島津日新忠良書状
永禄五年正月廿一日 / 冊子 102頁
日新が新納康久の従来の忠節を忘れていないと述べ、廻陣で子の文八郎順次が戦死した悲嘆を慰めた書状。弟弥五郎に家を継がせることを了承し、鹿児島へ上申し、自身からも取り成すとして後亀の鏡を贈った。
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永禄五年正月廿一日 / 冊子 102頁
日新が新納康久の従来の忠節を忘れていないと述べ、廻陣で子の文八郎順次が戦死した悲嘆を慰めた書状。弟弥五郎に家を継がせることを了承し、鹿児島へ上申し、自身からも取り成すとして後亀の鏡を贈った。
年月日未詳 / 冊子 719~720頁
熊谷半次・垣見弥五郎を帰朝させるにあたり、各城の絵図・城主の受取札・在番割を確認し、帳面に基づいて交替を処理するよう命じる。 金山浦などの兵糧、船・武具の残置と引継ぎも定め、朝鮮沿岸の城郭・兵站を記録によって管理した朱印状。
(慶長三年)三月廿二日 / 冊子 200~201頁
新納為舟忠元が上井神五郎へ、上洛したと聞いて書き送った書状。吉田の内にある冨森九介・嶋田弥五右衛門尉の各三百石余の役口について、そのうち一口の取成しと知行方の配当を頼み、国境へ移るには少数でも役立つ人衆を伴わなければ困難だと訴える。また返地として上申した蔵野の内約五百五十石について、岡松が未検地なので検地後に帳面を提出するとし、岡松から京都・高麗へ夫丸を立てる件の差止めと、孫の二郎兵衛尉を上洛させる際の支援も依頼する。
(慶長四年)十一月廿四日 / 冊子 467~468頁
島津惟新が又八郎に、相良甚兵衛尉・大脇弥五右衛門尉の無事到着、庄内しわち・野々三谷への着陣としわち城落去の見通しを報じる。寺沢志摩守の浜之市到着、肥後方面の通路遮断、山口勘兵衛尉の再下向と法度・置目の徹底、内府拝領の栗毛を送ったことなどを列挙し、勝利後の処置まで油断しないよう求める。
年月日未詳 / 冊子 560頁
大重平六が、石田三成の挙兵に際し島津義弘(惟新)が徳川家康との特別な関係を理由に同心を拒んだこと、伏見城への籠城を申し入れたものの城方に拒まれたことを記す。井尻弥五助を江戸へ遣わしたが、家康の返書を携えた帰途に近江水口で襲われ、返書は判のみを残したという。
年月日未詳 / 冊子 629-630頁
井尻弥五助が島津方の書状と孔雀の尾羽二羽を徳川家康へ届け、良い返事を得た。帰路、水口で厳重な検問を予想して書状を焼き判だけを隠したが、不審者として二十日間拘留された。伊勢参詣と島津義弘(兵庫頭・惟新)の家臣松岡勝兵衛との関係を説明して釈放され、拘留に耐えた奉公を賞され、のち伏見城攻撃でも働いた。
年月日未詳 / 冊子 687-689頁
井尻弥五助が徳川家康への書状を携えて江戸へ向かい、水口で厳しい改めを受けて拘禁された後、釈放されて伏見攻めや関ヶ原退却に供奉した経緯を記す。住吉で義弘が切腹を決意すると供衆も殉死を覚悟したが、大坂の夫人方が無事との報で中止し、仙秀坊が人質退去の手形を得て一同は帰国した。
年月日未詳 / 冊子 14~15頁
差出人不詳の人物が、久しく出入りしなかった八代へ赴き、牧弥五郎の件が義陽の代に定められた成敗どおり処理されたことへの謝意を述べた書状。弥五郎の兄が自分たち親子を狙うとの風聞に対し強い措置を求め、子孫のためにも今後の支援を頼む。あわせて双方の近況と女子衆の消息を伝える。
