伊集院忠真譜
年月日未詳 / 冊子 840頁
伊集院忠真譜は、島津忠恒が京都へ向かう途中に日向国野尻へ滞在し、忠真の隠謀が露見したため、慶長七年八月十七日に当地で忠真を討ったことを記す。
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年月日未詳 / 冊子 840頁
伊集院忠真譜は、島津忠恒が京都へ向かう途中に日向国野尻へ滞在し、忠真の隠謀が露見したため、慶長七年八月十七日に当地で忠真を討ったことを記す。
元亀二年六月廿三日 / 冊子 248頁
川上忠真は小次郎・治部少輔・筑前守を称し、まず島津忠良に仕え、忠良没後は島津貴久に奉仕した。元亀二年六月二十三日、貴久の病状が重くなると側近くに侍し、貴久は忠真の膝の上で息を引き取ったとする。
年月日未詳 / 冊子 358頁
伊集院忠真が慶長四年三月九日に父忠棟を誅殺された後、庄内に拠って島津忠恒へ反抗した。翌年三月に仲介を受けて和睦し、忠恒のもとへ降って大隅国帖佐に居住したことを記す。
(慶長四年)六月十八日 / 冊子 390~391頁
伊集院忠真が川上忠智に、石田三成の使者櫻木平右衛門尉が通路封鎖のため当地に滞留していたので、供を一人添えて上洛させ、中央への取次を求める。長束正家を通じて武庫様(島津義弘)の直書を受け、以前の請文に相違がない旨を申し上げたものの、幸侃成敗後は境目の放火や往来停止に及び、自身まで幸侃と同科に処されるとの風聞があるため、義弘を通じて身上を決着し、一途に和解を整えるよう頼む。
十一月六日 / 冊子 465頁
伊集院忠真が平野源右衛門尉・高島新蔵に対し、幸侃を糺明せず成敗し、自身も去る三月以来進退を封じられたことを非道と訴える。表裏の行為や龍伯・兵庫頭の神文違背などを別紙に列挙して両所への取成しを求める。また武庫入との会談、大坂が静謐であることを伝え、今後の書信と親交を望む。
慶長五年三月十日 / 冊子 518~520頁
伊集院忠真が、重い罪を赦され、山口直友の取り次ぎによって召し出されて知行を与えられる恩に感謝し、今後は悪逆を企てず忠節を尽くし、いかなる命にも従うと誓う。違背した場合には諸神の罰を受けることを神文に記した起請文。
(慶長五年)三月十五日 / 冊子 524頁
伊集院忠真が伊那図書頭の家臣らに、山口直友の尽力で和融が整い、前日に浜市へ出て島津義久・忠恒父子に対面したと報じる。徳川家康の意向により二万石を与えられたことを伝え、近日中に使者を派遣するので、機会があれば取り成してほしいと依頼する。
慶長七年八月十七日 / 冊子 838-840頁
伊集院忠真を処断する根拠となった科条。主命・家中の裁許への違背、加藤清正ら他国勢力との通謀、忠恒・龍伯・惟新への逆心、家臣や人員の隠匿、虚偽の申告、軍役・知行処理の不正、殺害・騒乱など多数の罪状を列挙し、忠真と関係者を処罰して上洛前の不安を除くことを正当化する。
慶長十一年八月十一日 / 冊子 85~87頁
樺山忠真ら四十八名が、一向宗の糾明を受け、自分たちは同宗の信徒ではなく今後も帰依せず、主君への奉公に背かず野心・不忠を抱かないと、神仏を列挙して誓った連署起請文。讒言があれば十分に調査することも求める。
(慶長五年)十一月六日 / 冊子 610頁
本文はNo.950文書と同文であるため省略されており、当該箇所からは書状の具体的内容・宛所を確認できない。
年月日未詳 / 冊子 669頁
川上氏支流について、忠直・忠真・八郎三郎・筑前守らの系統、名乗りや続柄を列記した系図記事。
