島津久長相伝文書目録
年月日未詳 / 冊子 308頁
伊作家久長が相伝した文書目録。久経・忠宗・久長らの譲状、御下文、鎌倉将軍・大隅殿等の下文、やくす殿・大すみ殿・つらせ給ふ御状など八通以上を列挙し、伊作家の所領・家督相伝を支えた文書群の構成を示す。
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年月日未詳 / 冊子 308頁
伊作家久長が相伝した文書目録。久経・忠宗・久長らの譲状、御下文、鎌倉将軍・大隅殿等の下文、やくす殿・大すみ殿・つらせ給ふ御状など八通以上を列挙し、伊作家の所領・家督相伝を支えた文書群の構成を示す。
正応五年十一月卅日 / 冊子 370頁
『伊作家久長譜』所収で、正文は手鑑にある。本文はNo.958と同文のため省略される。内容は、伊作庄日置北郷の領家と地頭・下司名主両職者が所務相論を和与し、下司名主職、地頭得分、宮内伊与倉名半職、田所惣公文屋敷田畠、寺田・井牟田・田神田などの知行と返付を条別に定め、奉行人が後日の証文として加判したもの。
正和三年十一月廿七日 / 冊子 445頁
薩摩国伊作庄地頭下野彦三郎左衛門尉忠長代行長と申小類らの船壹艘相論を裁した鎮西下知状。借用した船が海路で破損したとする主張に対し、志布志入道・伊作家久らの証文、船代引渡しの経緯、同浄證らの証言を検討し、召進・糺明を命じた。
元亨四年十月一日 / 冊子 523頁
関東御軍事により市来院河上へ馳参したことを届け、着到を披露するよう求めた高岡大河上氏こと大蔵家久の着到状。
年月日未詳 / 冊子 691頁
建武四年五月以降の肝付兼重らの動向を記す伝記記事。泰季が守護領を分封したこと、上聞のため使者を遣わしたこと、六月四日に高家命で河上家久入道導乗らを権領河上名へ派遣したこと、益山四郎・大隅式部三郎らによる市来・松原口等の合戦、負傷・戦死、諸将の入道・任官を記す。
年月日未詳 / 冊子 354頁
阿多氏について、久清から忠清・経久へ続く系譜と、家久・亀徳丸・飛騨守の名乗りを簡略に示した系図記事。
年月日未詳 / 冊子 834頁
由緒書にいう市正殿を、家久公の御子忠廣で後に萬山殿と称した人物と比定する伊地知季安の考証。
年月日未詳 / 冊子 1~2頁
島津貴久が嫡男義久、弟忠将、子の歳久・家久を率いて北村を攻めた際、敵の伏兵に遭って歳久が負傷。翌日、北原氏の軍勢が溝辺に出たため大隅衆が迎撃し、鉄砲で敵六人を射殺、太刀で一人を討ち取った。
年月日未詳 / 冊子 123~124頁
永禄六年六月十六日に生まれた島津義久の女子について、島津義虎および島津彰久の室となったこと、母は種子島氏の女子であることを記す。寛永十八年八月十五日に新城で七十九歳で死去し、法名も載せる系図記事。
永禄十年 / 冊子 160~161頁
永禄十年の菱刈氏征討を中心に記す。七月に義久が樺山幸久と盟約し、冬には貴久・義久・義弘らが各方面の軍勢を率いて馬越・湯尾・横川などへ進撃、十一月二十四日に義弘が馬越城を攻略したため周辺諸城が相次いで退去した。大口城には相良方の球磨・八代勢が入り、各城へ島津方守兵を配した後、市山城への攻撃を受けて新納忠元を守将とした経過も載せる。
永禄十年二月廿五日 / 冊子 162~164頁
「賦山何」を題として、島津義久・其阿・伯囿・珠玄・家久・忠元らが詠み継いだ連歌一巻。花、月、旅、恋、無常、仏道などを取り合わせた付句を連ね、末尾に各参加者の句数を記す。
永禄十年三月吉日 / 冊子 165頁