(文禄元年)11月10日 / 冊子 613頁
豊臣秀吉が羽柴薩摩侍従(島津義弘)へ、炎天の渡海と寒天に及ぶ長期在陣の苦労をねぎらい、兵糧を十分に集積して占領した城々を堅固に守るよう命じた朱印状。翌春三月に秀吉自身が渡海して平定すると告げ、将兵を倦ませないこと、船を残らず送って兵糧輸送に用い、船子は帰郷・休養させて次の御用に備えるよう指示している。
(文禄元年)11月10日 / 冊子 613頁
豊臣秀吉が島津又七郎(島津豊久)へ、長期在陣と寒天の苦労をねぎらい、小袖二重を与えた朱印状。翌春に自ら渡海して一気に平定すると告げ、それまでは性急な軍事行動を避け、城々を堅固に守り、兵糧を十分に集積するよう命じている。No.989の島津義弘宛と同日付だが、豊久に対しては城郭守備と軽率な出撃の抑制を重点的に指示した点が特徴。
(慶長五年)八月十六日 / 冊子 563~564頁
島津義弘(惟新)が少将殿へ、小傳次兄弟・母や幸侃妻子の下国について、自分は当初暇を与えておらず、徳川家康側の強い勧めを受けて帰した経緯を詳述する。三郎五郎・千次の下向は承知していなかったとも述べる。自身は佐保山から美濃垂井方面へ陣替えするが兵が少なく、春松が病むため、島津義久(龍伯)の使者吉田美作守を留めて留守中の用を任せ、奥方の傍に仕える者を急ぎ上らせるよう求める書状。
文禄3年 / 冊子 794~795頁
島津領の検地に派遣する人員を、薩摩・大隅・日向の担当別に列挙する。薩摩方には黒川右近ら、大隅・日向方にも複数の奉行衆を割り当て、全体の奉行として大橋甚右衛門尉を掲げる。 八月に大坂を出立すること、扶持・馬の飼料、伝馬・人夫・船を行程に応じて手配することも命じる。太閤検地の実働部隊と移動・兵站を具体的に示す名簿兼覚書。
年月日未詳 / 冊子 630頁
伏見城落城後、島津義弘(惟新)一行は大津から船で佐和山へ向かったが大風で八幡山に宿泊し、翌日佐和山、続いて垂井を経て大垣へ入った。曽根を先手とし、河渡の守備兵が東軍に破られて大垣へ追い込まれ、岡山にも東軍が陣取ったため、味方が後手にならぬよう関ヶ原へ出て一戦する方針を定めた。
年月日未詳 / 冊子 441頁
伊集院氏の系図断片で、久兼から俊忠(侍従房)・弥五郎(図書助、初号伊集院、法名道實)へ続く系譜を図示する。
建武二年五月廿八日 / 冊子 635頁
筑前国箱崎八幡宮の旧領について、往代の寄進跡を確認し、同宮へ還付して武運長久を祈らせるよう伊集院弥五郎入道に命じた御教書。
暦応四年七月七日 / 冊子 739頁
薩摩国凶徒退治のため、一族を催して七月廿日以前に発向するよう郡山弥五郎へ命じた島津貞久書下。
貞和二年九月廿一日 / 冊子 770頁
満家郡山城を敵方が誘い取ろうとしているため、油断せず猶予なく警戒・用心するよう郡山弥五郎へ命じた沙弥某書下。
年月日未詳 / 冊子 570頁/原整理番号 591
『寛明日記』七日条。上使が井上筑後守の有馬陣へ到着し、松弥五左衛門が今晩着陣した旨を記す。
年月日未詳 / 冊子 570~571頁/原整理番号 592-1
親見出し『平塞録』の記事。七日、上使兼松弥五右衛門が有馬へ到着し、寺沢兵庫頭の出陣、籠城側の動向、細川勢の軍議と飛脚差立てを記す。
年月日未詳 / 冊子 583頁/原整理番号 617
『平塞録』九日条。上使兼松弥五右衛門が島原を引き払い、江戸へ帰ったことを簡潔に記す。
年月日未詳 / 冊子 146頁/原整理番号 254-2