天正三年 / 冊子 438頁
天正三年、島津義久の命で歳久が市来湊から海路上洛し、川上忠真・八木主水佑を案内役として詩歌・連歌を学んだ。紹巴と連歌を催し、青蓮院尊朝・尊道親王・近衛前久の筆跡を得たことを記す。
年月日未詳 / 冊子 358頁
島津義弘・忠恒が七年の朝鮮軍役を終えて伏見に帰った後、八万石を与えられながら主君への反逆を企てたとされる伊集院忠棟を、忠恒が慶長四年三月九日に茶亭へ招き、膳と菓子を供したのち自ら追って斬った。都城にいた長男忠真は父の仇を報じようとして庄内に十二の塁を築き、兵器を集めて反乱したため、伏見の忠恒が徳川家康へ報告し、帰国を許されたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 359頁
慶長四年春、島津忠恒が伏見の邸で家老伊集院忠棟を手討ちにした後、その子忠真が主命に従わず都城に籠って十二の砦を構えたため、忠恒が大軍を率いて進発し、島津以久も従軍して庄内各所で戦ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 359頁
慶長四年三月、伊集院忠真が都城に拠って十二の砦を構え、同年六月に島津忠恒が出馬すると、北郷久村は宮之城から長千代丸に随って出陣した。敵の出城防戦に際し、味方が退いた後も久村は退かず、三度援兵を率いて敵城内まで追撃し、多くの家臣が戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 359頁
慶長四年、樺山久高が市成を領していたころ、島津忠恒が伏見で伊集院忠棟を討つと、都城の忠真は父の仇を報じるため十二の外城を構えた。龍伯は国中の混乱を恐れて庄内周辺の要地に諸将を配し、久高も志布志に置かれて国境警備と戦闘にあたり、のち樺山家の家督となったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 359~360頁
慶長四年三月、龍伯の下向と幸侃生害を受け、庄内境の清水之浦・廻・市成・大崎・志布志・松山・高原・高崎などに諸将を配して警固した経過を記す。久高は志布志を拠点に各所を巡回し、梅北・末吉・飫肥越の通路を押さえて敵を休ませず、その忠節と弓矢の手柄を第一と称された。のち忠恒が庄内へ向かい山田・志和地を攻略し、山口勘兵衛尉の下着によって和議となり、久高は二万石を与えられ、忠真は阿多に残されたとする。
(慶長四年)三月廿五日 / 冊子 362頁
幸侃成敗を知らせる飛脚を早く上せるつもりであったが、庄内へ遣わした使僧の返報を待ったため遅れたと述べる。源二郎忠真には下城を命じたものの未解決で、決着後に改めて一人を上せること、石田治部少輔へ送る二通の書状を届けてほしいことを兵庫入道に伝える。
年月日未詳 / 冊子 371頁
慶長四年閏三月、伊集院忠真が父忠棟の仇を報じようとして、庄内の居城のほか十二の外城を修築し、兵士を入れて守護の命に従わなかったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 371頁
慶長四年三月、島津豊久が中務大輔・侍従に任じられ、同月廿九日に佐土原へ帰着した。四月二日には富隈で龍伯に会い、幸侃誅殺を深く恨む忠真が庄内の十二外城を構え、兵と武器を集めていたため、和議に従わなければ太守が軍勢を発して討つとの密議を行い、佐土原へ帰ったことを記す。
