今川了俊挙状
応安七年七月廿日 / 冊子 70頁
今川了俊が島津左京亮の美濃守任官の希望について、京都へ推挙すると伝えた挙状。
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応安七年七月廿日 / 冊子 70頁
今川了俊が島津左京亮の美濃守任官の希望について、京都へ推挙すると伝えた挙状。
「大永七年」五月十三日 / 冊子 677~678頁
日新が冨松左京亮・野村兵部少輔に、従来の忠勤を賞し、神妙大慶であるとして、今後も相談しながら頼みとする旨を伝えた感状。
三月廿二日 / 冊子 774頁
日新公が富松左京亮・野村兵部尉に、弓箭の初めから忠節を尽くしたことを賞し、今後も変わらぬ奉公を期待する旨を伝えた証状。
慶長二年二月廿九日 / 冊子 92頁
伊集院抱節と比志島国貞が、兵船の渡海が困難ななか自力で参陣した高城左京亮の働きを賞し、知行十石を充行う旨を証した連署状。
(慶長四年)五月廿一日 / 冊子 385頁
本村半右衛門尉が高城左京亮に、高四十石の指出として、慶長元年十一月廿日に主従二人で出立し、慶長三年二月に御供から帰朝した経歴を記す。その間、所から六か月分の御盛を受け、残る十八か月分は自ら堪忍したと申告する。
(慶長十七年)閏十月二日 / 冊子 383頁
慶長十七年閏十月二日、山口直友が鎌田左京亮へ、本多正純の指示により硫黄二百斤ほどを進上するよう求め、上様が鷹野のため関東へ下向したことも伝えた書状。
二月廿九日 / 冊子 412頁
二月二十九日、島津忠嘉が鎌田左京亮へ、高麗入・大脇の二所をめぐる安楽五郎左衛門と鎌田玄蕃助の所領争いについて、両者を召して熟談・調停するよう求めた書状。
七月七日 / 冊子 287頁
島津氏久が、相手の参会と承諾を喜び、島津又三郎との談合、年貢・補任状、京都での沙汰や預所に関する処置について平山左京亮へ指示した書状。
五月十三日 / 冊子 324頁
島津忠良(日新)が富松左京亮と野村兵部少輔に、合戦で以前から抜群の忠勤を尽くしたことを賞し、今後も頼みにする旨を伝えた契状。互いに疑心を抱かず、讒臣があっても相談し、島津貴久とも同意のうえであり、この義に背けば天道に任せると誓約する。
慶長七年九月十一日 / 冊子 847頁
島津忠長が歌道門弟となることを許された際、伝授された内容を一言も他言しないと誓った起請文。違反時には日本国中の神々、とりわけ住吉・玉津島の神罰を受けるとする。
十一月十六日 / 冊子 96頁
島津龍伯が吉野で鷹狩りをして加治木へ赴く予定だったが、当日は雨天のため出発できたかを尋ね、島津惟新から番所まで状況を問い合わせるよう命じられたため飛札を送った書状。
年月日未詳 / 冊子 535頁
町田氏の系図として、町田出羽守高久と左京亮頼本の名および系線を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 683頁
町田氏の支流について、石谷高久から左京亮頼本・伊賀守梅吉・忠榮・八郎左衛門尉らへ続く系統と法名を記す系図記事。
(天正四年)七月十六日 / 冊子 479~480頁
島津義久が義弘に、川上左京亮からの報告を踏まえた境目の軍事談合について問い合わせ、現地足軽の状況を見極めるよう求める。熊鷹の羽一手と適期の竹を求め、出陣案と境目の情報を詳しく調べて神慮を伺う意向を伝えた。
年月日未詳 / 冊子 57頁
肥後の花之山で鎌田左京亮らとともに戦死した木脇祐昌が、敵も味方も同じく現世の夢を見終えるという趣旨を詠んだ辞世。 激戦の最期を背景に、討つ者と討たれる者を等しく無常の中に置く武将の死生観が表れた、印象的な一首である。
年月日未詳 / 冊子 188~189頁