小原織部の取払帳米払方。今村之弥左衛門、長前之清右衛門、荒武弥五右衛門尉の三人について、それぞれ真米一斗五升七合五夕を、正月十六日夜から二月十七日夜まで三十一日分の一かたけ分として記す。以下は十九日条に載せるとの注記がある。
貞治六年十月一日 / 冊子 111頁/原整理番号 424
覚阿が、子のない弥六の跡の水田について、長谷場内の田地や甘子木村内西牟田五段などを正弟六郎に譲った譲状。六郎に弥五郎を親と思って仕え、互いに水魚の思いで知行するよう定める。貞治六年十月一日付。
年月日未詳 / 冊子 132~133頁/原整理番号 483
肝付次右衛門家の系図。弥五介に実子がなく、肝付金右衛門尉兼利の嫡男を養子とした由緒を記し、その伝右衛門尉が万治元年九月八日に没し、法名を光徹芳清としたとする。伴九郎弥五介は島津義弘に供奉して朝鮮で戦死した。以下、兼頼・兼広・兼近らの分岐、女子の婚姻、養子、出生・死亡年月日と法名を列記する。
年月日未詳 / 冊子 111頁
新納氏古日記の記事。五月朔日に島津光久が日光参詣へ出発し、伊勢貞昌・野村大学助・新納刑部太輔ら九名が供奉したこと、四日に登山して太刀一腰・馬代銀三十枚、神祭料金子一両、宮仕・八乙女への青銅、毘沙門堂門跡や各院へ銀子を進上したこと、六日に帰館して日光での勤めを終えたことを記す。
正応元年八月十五日 / 冊子 348頁
新田宮雑掌が求める社造営用途・国衙正税物について、前月の書下どおり参対し、猶予なく十八日までに決着させるよう鹿児島西方郡司弥五郎へ命じた渋谷重郷書下。
「寛永十六年」八月十日 / 冊子 31~32頁
島津久元が国元の重臣らへ、ポルトガル船や黒船が領内へ来航した場合の処置を報告した書状。港に番を置き、長崎奉行らへ知らせ、江戸へ急報し、抵抗する船には石火矢を用いて徹底して対処するよう幕府から命じられたと伝える。あわせて姫君の祝言日程と兼松弥五左衛門尉の長崎派遣を知らせている。
明和二年酉三月十九日 / 冊子 54頁/原整理番号 172の1/整理ID 172-1
下甑野・頴娃唐松野の御牧を、取駒が少なく脚柄がよくないため廃止すると、川上弥五太夫を介して小松式部から伝えられた記録。領内の牧数を定めたことはなく、他の牧の廃止・再設置時も幕府へ書き出した例がないので今回も先例どおりとし、吉田用右衛門が書付一通を受け取り白木御文書五番箱へ収めた。両所の役人には書付を渡さず、牧柄の不適・取駒減少、とりわけ土地の困窮・難儀を理由に廃止し、一時的な閉鎖ではなく牧場を作職等にする旨を口頭で伝えたという。後年、巡国上使から牧数を問われた際は書付の趣旨を調べて答え、内々の困窮による廃止ではない旨も含めて申し出るよう、事情を詳しく帳留する指示も記す。
11月27日 / 冊子 426頁/原整理番号 396の5
同日、正左衛門・弥五左衛門・彦介・軍右衛門・拾介の合計五人を掲げる。小野原から立てた水手として、三原源右衛門・永山覚兵衛尉に受取りを命ずる。
年月日未詳 / 冊子 82頁/原整理番号 18
『慶応四年戊辰三月写終 伊地知季通 藤原姓長谷場氏系図』とする中表紙・冒頭系図に続く、矢上氏の短い系図抄。冒頭系図には貞満・貞国と五郎左衛門、助七、喜右衛門らを配し、貞満を中村勘解由左衛門義康の三男と記して、郡奉行・御書物奉行・公事奉行の官歴を添える。印刷番号18の本体は矢上五郎時澄から沙弥阿妙・阿実へ続く系線を示し、下段では沙弥純阿、兵庫允久純、鶴一九、覚阿、弥六氏純、弥五郎久武、六郎久純、十郎兵衛尉幸純、千代熊丸、弥四郎、実純、道阿、元恵、乙房丸らを、建武・康永・正平・貞和・貞治・文明などの年代注記とともに配する。
