島津師久書状
十月五日 / 冊子 8頁
島津師久が牛深左近将監に、加治木へ出陣しようとした際、渋谷一族が島山直顕への合力を口実に郡司・一族を誘い、九月晦日に城へ入って合戦となったことを伝え、援軍を求めた書状。東郷にも連絡済みと記す。
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十月五日 / 冊子 8頁
島津師久が牛深左近将監に、加治木へ出陣しようとした際、渋谷一族が島山直顕への合力を口実に郡司・一族を誘い、九月晦日に城へ入って合戦となったことを伝え、援軍を求めた書状。東郷にも連絡済みと記す。
正平十四年十一月十五日 / 冊子 17頁
島津氏久が得丸左近将監に、大隅国小原別符西方地頭分の柏原東方原田将監跡と、日向国救仁院内野与倉森を兵粮料所として宛行い、忠節を尽くすよう命じた宛行状。
応安六年四月四日 / 冊子 67頁
今川義範が、宇目長峯へ打ち入り忠節を尽くした土持左近将監の働きを賞し、今後も忠功に励むよう命じた感状。
「永和二年」十月廿七日 / 冊子 101頁
今川了俊が大塚左近将監に、島津氏久の非法に関する御教書が守られない状況下で池尻に同陣した忠節を評価し、弓矢・天下のための功として恩賞を取り計らうと伝えた書状。
「永和三年」十二月二日 / 冊子 111頁
今川満範が土持左近将監に、春から十二月二日まで飲肥・志布志・都城以下の諸方を同心させた忠節を賞し、その詳細を上申すると伝え、今後も忠節を尽くすよう求めた書状。
永和三年二月十一日 / 冊子 115頁
島津氏久が大始良左近将監の長年の忠節を認め、大始良村内で現に知行する地頭得分を給分として認定し、今後も忠節を続ければ本領として相違なく知行できると定めた書下。
康暦元年十月七日 / 冊子 120頁
今川満範が土持大塚左近将監に、日向国都城の合戦で挙げた忠節を殊に神妙であると賞し、その功を上申すると伝えた感状。
応永十五年十月八日 / 冊子 230頁
島津玄仲が肥後左近将監入道へ、忠節により薩摩国内の屋久島・恵良部島を祈所として宛行い、先例に任せて領掌するよう命じた宛行状。
応永十五年十月八日 / 冊子 230頁
島津玄仲が肥後左近将監へ、三か国の情勢がいかに変転しても立身を支え、大事の際に見捨てず、讒言や風説があれば直接問いただすと神々に誓った契状。
(天正14年)8月3日 / 冊子 213頁
島津義久が甲斐左近将監・甲斐長門入道へ、方角から回ってきた文書を速やかに取り次ぎ、こちらの願意を届けた対応を賞した書状案。誠実な心底を重んじ、今後も忠節を尽くせば格別に感賞すると約しており、在地勢力との連絡と軍事的な忠節確認を示す。
(寛永九年)四月五日 / 冊子 260~261頁
伊勢貞昌と島津久元が、四月朔日に薩州様に男子が誕生し、黄門様も大いに満足したことを喜入摂津守・川上左近将監へ報じ、神仏への祈念について談議所と協議するよう求めた連署書状。
(寛永九年)五月十日 / 冊子 269頁
島津忠興が、江戸から飛脚が到着して静謐と家久の屋敷の無事が伝えられたこと、家久が将軍から度々使者を遣わされ、銀子一万枚を拝領したことを喜入摂津守・川上左近将監へ報じた。また、将軍家光が前月十三日に日光へ参詣し、二十日に機嫌よく還御したと伝えた書状。
(寛永十一年)正月十三日 / 冊子 406~407頁
伊勢貞昌が種子島左近将監へ、明石掃部の子に関する急使書状の到着状況と遅延の有無を問い合わせ、過去に早打の遅延で扶持停止・道具衆追放となった事例を引いて注意を促した書状。
(寛永十一年)正月十五日 / 冊子 407頁
島津家久が種子島左近将監へ、新年を賀し、前年冬の男子誕生を重ねて祝って祝儀の使者を遣わした書状。
(寛永十二年)七月六日 / 冊子 484頁
