島津忠長譜
年月日未詳 / 冊子 819頁
島津忠長譜は、慶長七年春に龍伯が忠長と旅庵を京都へ遣わした経緯を記す。前年の誓約を踏まえ、井伊直政・本多正信らを介して徳川家康との盟約を再確認し、島津家の和議成立を進めた。
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年月日未詳 / 冊子 819頁
島津忠長譜は、慶長七年春に龍伯が忠長と旅庵を京都へ遣わした経緯を記す。前年の誓約を踏まえ、井伊直政・本多正信らを介して徳川家康との盟約を再確認し、島津家の和議成立を進めた。
年月日未詳 / 冊子 840頁
島津忠長譜は、伊集院忠真の陰謀が露見して国中が不安定ななか、忠恒が島津家の大難を救うため上洛を決意した経緯を記す。関ヶ原での責任を徳川家康へ謝するため、鹿児島を発し、播磨室津・大坂・伏見へ進んだ。
年月日未詳 / 冊子 846頁
島津忠長譜は、忠長が在京中に飛鳥井雅庸へ歌道入門を願い、門弟となったことを記す。雅庸から自筆の歌書・免状や懐紙、法楽歌、講師事、発声事など歌道伝授に関わる品々を授けられた。
年月日未詳 / 冊子 847頁
島津忠長譜は、慶長七年九月十二日に忠長が慶公・甫公・玄仍・玄仲を招いて懐旧の百韻連歌を催し、玄仍の自筆による百韻懐紙を得たことを記す。発句と連衆の付句も掲げる。
年月日未詳 / 冊子 874頁
島津忠長譜は、慶長八年に忠長が再び剃髪し、紹益と称したことを記す。
慶長五年十二月二日 / 冊子 719頁
薩摩国祁答院の山崎村、指宿十九町の浦之門・尾辻之門・下吹越之門内を、合計千石余の加増として島津忠長へ与える目録。鎌田政近・比志島国貞・平田増宗が連署する。
(慶長七年)六月十一日 / 冊子 820頁
島津義弘が図書頭忠長へ、和久甚兵衛尉が六月三日に到着したことを告げる。上方での交渉を心配していたが、内府の御前で異議なく神裁も示され、義弘自身の処遇まで明確になったことを喜んだ書状。
康正三年四月廿六日 / 冊子 431頁
島津忠長が二階堂殿に対し、薩摩国田布施の所領について先例に任せて沙汰するよう命じた宛行状。
年月日未詳 / 冊子 724頁
島津忠長が天文三年八月二十六日、赤松次郎と播州朝日山で戦って戦死したこと、享年三十四、法名高清であったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 135頁
島津忠長の名について、俊安和尚を招き、反切によって文字の音を求め、読み方を定めたことを記す譜中記事。続く加官状の導入となる。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 192頁
永禄十一年二月二十八日、島津忠長と肝付兼寛が馬越城から市山城へ赴き、新納忠元と大口城攻略を相談した後、小苗代原で敵の偵察兵と遭遇した経過を記す。忠元・兼寛・忠長らが応戦し、新納久継が負傷、面高真連坊が鉄砲で敵将を倒した。忠元は白坂で戦って左脇を刺されたが城へ退き、城壁を越えようとした敵三人を守兵が討って退散させた。
天正二年正月三日 / 冊子 329~330頁
天正二年正月三日、肝付兼続の軍勢が高隈山を越えて牛根城前の茶園尾に陣取ろうとしたため、島津忠長が疲労した敵を討つ好機として軍中を励まし、自ら後詰めを約した。川上久信も同様に指揮し、島津勢が敵軍を敗走させ茶園尾を占領した。
天正六年七月六日 / 冊子 542~543頁
鹿籠から大隅国肝付郡串良へ移った島津忠長の譜。伊東義祐の豊後退去後、旧臣長倉勘解由左衛門が石城に籠もったため、天正六年七月六日に忠長と伊集院忠棟が数千の軍で攻撃した。大河を徒歩で渡り城門へ迫ったが忠長も矢傷を負い、堅城を無理攻めせず佐土原へ退いた。