長谷場越前自記。七月六日、筑紫方との防戦を破って町口・板城戸を突破し、筑紫広門の居城へ攻め入った過程を描く。河上左京亮が十文字・八ツ花形に切り回って奮戦し、多数の傷を負って倒れ、介錯された最期を中心に、城内へなだれ込む島津兵と双方の死者を記す。岩屋城ではなく、筑紫方居城攻略の白兵戦を伝える。
年月日未詳 / 冊子 189頁
勝部兵右衛門聞書。七月六日、境目に出た筑紫広門方の軍勢を追い崩し、鷹取城・和賀山を落としたのち筑紫の居城へ押し寄せた戦闘を記す。外構・本丸口で数度の合戦となり、河上左京亮が諸方を駆け回って戦い、多数の傷を負い倒れた。No.155と同じ攻略戦を別証言で照合できる記録である。
年月日未詳 / 冊子 195頁
島津忠隣譜の記事。筑紫進攻で副将となった忠隣は、七月六日の鷹取城攻撃で外門へ迫り、強敵と槍を合わせて八か所余りの傷を負いながら生還した。家臣の脇元城介は忠隣をかばって一歩も退かず討死し、河上左京亮も同日に戦死した。翌七日には忠隣が板添口から岩屋城へ直進して攻略に加わったと記し、忠隣本人が岩屋城で戦死したわけではない。
(天正16年)4月23日 / 冊子 385頁
細川幽斎・石田三成が新納忠元へ、二月五日付の書状を京都で受け取ったと知らせ、寒中の肥後出兵と島津義弘の働き、とりわけ忠元が先手を務めて一国平定に貢献したことを賞した連署状。相良氏の逆心で上洛路が塞がれているため通路を整えるよう求め、八代・芦北の処置を了承する。忠元の子・左京亮についても、希望に沿うよう秀吉へ申し上げ、追って返事をすると伝える。
(天正17年)正月30日 / 冊子 439頁
島津義弘が、左京亮の奉公ぶりと母への配慮を新納武蔵入道へ伝え、京都が平穏であることや飯野の留守態勢を報告した書状。 一郎の暇願い、召し下しの可否、現地事情の探索なども京尭を通じて確認するよう求め、在京者と国元の家族・家臣を結ぶ具体的な連絡内容を含む。
(天正20年)4月6日 / 冊子 541頁
島津久保が、左京亮の普請での苦労をねぎらい、留守中の国元の諸事を新納忠元に任せると伝えた書状。渡唐船がまったく回らず体面を失いかねない窮状を訴え、船を確保して島津義弘に従い渡海できるよう尽力を求める。
(天正20年)8月16日 / 冊子 600頁
島津久保が新納忠元へ、留守番のため現地に残っていると聞き、その苦労を察すると労う。持ち場を精いっぱい守り、油断なく番を務めるよう依頼した。 左京亮が格別に奉公していることにも触れ、朝鮮出兵で主力が不在となるなか、薩摩国内の守備を担う忠元への信頼を示す書状である。
文禄4年6月28日 / 冊子 892頁
米良勝右衛門尉が、高城左京亮・新納狩野介の承知事項や、高麗で久保が借り上げた銀子の処理、上地田数、延命寺分、太平寺への付分などを石高別に列挙した差出。 総石高を三百二十九石二斗七升一合、そのうち上地分を七十四石七斗九升三合と算出する。朝鮮出兵時の貸借を在地の土地・寺社領勘定へ組み込んだ経過が分かる史料である。
(慶長元年)五月朔日 / 冊子 19~20頁
島津義弘が宰相殿へ、平松の家作が粗末で雨漏りし、家中の者も難儀しているため、平松の役人に修築を申し付けたことを述べる。使者や家臣の動向、伊東孫八の書状到着、又八郎忠恒の帰朝・上洛と迎えの国分左京亮派遣、高麗への出船、求聞持修行や平田豊前の子の大峯入峰に祈念を命じたことなどを報告し、返書を求めた書状。
(慶長元年)五月二日 / 冊子 21頁
島津義弘が忠恒へ、明使来朝により高麗在番衆の主力を帰朝させ、忠恒にも上洛命令が出たため国分左京亮を迎えに遣わしたと伝える。残番衆約七百人は抱節・比紀伊守を主取として兵粮を確保し、風説に動揺せず隣所へ持場を明け渡さないよう厳命する。帰朝希望者を安易に伴わず、留守居と番所の仕置を徹底するよう求めた書状。