寛永廿年九月十五日 / 冊子 153頁/原整理番号 105
寛永二十年九月十五日の「初日三番四角之外」犬追物手組。島津上野助二疋、相良土佐守五疋、本田弥五郎五疋などを掲げ、検見を島津因幡守、喚次を島津外記とする。
正応元年七月廿五日 / 冊子 348頁
新田宮雑掌の造営用途に関する重訴状・具書を受け、帰国のうえ旧儀を確かめて沙汰を終えるよう命じた渋谷重郷書下。
元応三年三月日 / 冊子 477頁
上神殿迎祐が、伊集院郡司弥三郎宗継による下神殿内田地・荒野・常念薗等の押領を訴えた重申状。和与下知に背く所行、使節請文の焼失、度重なる未実検を挙げ、使節派遣と所領回復を求める。
明和元年 閏十二月廿三日(年は朱注) / 冊子 43~45頁/原整理番号 144/整理ID 144
太守の官位昇進に伴う社寺・霊牌等への献納と代参の申渡書。大雄山御宮へ白銀二枚、台徳院以下大猷院・厳有院・常憲院・文昭院・有章院・有徳院・惇信院の位牌殿へ各一枚を南泉院に納め、花尾山の忠良、加世田日新寺の慈眼院・寛陽院・泰清院・大玄院・有邦院・慈徳院の各位牌、福昌寺の円徳院位牌、浄光明寺の浄国院位牌へも各一枚を献じる。諏方・稲荷・祇園・若宮・春日・福ケ迫諏訪、尾畔三社と御休息所御看経所には青銅百疋ずつを記す。尾畔三社等の代参は近習役を勤めさせ、護摩所不動・表御看経所には進納物がなくても近習役が代参するよう、使番から伝達する。末尾は、明後廿五日に代参して献納・寺納し、御手当を如例申し渡すこと、代参人柄の指示と取次の注、日新寺には来る廿七日に代参があることを記す。閏十二月廿三日、樺山左京の署、久智の人物注。朱注の申聞は十二月廿三日。出典注は重豪公御譜中・扣正文在家老座。目録の表題・年月日と対応する。
年月日未詳 / 冊子 395~396頁/原整理番号 360
霜月二十二日の城攻めを記す。並河太左衛門・嶋田十郎左衛門らが守る伊勢丸に一揆勢が竹束を寄せると、六匁筒の鉄砲で撃退する。一揆勢が裏へ回って水の手を断つなか、岡原彦兵衛・上月八助の戦死、呼子平右衛門や古川傳右衛門らの出撃を叙述する。十六歳の古川九市郎が負傷した傳右衛門を担いで戻り、後に水谷伊勢守から五百石で召し抱えられ古川浅右衛門と名乗ったことを記す。守備側の奮戦で一揆勢は有馬方面へ移ったと結ぶ。
11月22日 / 冊子 400~401頁/原整理番号 362の3
十一月二十二日、片浦から立てた浦水手の受取を命ずる送状。船頭壱岐・蔵右衛門・市右衛門・弥九郎と宇兵衛尉以下を列記し、第一群を三十二人とする。さらに助之丞・与介・惣五郎・弥右衛門・三右衛門尉・神介・少右衛門・杢之介の八人を別に掲げ、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ受取を申し付ける。
寛永18年2月12日 / 冊子 714~715頁/原整理番号 747の3
加久藤地頭仮屋に伝わる有馬陣立差出。伊地知重政の主従21人について、与力・供人を帰還日別に列記し、正月十六日からの在陣日数を計算する。二月八日唐津から帰還した組、二月十七日・二十三日および三月八日に有馬から帰還した組を記し、惣合日数1342日とする。寛永十八年二月十二日付、谷口次郎左衛門と伊地知弥右衛門の署名がある。
