島津伯囿貴久書状
(永禄九年)閏八月十八日 / 冊子 149~150頁
島津貴久が歳久から久しぶりの音信を受けたことに応じ、こちらからも無沙汰していたと述べた書状。軽少ながら贈物を送り、重ねての音信を期す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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(永禄九年)閏八月十八日 / 冊子 149~150頁
島津貴久が歳久から久しぶりの音信を受けたことに応じ、こちらからも無沙汰していたと述べた書状。軽少ながら贈物を送り、重ねての音信を期す。
(文禄元年)7月18日 / 冊子 595頁
島津義久(竜伯)が歳久へ、邪答院での以前の振る舞いと今回の不慮の事件を理由に、切腹させるとの秀吉の朱印命令が届いたことを告げる。 上意に従って早々に切腹すれば妻子眷属は保全され、家と国のためにも名誉ある最期として後世に名を残せると説く。兄義久が弟歳久へ処断を直接伝えた、歳久事件の核心文書である。
(文禄元年)11月12日 / 冊子 613~614頁
国内が北から乱れないよう替儀を禁じ、細川幽斎が在国中であるため、各人の知行に従って軍務・警固を厳重に勤めるよう求める。 朝鮮出兵で主力が渡海する一方、島津領国の留守と秩序維持を歳久に託した書状で、国内統制の緊張が分かる。
元亀二年六月廿九日 / 冊子 247~248頁
貴久没後二十九日の荼毘に際し、三男島津歳久が日新寺で捧げた祭文。貴久を三州中興の大賢として、孔孟の学、軍略、民の撫育、父子への忠孝、寺院建立・僧侶済度などをたたえる。歳久自身も軍旅で愛憐を受けたことを回想し、突然の死と父との永別を嘆く。
天正八年 / 冊子 643頁
天正八年、島津歳久が吉田から祁答院宮城へ移り、鶴田・求名・佐志・時吉・紫尾・柏原・湯田・中田・船木・中津川・虎居・平川・久富木などの十二か所を領したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 194~195頁
島津歳久譜の記事。義久が肥後八代へ進んで筑紫城・宝満城・岩屋城を攻略した経過を前置きし、続いて大友氏を討つため豊後進攻を決したことを記す。家久には一万余騎を率いて三重方面へ、義弘には三万七百余騎を率いて肥後から長野峠へ進ませ、歳久も義弘軍に従った。岩屋城一戦の軍功記事ではなく、筑前平定から豊後侵攻へ移る島津四兄弟の軍勢配分・進軍路を示す譜の記事である。
年月日未詳 / 冊子 362頁
島津歳久が、根白坂の戦いで戦死した頴娃久虎の生前をしのんで詠んだ追悼和歌。弓馬の家に生まれて武芸に励み、酒宴や舞曲の場でも人々と交わった久虎の人柄をたたえ、「桂岳林昌居士」と唱えて霊前へ手向けている。
年月日未詳 / 冊子 504頁
島津歳久一流系図の常久の項。幼名を襲装菊丸といい、又吉・常陸守・下総守を称したこと、天正十五年正月十八日に祁答院宮城で生まれ、母が歳久の嫡女であったことを記す。歳久流の血縁と出生を確認できる基礎史料。
年月日未詳 / 冊子 524頁
島津歳久の譜の記事。太守竜伯が祁答院へ赴いた際、宴席で和漢百韻が催されたことを記す。「ふりも来ぬ雨をこめたるわか葉哉」など参加者の句と名を掲げ、島津家周辺の文芸交流を具体的に伝える。
9月□日 / 冊子 740~744頁
島津歳久夫人が惟新公(島津義弘)へ、家族や周囲の人々の安否、病状・服薬、使者や贈物、返書が届かない不安などを仮名で細やかに書き送る。 お菊や武蔵殿らの近況にも触れ、歳久没後の島津家女性たちの日常、感情、親族間の連絡を五頁にわたり伝える貴重な私信。
年月日未詳 / 冊子 100頁
慶長十一年十一月一日、島津歳久のため石塔を建立した記事。これに先立つ同年三月に一寺を建立して心岳寺と称し、法印龍伯と惟新が同寺へ赴いた際に詠歌があったことも記す。
年月日未詳 / 冊子 741~742頁
島津歳久一流の系図。忠隣室となった娘、忠隣戦死後に入来院重時へ再嫁した女性、北郷三久室から離別後に伊集院久洪へ再嫁した女性など、歳久の娘たちの婚姻・再婚と母方を記す。
