入来院重時知行宛行状
天正21年正月4日 / 冊子 663頁
安藤二介に関係する一か所について、春口屋敷用として「三十三反こたか先地石」を勝田平左衛門尉へ遣わすことを認める。 同日付の宛行状の中でも、屋敷用途と土地・数量の表現を具体的に示す文書。
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天正21年正月4日 / 冊子 663頁
安藤二介に関係する一か所について、春口屋敷用として「三十三反こたか先地石」を勝田平左衛門尉へ遣わすことを認める。 同日付の宛行状の中でも、屋敷用途と土地・数量の表現を具体的に示す文書。
(慶長五年)十一月十三日 / 冊子 613-614頁
島津忠長が伊勢平左衛門尉に対し、水俣方面の敵情と備えを詳報する。敵勢は黒田・加藤・鍋島らで、柳川・筑紫は残留したとの情報を伝え、少人数での下向は内応への期待によると分析する。宇土の又介探索・討ち取り、地下衆からの重ね人質、鹿屋三右衛門の内情報告、敵来襲時の慎重な出撃、矢羽不足への対応などを指示・報告する。
慶長六年三月十一日 / 冊子 753頁
日向国真幸院吉田村内にある蒲生久徳の返地について、屋敷・門・田畠などの内訳を列挙し、伊勢平左衛門へ配分した知行目録。伊勢貞成が署判する。
慶長六年六月二十二日 / 冊子 764頁
健軍惟古が伊勢平左衛門に、福島正則のもとへの使者として龍伯・惟新・少将の意向を伝えるにあたり、人数や相談内容などを他言しないと誓った起請文。
(元和三年)九月十九日 / 冊子 659~660頁
那須祐実・祐増が伊勢平左衛門尉に宛て、近隣の高橋家種が那須氏の山領を奪おうとし、今月八日に山内へ出兵したため、防戦する覚悟であると伝える。天下静謐の時に弓箭を起こした高橋方の非を訴え、山内を防備するため分国の足軽衆による加勢を求めるとともに、この件を島津家へ披露・取次ぎするよう依頼した連署状。
慶長五年十月廿四日 / 冊子 601頁
板波忠成・内田実久が、従前どおり島津家の意向に背かず、長門守の妻子を惟新が召し連れて当地へ渡した厚意を忘れず、龍伯・惟新・少将以下へ疎略なく奉仕することを神仏に誓う。
慶長七年七月七日 / 冊子 823頁
本田親次・元親父子が連署し、主君に背かず命を懸けて奉公すること、外部の計策に従わず直ちに報告すること、主家のためになる事柄を隠さず申し上げることを神仏に誓った起請文。
慶長七年七月五日 / 冊子 823-824頁
本田親次・元親父子が、主君への忠節、陰謀への不参加、重要情報の即時報告を誓約した連署起請文。違反時には諸神仏の罰を受けるとする。
慶長七年八月三日 / 冊子 831-833頁
新納旅庵が、龍伯・惟新・少将の三君に永く二心なく奉公し、今後も忠節を尽くすこと、主家に不利益な情報を隠さず報告することを諸神仏に誓った起請文。
慶長七年十一月三日 / 冊子 857-858頁
本田正親が、伊集院忠真の反乱に同心したとの嫌疑を否定し、主家から疑いを解かれたことに感謝する起請文前書。告発者がすでに成敗されたため糺明できないことを惜しみ、今後疑いがあれば直接尋ねてほしいと願い、忠節を誓う。
五月七日 / 冊子 124~125頁
伊集院久治が所望した寸白薬を調合して届け、朝と寝際の一日二度を七日間、少量の熱い湯で服用し、油気の物を禁ずるよう指示した。あわせて少将から久治へ下された書状を龍伯に上覧させる手順を相談した書状。
四月十日 / 冊子 309~310頁
島津忠昌が羽島平左衛門友盛に、新納の動向を放置できないとして豊後方との申合せや伊東陣への対応を述べ、双方に支障のないよう堅固に取り決めることが肝要だと求めた書状。『旧記雑録前編二』No.1754と同文。
六月六日 / 冊子 129頁