(慶長四年)四月十四日 / 冊子 374頁
島津義弘が忠恒に、秀頼から拝領した馬が見事であると祝う。相良新右衛門尉から龍伯の意向と国元の様子を聞き、庄内問題が未解決で忠真の弟らもなお兄に加担していると伝える。また本田六右衛門尉の大坂派遣に際し、秀頼が忠恒へ特に念を入れて月毛の馬を与えたため、追って送ると知らせる。
年月日未詳 / 冊子 392頁
町田久幸譜は、慶長四年六月二十三日、島津忠恒が大軍を率いて伊集院忠真の山田城を攻め落とした際、町田久幸が大口衆を率いて自ら城へ乗り込み戦功を挙げたと記す。一方で、久幸の軍では町田新介・木場民部左衛門以下、多くの戦死者を出したとする。
年月日未詳 / 冊子 392頁
新納忠在譜は、慶長四年夏、伊集院忠真が都城を拠点に十二の砦を構えて反乱した際、新納忠在が太守島津忠恒の厳命を受けて庄内へ赴き、軍務に従事したと記す。翌年三月、忠真が城を下りた日に忠在も帰陣したとする。
年月日未詳 / 冊子 393頁
島津家久譜は、慶長四年閏三月、伊集院忠真が庄内の十二外城を修築して兵器と兵を備え、都城にあって作戦を立てたと記す。島津方は六月二十二・二十三日に恒吉城を攻めたが堅守されて退き、二十三日に山田城を攻めて即日陥落させた。この戦いでは島津忠豊が佐土原から騎兵・歩兵を率いて来援し、軍功を挙げたとする。
年月日未詳 / 冊子 393~394頁
北郷忠能譜は、伊集院忠棟誅殺後、忠真が都城と十二の砦を拠点に反乱し、島津忠恒が庄内へ出陣した経過を記す。北郷三久は十三歳の長千代丸を伴って東霧島に布陣し、六月二十三日の山田城攻略では島津忠豊・新納忠元・入来院重時・村尾松清らが数百の首を得た。一方、六月晦日の蟻瀬の伏兵で長野種堅・宮越正秀が戦死し、七月十三日の志和池・野之三谷の戦いでは味方が敗走したが、長千代丸の兵が三王門を支えて追撃する敵を退けたとする。
年月日未詳 / 冊子 394頁
島津豊久譜は、豊久が精兵を率いて佐土原から庄内へ赴き、島津忠恒方と陣柵を構えて敵城を攻めたと記す。六月二十二日の山田城攻めでは、薩摩勢が本城を攻める間に豊久が新城へ乗り込み、旗を立てて守兵を置いたうえで本城を攻撃し、防御を崩して家臣らが多くの敵首を得た。その後は森田に布陣して志和池城包囲に従事し、徳川家康から寺沢志摩守と評議して伊集院忠真を討つよう命じる教書を受けたとする。
(慶長四年)八月廿日 / 冊子 394頁
徳川家康が島津中務大輔忠豊に、伊集院源次郎忠真がなお下城しないのは不届きであるとし、寺沢志摩守を派遣したので相談のうえ自ら出陣し、忠真を討ち果たすよう命じる。詳細は寺沢の口上に委ねる。
(慶長四年)七月四日 / 冊子 396~397頁
近衛信尹が、伊集院忠棟の死後、北郷弥右衛門尉らを介して忠真・又八郎に君臣の道をわきまえて武庫に従うよう勧めた経過を述べる。庄内方がなお籠城しているため、龍伯と相談して過失なく処置し、内府徳川家康の使者とも現地の状況を熟談するよう求める。また、忠真兄弟と母の処遇、上井神五郎の上洛、出水表の配当帳や国元での糺明にも言及する。
年月日未詳 / 冊子 470頁
内大臣徳川家康が、命令に応じない伊集院源次郎忠真を責めるため、使者の山口勘兵衛尉直友を再び薩摩へ下向させた記事。その際、島津忠恒に衣服一領を与え、続いてその書状を掲げると記す。
年月日未詳 / 冊子 508頁