年月日未詳 / 冊子 2頁
蒲生北村の敵が帰順を装って島津軍を誘い出し、弘治元年正月二十二日に貴久・義久が吉田から出陣したところ伏兵に遭った。弟子丸播磨守・指宿丹後守以下十八人が戦死し、十九歳の歳久も負傷したと記す。
年月日未詳 / 冊子 115頁
北原兼守死後、白坂氏・樺山玄佐らが北原兼親を球磨から迎えて家督を継がせ、踊・栗野・吉松などを島津方へ従わせた経過を記す。永禄五年六月三日の横川城攻めでは歳久が義弘と大将を務め、城門へ攻め入って負傷した。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 183頁
永禄十一年正月二十日の大口合戦で、義弘・川上久朗らの戦況が不利と聞いた歳久が、伊集院久治とともに急行して強敵と戦ったことを記す。別路から敵兵が押し寄せ、長野仲左衛門尉・下島甚左衛門尉が戦死したが、伊東右衛門尉・有川貞員らの働きもあって義弘を曽木城へ退かせた。歳久は戦功により河原毛の馬を与えられた。
元亀三年九月廿六日~廿七日 / 冊子 293~294頁
大隅の肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が島津義久への出仕を拒み、廻城を奪って敵対した経緯を述べる。元亀三年九月二十六日、歳久が将帥として下大隅へ出兵し、樫島・瀬戸を経て早崎に陣営を構えた。義久の進船に鼓舞された軍勢が小浜古城を落とし、同地を前陣と改称した。
天正三年 / 冊子 438頁
天正三年、島津義久の命で歳久が市来湊から海路上洛し、川上忠真・八木主水佑を案内役として詩歌・連歌を学んだ。紹巴と連歌を催し、青蓮院尊朝・尊道親王・近衛前久の筆跡を得たことを記す。
年月日未詳 / 冊子 587~591頁
根白坂合戦の敗北と忠隣らの戦死後、秀吉の九州平定に服さなかった歳久が背反を疑われ、病身のまま追討を受けて竜ヶ水付近で最期を迎えるまでを記す。 白浜次郎左衛門が義久の命を伝えると、歳久は駕籠・船で移動するが、家臣らは追手と戦い、多数が主君に殉じた。義久による葬送・供養、竜伯の哀悼と秀吉の処断への批判まで収め、歳久事件の経過と後世の評価を伝える中核史料である。
年月日未詳 / 冊子 591~594頁
秀吉方から歳久処罰の厳命が下る一方、義久が病気を理由に助命を求めた経緯と、梅北一揆・邪答院での事件などが歳久の罪状として扱われた事情を詳述する。 家臣たちは城中で防戦や人質策を相談するが、歳久は領民を戦乱に巻き込むことを避けて退去し、病身で逃れる途中も自害を望む。最終的な死と首級の扱い、従者の殉死、追善供養・葬送関係者まで記し、処断の政治過程と現場の混乱を併せて伝える。
年月日未詳 / 冊子 355頁
島津義久は歳久への追悼を続け、慶長四年三月三日、福崎伊予守兵道行者を地割の担当、宮原左近法師秋扇を奉行として一寺を建立し、瀧水山稱心岳寺と号した。抱巖孫大和尚を開山としたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 340頁
『左衛門督歳久譜』の記事。天文年間、父島津貴久が歳久に黄金を与え、自筆の書簡を添えたことを記し、『山口への御書案文』を掲げる前書き。
(天正三年)八月廿日 / 冊子 438~439頁
青蓮院尊朝が島津歳久との対面を喜び、八木主水佑の求めに応じて入木道五箇条を伝授し、三種の贈物に礼を述べる。尊道親王筆一枚を添え、詳細は治部卿から伝えるとした書状。
年月日未詳 / 冊子 439頁
近衛前久が島津歳久との対面を喜びながら、急いで帰国することを残念に思うと述べ、扇三本を贈った書状。詳細は貞知から伝えるとする。
天正四年四月九日・十二日 / 冊子 474頁
島津歳久の所望に応じて近衛前久が書いた和歌。「乗駒の道を伝へて白真弓引きつれつつも犬を追ふ袖」と、弓馬の道と犬追物を詠む。
(文禄元年)7月17日 / 冊子 586~587頁
