島津家久譜
年月日未詳 / 冊子 862頁
島津家久が前年八月に京都を出発し、同月二十五日に肥前名護屋へ着いたものの、領国から従兵と渡海船が届かず、長期間出航できなかった事情を記す。 家久は遅延理由を石田三成の家老・安宅三郎兵衛尉秀安へ書き送り、その返書を次の文書として掲げる。朝鮮渡海を妨げた輸送準備の遅れが具体的に分かる。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 862頁
島津家久が前年八月に京都を出発し、同月二十五日に肥前名護屋へ着いたものの、領国から従兵と渡海船が届かず、長期間出航できなかった事情を記す。 家久は遅延理由を石田三成の家老・安宅三郎兵衛尉秀安へ書き送り、その返書を次の文書として掲げる。朝鮮渡海を妨げた輸送準備の遅れが具体的に分かる。
年月日未詳 / 冊子 869~870頁
豊臣秀吉へ薬用の虎肉・内臓や毛皮を献上するため、朝鮮在陣中の島津勢が虎を追った経過を家久譜から詳述する。島津彰久の臣・安田次郎兵衛や長野助七郎らが接近戦を挑んだ。 虎の逆襲で死傷者を出しながら二頭を仕留め、小西行長へ成果を報告したという。狩猟の危険、家臣の戦い方、献上品調達が一体となった臨場感ある記事。
(慶長十五年)七月十九日 / 冊子 283~284頁
慶長十五年七月十九日、山口直友が島津家久に、南蛮人の取扱いをめぐる大御所の不興が後藤庄三郎の取り成しで解けたため礼状を送るよう勧めた。伊東・秋月・高橋・藤堂・板倉らの厚遇、翌春の禁中普請、伊勢・三河経由の駿河下向路など、上方の政治事情を詳報する。
天正15年5月26日 / 冊子 340頁
島津義久が島津中務少輔(家久)へ、近年の混乱後で世上が不安定ななか、豊臣政権への服属を外れて公儀に背くことのないよう慎重な判断を求めた書状。家久が上洛するとの風聞にも触れ、詳しいことは高崎某に言い含めたとしており、家久の進退を強く案じる内容である。
天正15年5月27日 / 冊子 340頁
豊臣秀長が島津中務少輔(家久)へ、家久の身上について申し上げた結果、佐土原城と本来の知行を返還することになったと伝え、その旨を承知するよう求めた書状。豊臣政権への服属後、家久の本拠と旧領が正式に安堵されたことを示す。
天正三年二月九日~七月二十日 / 冊子 444~466頁
島津家久が天正三年二月に串木野を発ち、肥後・筑後から長門・安芸・播磨を経て上洛し、京都・坂本・堺・奈良・伊勢などの社寺・名所を巡った往復日記。里村紹巴らとの連歌、公家・僧侶・武家との贈答・酒宴、祭礼・猿楽、各地の城郭・町並みや荒天の船旅を克明に記す。京都では織田信長の行列を見物し、信長が馬上で居眠りする姿まで観察した。坂本では明智光秀の歓待を受け、焼亡後の比叡山と琵琶湖周辺を見聞。伊勢参宮、堺・平戸を経て七月二十日に串木野へ帰着した。
天正十二年七月十日 / 冊子 922頁
島津家久が樺山玄佐へ、古今集伝授が成就したことを末代までの喜びとして謝し、祝儀として金十両・銀二十両と水田納の証文を贈った書状。
年月日未詳 / 冊子 768頁
島津家久が前年冬から堺の町に滞在し、秀吉への再謁見を待つ間に重い疱瘡へ罹患したことを記す。長く病床に伏したものの、療養を怠らず幸いに一命を取り留めた。 家久の上方滞在と急病、その回復を本人の視点に近い表現で伝える家譜記事である。
文禄3年 / 冊子 774~776頁
島津家久が武庫様への忠孝と奉公を誓い、家督相続後も両殿の意向に従って家中を治める方針を列挙した起請文前書案。縁者を含めて不正を許さず、家中の安泰と法度の遵守を重視する。 讒言や中傷を退け、奉公人の処遇や家中の争いを公正に扱うという、当主の統治姿勢を示す草案。
年月日未詳 / 冊子 878頁
島津家久の譜として、慶尚道昌原で捕獲した虎の肉を日本へ送り、秀吉に献上した出来事を記す。 四月二十八日に秀吉から台書を賜り、献上を喜ぶ一方で今後は虎狩りをやめるよう命じられたことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 117~118頁
『島津家久譜』から、日本諸将の再渡海後、巨済・唐島・加徳島付近で明・朝鮮水軍と戦った経過を記す。敵船の接近と日本側の迎撃、船の拿捕・焼却、将ごとの働き、損害と戦功、豊臣秀吉の賞賛までを叙述する。
慶長三年(四月) / 冊子 203~204頁
島津家久の事書案。留守居の談合衆は諸事を容赦なく法に従って処理し、公領の町・浜に住む者へ公役を怠りなく課すこと、船役は船奉行が現地で船を確認して命じ、高麗渡海船の選定に贔屓・偏頗がないよう入念に行うことを定める。鹿児島衆には従前どおり普請へ出るよう命じ、怠惰や難渋があれば役人が厳しく申し付けて言上すること、代官衆の公役、濱市・帖佐・鹿児島三方の協議による決定も規定する。
(天正八年比定カ)正月十二日 / 冊子 171頁
前日に招かれたにもかかわらず、ひどく酔ってしまい参会できなかったことを詫び、詳しい事情は使者が申し述べるとした島津家久書状。
