎へ宛行い、先例どおり沙汰して知行するよう命じた下文。
延徳二年十二月廿四日 / 冊子 554~555頁
延徳二年、島津友久・忠幸が心を合わせ、田布施の諏方大明神二社の社殿を新造した際の棟札。大檀主に島津相模守友久・島津三郎左衛門忠幸、代官・地頭・律師・大工武本氏定・小工十八人など造営関係者を列記する。棟札本文では神仏への敬礼とともに、風災・水災・火災などの除去、領内安全、子孫繁昌を祈願し、十二月廿四日の造立であることを記す。
年月日未詳 / 冊子 661~662頁
『本田親安伝』に、大永六年七月廿三日、管領大内義興が杉三河守に書状を持たせ、島津忠兼へ働き掛けたことを記す記事。続くNo.2037にその書状本文を収める。