龍伯が重病である以上、その息女で国主の妻でもある女性が近くにいながら見舞わないのは孝道にも世評にも反すると述べた。一方、陸奥守が国元へ行かせないと命じた事情を踏まえ、仮病は鹿児島と国府で噂が通じるため避け、月障りを理由にして公儀への影響を抑えつつ延期する策を紹盆と相談するよう求めた書状。
(慶長五年)八月十九日 / 冊子 565~566頁
島津義弘(惟新)が少将殿へ、徳川家康から預かった鷹を返し、帖佐衆を他所の人数に遅れず急ぎ上洛させるよう伊勢平左衛門・本田六右衛門に督促させることを求める。七月二十九日付書状を垂井で受け、龍伯の上洛は今は不要とし、従来の動員要請に明確な返事がなく一人も差し上せられないことを厳しく問いただす。秀頼と家のため命を捨てる覚悟で美濃に在陣し、伏見戦の損害で人手が乏しく、東国勢が清洲へ到着して戦闘が迫るため、身分を問わず帖佐衆を上らせるよう重ねて命じる書状。
年月日未詳 / 冊子 639-641頁
大垣出陣から関ヶ原の敗戦、島津義弘(惟新)勢の敵中突破と退却を詳述する。義弘勢は約五十人に減り、具足の装飾や馬印を捨てて敵騎馬隊を正面突破し、大垣城の火を見て帰城を断念した。南宮山の長宗我部陣へ伊勢平左衛門を使者として送り、その後は駒野坂・土山・伊勢関・信楽方面を経て退いたこと、後醍院喜兵衛が大黒の向きから伊勢路を進言したことも記す。
年月日未詳 / 冊子 640-641頁
島津義弘(惟新)が関ヶ原から退く途中、南宮山に陣取る長宗我部長宗新へ、高麗以来の親交を重んじて伊勢平左衛門を使者に送った経緯を記す。長宗新は別心がなく今後も義弘を助けると返答した。その後、義弘一行は駒野坂から土山へ進み、京都方面を避けて伊勢関・信楽方面へ退いた。
年月日未詳 / 冊子 646頁
伊勢平左衛門が采配を振って指図する間、島津の供衆が鉄砲を撃ち、ほかの者が弾薬を込めて追撃する敵を防いだことを記す。その間に島津義弘(惟新)が退却の支度を整え、身を隠すための装いを用意したとする。
年月日未詳 / 冊子 646頁
島津義弘(惟新)勢が四国衆の陣を通過する際、敵味方の別が定かでない長宗我部らへ伊勢平左衛門を使者として送り、島津勢が退却中である旨を伝えた経緯を記す。使者は相手が逆心ならその場で討死する覚悟で臨み、陣中の者は立ち向かわず、後醍院喜兵衛も敵方の者に再会の証拠として命を助けると告げた。
年月日未詳 / 冊子 646-647頁
駒野で島津義弘(惟新)が花色の木綿衣を着け、同色の手拭で髪を包み、矢野主膳が用いた鞍に敷き替えて馬に乗ったことを記す。伊勢平左衛門が先導し、山間の道を夜通し進んで住吉へ至った。大坂屋敷にいた相良日向・吉田美作入道・新納孫右衛門・上原右衛門佐らも船で兵庫へ追い付き合流した。
年月日未詳 / 冊子 657頁
同日夕方、退路を知る者がなく進路を評議した。伊吹山へ入る案に対し、伊勢平左衛門らは落人が山へ向かうことは敵も予想するとして、かえって海道を進む案を示した。島津義弘(惟新)は道筋を進み、危難に遭っても運命の尽きる時だと覚悟を述べ、海道退却を選んだ。
年月日未詳 / 冊子 657頁
伊勢国境へ向かう道を知る者がなく、関所も多いため、一行では切腹の時機まで議論された。帖佐宗辰は在所の者を案内人に求めるよう進言し、捕らえた道行人に一部を案内させた。案内人が先を知らないと辞退したため、伊勢平左衛門が交替して案内人探しに向かった。
年月日未詳 / 冊子 662-663頁
関ヶ原敗戦後、伊勢平左衛門から島津義弘(惟新)の所在を聞いた今井道与は、住吉辺に潜む義弘を迎えて自宅で休ませ、厳しい落人改めを避けて夜に堺の塩屋孫右衛門宅へ移した。大坂川口の通行手形や船を手配し、義弘の船と夫人方の船を沖で合流させて帰国を助けた。この忠節により後に千石・無役を約されたと訴える願書である。
慶長六年 / 冊子 763頁
宇喜多秀家が備前での中納言家断絶後に薩摩山川へ逃れ、島津義弘が伊勢平左衛門・相良新右衛門のもとへ匿ったとの伝承を記す。ただし記事末尾は、通説と異なり真偽不明としている。
(慶長六年)六月六日 / 冊子 763頁