薩摩国阿多郡新山村の大日如来像を造立した由緒書。日新を護持信心の大檀那とし、諸人の息災延命、子孫繁昌、現世安穏、後生善処を願い、伯囿貴久・義久・義弘・歳久・家久らの名を掲げる。
永禄十年十一月廿三日~廿五日 / 冊子 167~169頁
菱刈氏が島津氏の旧臣でありながら相良氏と結んだため、永禄十年十一月二十三日、貴久・義久父子が栗野から湯尾へ、義弘が飯野から馬越へ進んだ征討を詳述する。狐火を吉兆として翌日総攻撃し、義弘らが城門を破って井手籠父子を討ち、二百余級を得て馬越城を陥落させた。周辺八城と横川が退去・降伏した一方、菱刈隆秋は大口城に籠り、相良氏の球磨・八代援軍が入城した。
永禄十年十一月~永禄十一年正月十八日 / 冊子 170頁
永禄十年十一月、義久・義弘が菱刈院へ進み馬越城を陥落させたため、周辺諸城が大口城へ退いた経過を記す。相良方の球磨・葦北勢が大口城へ入る一方、家久は樺山玄佐・忠知らと平泉城を守り、のち横川城を与えられて飯野警衛を命じられ、翌年正月に長陣を終えた。
永禄十年十一月~永禄十一年十一月 / 冊子 170頁
永禄十年十一月、貴久が馬越城を陥落させ、菱刈諸城の兵が大口城へ退いた後、樺山玄佐が家久・忠知・鹿島光明寺らと平泉城へ入ったことを記す。家久・忠知らが若年であったため玄佐も警固を命じられ、翌年まで守備し、のち病床の日新を見舞って曽木警固へ移った。
永禄十年八月~永禄十一年十一月 / 冊子 175~176頁
菱刈家の幼主を立て新恩地を返上して帰服する案を樺山玄佐が仲介したものの、菱刈老臣らが三之山方と通じて破談となった経過を記す。玄佐は内談に関与したため島津諸将から疑われながら馬越攻めに従い、落城後は平泉城の警固を命じられた。羽月・平泉・山野の守備配置が大口城への通路を十分遮断できず、同城を強固にしたとの見方も述べる。
永禄十年十月廿五日 / 冊子 176~177頁
永禄十年十月、菱刈方が三之山へ島津方の襲来を知らせたため、城内が十分に防備を整えたことを記す。島津歳久・義弘・家久らの大軍が城を囲んで攻めたが、米良弥九郎ら城兵が激しく防戦して多数を討ち、島津勢は退却した。島津家がこの通報を恨み、ただちに菱刈征討へ向かったとする日向方の記事。
永禄十二年 / 冊子 209~210頁
永禄十二年の主要事件を編年で記す。琉球漂流民送還への謝状、相良・菱刈両氏との和睦と蒲池越中守殺害による破綻、羽月城救援、戸神尾・稲荷山の伏兵による大口勢撃破、祁答院長野城攻略、伊東軍の桶比良・田原撤退を載せる。八月以降は大口城を包囲し、相良・菱刈方の降伏を受けて質を交換、九月十八日に義久・義弘が入城し、新納忠元を大口地頭に任じた。あわせて功賞・社寺領寄進などを記す。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 211~212頁
前年から相良・菱刈方が求めていた和睦は、日新没後の永禄十二年正月二十日に成立した。しかし三月十八日、大口城を守る深水頼兼が平泉へ向かう蒲池越中守と従者十七人を殺し、往来は再び断絶した。島津方は羽月城に肝付兼寛・新納忠元を置き、五月六日、家久を囮として戸神尾・稲荷山の伏兵へ敵を誘導し、前田豊前守らが四方から攻めて敵首百三十六を得、一人を捕虜とした。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 212頁