慶長十九年八月七日~十月朔日 / 冊子 543~544頁
慶長十九年八月七日から十月朔日までの御日記抄。島津義弘(惟新)からの伝言をはじめ、島津家久(奥州様)の川内通過と長崎出立、村尾源左衛門尉入道・新納次郎四郎らの長崎出立および出立人数の編成、奥州様への茶の進上、鎌田左京亮による使節と焼葉壺三つの進上、小城権現座主職への善乗院任命、本田伊豆守の鹿児島への使い、新納次郎九郎の見舞いなどを記す。
卯月五日 / 冊子 385頁
島津龍伯が出船の予定を問い合わせ、東山宛ての書状を持参するよう依頼し、鎌田左京亮にも別件の用務を命じたことを伝える。さらに徳川家康の上着に関する先の風聞は虚説で、真龍の報告では三月十五日時点で未着だったと訂正した書状。
慶長九年四月五日 / 冊子 27頁
出船予定を問い、東山宛ての書状を鎌田左京亮へ託すよう依頼し、公方の上着という先報が虚説だったことを、上方から下った者の情報に基づいて訂正した書状。
八月七日 / 冊子 138頁
国元への出立時に三山まで見送られたことと在京勤番をねぎらい、普請について老中・両院へ取り次ぐよう頼んだ。義久の帰国許可を祝い、自身が公家成りして羽柴薩摩侍従となる命を受けたこと、左京亮は人質扱いではないので一旦下向させる意向を伝えた書状。
正月十日 / 冊子 141~142頁
年頭を祝い、左京亮の暇が許されない一方、右馬頭は安宅三郎兵衛尉の奔走と朱印拝領により下向が認められたと報告した。大口普請、鉄砲・大仏材木の調達、飯野留守の見舞いを督促し、内裏・大仏・院跡三か所の普請で諸大名に暇がない京都情勢も伝えた書状。
正月十一日 / 冊子 358~359頁
琉球へ下す使者について、川上式部太輔ら五人のうち誰を任命するのがよいか義弘の意見を求め、現地では鎌田左京亮が義弘の意向に従うよう申し付けると伝えた島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 487頁
北郷氏庶流系図として、文明八年六月二十一日の都城再拝領と安永からの移転、北郷氏一族による都城受取を記す記事。
(慶長元年)五月廿九日 / 冊子 25頁
島津義弘が忠恒へ、明との和平成立により高麗在番衆の主立った者へ帰朝命令が出たものの、方針が変更され、中途まで帰った者も持場へ戻って勤番するよう命じられたと伝える。義弘は忠恒に代わって渡海する案を石田三成へ申し入れたが、二、三十日ほどの短期で交替すれば忠恒の面目に関わるとして退けられたため、諸人同様に高麗勤番へ戻るよう求めた書状。
(元和元年) / 冊子 571~572頁
幕府の法度に反する者がいるとの情報を受け、関係者を召し出して詳しく調査するよう求める。違反の程度と人数を確認し、重い者には相応の処置を行うよう指示した家久書状。
正平十八年二月十七日 / 冊子 31~32頁
沙弥成栄が、恩賞として拝領した大隅国多禰島について、嫡子忠勝へ半分、残る半分を左京亮忠元・掃部助忠平へ分け、代々の由緒を踏まえて子孫まで違乱なく知行するよう定めた譲状。
年月日未詳 / 冊子 55頁
指宿能登守を祖として、忠篤から忠泰次郎・忠勝能登守・忠元左京亮・忠平掃部介へ連なる系譜を示した指宿氏系図。
年月日未詳 / 冊子 660頁
本田氏領曽於郡の土卒が北郷忠相へ通じ、忠相が北郷左京亮・加茂民部らを清水へ派遣し、新納勢とともに城を攻略して曽於郡を領有し、北郷久利を地頭とした経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 660頁
本田氏の臣が曽於郡で北郷忠相に内応し、忠相が北郷左京亮・加茂民部を派遣、新納忠勝も合流して城を落とし、北郷久利を地頭に据えた経緯を考証した記事。