島津義弘が島津忠恒に、山川へ着船した京都方面の者を龍伯の意向に従って伊勢平左衛門・相良新右衛門に尋問させ、急ぎ報告するよう求めた書状。
(慶長六年)六月六日 / 冊子 763-764頁
島津忠恒が島津義弘に、京都方面から来た者について伊勢平左衛門・相良新右衛門を派遣して尋問させる案を了承し、その者を義久(龍伯)へ移すことも認めた書状。
(慶長六年)七月九日 / 冊子 766頁
福島正則が島津忠恒に、和久甚兵衛と鎌田政近の談合、伊勢平左衛門らとの協議、伊集院久治・山田有信の上方召喚について助言した書状。本文はNo.1566と同文のため本箇所では省略されている。
(慶長六年)七月十三日 / 冊子 766頁
島津義久が島津忠恒に、和久甚兵衛と鎌田政近の談合を急がせ、帰国後は伊勢平左衛門らと協議するよう指示する。伊集院久治・山田有信を軽々しく上方へ召さないことや、山口直友書状の扱いにも触れた。
(慶長七年)八月十六日 / 冊子 836頁
島津忠恒が惟新へ、先に伊勢平左衛門尉を通じて申し上げた件の進捗を問い、有方が山へ向けて出立し逃亡する可能性があるため注意するよう急報する。当地のことは安心してよく、詳細は使者に託した。
(慶長七年)八月十七日 / 冊子 837頁
島津惟新が忠恒へ、別府と飛脚の到着時刻を報じ、伊勢平左衛門尉を介した案件に異状がないか尋ねる。有方が山へ出たことを案じつつ、別儀はないだろうとして吉報を待つと伝えた。
(慶長十年)五月四日 / 冊子 16~17頁
島津義弘(惟新)が島津忠恒(家久・陸奥守)に、下向の道筋を早急に知らせるよう求めた書状。平左衛門尉からの先月二十日付書状が五月二日に到着し、将軍・右大将への御目見が済み、腰物・脇指に関する拝領もあったことを祝う。船中を急がせた肝煎りにも満足を示し、右大将が下向する際には忠恒らも関東へ供奉するため、ほどなく下向できるだろうと見込む。また、鹿児島をはじめ分国内が無事で、島津義久(龍伯)の病状も悪化していないこと、療養に当たる祐乗坊がまだ到着していないことを伝える。
慶長十年七月九日 / 冊子 22~23頁
島津義弘が近衛前久とみられる人物へ、久しく書信できなかったことを述べ、年始の祝儀として太刀一腰・馬一疋を受けた礼と、以前からの懇意への感謝を伝えた書状。島津忠恒(奥州)の無事帰国を喜び、扇十本を贈り、詳細は伊勢平左衛門尉が説明するとしている。
(慶長十年)七月十一日 / 冊子 23頁
鎌田政近が樺山権左衛門尉へ、前日の石船に関する相談を受け、黄金三百五十匁分と銀百五十枚を三原諸右衛門尉・相良勘解由次官・有川仲右衛門尉が受け取ったことを報告した書状。上州様への礼、和久甚兵衛尉の使者としての滞在、腰物、伊勢平左衛門尉からの詳報についても伝える。
(慶長十年)十月十九日 / 冊子 38頁
島津竜伯が島津惟新に、翌朝の訪問予定と道中・到着時刻、伊勢平左衛門方での宿や振舞について相談した書状。老齢のため移動が遅れる見込みなので、宿での振舞を控えるよう頼んでいる。
慶長十一年 / 冊子 53頁
国老用人記の記事。慶長十一年、島津義久が帖佐から平松へ移った後、二年間在城した際の家老として、新納旅庵・新納弥七左衛門・伊勢平左衛門・上井次郎左衛門を挙げ、御使衆として新納本右衛門入道一甫を記す。
(慶長十一年)二月十五日 / 冊子 59頁
島津忠恒が、船団が京泊へ到着したため急いで出船し、上洛衆を宿所へ集めるよう命じた書状。別用の者も同座させ、兵糧・物資を先に送ることや、本田源右衛門・伊勢平左衛門の参着を待って処置することを伝える。
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 96頁
慶長十一年十一月二十六日の犬追物手組を記した一覧。殿以下、島津河内守・島津杢右衛門尉・伊勢平左衛門尉らの射手名と組合せ・割当てを図示する。
慶長十二年十一月八日 / 冊子 133頁
