山田忠豊申状
応永三十年六月日 / 冊子 325頁
大隅国小河院内の成村、山田内上別符村、中村内入久などの所領を列記し、山田忠豊が申告した文書。
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応永三十年六月日 / 冊子 325頁
大隅国小河院内の成村、山田内上別符村、中村内入久などの所領を列記し、山田忠豊が申告した文書。
応永卅五年五月廿四日 / 冊子 342頁
山田忠豊の申状として掲げられるが、本文は『畏言上』の冒頭のみで詳細を欠く。内容を推測せず、目録標題と年紀を保持する。
年月日未詳 / 冊子 514頁
文明十六年十二月廿日、忠豊が郎従三百余人を率いて日向飫肥へ向かい、逆谷籠に陣した敵勢と戦い、忠福らとともに応戦するなか戦死したことを記す譜記事。
(慶長四年)六月廿九日 / 冊子 395頁
島津忠豊が図書頭に、庄内へ出陣して山田城を攻め落とした勝利を祝い、忠豊への言葉と腰物の拝領に謝意を示す。図書頭方の手勢に戦死者が出たことへの配慮にも礼を述べ、今後の軍事行動は川上左近将監・伊勢兵部少輔と協議して両使へ伝えたので、披露するよう求める。
(慶長四年)九月六日 / 冊子 433~434頁
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、九月二日に鹿永口へ少数の敵が現れ、配下が交戦した件を早くも聞き届けて書状を寄せられたことへ謝す。戦死者の弔いにまで心を配られたことを感謝し、近日中の出馬を待つと伝える。
(慶長四年)九月六日 / 冊子 434頁
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、庄内の件を上使が無事に調停しようとしたが成立しなかったとの知らせを了承したと伝える。自身も山田方面へ出向き、現地の様子は頴娃主水正が見聞しているので詳述せず、委細は老名衆から申し上げるとする。
(慶長四年)九月十一日 / 冊子 434頁
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、書状と樽・肴などの贈物を受けたことへ謝意を述べる。前日の攻撃で多数の敵を討ち取って勝利したとの報を喜び、戦況は使者が実見しているため詳述せず、適切に披露してほしいと頼む。
(慶長四年)十一月廿六日 / 冊子 469~470頁
島津忠豊が伊勢弥九郎に、当地での働きと辛労をねぎらう。本来は参上して申し上げるべきところ、まず飛札を送り、勝利は確実と見込む。今しばらく滞留するなら必ず参謁するとし、現地の状況を報じるよう求める。詳細は鍋倉作右衛門尉に申し含めたと付記する。
(慶長四年)十二月朔日 / 冊子 470~471頁
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、尊札を拝受した礼を述べる。志和地の堀川が二日で成り、高城表から出た敵を追い入れて多数を討ち取り、麓まで放火した勝利を喜ぶ。天神山の陣取・普請が整い、近日あいの垣まで命じたことから、志和地もほどなく入手できると見込む。上方は変わりなく、山田の様子や病気で在陣中に帰った源七郎についても問い、龍様への取り成しを頼む。配置した人数は必要時に夜中でも参上させると伝える。
正月五日 / 冊子 495~496頁