正月16日 / 冊子 725~726頁/原整理番号 752
十三日付書状を受け、黄門の腫物・咽気・咳、不眠と食事の状況を詳しく報告する。城攻めの長期化による兵糧不足、船の回送、天草への渡海連絡、出水・大口の人数の半分を残すよう江戸から命じられた件について相談する。国境警備・大口番所の人数にも配慮し、新納加賀守の有馬同行希望を伝える。正月十六日付、野州宛。原史料には欠字が多い。
寛永十五年二月朔日 / 冊子 47~50頁/原整理番号 69-2
寛永十五年二月朔日の島原出陣に際する人員賦帳。乗馬衆13人と御陸衆49人を石高付きで列記し、定衆6人、御中間8人、諸役人32人、大工5人、茶湯坊主3人を合わせて惣計116人とする。別に詰夫丸21人を記す。日高十兵衛は御陸衆に含まれる。
寛永13年9月 / 冊子 80~81頁/原整理番号 17-8
寛永十三年九月の鹿児島衆中屋敷帳から、松崎采女正について『下屋鋪四せ』『下々屋敷四せ廿三分』と記す抄録。続いて松崎貞悦の慶安五年以降の奉公歴を掲げる。慶安五年に上洛を命じられて三月六日に鹿児島を立ち、四月二十五日に江戸へ着いた。承応二年には琉球からの将軍継目祝使である国頭王子に関わり、島津光久に召し連れられて日光参詣へ供奉した。万治二年には進上用の腰物を選ぶため、堀尾正宗・貞宗・左文字・兼光・則光などを江戸へ持参した。寛文三年とみられる光久の上洛には道中跡払いとして供奉し、大坂・江戸の御番割に入った。六月には国許への急用使として江戸から鹿児島へ往復し、九月に再び江戸へ参着した。同年十二月には島津綱久から将軍への寒中伺候使者となり、酒井雅楽頭や老中阿部豊後守・稲葉美濃守・久世大和守を訪ね、江戸城で七島鰹節を進上した。その後も寛文四年の下向供奉、同五年の秋月佐渡家来欠落事件に関する使者、延宝二年の大坂町奉行石丸石見守への使者を務めた。
寛政二年十二月七日 / 冊子 183頁/原整理番号 150
寛政二年十二月七日の犬追物稽古手組。上手組・次手組・下手組に射手を分け、島津藤次郎・山岡斎宮・秩父十郎らを列記する。各組に検見と喚次の担当者を付す。
建武二年五月廿五日 / 冊子 635頁
薩摩国指宿郡秋富名内中河井・荻迫等をめぐる伊集院弥五郎久兼の申状について、山口三郎入道ら関係者を召し合わせ、証拠を調べて急ぎ対決・注進するよう命じた島津貞久書下。
二月廿九日 / 冊子 242頁/原整理番号 333-27
二月二十七日、早水一郎兵衛が本丸北東の石垣腹に取り付き、投石で兜を数度打たれながら堀を越え、本丸東の海手で敵と槍を合わせて首を取った経過を丹羽亀之丞へ申し出たもの。築紫大膳・澤木弥平太夫・歩御使番吉岡瀬兵衛・森田弥五右衛門を証人に挙げ、同日夜半まで本丸に留まり、津川四郎右衛門へ相談後、桑木浅右衛門らと本陣へ戻ったと述べる。
建武三年六月日 / 冊子 667~668頁
郡山弥五郎頼平が肝付兼重与党追討のため御教書を受け、五月六日から六月十日まで加瀬田城で日夜合戦した軍忠状。若党・親類を率い、先懸・射疵・討死を重ね、渡河責戦の際に親類助太郎左衛門尉義清が射疵を負うなどの軍忠を列挙し、恩賞を求める。
年月日未詳 / 冊子 843頁
大隅国で将軍方に属した武士を一族単位で列記する交名注文。平山左京亮、加治木中務入道、池袋弥五郎、木房太郎、策瀬左衛門太郎、小田次郎、菱刈平良彦太郎一族、別府次郎兵衛尉、鎌田藤内兵衛尉、床井宮内左衛門尉、栗野郡司らを挙げ、軍事的陣営構成を示す。