慶長十二年十一月八日、伊勢平左衛門貞成が肥前寺沢侯のもとへ使者として赴き、高畠仲兵衛と戦って唐津で死去したこと、および享年三十九歳と記す記事。
年月日未詳 / 冊子 197頁
国老用人記の記事。慶長十三年十一月十三日に島津家久が白平から加治木へ移り、同地に十二年間在城したこと、伊勢平左衛門の死去後、本田源右衛門・新納主右衛門が家老職に任じられたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 225頁
北郷忠亮の家老・北郷源左衛門忠俊が、忠亮と亡父忠能の代から一家の権勢を握り、上を軽んじ下を苦しめたとして、家久は八月六日に忠俊を処刑し、翌七日には父忠泰と弟平左衛門も都城で処刑したと記す。
慶長六年カ三月廿五日 / 冊子 116頁
出水境目を引き続き厳重に守り、番衆と普請を油断なく勤めさせ、帖佐の伊勢平左衛門尉と熟談して出水・帖佐双方の守備を隔心なく進めるよう求めた書状。
六月廿四日 / 冊子 169頁
便宜に任せて近況と子息の成長を問い、来春には祝言を挙げるのがよいと勧めた。禁中をはじめ京都は無事なので安心するよう伝え、軽少ながら進物を添え、詳細を平左衛門尉に託した近衛信尹書状。
七月十四日 / 冊子 354頁
阿久根で相談した案件を了承し、できる限り義久とも談合するのがよいと述べ、伊平左衛門尉には重要な用件があるため明後日こちらへ来るよう命じてほしいと求めた島津忠恒書状。
年月日未詳 / 冊子 641頁
旧伝として、後醍院喜兵衛が出陣時に携えた大黒の向きから吉方を占い、関ヶ原退却時の島津義弘(惟新)に伊勢路を進むよう進言した話を収める。あわせて慶長五年の書状記事として、薩摩へ向かった又介を三か村付近で密かに捜索し、発見時には討ち果たすよう命じた内容を記す。
年月日未詳 / 冊子 656頁
九月十五日申刻頃、島津義弘(惟新)以下が飢えていたため、本田源右衛門が京都に詳しい帖佐宗辰へ五十人分の食事調達を命じた。宗辰は村で不穏な相談を聞き、島津方の指物を見付けて本隊を追ったが、村人に襲われて切り抜ける過程で従者五人のうち三人が戦死し、二人が行方不明となった。
年月日未詳 / 冊子 701-704頁
十九歳の井上主膳は長寿院盛淳に従って関ヶ原へ赴き、敵陣が連なる美濃路を少人数で突破して九月十三日に島津義弘(惟新)の陣へ到着した。合戦では盛淳が義弘の名代として太閤拝領の羽織を着け、後衛に残って敵中へ突入した。主膳は側近くで戦って深手を負い、盛淳の最期を直接は見られなかったが、のち京都・南都を経て帰国した。
(慶長六年)七月二十一日 / 冊子 767-768頁
島津義弘が島津義久に、懸案の相談がまとまったことを喜び、船を出して使者一人を七月二十三・二十四日頃に送ると知らせる。使者が鹿児島へ着く時には伊集院久治(抱節)を同席させる手筈であると伝えた。
(慶長八年)正月十一日 / 冊子 876頁
島津忠恒が義弘へ、細島までの迎えを手配するよう依頼し、外聞や警固への配慮から、鹿児島に残す者と交替で迎えに出す家臣を具体的に示した。不要な随行者は控えさせるよう求める。
(慶長八年)二月九日 / 冊子 881頁
島津義弘が忠恒の帰国途上との報を喜び、早い到着を待つと伝える。前年の上洛時に随行者が田の作物を刈ったとの批判を踏まえ、今回の多数の供衆には麦などを刈り取らせぬよう、比志島国貞らへ厳命することを求めた。
(慶長八年)四月五日 / 冊子 887-888頁
島津義弘が忠恒へ、大雨による川の洪水と自身の腰痛で移動を延期したと伝える。大中様の志として十二日から福昌寺で法華経千部を読誦する予定を知らせ、初中後の法会に立ち会えるよう手配を求めた。
慶長八年六月七日 / 冊子 897頁
伊勢貞成が、鹿児島・富隈・帖佐三方の公用以外の物資差押えを禁じ、廻船規定を超える押買いをさせず、違反者を拘束・報告するよう命じる。地下人への喧嘩・狼藉にも処罰を定めた三か条の申渡書。