永禄十二年正月二十日に大口方との和睦が成立したが、三月十八日に深水頼兼が蒲池越中守主従十七人を殺害し、再び敵対した。義虎が維持できなくなった羽月城へ肝付兼寛・新納忠元を派遣し、五月六日、家久が大口城下で敵を挑発して戸神尾西まで誘い出した。戸神尾・稲荷山の伏兵が前後を遮断して敵を破り、百三十六の首級と捕虜一人を得て大口方の勢力を削いだ。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 212頁
本文は「全上」とのみ記され、直前のNo.480と同文であることを示す省略記事。和睦破綻後、家久を囮として戸神尾・稲荷山の伏兵へ大口方を誘い、百三十六の首級を得て敵勢を削いだ内容に当たる。
永禄十二年三月十八日~五月六日 / 冊子 213頁
本文はNo.480記事の後半と同文のため省略される。羽月守備と、家久を囮に戸神尾・稲荷山の伏兵で大口方を破り、百三十六の首級を得た合戦の内容に当たる。
永禄十二年三月~元亀元年六月 / 冊子 214~215頁
羽月城救援後、新納忠元・肝付兼寛が島津家久と相談し、永禄十二年五月六日に戸神尾・稲荷山・白木河内へ伏兵を置いた。家久が兵糧輸送を装って敵を誘い、前後から挟撃して百三十六首を得た。八月の大口包囲と九月の降伏後、忠元は大口地頭・菱刈両院惣押となった。さらに喜入季久の家存続を願う伊勢・愛宕への立願、忠元のもとへ飛来した鎌を祀る飛諏訪大明神、菱刈両院の地理・名称由来も記す。
永禄十二年五月六日・廿五日 / 冊子 217頁
永禄十二年五月六日の大口戸神尾・稲荷山伏兵戦に参加した島津一門・諸将を列挙する交名。島津義久・貴久・家久、新納忠元、肝付兼寛、大野駿河守、宮原景種、前田豊前守らを掲げ、同月二十五日の祁答院長野城攻めで勇功を挙げた比志島氏、新納久鏡、鎌田政年らも付記する。
永禄十二年五月六日 / 冊子 217~218頁
五月六日、家久を一番の伏兵大将として戸神尾に、大野・宮原勢三千騎を稲荷山に置き、番替え部隊を餌に大口・相良勢を誘った。敵が荷物を奪おうと戸神尾へ殺到すると、家久の合図で伏兵が起こり、前田豊前守を太刀初めとして敵を崩し、百三十六首と捕虜一人を得た。家久の装束・武具・月毛の馬を詳しく描き、その姿を摩利支天のようだと称える。
永禄十二年五月六日 / 冊子 218~219頁
五月六日の戸神尾合戦を詳述する。家久が兵糧輸送を装い、三十余騎で大口方数千騎を誘引した。伏兵が早く起とうとした際、忠元・兼寛が団扇で制して好機を待ち、家久が敵中深く引き込むと一斉に挟撃した。相良・菱刈方は大敗し、武将の首百三十六、雑兵の首八百余を数え、討ち漏らされた者は大口城へ籠った。
永禄十二年五月六日以後 / 冊子 219頁
五月六日、平泉戸神尾の一戦で相良勢二百余騎を討ち取り、菱刈・大口を島津方の知行としたことを記す。のち新納忠元を大口へ移し、菱刈鶴千代を島津旗下に入れて少分の知行を与えたとする。
永禄十二年五月六日~九月 / 冊子 219頁
戸神尾・稲荷山に二段の伏兵を置き、家久と大野・宮原勢が大口・相良勢を破って百三十六首を得たとする雑本の記事。八月十八日に大口城を包囲し、敵の降参後、九月に城内で太平の祝宴を行ったことも記す。
永禄十二年五月六日 / 冊子 219~220頁
羽月城を守る新納忠元・肝付兼寛から伏兵策への同意を求められた家久が、五月六日に戸神尾・稲荷山へ兵を伏せた。敵が城から出なかったため家久は大口城下で鉄砲を放って挑発し、雲霞のように追う敵を戸神尾西へ誘導、自ら敵首を取った。合図で伏兵が四方から攻め、百三十六人を斬り一人を捕虜として大口方を弱体化させた。
永禄十二年五月六日以後 / 冊子 220頁
