新納旅庵長住譜
年月日未詳 / 冊子 805頁
新納旅庵長住が島津忠恒の命を受けて今春再び上京することになり、その奉公を賞して三百石の地を与えられた経緯を記す。知行高の詳細は別記された。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
104 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 3
年月日未詳 / 冊子 805頁
新納旅庵長住が島津忠恒の命を受けて今春再び上京することになり、その奉公を賞して三百石の地を与えられた経緯を記す。知行高の詳細は別記された。
年月日未詳 / 冊子 805頁
島津家が徳川方の真意を確かめるため島津忠長を京都へ派遣し、新納旅庵も随行した経緯を記す。旅庵は本多正信から家康に異心がないとの説明を受け、福島正則の懇切な説得もあってこれを信じ、家康が四月十八日に神文を与えたとする。
年月日未詳 / 冊子 830-831頁
新納旅庵譜は、島津忠恒が慶長七年八月一日に鹿児島を出立し、野尻で伊集院忠真を討ったのち上洛した経緯を記す。関ヶ原後の家中不安を収め、徳川方との和議を実行するための行動として述べる。
五月六日 / 冊子 23~24頁
新納為舟忠元が旅庵老へ、船の出発がようやく進む一方、飯米が不足するおそれがあるため、当面の米・物資を借り受け、後続の船が着くまで取り成すよう頼んだ。別船は六月末ごろの上着が見込まれるとして判断を仰ぎ、国元の事情、武庫(島津義弘)・龍伯(島津義久)への礼、在洛中の作州・休心老らへの応対について伝える。さらに四月二十一日に乗船し、五月二日に大坂へ到着した経過と、旅庵らの尽力への謝意を述べ、今後も吉報を伝えるとした書状。
年月日未詳 / 冊子 555頁
七月十二日夜半、島津義弘(惟新)が旅庵を大坂へ遣わした際に渡した条書の案文であることを記す。
(慶長六年)二月廿四日 / 冊子 750頁
島津惟新が、予期せぬ情勢の成立により旅庵が現地に滞留することはやむを得ないと述べる。窮屈な事情など詳細は使者の口上に含めた短い書状。
(慶長六年)四月二十四日 / 冊子 760頁
本多正信が新納旅庵に、急な上京と雨中の難儀を気遣い、島津領国の処置が順調に整ったことを祝う。目録どおりの品を送り、近いうちに面会したいと伝えた書状。
正月廿四日 / 冊子 805頁
島津忠恒が、新納旅庵長住が和睦実現のためたびたび上洛した忠節を賞し、知行三百石を与える。今後も一層奉公に励むよう命じた感状。
(慶長八年)正月廿四日 / 冊子 880頁
島津忠恒が新納旅庵へ、和睦成立のためたびたび上洛して尽力した忠節を賞し、知行二百石を与え、今後も奉公に励むよう命じた。
四月廿四日 / 冊子 34頁
本多正信が、新納旅庵の急な上京と長雨の中での苦労を気遣い、国元の状況が良好であることを喜んだ書状。目録記載の品を贈り、近く参上して会うことを望むと伝える。
五月六日 / 冊子 132~133頁
船の出航が遅れているため、兵糧米を借り受けて到着まで取り計らうよう依頼した。また国元の争いで上方へ逃れたところ武庫の判断により途中で討ち果たされた件、在洛中に受けた厚意への謝意を述べ、細島から夫丸五人の助力で入来院へ帰着し、帖佐の家族も無事だと報告した書状。
年月日未詳 / 冊子 344頁
新納旅庵長住の経歴を記す。秀吉の九州征伐時に薩摩へ来た後、鹿児島を発して玉泉院に宿し、諸国を経て秀吉に拝謁、僧俗双方に通じた働きから墨衣を与えられ政務にも関わったという。のち島津家久に仕え、刀・馬を賜り、硫黄島への急使を果たした功で門・村など五か所を領し、高原・栗野・市来の地頭を歴任した。
年月日未詳 / 冊子 521~522頁
新納旅庵長住の譜の記事。天正十九年十二月十七日に京都を発ち、名護屋へ使者として向かったことを記す。十二月二十九日に到着して島津方の命を細川幽斎・石田三成らへ伝え、諸国との連絡や唐入り準備に従事した経過が分かる。
年月日未詳 / 冊子 533頁