慶長五年二月、志和池城降伏後に北郷方が山之口で戦い、家臣三名を失いながら勝利した。梶山・勝岡・山之口・高城・安永など諸城が相次いで降伏し、忠真が都城を退去したのち、竜伯・忠恒が都城へ入り、諸城を長千代丸に与え、十一歳で元服させ忠能と名乗らせた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 514~515頁
慶長五年、志和池城の降伏後も伊集院忠真方が各地で敗れ、徳川家康の使者山口直友が和議を仲介したため、島津義久・忠恒と忠真方が連署起請文を交わした経緯を記す。旧怨を捨て、所領・家臣の安全を保証し、違背時には諸神の罰を受けることを誓う。
慶長五年二月廿九日 / 冊子 515頁
島津義久(龍伯)・忠恒が、伊集院忠真(源次郎)が島津家に仕えない意向を寺沢正成へ示した件について、深い遺恨はあるが徳川家康の意向により捨て置き、今後龍伯に奉公するなら旧怨なく召し使い、不届きや讒訴があれば糺明のうえ処分すると誓った連署起請文。
(慶長五年)三月八日 / 冊子 518頁
島津忠恒が、伊集院忠真の処遇について、山口直友の仲介で和融が成立し、忠真が浜市へ出頭したと述べる。徳川家康の意向により二万石を与えて召し出すこととなり、都城を攻め潰す事態を避けて近日中に使者を派遣すると伝える書状案。
慶長五年三月十二日 / 冊子 520~523頁
青木利金ら六十二名が、島津義久(龍伯)・島津義弘(惟新)・島津忠恒(少将)に二心なく奉公すると誓う。親族を含め逆心の企てには同意せず直ちに通報し、伊集院忠真らと私的に結ばず、他国へ内情を漏らさず、御家に難儀があれば親族を捨てても奉公し、国を離れる事態でも島津領内で最期を遂げることなどを連署した起請文前書。
慶長五年三月十三日 / 冊子 523~524頁
伊集院忠真の降伏後、島津豊久が都城方面から帰陣したことを記す。各地の戦闘で三原九兵衛・野村藤蔵・坂元半兵衛・富山次十郎・前田大膳兵衛・野田覚内ら多数の家臣が戦死し、負傷者も数多かった。軍功により野々三谷を与えられたが、豊久は辞退した。
年月日未詳 / 冊子 524頁
伊集院忠真が謀略を断念し、山口直友の説得に従って降参を決めたため、都城・財部・梅北・末吉の城を撤去したと記す。三月十四日に島津義久・忠恒が都城へ入り、翌十五日には大平・吐気・岩切方面へ進んだ。
(慶長五年) / 冊子 524頁
庄内和平後の処置を列挙した覚書。庄内の祝儀、北郷旧領への配置と知行、伊集院忠真へ与える知行所目録、庄内支配、徳川家康の命令以前の懇談、山口直友の下向と和平成立、忠真の上洛、国元の仕置を整えた後の上洛などを確認事項としてまとめる。
(慶長五年)三月十八日 / 冊子 525頁
島津義弘が忠恒に、伊集院忠真の召し出しと庄内の和融に際して山口直友との連絡を怠れば徳川家康の不審を招くと注意する。伊那図書頭から聞いた家康の意向を踏まえ、国元の仕置を十分に整えてから上洛し、庄内平定の注進と今後の吉報を待つと伝える。
(慶長五年)三月廿二日 / 冊子 526頁
徳川家康が島津忠恒に、伊集院忠真の侘言を受け入れて赦免したことを了承し、近く上洛するとの知らせを聞いたので、国元の仕置を整えたうえで上洛するのを待っていると伝える。詳細は島津義弘から伝えるとして省略する。
年月日未詳 / 冊子 526頁
三月十四日に伊集院忠真が富隈の島津義久邸へ降参し、翌十五日に義久・忠恒が庄内の都城へ入り凱歌を挙げたことを記す。十八日に軍勢を帰陣させ、二十日に義久が富隈へ、二十二日に忠恒が鹿児島へ戻り、忠真の降参を徳川家康へ報告して返書を受けた経過をまとめる。
(慶長五年)三月廿二日 / 冊子 526~527頁