永禄十年十一月~永禄十一年正月十八日 / 冊子 170頁
永禄十年十一月、義久・義弘が菱刈院へ進み馬越城を陥落させたため、周辺諸城が大口城へ退いた経過を記す。相良方の球磨・葦北勢が大口城へ入る一方、家久は樺山玄佐・忠知らと平泉城を守り、のち横川城を与えられて飯野警衛を命じられ、翌年正月に長陣を終えた。
年月日未詳 / 冊子 774頁
三月、家久の疱瘡が次第に治まり、十九日に堺を発って二十日に京都へ到着した。二十六日には伏見へ赴き、石田三成の案内で登城して秀吉へ拝謁したことを記す。 重病からの回復後、豊臣政権への出仕を再開した経過が日付順に分かる家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 823頁
原資料には「家久公御譜中」という出典表示のみがあり、対応する記事本文は記載されていない。 本文の脱落、または編纂上の空白である可能性があるため、内容を推測せず出典情報だけを記録する。
年月日未詳 / 冊子 908~909頁
家久譜は秀次が聚楽で陰謀を企てたとの嫌疑から、高野山へ追われ自害し、妻子・侍女らも処刑された事件を記す。 岡田勝五郎が上使として事件の次第を詳しく語り、聞く者が涙したという叙述を含み、島津家に伝わった秀次事件像を示す。
年月日未詳 / 冊子 900頁
巨済の陣所整備を命じられ、四国勢二陣の兵器、門・堀、矢倉、小屋、材木などを移して城の構えに用いたことを記す。 朝鮮在陣中の築城資材が部隊間で再配分された実態を示す譜記事で、続く連署状の背景となる。
年月日未詳 / 冊子 909頁
日明和平が定まり、明国使節が日本へ渡航することになったため、巨済島の諸陣を加徳島へ移した経緯を記す。 小西行長・寺沢正成が明の遊撃官人を伴って来て、和平が偽りでないことを示したという、講和交渉と撤兵の具体像を伝える記事。
年月日未詳 / 冊子 507頁
志和池城の守兵が数か月にわたり包囲され、兵器・食糧が尽きて餓死者も出るほど衰弱し、慶長五年二月五日に戦意を失って相次いで降伏を願い、捕虜らも下城して退去したと記す。
年月日未詳 / 冊子 651頁
元和三年七月二十一日、将軍徳川秀忠が参内し、島津家久がこれに扈従したことを記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 652頁
元和三年七月二十七日、島津家久が勅使西洞院時直を通じて後陽成院の宸翰と掛物一幅を拝領し、百拝して謝し家宝としたことを記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 656頁
元和三年九月一日、島津家久が徳川秀忠から松平の称号を与えられて薩摩守に任ぜられ、貞宗の脇差を拝領し、返礼として宝刀と品物を献じたことを記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 657頁
元和三年九月一日、島津家久が徳川秀忠から松平の称号を賜り、薩摩守に任ぜられたことを記す島津家久伝の記事。
年月日未詳 / 冊子 658~659頁
元和三年九月五日、徳川秀忠が薩摩・大隅および日向国諸県郡内百六十四村など、合計六十万五千六百七石余の領知判物を島津家久に与え、家久がこれを頂戴したことを記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 660頁
島津家久が暇を賜って本国へ赴いた時期は記録がなく明確でないものの、元和三年九月中旬から下旬頃と考えられる旨を記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 663頁
同年十二月下旬、島津家久が使節をもって謝意を表し、花氈と硫黄二、三百斤を献上したため、徳川秀忠の内書が出されたことを記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 664頁
元和四年正月、島津家久が新年祝賀の使者を遣わし、徳川秀忠へ太刀一腰と馬代黄金二十両、徳川家光へ太刀一腰と馬一匹を献上し、それぞれ御内書を受けたことを記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 670頁
島津家久が、老父島津義弘の持病により旅行が困難であるため当年の参勤を延期する旨を本多正純へ書状で伝え、ほかの老中からも返書を受けたことを記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 676頁
島津家久が伊勢貞昌を江戸へ遣わして御内書への謝礼品を献じ、父義弘の病が癒えず参勤を延引する旨を重ねて本多正純に告げたところ、両御所から父の側で十分に孝養するよう命じられたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 686頁