島津忠豊(豊久)が又八郎に、夕方の寅刻に敵が大挙して働き、相の垣に取り付き、番手の薄い所から一部が侵入したと報告する。城内へ追い込み六人を討ち取り、ほかの敵も敗走させ、敵がしばらく継戦するために用意した多量の兵糧を奪ったという。夜間で先方を十分に見分けられず追撃の人数を出せなかったことを惜しみつつ、城内へ兵を追い入れ兵糧を奪った大勝利を伝える。
(慶長五年)正月廿日 / 冊子 500頁
島津忠豊(豊久)が下知を了承し、山口勘兵衛尉が相手方へ赴いて内府徳川家康の懇意を伝えたことを喜ぶ。庄内が収束したとの報も承知しており、三日中に参着する予定なので、その際に詳しく申し述べると伝える。
(慶長五年)正月廿五日 / 冊子 501頁
島津忠豊(豊久)が伊勢貞昌に、一昨日この地へ参陣したと報じ、当地での諸事についてしかるべく取り成すよう求める。あわせて伊勢方の地の様子を知らせるよう頼み、当地には変事がないことを伝える。
(慶長五年)二月五日 / 冊子 507頁
島津忠豊(豊久)が、前日の使者来訪を受け、志和地が今日下城する旨を報じる。高城も弱体化しているため当地の諸城も一両日中に落城するだろうとの見通しを吉報として伊勢貞昌に知らせ、続報を送ると伝える。
七月十二日 / 冊子 61頁
川上忠豊が河上二郎左衛門尉に、当年の諏方神事で川上名字に回ってきた社役について通知した書状。十九、二十日頃に父子二人で参上し、名字中で相談済みの序列・役の上下に従って勤めるよう求める。
七月十七日 / 冊子 61頁
川上忠豊が河上二郎左衛門尉に、川上名字の社役へ必ず出席するよう重ねて求めた書状。尉畋老や紀州老とも連絡しており、二十、二十一日頃に到着するよう勧め、贈られた木綿一反への礼も述べる。
年月日未詳 / 冊子 516頁
山田氏九代忠尚・忠豊らの親子関係、官途、母方を西谷讃岐守久信の娘とする出自などを記した山田氏系譜。
年月日未詳 / 冊子 282~283頁
応永二十年十二月七日の戦闘で佐多三郎九郎忠豊らが戦死したこと、北原彦次郎太郎・天辰式部二郎・遠矢某らの戦死や、小野村での戦闘に関する諸伝を記す殉死者記事。
応永卅二年八月廿二日 / 冊子 335頁
島津久豊が、百王丸こと三郎四郎忠豊の加官に関する旨を島津三郎四郎へ伝えた文書。
年月日未詳 / 冊子 839~840頁
天文十六年正月、郷原をめぐって北郷方と都城方が戦い、忠親の長男忠豊らが兵を率いて攻防した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 904頁
天文二十一年、島津貴久が北郷忠相・嫡孫忠豊らと連署契状を交わしたことを記す系譜記事。
天文廿一年十二月四日 / 冊子 904~905頁
島津貴久・忠将・忠親、北郷忠相・忠豊、島津幸久・忠俊らが一味同心を誓った連署起請文。家中の重要問題と領国内の争いを共同で協議・処理し、互いに隔心や裏切りを持たないことを定め、違反時の神罰を受ける覚悟を神仏に誓う。
永禄十二年三月十三日・元亀二年 / 冊子 242頁
薩州島津家の略系図。忠辰を島津歳久の猶子とし、永禄十二年三月十三日生、天正十五年四月十七日に十九歳で死去したと注記する。元亀二年に出水で生まれた忠清は義久長女を母とし、兄忠辰の罪により母・母堂・弟忠富・忠豊とともに小西行長へ預けられ、長年肥後に在住したとする。
年月日未詳 / 冊子 469頁
島津文七忠豊が大和から島津義久を訪ね、天正十八年四月六日に対面したことを記す。 上洛中の義久のもとへ一族・家臣が参会した動向を伝える短い譜記事。
年月日未詳 / 冊子 302頁