伊勢貞昌が、前年春に川上左近将監尉の家臣が運上した荷物のうち太刀一腰と馬が未着であるとして、その経緯を詳しく調べ、福里五郎兵衛尉へ照会して報告するよう求めた書状。
(寛永十四年)十二月十六日 / 冊子 710~713頁
家久の年寄衆からの返書と二通の御状を受け、黄門へ進上した書状や幕府側の命令内容を照合し、長島・獅子島への兵配置と天草への即時渡海を協議する。肥後勢が十二月三日に三角瀬戸へ到着し、翌日天草へ押し寄せるとの注進を踏まえ、薩摩勢が遅れないよう準備を急がせた。薩摩から首取千人・鉄炮衆千人・馬乗三騎を天草へ遣わすとの取沙汰、山田民部少輔・新納賀州・仁礼左将を獅子島番手とすること、船の手当、本文を流布しないことを記す。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十六日付。
(寛永十四年)十二月十七日 / 冊子 713~714頁
上使衆の早打に託された先月二十三日付の御状が今月十一日夜に酒井讃岐守から兵部少へ届いたことを述べる。上使は十二日夜半に到着し、翌朝御奥で対面して雑煮の寄合と七五三の振舞を受け、黄門様の胸や手の様子を見た。北郷式部大輔と孫庵が相伴し、上使は引き留められたが十三日夜に出立した。先行して注進した者は海道で上使に追い越され、船で進んだ黒葛原周右衛門・松田七左衛門は五日前に到着したとし、一連の順調な到着を神仏の加護として祝う。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十七日付。
永和元年九月廿二日 / 冊子 87頁
足利将軍家が、島津周防五郎左衛門尉範忠の播磨国布施郷公文職について、亡父忠兼が貞和二年六月二十一日に受けた御下文に従い、忠兼跡として沙汰付けるよう命じた御教書。
永和元年九月廿二日 / 冊子 87頁
足利将軍家が、島津範忠の播磨国布施郷地頭職に関する岩間四郎の件について、亡父忠兼が貞和五年七月二日に受けた御下文に従い、忠兼跡として沙汰付けるよう命じた御教書。
永和元年九月廿二日 / 冊子 87~88頁
足利将軍家が、島津範忠の播磨国布施郷下司職などについて、亡父忠兼が観応二年正月二十四日に受けた御下文に従い、忠兼跡として沙汰付けるよう命じた御教書。
八月三日 / 冊子 17頁
方角からの廻文をただちに届けた誠意を賞し、今後も忠勤を遂げれば特に感賞すると約した感状案。
(寛永九年)四月廿五日 / 冊子 265~266頁
島津久元が、加治木からの使者木脇三右衛門を帰国させること、新納織部佑の子将野介の鹿児島移住希望等の情報、国絵図の取り寄せ、惟新様に殉じた御供衆の氏名・知行高・道号を調べて妙円寺に石塔を建てる計画などを、喜入摂津守・川上左近将監へ報じた書状。
(天正19年)8月5日 / 冊子 512~513頁
島津義弘が、前年に石田三成・細川幽斎・竜伯らの談合で定められた薩摩・大隅の指出提出が遅れていることを問題視する。村数・屋敷・田畠、家臣の知行、米・大豆などの収納を国枡で明確にし、京へ帳面を提出して軍役人数の基礎とするよう重臣四名へ命じた。遅延や隠田・隠人を厳しく戒め、領国把握と軍役編成を連動させる統治文書。
慶長三年五月廿二日 / 冊子 211~212頁
石田三成と島津義久が上方の算用所運営について定めた連署書下。用事のない者や自分の算用を持たない代官の出入りを禁じ、呼出しに病気・他行を理由として遅参した者には知行高に応じた過怠銭を科すこと、算用中の悪口・軽率な振舞いを処罰すること、算用場の食事を一汁一菜とすること、万物奉行の下知に従うことなどを命じる。
慶長三年五月廿二日 / 冊子 212~213頁