新納旅庵長住が島津義弘・久保父子に従い、二月十二日に栗野を発って肥前名護屋へ着き、壱岐・対馬を経て五月朔日に釜山浦へ上陸した行程を記す。その後、朝鮮国内を進んで江原道金化城に至り越年しており、島津勢の渡海・進軍経路を日付とともに追える。
年月日未詳 / 冊子 736~738頁
久保死去後、石田三成の使者・吉岡蔵人が忠恒の上洛を促すと、竜伯は新納旅庵を京都へ派遣し、三成・細川幽斎へ家督問題を取り次がせた。 秀吉から忠恒の家督相続が認められるまでの交渉と、忠恒の名護屋・朝鮮方面への旅、旅庵がこれに随行して島津家の継承を支えた経過を詳しく記す。
年月日未詳 / 冊子 769頁
文禄三年春、新納旅庵が薩摩への使者を命じられ、二月二十八日に大坂を発って薩摩へ赴いたことを記す。忠恒の翌秋の朝鮮渡海に備えるためで、龍伯は旅庵に宝刀を与えた。 同年四月には旅庵が忠恒に従って泉州堺から上京し、秀吉へ謁見した経過を伝える家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 797頁
文禄三年六月、京都にいた忠恒が婚姻し、七月十七日に栗野を出発して名護屋へ向かったと記す。八月二十五日には忠恒本人も京都から名護屋へ到着した。 秀吉の命による婚姻後、朝鮮渡海の拠点である名護屋へ移動する忠恒の行程を日付とともに示す新納旅庵譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 821頁
文禄三年十月、忠恒が名護屋を出帆して同月末に朝鮮の唐島へ到着した経過に関連し、新納旅庵長住が京都へ赴いたと記す。旅庵は義久に太守父子の意向を伝え、その後薩摩へ下国して栗野の在番を怠らなかった。 朝鮮在陣中の忠恒・義弘側と、京都の義久、薩摩国元を結ぶ伝達役として旅庵が活動したことを示す家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 881頁
秀吉の召しに応じて義弘が朝鮮から上洛することとなり、その旨が北原勘右衛門尉を通じ栗野へ伝えられたため、新納旅庵も五月十七日に名護屋へ向かった。 旅庵は川上久右衛門尉の助けで船を得て義弘に従い、八月の帰国まで同行した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 1頁
文禄四年十二月二十一日、新納旅庵長住が島津義久に従って帖佐を発し、陸路で筑前国秋月の金翅山市中に越年したのち、慶長元年正月十三日に船で大坂へ着いたことを記す。朝鮮へ来た明使との講和に関連して諸侯・騎馬を集める計画があったが、実施されずに終わったという譜記事。
文禄五年四月廿八日 / 冊子 18~19頁
町田存松久倍と新納旅庵長住が、鹿児島分などの黄銀・銀子を項目別に受け取ったことを記す受取状。銀の不足分を差し引き、出目入銀を加えた計算も示して、受取額を確認している。
文禄五年四月廿八日 / 冊子 19頁
町田存松久倍と新納旅庵長住が、金子六枚(秤目二百六十三匁七厘)を受け取ったことを記し、勝目兵右衛門・古後七郎右衛門へ宛てた受取状。
文禄五年閏七月廿八日 / 冊子 35~36頁
町田存松久倍・新納旅庵長住が安宅三川守へ、加治木衆新納仲左衛門に関する米三千六百余石をはじめ、船賃米、銀への換算額と一石当たりの換算率などを示した算用証状。
文禄五年閏七月廿八日 / 冊子 36頁
町田存松久倍・新納旅庵長住が安宅三川守へ、文禄四年分の石田治部少輔蔵入目録に関する米高と、同年四月から閏七月まで五か月分の利平銀を算出して示した証状。一貫目につき一か月三十匁という利率も記す。
年月日未詳 / 冊子 47頁
慶長元年、島津義弘が暇を賜って帰国し、九月十三日に大坂で船出したこと、旅庵も義弘に従って九州島へ下り、海路で帰国したことを記す譜記事。
文禄五年十二月廿一日 / 冊子 62~63頁
川上肱枕・新納旅庵・上井神五郎兼政が連署し、桂藤五郎へ薩州市来の大里和田之門などの土地を、名屋敷・加増分を含め合計百石充行った領知目録。
年月日未詳 / 冊子 88~89頁