島津義弘譜が帰航途中の動静を記す。十二月五日に鴨瀬を出帆し、義弘父子は対馬で宗義智の饗応を受け、立花宗茂・島津忠豊も同席した。翌六日に対馬を発ち、壱岐勝本を経て迫門へ着き、松浦法印の酒宴を受ける。一方、朝鮮で前代未聞の怯弱を示したとして深野掃部兵衛・長崎六郎左衛門を軍勢の前に引き出し、鮫島筑右衛門尉に処刑させたことも記す。
年月日未詳 / 冊子 302頁
島津家久譜が、慶長三年十二月五日に鴨瀬を出帆した際の対馬での饗応を記す。家久は父義弘と宗対馬守義智を訪ね、立花宗茂・島津忠豊も来会した。義智は家久らだけでなく随従の士卒にも盛膳と美酒を振る舞い、歓を尽くしたのち一行は座を辞して乗船した。
年月日未詳 / 冊子 393頁
島津家久譜は、慶長四年閏三月、伊集院忠真が庄内の十二外城を修築して兵器と兵を備え、都城にあって作戦を立てたと記す。島津方は六月二十二・二十三日に恒吉城を攻めたが堅守されて退き、二十三日に山田城を攻めて即日陥落させた。この戦いでは島津忠豊が佐土原から騎兵・歩兵を率いて来援し、軍功を挙げたとする。
(慶長四年)八月廿日 / 冊子 394頁
徳川家康が島津中務大輔忠豊に、伊集院源次郎忠真がなお下城しないのは不届きであるとし、寺沢志摩守を派遣したので相談のうえ自ら出陣し、忠真を討ち果たすよう命じる。詳細は寺沢の口上に委ねる。
(慶長四年)十二月廿四日 / 冊子 479頁
徳川家康が島津忠豊(豊久)に、庄内方面へ人数を出して加勢に尽力したことをもっともであると評価し、今後も油断しないよう命じる。詳細は寺沢志摩守が伝えるため、書状では詳述しないとする。
(慶長四年)十二月廿四日 / 冊子 479頁
寺沢正成が島津忠豊(豊久)の側近へ、各人が山田方面へ加勢に向かったことを内府徳川家康へ報告したと伝える。寒天で兵糧などを届けにくい時期なので過分な人数は不要とし、以前に述べたとおり上下合わせて百人ほどが適当だとする。忠豊自身の出陣については改めて連絡するとし、家康の直書を添えた旨を知らせる。
年月日未詳 / 冊子 764~765頁
忠豊から忠常まで二代にわたり志和池を領したため地名を家名とした志和池氏系図。申縄の豊後戦死、忠重・忠定以下の生没年、財部・山内・安楽氏との婚姻・養子関係を記す。
年月日未詳 / 冊子 568~569頁
明応四年六月末から七月初めの加治木方との合戦について、喜入忠弘らが坂口の守備・反撃にあたり、敵を討ち退けた経緯を記す譜記事。
天文廿年十二月廿六日 / 冊子 894~895頁
勝手大明神宝殿の再興棟札。聖主の安泰、島津貴久・忠良の願いの成就、子孫繁昌と国中安全を祈り、願主尊勝院頼重、大施主、鍛冶有間九郎兵衛純實ら関係者を記す。別面には風災・水災・火災への祈祷を担う僧侶名と花押も掲げる。
年月日未詳 / 冊子 283~285頁
応永二十年十二月上旬、島津久豊が伊集院頼久とともに菱刈の凶徒討伐へ進軍した義天公譜記事。吉田清正・蒲生清寛・佐多忠豊・川田・比志島諸氏が参加し、鹿児島本城・東福寺城周辺で交戦した。諸将の戦死と忠功、敵方の後退、帰陣までを記し、討伐軍の構成と損害を示す。
〔慶長三年〕十一月廿五日 / 冊子 299頁
豊臣氏奉行衆が九州諸将の陣所へ、明軍・番船の出現を受けて藤堂高虎を派遣したと通知する。敵が在陣中なら船手衆と相談して応戦し、報告に応じ九州から船手・兵員を送るとし、退散後は諸城を釜山浦へ引き取って帰朝するよう命じる。No.595と同じ撤収方針を、島津忠豊ら九州諸将へ伝えた文書である。