石田三成と島津義久が上方での会計手続きを列記した連署覚書。薩摩から上る米の大坂での受取・売却、算用聞の切手、売却代金の義久への送付、呉服・作事方の買物、摂津・播磨知行の免目録、口米、台所の飯米・塩噌・炭薪油などを規定する。算用聞四人が三か月ごとに帳簿を監査し、帳目録を作らない場合は知行物成の五分一を没収すると定める。
(慶長十八年)九月十七日 / 冊子 413~414頁
慶長十八年九月十七日、比志島国貞・伊勢貞昌が、悪党による夜間放火の企てを報じ、陸奥守の人員を見廻りに当て、山中警戒と処罰を徹底するよう命じた連署状。
(寛永八年)四月十一日 / 冊子 205~207頁
光久付きの駕籠舁・挟箱持の選定と上京、子どもや岩崎姫の健康、琉球関係の京都借銀、書籍の損傷、国境争論など多数の案件を報告・指示する。寺院住持の選定、遊行上人への対応、帖佐長右衛門夫妻の帰国奉公についても命じた連署書状。
(寛永八年)七月晦日 / 冊子 221~223頁
徳川秀忠の病状と諸大名の見舞い、家光の西之丸訪問、家久の参府は少人数で急ぐ可能性、祈祷料の相場、薩摩藩の借銀返済、帰国後の統治・家中運営などを多岐にわたり伝える。妙谷寺・福昌寺の件にも触れた伊勢貞昌の長文書状。
(寛永九年)四月十一日 / 冊子 260~261頁
伊勢貞昌と島津久元が、島津家久の四月二日の江戸到着、翌三日の酒井忠世・土井利勝の来訪、備前宰相の疱瘡死去で四日から十日へ延期された将軍家光への謁見、兵糧三千俵拝領の経緯を報じ、加治木の子供たちの疱瘡を案じた連署書状。
(寛永九年)四月十三日 / 冊子 261~262頁
伊勢貞昌と島津久元が、島津家久の四月十日の謁見と米の拝領、十二日の銀子一万枚拝領を報じ、薩摩側の借銀返済と国の潤いになると評価した。また、国元の出銀について福屋五兵衛と談合するよう伝え、琉球へ遣わす銀子のため大阪両蔵奉行へ約八百貫目の借銀を命じたことを述べた連署書状。
(寛永十一年)五月廿八日 / 冊子 428頁
島津家久が、下野守の上洛を機に現地の配当を両人で十分に談合し、永続する支配であるため親疎なく憲法に従って処理するよう命じた書状。
(寛永十一年)七月四日 / 冊子 432~433頁
相良頼兄が、家久・忠元らの無事の上京を祝し、将軍の江戸出馬情報や当地で胡麻焼酎を仕置く件を伝え、贈られた球酒(琉球酒)大壺一つに礼を述べた書状。
(寛永十一年)閏七月廿八日 / 冊子 444頁
島津久元・伊勢貞昌が、江戸城西丸で七月二十三日に火災があったことを報じ、伊勢兵部少輔の大坂滞在と船便の事情、当日の出立について国元への披露を求めた連署書状。
(寛永十二年)七月十三日 / 冊子 485~486頁
島津久元・伊勢貞昌が、江戸屋敷火災後の家屋再建、被害・紛失物の吟味、女房衆の扱い、銀子や普請人員の手配などを国元の重臣へ指示した書状。
(寛永十二年)七月廿七日 / 冊子 486~488頁
島津久元・伊勢貞昌が、江戸屋敷火災後の金銀・家財の点検、盗難者の処罰、蔵の錠前交換、屋敷再建、被災者への扶助などを国元へ指示し、経過の報告を求めた書状。
(寛永十二年)八月六日 / 冊子 487~488頁
島津久元・伊勢貞昌が、江戸屋敷火災の際に金四百両余と銀子十貫目ほどが金銀蔵から失われたため、盗難とみて吟味し、町方も捜索して犯人を処罰するよう国元へ命じた書状。
(寛永十二年)九月廿七日 / 冊子 497~498頁
島津久元・伊勢貞昌が、全国一斉の南蛮宗改めを国元で徹底するため、村々、港、船、旅人、宿主などを調査し、出身国・氏名・滞在先を記録して疑わしい者を吟味するよう命じた書状。
四月廿八日 / 冊子 417~418頁
明宗が島津方三名へ、先年使者を介して受けた厚情と琉球勘合の取り成しに謝し、永興寺の帰国に際する書状を受け取ったこと、両使の扱いと船の遅延について取り成しを求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 117頁