島津歳久(晴蓑)が、「晴蓑めが魂の在り処を人が尋ねても、白雲の行方のように分からないだろう」と詠んだ辞世。 死後の魂の行方を白雲に託した簡潔な歌で、追討を受けて死を迎える歳久の覚悟と無常観を直接伝える。白浜次郎左衛門・比志島紀伊守宛の形で残る。
永禄十年十月廿五日 / 冊子 176~177頁
永禄十年十月、菱刈方が三之山へ島津方の襲来を知らせたため、城内が十分に防備を整えたことを記す。島津歳久・義弘・家久らの大軍が城を囲んで攻めたが、米良弥九郎ら城兵が激しく防戦して多数を討ち、島津勢は退却した。島津家がこの通報を恨み、ただちに菱刈征討へ向かったとする日向方の記事。
永禄十二年三月十三日 / 冊子 213~214頁
島津義虎の二男忠隣に関する系譜記事。永禄十二年三月に出水屋地で生まれ、男子のなかった島津歳久の嫡女と婚姻し、歳久家を継承したことを記す。
永禄十二年三月十三日・元亀二年 / 冊子 242頁
薩州島津家の略系図。忠辰を島津歳久の猶子とし、永禄十二年三月十三日生、天正十五年四月十七日に十九歳で死去したと注記する。元亀二年に出水で生まれた忠清は義久長女を母とし、兄忠辰の罪により母・母堂・弟忠富・忠豊とともに小西行長へ預けられ、長年肥後に在住したとする。
元亀三年三月中旬 / 冊子 262~263頁
禰寝重武が伊東・肝付・伊地知方から離れて島津方への忠勤と番兵派遣を願い、島津歳久・忠長を大将とする三千余騎が禰寝へ渡った経緯を記す。元亀三年三月中旬、大姶良方面で敵の誘撃を受け一時混乱したが、歳久・忠長の八百余騎が横撃して敵を破り、重武は幼い息子を人質として差し出した。
元亀三年三月中旬 / 冊子 263~264頁
禰寝重武が島津方へ帰順し、元亀三年三月中旬に伊東・肝付・伊地知方と戦った経緯を詳述する。大姶良方面では島津歳久・忠長らの反撃で敵を退け、重武の子を人質として境目の城々に番兵を置いた。のち敵が小禰寝の浜城を落とすと、喜入図書助・小四郎兄弟らが戦死し、岩瀬戸口で島津方が追撃して多数を討ち取った。
元亀三年九月廿六日~廿七日 / 冊子 293頁
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が廻城を奪って島津氏に敵対したため、元亀三年九月二十六日、島津歳久を大将とする下大隅征討軍に忠長も従軍した。翌日、早崎高峰に陣して伊地知重興領の小浜古城を攻め、義久も古江浜へ進船して軍勢を励まし、守将伊地知美作守の城を落として前陣と改称した。
元亀三年九月廿七日~天正元年三月十八日 / 冊子 294頁
元亀三年九月二十七日の垂水早崎陣と、その後の禰寝・肝付方面の軍事・交渉に関与した将兵を列記する。大将島津歳久、肝付兼寛・鎌田外記・伊集院久春・上原尚近らのほか、禰寝重長との密議・和議を担った宝持院・八木越後守、新納忠元ら、天正元年三月十八日の西俣合戦で働いた島津忠長・樺山規久らを掲げる。
天正二年正月中旬~廿日 / 冊子 392頁
天正二年正月中旬に肝付大勢が牛根へ来攻した際の従軍者と役割を記す。島津家久以下の守備・戦功者、牛根城攻めの先陣大将島津忠長、後陣の島津歳久、侍大将上原長門守、切岸を掘って降伏へ導いた逆瀬川喜兵衛尉・伴五左衛門らを列挙する。
(天正三年)八月廿日 / 冊子 438頁
小笠原宗賢が喜入季久からの書状と沈香に礼を述べ、前年に島津歳久、今度は島津家久と対面したことを喜ぶ。老齢と中風を訴え、生前に季久の上洛を望み、包丁二丁を贈った書状。
(天正三年)八月廿二日 / 冊子 439頁
近衛前久が島津歳久の上洛を喜び、島津義久の変わらぬ忠節を賞する。前年に織田信長とともに京都から退いた後も家領を回復できない窮状を訴え、近衛家再興への援助を求め、琵琶引一巻を贈った書状。
天正三年十月廿一日 / 冊子 440頁
加世田で犬百匹を射立てた天正三年十月二十一日の犬追物手組。四角の射手、各人の射犬数、検見と喚次を記し、島津歳久・家久、新納忠元、島津忠長らが参加した。
天正四年四月十四日 / 冊子 475~476頁
「月前郭公」を題に、島津義久・近衛前久・伊勢貞知・島津歳久・新納忠元らが詠んだ和歌集。月夜の郭公の声を都・雲居・旅情などに結び付け、天正四年四月十四日の会として収める。
天正四年五月七日 / 冊子 478頁