年月日未詳 / 冊子 299頁
島津家久譜が朝鮮からの帰航経過を記す。十一月二十五日に牧島を出帆し、島津忠豊と同じ航路で対馬の鰐浦・細泊・白賀を経て鴨瀬へ着いたが、逆風により足止めされた。さらに十一月十八日の順天海口・南海島付近の戦闘で戦死・負傷者が出て、帝都へ向かう者と帰国する者について朝鮮で定めた上下の人員編成が大きく欠けたため、島津忠長ら老臣が現地の家屋を借りて協議し、欠員を補充・再編するため鴨瀬浦に滞留したとする。
年月日未詳 / 冊子 300頁
島津義弘譜が、十一月二十五日に牧島を出帆し、島津忠豊とともに対馬の鰐浦・細泊・白賀を経て鴨瀬へ着き、逆風で停船した帰航経過を記す。義弘父子が帝都へ赴く一方で帰国する士卒もおり、十一月十八日の順天海口・南海島付近の戦闘による戦死・負傷で当初の人員編成が大きく欠けたため、島津忠長ら老臣が現地で協議し、欠員を再補充するため鴨瀬浦に滞留したとする。
年月日未詳 / 冊子 393~394頁
北郷忠能譜は、伊集院忠棟誅殺後、忠真が都城と十二の砦を拠点に反乱し、島津忠恒が庄内へ出陣した経過を記す。北郷三久は十三歳の長千代丸を伴って東霧島に布陣し、六月二十三日の山田城攻略では島津忠豊・新納忠元・入来院重時・村尾松清らが数百の首を得た。一方、六月晦日の蟻瀬の伏兵で長野種堅・宮越正秀が戦死し、七月十三日の志和池・野之三谷の戦いでは味方が敗走したが、長千代丸の兵が三王門を支えて追撃する敵を退けたとする。
(慶長三年)十一月廿五日 / 冊子 297~298頁
豊臣政権の五大老が九州諸将へ、朝鮮に明軍と番船が現れたため藤堂高虎を派遣したと通知する。敵が在陣していれば現地の船手衆が相談して応戦し、報告に応じ九州に待機させた船手・兵員を急派するとする。敵が退散した場合は徳永寿昌・宮木長次への先命どおり諸城を引き払い、釜山浦へ集結して帰朝し、全般を藤堂の指図に従うよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 386頁
薩州島津氏の系譜を図示し、忠辰・忠隣・忠清・忠栄らの系統と、久基、久弘、久近らへの分岐を示す。各人の通称・官途として又太郎、三郎次郎、備前守、越前守、民部少輔、弥市郎などを付記する。
(寛文七年)七月十六日・十七日 / 冊子 537頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1218
島津図書が豊臣譜の誤記を指摘する覚書二通。島津又七郎忠豊と島津又太郎忠辰を区別し、出水領主忠辰の父系・朱印と、義弘弟家久の子忠豊の佐土原領・朝鮮戦功・関ヶ原戦死・安芸久雄相続を挙げる。又七改易という誤記の訂正を弘文院へ求めるが、南浦文集等に基づき旧板で世間に流布したものは直せないとの事情があり、今後板本を改めるよう求める。朝鮮感状と太閤朱印写など三通を渡す。七月十六日・十七日付。末尾には二通の正本が江戸上屋敷評定所にあるとの注と、九月八日に持ち下された覚書二通の内との付記がある。
(慶長三年)十一月十八日 / 冊子 283~284頁
島津豊久が(慶長三年)十一月十八日付で伊勢弥九郎へ出した書状。蔚山・西生浦の勢が十七日に撤収して無事到着し、この日に出船したこと、竹島・昌原も前日に引き払ったと伝える。順天方面の番船が追い払われたとの風聞を喜び、自身の在所には異変がない一方、見舞いの使者を出せない事情を説明する。