(天正四年)八月十二日 / 冊子 482頁
島津義久が義弘に、庄内方面へ三百人を送る計画は通路・橋の備えや案内人の報告が想定と異なるため今回は見送ると通知する。高原口の判断を優先し、川上左京亮・雅楽助を十六、七日ごろ派遣して詳しく相談させるとした。
年月日未詳 / 冊子 324頁
伊集院氏支流飛松氏の系図抄。久友(富松左京亮)以下の系譜を掲げ、島津忠良から富松左京亮・野村兵部少輔へ与えられた契状を収める。また加世田城攻めに先立ち久友が島津実久方の大山宮内少輔と刺し違えて戦死したこと、落城時にも猿渡氏と市来氏が刺し違え、両者の墓が城門左右に「富松猿渡墓」として残ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 285頁
町田氏の忠良から直久・成久・高久・庸久らへ続く系図を掲げ、法名・官途・子孫と、応永二十年十二月七日に伊集院頼久軍に従って鹿児島小野で戦死した者などを注記する。
年月日未詳 / 冊子 521頁
文明十七年の郡山川田城攻めをはじめ、各地の戦闘で討死した者をまとめた殉死者記事。町田盛久・忠重、厚地半左衛門尉、鮫坂左衛門二郎、寺田平七、木下彦太郎らについて、戦場と没日を対応させて列記し、島津方家臣の戦死記録を残す。
天文五年十二月七日 / 冊子 751頁
町田忠親の通称・系譜を掲げ、天文五年十二月七日に薩州石谷で戦死し、享年六十一であったことを記す。
天文十年正月十二日 / 冊子 793頁
相模守入道・嶋津上野入道らを左右に分け、各射手の射数を定めた犬追物の手組。
天正九年十二月二日以後 / 冊子 704~706頁
相良義照が島津への忠節を示すため阿蘇方へ出兵し、岩下町を破って勝利したのち、響野原で油断したところを甲斐宗運に急襲されて討死した経緯を記す。相良領が騒然となり、新納忠元が八代へ入って鎮めた後、大膳亮の上球磨侵入や八代老衆の要請を受け、翌年島津勢が八代を領有して相良遺児を球磨へ移し、花山に新城を築いて守備を置いたと続ける。
天正十一年九月~天正十二年 / 冊子 752~753頁
天正十一年九月の肥後佐敷在陣、十月七日の堅志田攻略、十二月の八代在陣、有馬への番兵派遣、翌十二年の高来出兵と龍造寺勢との合戦に参加した将士を列記した交名。島津家久を大将とし、豊久・川上氏・平田氏・新納氏ら多数の侍大将・軍士について、戦死・分捕・高名などの注記も付す。
天正十二年三月二十四日・十一月二十六日 / 冊子 867頁
天正十二年三月二十四日の島原合戦で戦死した新納駿河守・久永九郎左衛門尉以下の将士と、同年十一月二十六日の戦死者を列記する殉国者名録。各人の実名・父祖・年齢・後裔などを注記する。
年月日未詳 / 冊子 153~155頁
天正十四年三月二十七日の伊地知蔵人重増をはじめ、天正年間に豊後・筑前・筑紫・日向などで討死した島津方武士を、氏名・戦場・年齢・所属・同時戦死者とともに列挙する『殉国名藪』。岩屋城攻め、豊後陣、高城・赤城など各地の戦死者を収め、父子・兄弟・主従がともに戦死した例や遺族関係まで付記する。九州統一戦で島津軍が負った人的損失と家臣団構成を具体的に追える名簿史料である。
(慶長十九年)十月十三日 / 冊子 553頁
長年奥方で奉公する江田藤右衛門の老齢と辛労をねぎらい、大窪備前守を交代要員として上らせたので、到着後は帰国してよいと伝える。大坂情勢も熟談して報告するよう求める義弘書状。
十月十三日 / 冊子 124~125頁
大風後の屋敷普請の進捗を問い、駿河と大坂の不和との風聞を受け、陸奥守は東国奉公に専念すべき立場なので、江戸・駿河へ早く使者を送り、国元の雑説に惑わされず書面どおり判断するよう命じた書状。