天正六年十一月十二日 / 冊子 557~558頁
大友宗麟・義統が高城を包囲すると、島津忠長は義久軍に従って佐土原へ進んだ。十一月十二日の決戦で本田親治・北郷久盛らが戦死し大友軍が追う中、義弘が反撃し、征久・忠長も数万の兵で横撃した。大友軍は逃げ場を失い深淵へ入り、多数が溺死したと記す。
年月日未詳 / 冊子 659頁
島津忠長の祖父忠良が稲富長常を尚久の柱石の臣とし、尚久が早世して忠長が孤児になると、長常の子長秀に忠長を養育させた経緯を記す。忠長が成人した後、その忠功に感謝して長秀へ書状を与えたことを導入する譜記事。
天正年八月吉白 / 冊子 659~660頁
島津忠長が稲富長秀へ、父尚久の死後に孤児となった自分を忠良の命で養育し、肝付氏の乱に際して串良院への移住を実現し、高岳・柏原の知行や家臣扶持まで整えた長年の忠勤を賞する。以前与えた一封に加えて知行を増し、後世の証として判物を与えた。確定版年月日は年次数字を欠くが、本文は天正八年仲秋吉日と記す。
天正八年八月二十二日 / 冊子 675頁
島津忠長・新納忠元が伊集院新介へ、肥後合志で伊集院久治と大津源左衛門尉が戦い、大勢の敵を追い払ったうえ、襲いかかった大津六右衛門尉を新介が討って久治の命を救ったことを賞する。上聞に達して別紙の褒美が出されたと伝えた連署状。
天正九年八月二十二日 / 冊子 697頁
本文はNo.1168の文書と同文であるため省略されている、島津忠長・新納忠元の八月二十二日付連署状。
天正十年十二月朔日~天正十一年春 / 冊子 730頁
島津忠長が天正十年十二月朔日に八代へ到着し、島津忠平・家久ら諸将と肥前・肥後経略の策を協議し、翌年春に帰陣したことを記す譜中記事。
天正十一年九月二十五日~十月二十四日 / 冊子 762頁
天正十一年九月二十五日、八代の島津忠長旅宿に諸地頭を集めて出軍を評議したが軍勢未着のため延期したこと、十月二十四日に伊集院忠棟・上井覚兼から国老就任を命じられ、再三辞退したものの厳命により引き受けたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 74頁
天正十三年閏八月十一日以降、島津忠長が義弘の肥後八代出陣に従い、堅志田方面で放火・城攻めを進めた戦闘記事。敵二百余を斬り、首級を挙げた一方で攻城側も損害を受け、梅北国兼らの軍が合流した。忠長は無衣無食に近い軍中で薄酒を与えて兵を励まし、翌日の攻撃に備えており、前線指揮の具体像が見える。
年月日未詳 / 冊子 103頁
天正十三年十月朔日、飯田山在陣中に樺呂木新介の乱企てと倉岡讃岐守の虚言が発覚し、上井覚兼・島津忠長らが兵を出して関係者を討った経過を記す。その後、秋月・龍造寺・筑紫・星野氏や高良山から戦勝祝賀の使者・書状が相次ぎ、家中の反乱処分と北部九州諸勢力の島津方接近を続けて示す。
(天正13年)正月19日 / 冊子 153頁
島津忠長・本田親貞・伊集院忠棟の三名が星野伯耆守へ、前年に豊州勢が坂東寺へ在陣した際、肥前との和睦によって速やかに陣を解いた経緯を確認した連署状。その後も合意に背き高良山で対立が続くことを問題視しつつ、秋月種実と龍造寺政家が一致して協議している点を評価する。両家が島津方に属する立場を踏まえ、星野氏にも隔意なく忠節を尽くし、事態収拾へ知恵を巡らせるよう求めている。
年月日未詳 / 冊子 195~196頁
島津忠長は筑紫城攻略後、七月七日の岩屋城攻めで自ら前進し、城兵の長刀・鉄砲・投石を受ける接近戦を家臣らと戦った。攻城の激しさと味方の死傷を記したのち、落城後に高橋紹運の子・弥七郎直次(高橋統増)が宝満城から人質として来たこと、なお立花城が降らず使僧を送って開城を迫った経過までを載せる。
年月日未詳 / 冊子 242頁