近衛前久が犬追物の興に際して詠んだ一首を、島津歳久が五月七日に写した詠草。正本は殿中にあると注記する。
年月日未詳 / 冊子 280頁
豊州開陣の際、樺山久高が島津歳久らに従って退路を進み、白根城で敵の追撃を受けた記事。城兵と協力して敵を退け、夜間に次の城へ移るまでを記し、撤退軍の小規模な防戦を伝える。
年月日未詳 / 冊子 320~323頁
肥後からの退陣時、白仁に在番した島津歳久勢が岡城主志賀道輝らの追撃を迎え撃ち、新納忠元・伊集院久春らが谷山・高城・水引などの防備と撤収に奔走した経過を詳述する。追撃戦や九鬼水軍との交戦、城兵・船の配置、戦死者を記したのち、島津義久が伊集院で剃髪して龍伯と号し、太平寺で豊臣秀吉に出仕して刀二腰と薩摩一国安堵の台書を受けるまでをたどる。九州征伐終結時の軍事・政治両面を連続して示す重要な譜記事。
年月日未詳 / 冊子 331頁
伊集院に退いた島津義久が、豊臣方から厳しく人質提出を迫られ、娘を差し出した経過を記す。娘はいったん鹿児島へ戻されたのち五月十五日に川内へ向かい、親子の離別は言葉に尽くせないものだったという。義久が秀吉への拝謁を終えて無事帰ると一門・城将が祝賀に集まった。さらに五月十八日、秀吉が太平寺から平佐・山崎方面へ進み、島津歳久が九尾付近の険路を案内したため軍勢が苦しんだことを続けて記す。
年月日未詳 / 冊子 586頁
豊臣秀吉が、九州征伐時に参礼せず祁答院で行軍を妨げたとして島津歳久を逆心と見なし、検使の細川幽斎に討伐を命じた経緯を義久譜に記す。 歳久が祁答院から竜ヶ水方面へ退き、病身のまま少数の家臣と追手を迎え撃った末に死に至るまでを述べ、豊臣政権への服属と島津家内部の悲劇が交差する記事である。
(天正20年)7月18日 / 冊子 595~596頁
島津歳久(晴蓑)が近習衆へ、自分は病で手足も不自由であり、秀吉に反逆する意図はなかったと弁明する遺書。島津家累代を守るため自分一人が自害すると家臣へ繰り返し伝えたが、家臣が承諾しなかった事情も記す。 病身の当主と従臣との葛藤、処断直前の心情を本人の言葉で伝える重要な史料である。
年月日未詳 / 冊子 596~597頁
祖父・島津歳久(晴蓑)が秀吉の意に背いたとして竜ヶ水で討たれ、従った家臣も相次いで戦死した後、幼い島津常久(袈裟菊丸)が家の存続を担うことになった経緯を記す。 六尺にも満たず母の膝を離れない年齢の当主と形容し、残党の籠城で家が滅びかねない危機のなか、義久が歳久を追悼しつつ後継者保護と家の存続を図った事情を伝える。
年月日未詳 / 冊子 682頁
唐人使節の到着後、五日以内に諸軍を都から引き揚げるとの談合を伝えるが、戦況は時々刻々変わるため油断せず慎重に構えるよう島津義弘へ警告する。 御朱印の到着遅延や、国元衆をめぐって石田三成の機嫌が悪く、島津歳久も度々注意を受けている事情を明かし、国元の体制を改めなければ三成への取りなしが難しいと忠告した書状。
年月日未詳 / 冊子 226頁
島津義久(竜伯)が、島津歳久(心岳良空)の七回忌に追善のため詠み、遺影の前に手向けた和歌。「うつし絵に写し置てもたましゐハ/かへらぬ道や夢のうきはし」と、姿を絵に残しても魂は戻らない悲しみを詠む。
年月日未詳 / 冊子 366~367頁
島津義久が又六郎(島津歳久)に、心経、犬の具合、山神の祭祀、平田への祈念、狩猟や周辺への問い合わせなど、身辺の諸事について相談・依頼した書状。
三月四日 / 冊子 367頁
島津義久が又六郎(島津歳久)の体調を尋ね、境目の情勢、番衆が小勢となること、仕役の相談、典厩と同様の上申、清水への連絡について分別を求めた書状。
二月廿五日 / 冊子 368頁
島津義久が又六郎(島津歳久)に、大屋形様の仰せを受けて諸所へ軍勢の手配を命じたことを知らせ、歳久にも引き続き準備するよう求め、自身も明後日までに出立すると伝えた書状。
八月四日 / 冊子 368頁
島津義久が又六郎(島津歳久)に、火箭の口薬に用いる品を送り、細工を依頼した書状。弓竹などの材料を真幸方面で調達することや、念佛寺からの使僧についても問い合わせている。