『応永記』に載る島津伊久から大友殿への案文として、肥州託摩原の合戦で舎弟三郎左衛門尉と新納左近将監が伊久の目前で討死したことを忠節の証として記す記事。
(慶長四年)六月廿七日 / 冊子 392~393頁
島津忠恒が中務大輔に、その方面で多数を動員して尽力し、山田城を切り崩した働きを賞する。討死・負傷した手勢の軍労にも言及し、さらに攻め詰めることが肝要であるため、川上左近将監と伊勢兵部少輔を派遣して協議させると伝え、慰労の印として刀一腰を贈る。
(慶長四年)六月廿九日 / 冊子 395頁
島津忠豊が図書頭に、庄内へ出陣して山田城を攻め落とした勝利を祝い、忠豊への言葉と腰物の拝領に謝意を示す。図書頭方の手勢に戦死者が出たことへの配慮にも礼を述べ、今後の軍事行動は川上左近将監・伊勢兵部少輔と協議して両使へ伝えたので、披露するよう求める。
十一月十七日 / 冊子 274頁
国分宮内澤氏蔵書。息長宿禰道隆の「わかたのむ神のむかしの言のはの/絶ぬなかれの岩清水かな」を掲げ、十一月十七日の会で豊霧丸・左近将監源俊隆・紀景行・源俊堅が神垣・松・清水などを詠んだ社頭祝言和歌。法印龍伯の歌は次文書No.690に属する。
年月日未詳 / 冊子 763~764頁
有馬春之城の本丸へ乗り込み敵三人と槍を合わせたことを、入来源左衛門・肱岡右近、三原大蔵太輔・西郷壱岐守らの立会・証跡を挙げて証明した仁礼左近将監の戦功証文。
(寛永十五年)九月廿一日 / 冊子 822~825頁
川上久国(左近将監)・三原左衛門佐・山田民部少輔・鎌田出雲守が、家中の政務上の懸案と処置方針を条書きした連署覚書。罪人の遠島・籠居・寺預け・召還・赦免、逃亡者や罪人を匿う者および親類への対応、南蛮宗の者の取締り、琉球への日本人の居付きの禁止、知行地・荒地の返還と代銀、役儀・土地回復などを扱う。寛永十五年九月二十一日付。
八月十三日 / 冊子 73頁
友泰が比志嶋掃部助らに、弾正様・川上左近将監様から相良清兵衛尉へ送る書状の取次経過を報じた書状。書状を横川から求廣へ持たせ、返書を相手方へ届ける一方、使者が鹿児島へ持参する場合の通行にも配慮するよう伝える。
正月九日 / 冊子 115頁
川上久国が豊後守に、陣中の大将役二人と談合衆六人が任命され、今後の調整はこの体制で行うとの命令を伝えた書状。児玉筑後守からの仰せを受け、甲斐掃部介・有馬左近将監にも申し含めたとしている。
九月八日 / 冊子 174頁
正賢が肝付郡弁済使に、左近将監兼元の申し出を受け、舎弟の身として嫡子の命に従うべきこと、嫡子側も舎弟を憐れんで取り計らうべきことは以前の下知にも載せたとして、その趣旨に違わず早々に処置するよう命じた奉書。
永正十二年四月一日 / 冊子 607頁
永正十二年四月一日の犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
年月日未詳 / 冊子 278頁
『島津義弘譜』の記事。慶長三年十月、海陸から包囲された順天城との連絡を回復するため、島津義弘が立花宗茂・宗義智・寺沢正成と相談し、敵艦を退けようとした経緯を記す。十月卯日に現地の遠近を調べたが、敵は九日夜に退去し、残船だけが残ったため、これをすべて焼却したとする。
年月日未詳 / 冊子 280~281頁
『島津家久譜』の記事。慶長三年冬、撤兵を察知した明将陳璘らが大船団で海口を封鎖したため、島津義弘・忠恒父子が立花・高橋・寺沢勢とともに、順天の諸将を救うため十一月十七日に南海島岸へ進んだとする。翌十八日、鄧子龍・李統制らの水軍と銃砲・火器を交えて戦い、敵将を討ち、朝鮮船四艘・大明船二艘を斬捕した一方、島津・立花・高橋勢にも多数の戦死者が出た経過と氏名を記す。