徳川秀忠の上洛命令を受け、島津家久が十五歳の次男又八郎忠平を伴い、元和五年二月上旬に鹿児島を発って京都へ向かい、島津久元・町田久幸が随行したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 691頁
島津家久が本多正純・土井利勝と面会し、将軍還御後の江戸越年、病が回復した次男又八郎忠平を翌年江戸へ出して島津家の質とすることなどを相談し、逐一許可を得て伊勢貞昌を江戸へ遣わしたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 692頁
元和五年三月二十四日夕、島津家久と又八郎忠平が穏やかな海を渡って大坂へ着岸し、翌日、家久が伊勢貞昌へ書状を送り、事情を詳しく伝えたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 701頁
元和五年五月二十六日、徳川秀忠が伏見城へ入った際、島津家久が山科まで出迎え、その行為が秀忠の耳に達して厚意を受け、のち旅館へ戻ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 701頁
元和五年六月朔日、島津家久が伏見城へ登り、幣物を献じて徳川秀忠に拝謁し、当年の慶賀と秀忠の上着を祝い、その後宿所へ戻ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 702~703頁
島津家久が徳川秀忠への拝謁に際して厚遇され、秀忠や諸大名から多数の太刀・銀子・馬代・帷子などを受けたことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 711頁
七月二十七日、巡検使大橋親正が肥後水俣から比志島国貞・三原重種へ書状を送ったことを記し、その本文を次号に掲げる島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 713頁
京都滞在中の島津家久が義弘死去の報を受け、帰国許可を得て鹿児島へ急行し、細川忠興・忠利から弔使、香典銀五十枚、法華経一部を受けたことを記す家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 715頁
島津義弘の死去を受け、徳川秀忠が島津家久へ御内書を送り、花房元則を使者として詳意を伝えさせたことを記す家久関係の記事。
年月日未詳 / 冊子 716頁
九月八日、酒井忠利が島津家久へ書状を送り、献上材木を監司が受け取ることになった旨を記す家久関係の記事。
年月日未詳 / 冊子 718頁
十月下旬、花房元則が江戸へ帰る際、島津家久が川上久国を護送役として同行させ、十月二十九日に乗船し、肥前で久国が帰国したことを記し、次号に元則の書状を掲げる家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 719頁
島津家久が伊勢貞昌を江戸へ派遣した後、しばらく音信がなかったため書状を送り、伊勢から別府景親を介して返書が届いたことを記す家久譜の記事。
(元和五年)十二月七日 / 冊子 720頁
島津家久が家族へ、日取りや使者からの連絡、女性の近況、衣類などの手配について仮名書きで伝えた私的書状。
年月日未詳 / 冊子 722頁
徳川秀忠の弔使花房元則への謝礼のため、島津家久が市来家貞を江戸へ派遣し、家貞が幣物を献上して諸方の返書を持ち帰ったことを記し、以下の文書群へ接続する家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 723頁
島津家久室が慶長五年に肥後で生まれ、母は皆吉久右衛門続能行の娘であったことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 723頁
島津家久が年頭祝儀の品を使者に託して徳川秀忠へ献上し、例年どおり返礼の御内書を受けたことを記す家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 730頁
島津家久が元和六年四月上旬に鷹府を発って江戸へ向かい、家老伊勢貞昌が随行し、五月下旬に大坂へ到着したことを記す系譜記事。
(元和六年)五月三日 / 冊子 730頁
島津家久が進藤中山王に、年中の祝詞と上布百端・焼酒三壺・唐折敷十枚の贈答へ謝意を示し、近く上洛する予定と毎年の旅行による疲労を伝えた書状。
(元和六年)五月五日 / 冊子 730~731頁
島津家久が、又五郎らの無事を喜び、下野守久元のもとへ人を遣わして兵部方に関する事情を聴取し、その内容に応じて処置するよう求め、自身も間もなく帰る意向を伝えた書状。
(元和六年)五月廿六日 / 冊子 732~733頁
島津家久が喜入摂津守忠政に、遠路から見舞いの使者を送られたことを喜び、自身の側は平穏であると伝え、音信として銀子三枚を贈った書状。