(慶長三年)十一月廿日 / 冊子 284頁
島津豊久が(慶長三年)十一月廿日付で伊勢弥九郎へ出した書状。順天方面の番船と交戦して味方の船も出たとの知らせを受け、家中の負傷者や現地の様子を案じる。加藤主計頭・黒田氏・鍋島氏が当地へ来たものの急迫した様子ではないと伝え、使者を送れないため、詳しい状況を返信で知らせるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 285頁
『島津家久譜』の記事。釜山浦の諸将が吉日を選んで一斉に帰朝する約束を結んだ後、島津義弘・忠恒父子は救出した将兵とともに十一月廿一日夜半に巨済を発し、昌原・安骨浦・加徳島を経て釜山へ向かったとする。到着すると諸将は約束を破ってすでに帰国しており、明・朝鮮の大船団を恐れず待っていた島津豊久だけが父子を迎えた。父子は廿四日に釜山浦を出帆した。
巻三/冊子 33~35頁
肥後の田尻氏と肥前の有馬氏を救援し、龍造寺隆信を討った経過を記す。隆信に攻められた田尻氏の要請で島津軍が肥後へ進出するが、遠征軍は兵糧・装備が不足して一度撤退した。続いて有馬氏の救援要請を受け、新納忠堯・川上忠堅らを安徳へ送るが、深江攻撃で忠堯が戦死する。翌天正十二年、家久を大将に忠豊・彰久・忠長・忠元ら約千五百騎が島原へ渡り、有馬軍と合流した。数万とされる隆信軍に対し、家久は退却を許さず死戦を命じ、沖田畷で敵を狭隘な地形へ引き込んで撃破する。川上忠堅らが隆信の所在を突き止め、最終的にその首を得た。島津方も多数の戦死者を出したが、敵首三千余を得たとし、守山・神代などの城が落ちた。有馬氏には旧領の一部を返し、島原方面へ島津の守将を置いた。寡兵による大軍撃破と家久の指揮を強調する記事である。
巻五/冊子 79~84頁
泗川勝利後、明・朝鮮軍に包囲された小西行長・大村・五島・有馬・松浦の五家を救い、日本へ撤兵した経過を記す。義弘・忠恒は、五家を見捨てれば日本軍全体の威信を失うとして、立花宗茂・高橋直次・寺沢広高らと軍船を整え、順天方面へ向かう。海戦では火器・矢石が飛び交い、多数の戦死者を出しながら敵船へ乗り移って首級を得、三艘を奪って包囲を解いた。途中、樺山忠征・大野久高ら五百余人が南海島に取り残されるが、伊勢貞昌が主命を得て危険な海路を渡り救援を実現する。秀吉死去後、十一月十五日を期限に撤兵する命令が届き、諸大名は釜山浦で同時に帰国する約束を破って先に去る。義弘父子は孤立するが、忠豊が釜山城に残って迎え、無事に博多へ帰還する。伏見で五大老に秀吉の死を弔った後、泗川の功によって出水・高城・加治木などの知行、義弘への正宗、忠恒への長光と少将任官が与えられ、詳細な知行目録が掲げられる。七年間の朝鮮軍役の終結、同僚軍の救出、撤兵時の危機、帰国後の恩賞を一体として記す記事である。
応永廿八年八月十三日 / 冊子 49頁/原整理番号 263
島津存忠(久豊)が羽島新三郎に、薩摩郡内羽島の本領当知行について領掌に相違がないよう安堵した文書。応永廿八年八月十三日付。
応永廿八年八月九日 / 冊子 49頁/原整理番号 264
島津存忠(久豊)が羽島新三郎に、薩摩国内の東郷退治の際、国分万徳の代として取り計らうよう命じた宛行状。応永廿八年八月九日付。
天文十四年十一月二日 / 冊子 328~329頁/原整理番号 88
日州島津御庄郡本稲荷九社大明神の宝殿を再造した際の棟札を記録する。神威と氏子の安泰を祈り、天文十四年十一月二日の年月日と修造に関わる島津家の人名を記す。