天正十四年十月、島津義弘が三万七百余騎を率いて肥後境から豊後南郡へ進攻した際、島津忠長もその軍に従ったことを記す。豊後征伐における忠長の所属と従軍経路を示す短い譜記事である。
年月日未詳 / 冊子 325~326頁
豊臣軍の九州進攻を受け、府内にいた島津方が軍を日向路・肥後路の二手に分けて撤退したことから説き起こす。島津忠長は義久・義弘に従って根白坂の豊臣方陣地を攻めたが、島津忠隣ら三百余人を失って敗北し、伊集院忠棟を人質に和議を結んだ。その後、義久が剃髪して龍伯と号し太平寺で秀吉に出仕したこと、忠長も剃髪して紹瑛と号したことまでを記す。
年月日未詳 / 冊子 343頁
豊臣秀吉が6月12日に太平寺から平佐城へ移り、祁答院・菱刈院・牛屎院を経て肥後へ出て、筑前博多から帰京しようとした経路を記す。15日には島津義久が鹿児島を発って秀吉を追い、京都の聚楽へ赴き、島津忠長も随行した。降伏後の義久らの上洛過程が分かる。
年月日未詳 / 冊子 418頁
島津忠長が官暇を得た島津義久に娘一人を伴わせ、京都から帰国させた経過を記す。 沓無島・備後鞆津などを経て新宅の完成を待ち、翌年二月に移居した道程が、忠長家の移動と居所整備を伝える。
年月日未詳 / 冊子 451頁
島津忠長譜の記事。天正十七年八月二十日、島津義久(龍伯)が上洛のため出発し、九月二十四日に摂津国大坂へ着船した経過を記す。 忠長の館を経て聚楽へ向かう一方、大徳寺前龍室の玉仲宗琇を訪ねたことも記し、義久の上洛行程と禅僧との交流を伝える。
年月日未詳 / 冊子 517頁
豊臣秀吉が全国の軍勢を催し、朝鮮征伐のため肥前名護屋に本営を築いたことを記す島津忠長譜の記事。竜伯は京都を辞して帰国したが、忠長は島津方の人質として聚楽に残された。豊臣政権下での従属と人質政策を示す。
年月日未詳 / 冊子 534頁
文禄元年三月二十八日、島津義弘・久保父子が薩摩・大隅・日向三州の兵を率いて朝鮮へ渡ったことを、京都にいた島津忠長が聞いたと記す。在京中の忠長に伝わった島津軍渡海の報知を示す短い記事。
天正20年6月吉日 / 冊子 565~566頁
島津忠長ら五名が、日向国志布志の伊屋松門・山口・山の口・松か迫などに散在する田地を列挙し、合計一町七反八畝五歩として上原筑前守へ与えた連署坪付。 各小字の反別を細かく積み上げた土地台帳で、島津家中の給地配分と五名の連署による権利確認の実務が分かる。
天正20年7月吉日 / 冊子 579~580頁
島津忠長・伊集院忠棟(幸侃)・町田久倍の三名が、田尻荒兵衛尉の旧跡を残らず一王雅楽助へ宛て行うことを認めた連署宛行状。 梅北一揆関係者である田尻氏の所領処分と、その跡地を新たな家臣へ再配分した具体例として重要である。
年月日未詳 / 冊子 680頁
島津忠長が文禄二年二月に帰国し、翌三月には再び朝鮮へ渡って、薩摩・大隅・日向の諸将とともに軍務に従事したことを記す。 島津軍の再渡海時期と忠長の在陣を簡潔に確認できる家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 5~6頁
文禄五年正月二十八日、島津忠長が旧領および新恩の地を与えられ、その目録が作成されたことを記す譜記事。
文禄五年十二月廿三日 / 冊子 63頁
島津忠長が本田六右衛門尉に、川辺郡崎村・高橋村・谷山平川村などの土地を、村別の石高を示して充行った領知目録。
十二月廿三日 / 冊子 63頁
島津忠長が本田六右衛門尉に、川辺野崎村・高橋村・谷山平川村・松田渡り村の土地を石高別に充行った領知目録。
年月日未詳 / 冊子 70頁
島津忠長譜のうち、日本軍諸将が南原城攻略を計画し、島津忠恒らの軍勢が朝鮮へ進発して攻城に加わるまでを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 252~253頁