新納旅庵長住が、島津義弘の朝鮮再渡海に伴い、帖佐出発から久見崎での解纜、壱岐での滞留までを記した記事。秀吉の朱印状による軍役増員で在途の兵が窮乏したため、旅庵が京都へ赴き、龍伯を通じて義弘の訴えを上申した経緯を述べる。
年月日未詳 / 冊子 283頁
『新納旅庵長住譜』の記事。慶長三年、浅野弾正少弼・石田治部少輔が筑前国博多へ下向して公領の勘定を行うことになり、新納旅庵が十一月十一日に帖佐を出発して博多へ赴いたとする。勘定を終えたのち、十二月に帰国した。
年月日未詳 / 冊子 371頁
慶長四年暮春、惟新(義弘)が龍伯への密事を伝えるため新納旅庵を使者として下国させた。日向綾で幸侃の陪臣三浦太羅助に会い、黒田七兵衛尉に捕らえさせた。閏三月廿日に龍伯の返答を受け、帖佐から上洛へ出発し、栄存房も同行して海陸をともにした。
慶長四年八月十日 / 冊子 426頁
新納旅庵長住・本田源右衛門尉・河上四郎兵衛が、惟新の用のため材木屋与兵衛から銀子二貫目を借用した証文である。一貫目につき一か月四十匁の利息を付し、本利とも年内に返済すると定める。天下一統の徳政があっても他の債務と混同せず返済し、連署三人のうち一人だけになっても弁済することを約す。
慶長五年四月十九日 / 冊子 426頁
新納旅庵長住が材木屋与兵衛に提出した借用書の裏書である。慶長四年八月に借りた本銀二貫目について、同年八月から翌年三月までの利息を計算し、慶長五年四月に合計二貫四百四十三匁九分を済ませたと記す。さらに五月から銀子一貫五百目を借用し、一貫目につき一か月三十目の利息とする条件を確認する。
(慶長四年)十二月晦日 / 冊子 480頁
新納旅庵長住が伊勢兵部少輔の側近へ、山口勘兵衛が再び庄内へ下向することを知らせる。源次郎が事情に反して軽率な返答をすれば本人のためにならないため、一人を派遣して様子を申したいとの意向が織田之母から伊集院図書へ伝えられ、山口と受取方の双方へ書状が付されたという。旅庵は伊集院図書からも連絡するよう求められ、急な使者の下向に合わせて大坂から書状を送るので、この事情を心得るよう伝える。
(慶長五年)四月九日 / 冊子 530~531頁
新納旅庵長住が、庄内落去と伊集院忠真の出仕を島津忠恒の名誉として祝し、北国情勢を理由に早急な上洛と徳川家康への忠節を勧める。肥後方面や大口で捕らえた者について、家康の意向に従い、口上を聴取したうえで厳重に長期拘禁し、番衆を付けて管理するよう求める。
(慶長五年)八月十七日 / 冊子 564頁
新納旅庵が、上方乱入のさなか自分がなお存命であることを知らせ、三右衛門・宗左衛門・助右衛門を急ぎ上洛させることなどを箇条書きで命じる。自分が死んでも娘一人が残るため借物の請求への対応と収納を怠らないこと、武庫様の御願いに関わること、五郎右衛門の判断で後事を処置することを依頼する事書。
年月日未詳 / 冊子 604-606頁
新納旅庵が、出水滞在中に上方の不穏を聞いて大坂・伏見へ向かい、島津義弘(惟新)に従って関ヶ原合戦期の軍事行動と退却を経験した経緯を記す。使者の往来や、龍伯・少将の上京をめぐる本田助之丞との交渉にも及ぶ。
慶長七年八月三日 / 冊子 831-833頁
新納旅庵が、龍伯・惟新・少将の三君に永く二心なく奉公し、今後も忠節を尽くすこと、主家に不利益な情報を隠さず報告することを諸神仏に誓った起請文。
(慶長七年)十月十五日 / 冊子 852頁
新納旅庵が、忠恒の兵庫到着、福島正則・安芸少将との会見と饗応を報告する。秀頼への目見得や惟新に関する取成しも協議され、上洛交渉が進んでいることを伊勢左衛門尉へ知らせた。
永禄十二年 / 冊子 210~211頁
新納長住は幼少時に剃髪して時衆の僧となり、永禄十二年、十七歳で加世田を出て上方へ赴き、遊行上人に随従した。諸国を十七年間巡歴した功により、肥後八代の荘厳寺住持職に補任され、同寺を管理した。
文禄2年8月23日 / 冊子 727~731頁