徳川家康が、伊集院忠真を討ち果たす方針であったが、山口直友を再び派遣し、島津忠恒との会見を経て忠真を赦免し、堪忍分として一万石を与えた処置を妥当と認める。詳細は島津義弘から伝えるとして省略する。
(慶長五年)四月九日 / 冊子 530~531頁
新納旅庵長住が、庄内落去と伊集院忠真の出仕を島津忠恒の名誉として祝し、北国情勢を理由に早急な上洛と徳川家康への忠節を勧める。肥後方面や大口で捕らえた者について、家康の意向に従い、口上を聴取したうえで厳重に長期拘禁し、番衆を付けて管理するよう求める。
(慶長五年)四月十一日 / 冊子 533~534頁
島津義弘が忠恒に、伏見で徳川家康に拝謁し、庄内平定、伊集院忠真の出仕と二万石の付与、山口直友による仲介を報告した経緯を伝える。あわせて上杉景勝が上京を拒んで伊那図書頭が会津へ向かった情勢を述べ、家康の意向に沿った処置を評価する。
(慶長五年)四月十二日 / 冊子 534頁
伊勢如貴貞知が、出京後に御家門から庄内の状況を尋ねられ、三月十四日に伊集院忠真が出仕したと答えたことを報じる。庄内が無事に収まったので関係者へ音信を送ることや、東山へ参詣しながら御家門へ参上していない事情を尋ね、島津義弘にも伝えるよう依頼する。
年月日未詳 / 冊子 545~546頁
島津忠恒(家久)が文禄三年に豊臣秀吉から島津義弘の後嗣として薩摩・大隅・日向の守護職に補され、朝鮮へ渡って五年間軍務に従った経歴を記す。帰国後の伏見で伊集院忠棟(幸侃)を斬り、その子忠真(源次郎)が庄内で挙兵したが降伏して国中が静謐となったため、忠恒が領国を巡見して法度と土地支配を整え、そのため上洛が遅れて徳川家康の書状を受けた経緯を述べる。
年月日未詳 / 冊子 561頁
島津義弘(惟新)譜として、徳川家康の上杉景勝征討中に石田三成が残留大老を謀って関東に対抗し、義弘へ出兵を催促した経緯を記す。義弘は七月二日から十七日まで繰り返し拒み、伏見城への入城と守備を願ったが鳥居・内藤らに拒絶された。朝鮮出兵や伊集院忠真の反乱で兵が二百余人に減り、忠恒や義弘の妻を含む一族が大坂に人質としていたため、やむなく石田方に加わり、八月朔日に伏見城を落としたと説明する。
慶長五年八月廿五日 / 冊子 569~571頁
島津宗恕以久が図書頭殿へ提出した起請文。忠恒に対して家の安全を守り、世上が乱れても他に与せず忠節を励むこと、庄内の戦いで別心を抱かず伊集院源次郎忠真と通じないこと、親子であっても忠恒に異心を持つ者とは離れること、不忠の情報を聞けば披露すること、疑いを受けた際は糺明に従うことを誓い、梵天・帝釈以下多数の神仏を勧請する。
年月日未詳 / 冊子 672-683頁
新納忠元の勲功記から、慶長五年の庄内合戦終結、伊集院忠真の降伏、上杉征討、岐阜城・竹ヶ鼻での石田三成方の敗北、関ヶ原本戦と島津義弘(惟新)の敵中突破・退却、大坂の夫人方救出と海路帰国を詳述する。帰国後の稲津掃部の動きや伊東方への備え、肥後の加藤清正への警戒、大口の地頭職と千石加増までを時系列に記録する。
慶長六年三月廿二日・五月廿一日 / 冊子 754頁
児玉氏譜は、伊集院忠真の所領没収後、児玉主水佑が慶長六年三月二十二日に日向国財部・松山・志布志などで六百石を加増され、五月二十一日にも河原・見次村などへ知行替えを受けた経緯を記す。
慶長六年 / 冊子 755頁
春岳和尚の覚書は、慶長六年に伊集院源次郎忠真の八万石が没収され、その日に薩摩・大隅・日向三か国の諸侍へ加増が命じられたことを記す。