『図書頭忠長譜』が、明軍の泗川攻撃に対する島津忠長の迎撃を記す記事。明側から降伏を促す書状が届くと、義弘は勝敗は戦って決すべきだと退けた。九月十九日に明軍二十万が進み、忠長は九月廿八日の戦闘で自ら敵へ向かい、野添帯刀長・本田與兵衛尉と合力して数人を討つ。義弘が忠長の危急を見て数百騎を救援に送り、寺山四郎左衛門尉の働きもあって明軍を敗走させ、晋州川まで追撃したとする。
年月日未詳 / 冊子 302~303頁
島津忠長譜が、慶長三年十二月上旬に釜山浦から博多へ帰着し、帰朝軍勢の到着を待った経過を記す。義弘・忠恒は石田三成から豊臣秀吉の訃報を聞いて一座とともに哀悼し、朝鮮での戦功を称賛された。義弘が軍忠は忠長の働きによると述べると、浅野長政も忠長の手を取って異国での名誉を賞した。忠長は義弘父子に従い十二月廿七日に大坂へ着き、伏見で龍伯らと会した席でも諸士の中で戦功を称えられ、吉道の宝刀を賜った。
年月日未詳 / 冊子 356頁
島津忠長が新恩として、大隅国肝付郡の川東柏原村、串良の内岩広村、寄田村、上分高隈の内から浦役を含む合計二千石を与えられたことを記す。このうち千石は加増、千石は先年の支配時に上地した分の返地であった。
慶長四年三月七日 / 冊子 356頁
島津忠長が本田六右衛門尉に、川辺宮下村二百八十七石余と柏原内中別府村四百十二石余、合計七百石を宛行う。このうち五百石は加増、二百石は先年の配当時に知行不足のため上地した分の返地とする。
慶長四年七月廿八日 / 冊子 409~410頁
島津忠長が署判した薩州谷山内の知行目録で、山田村、田中之門、名古屋敷、山科村、老町田屋敷などの知行地と石高を列挙し、合計高を示す。所領の範囲と数量を確定するための目録である。
(慶長四年)十一月廿二日 / 冊子 467頁
島津忠長が増二斎に、長期滞留の辛労を察し、親瀬での番役は大儀であるため、この時節は少し目を休めてもよいと伝える。ただし、そのほかの諸下知は堅固に申し付けることが肝要だと念を押す。
(慶長五年)二月六日 / 冊子 508頁
島津忠長が、寄合中の詫びに関する件について、先日相良新右衛門へ伝えたとおりであるとし、一同で相談して穏当な判断をするよう求める。詳細は使者に申し含めたと伝える。
慶長五年五月四日 / 冊子 540頁
島津忠長と平田増宗が連署し、加増高二千七百三十石のうち、庄内下川路有水の高千石を北郷作左衛門尉に与えることを示した加増目録。
慶長五年五月五日 / 冊子 540頁
島津忠長と平田増宗が連署し、薩州鹿児島内犬迫村六十八石二斗八升と伊集院郡木田之門十二石一斗九升、合計八十石四斗七升(内屋敷)を、阿多の返地として宛行うことを示した返地目録。
慶長五年八月廿四日 / 冊子 569頁
島津忠長・平田増宗・鎌田政近・比志島国貞が連署し、財部神社に関わる玉泉寺へ、薩州川辺の門前屋敷・田畠など計二段二畝、二石二斗を新知として宛行う目録。地目・面積・石高を列記し、慶長五年八月二十四日付で交付する。
慶長五年九月六日 / 冊子 573~574頁
島津忠長・比志島国貞・鎌田政近が連署し、薩州鹿児島郡武村の浮免五石一升をはじめとする加増地を梅北与左衛門尉へ宛行う目録。庄内で自力百日在陣した功による加増で、田畠の反別と石高を列記する。
(慶長五年)九月十四日 / 冊子 576頁
島津忠長と比志島国貞が連署し、竹内備前守は前年の庄内合戦で分限に応じない人数を率いて奉公し、今後も用に立つ者であるため知行を与えるべきだと述べる。当人をこちらへ召し移す意向であるが、現在その地で番を勤めているので現地で召し抱え、庄内での奉公の様子は本人から聞くよう求める。