伊東平右衛門尉が栗野へ帰着し、朝鮮在陣中の島津義弘以下が無事であると報告したことを伝え、長期在陣からの帰朝に備える。 栗野周辺の知行・蔵入地・年貢収納、寺社領、武庫の武具、家臣や代官の勤務を一件ずつ検討し、不正な取立てや無断処置を避けるよう両名へ求めた、留守居支配の実務を詳述する長文書状。
天正20年5月4日 / 冊子 557~558頁
島津義久が、義弘・久保父子の渡海後、自身も名護屋へ参陣するため、高麗への補給、名護屋在陣、京都での調達・執代を重臣たちに協議させた書下。 長年の在京で領国が困窮するなか、各担当が昼夜油断なく職務を果たし、留守中の国政を支えるよう命じる。
天正20年5月4日 / 冊子 558頁
前文書とほぼ同じく、義弘・久保の渡海と義久の名護屋参陣に伴い、高麗への見継ぎ、京都・名護屋での調達、領国内の執務を家臣団へ分担させた書下。 交付先を別の家臣群にした同文系統で、島津家が複数の重臣へ同時に留守国統制を命じたことが分かる。
(文禄2年)6月13日 / 冊子 706頁
大坂の多鍋屋から入手した栗毛馬を知行所に置いているため、旅庵と相談して朝鮮へ送り下すよう忠恒に依頼する。 前年に送られた鉄砲五丁への礼、使者の渡海と船の手配、国内の用務にも触れており、義弘が戦地から馬・武器・交通を細かく差配した書状。
文禄4年正月15日 / 冊子 858~859頁
新年を祝い、相良五郎左衛門の早い帰朝を待つと伝える。前年冬に上井甚五郎と旅庵を介して二通の書状を受け取り、現地が無事であることを喜んでいる。 久四の在京と健康、龍伯への申入れ、祈祷や扶持の件にも触れ、茶碗一組を贈る。朝鮮在陣者と国元・京都を結ぶ具体的な私信である。
文禄4年正月15日 / 冊子 862頁
No.1447と同文であるため、本文を省略した重出文書。相良五郎左衛門の早い帰朝を待つこと、上井甚五郎・旅庵を介して書状を受け取ったことを伝える。 久四の在京と健康、龍伯への申入れ、祈祷・扶持、茶碗一組の贈答を含む私信であり、別系統の伝来資料に同文が収められたことを示す。
文禄4年12月12日 / 冊子 926頁
大隅国帖佐舟津村内の大園門・蒲生久徳村浮免などについて、米・大豆合わせ三十石を本田助丞へ給与する。 田畠の配分は現地で相談し、法に反する者がいれば申し出るよう定めた、川上胘枕・新納旅庵らの領知目録。
(慶長二年)正月十五日 / 冊子 68頁
島津義久が兵庫頭へ新春を祝い、旧冬に上井甚五郎・旅庵から届いた書状を見たと伝えた書状。当年の赤国成敗は延期されたが、分国中の人数・兵具については石田治部少輔と相談して整えるので安心するよう述べ、歳暮の祝儀として縮三端を贈る。
(慶長二年)九月十三日 / 冊子 137~138頁
島津龍伯が忠恒の度重なる勝利を喜ぶ一方、石田三成への直接報告が遅いとして、使者を出せない場合も書状で伝えるよう戒めた書状。銀子三千枚の調達、佐多久内少輔の召出しと知行、来年三月までの上米、小西行長への音信、新納旅庵による借銀返済など、国元と在陣先を結ぶ複数の政務を指示する。
(慶長三年)十一月廿四日 / 冊子 291頁
八十島助左衛門佐が旅庵の来訪に礼を述べ、算用・免合について石田三成へ詳しく申し入れ、条書を送ったので関係者へ伝えるよう依頼する。朝鮮では帰国船出発予定の十・十一日ごろ、小西行長の居城が敵船約五百艘に包囲されたため、島津義弘が播州飾磨の古城を引き払い、十七・十八日に後詰へ向かい、諸将も救援したと報じる。結果は未詳ながら勝利を期待し、続報を約す。
(慶長三年)十一月廿四日 / 冊子 292頁
八十島助左衛門佐が、石田三成は来月十日ごろまで博多に逗留する予定なので、旅庵の帰着後二日目から留守中は四日ごとに博多へ飛脚を出し、伏見へ上った後も四日ごとの当番で伏見まで送るよう命じたと伝える。当番割の書付を提出し、最初の便には橋本・入江両人の書状を携行させるよう指示する。
(慶長五年)四月廿三日 / 冊子 536頁
山口直友が惟新に、四月二十三日朝に大坂へ着いたことを報じる。内府へ出仕する予定だったが、惟新が下向するとの旅庵の連絡を受けて対面を待つため延期したとし、惟新の用向きと下向の有無を知らせるよう求め、返報に応じて出仕すると伝える。