義久が馬越に在陣している間、翌年に家久が平泉戸神尾で大勝し、大口城の引渡しと球磨境の和平に至った経過を記す。その後の入来院・祁答院・東郷・千台方面の知行再編や、樺山家への横川・小浜堅利などの替地を述べる。玄佐は日新の死後、弓箭から離れて和歌に傾き、貴久隠退後の寂しさを舟を流した海人にたとえている。
(永禄十二年五月六日頃) / 冊子 220頁
戸神尾合戦のころ、伊集院善左衛門を取次として佐敷方面へ兵船六、七十艘を送るよう命じられた友野元真の奉公覚書。船の調達に苦労し、四本越中守と協力して佐敷方面で働き、船一艘を取得し、福浦でも分捕りをしたことを記す。
元亀元年 / 冊子 230~231頁
元亀元年の主要事件を編年で記す。正月、渋谷党が隈城以下の諸地を差し出して降伏し、義久は罪を許して領地を再配分、家久を隈城地頭とした。正八幡宮・興国寺などへの所領寄進、貴久・義久から琉球国王への国交継続書状、印判を持たない商船の取締要請を載せる。六月以降は幕府への祝賀、喜入季久の上洛と太刀・馬代・黄金の献上、福昌寺領寄進、将軍から義久への御内書・太刀下賜を記す。
元亀元年正月五日 / 冊子 231頁
永禄十三年正月五日、新納伊勢守が隈城を受け取り、入来院氏が百次・平佐・高江・宮里・天辰・碇山を、東郷氏が水引・中郷・湯田・西方・高城を差し出した。清敷と東郷を両家に残し、宮里を平田狩野介、川向こうの諸地と山野城を義虎へ与えた。評定後、貴久は加世田へ、義久は鹿児島へ帰還した。
元亀元年正月 / 冊子 232頁
元亀元年、渋谷党が押領地を差し出して降参したため、義久が罪を許し領地を再編した。隈城を新納伊勢守に受け取らせ、入来院・東郷両氏には清敷・東郷を残した。宮里を平田狩野介、高城・水引・中郷・西方・京泊を義虎へ与え、家久を隈城地頭に任じた。
元亀元年春~元亀二年正月一日 / 冊子 232頁
元亀元年春、渋谷党の降参後、入来院・東郷両氏から差し出された諸地を義久が再配分し、家久を隈城地頭に任じ、串木野も与えて移住させた。翌年元旦、家久は家臣全員を甲冑姿で出仕させ、敵が祝日の油断を狙うことに備えた。
元亀元年正月 / 冊子 241頁
本文はNo.536と同文のため省略される譜中記事。元亀元年の渋谷党降参後、隈城以下の所領を再配分し、家久を隈城地頭、義虎・平田狩野介らを各地の領主とした内容に当たる。
元亀二年四月廿六日 / 冊子 243~244頁
島津義久の三女に関する系譜記事。元亀二年四月二十六日、種子島左近大夫時尭の娘を母として生まれ、のち島津家久の夫人となった。寛永七年十月五日に鹿児島で六十歳で没し、持明彭窓庵主・興国寺殿と号した。
元亀二年六月廿三日 / 冊子 249~250頁
元亀二年六月二十三日暁、島津貴久が五十八歳で没し、義久・義弘・歳久・家久ら一門から庶民まで父母を失ったように嘆いたと記す。鹿児島南東の海辺に松を植えて寺を建立し、法号を龍洞大中庵主としたのが松原山南林寺であるとする。貴久は十二、三歳で忠兼の養子となった時から非凡で、将来三州太守になると見抜いた老人の逸話を載せる。
元亀二年十一月廿日 / 冊子 257~258頁
伊地知重興が肝付氏に同心し、日向・肝付・禰寝・下大隅の三百余艘で鹿児島方面へ来襲した戦闘を記す。野尻沖で伊集院善左衛門が鉄砲に倒れたのち、敵は瀧水に上陸したが、平田新三郎ら約五十人が撃退した。島津家久は瀬戸の防備を命じ、岸からの一斉射撃を受けた船団は軽石港へ退いた。
元亀三年 / 冊子 260~261頁
元亀三年の軍事記事を通覧する。正月の肝付水軍による小村攻撃を退け、二月には廻・市成境で肝付勢を伏撃し、境・二川を破却した。五月四日の木崎原合戦では島津義弘が少数で伊東方大軍を破り、伏兵・援軍とともに追撃した。秋には島津歳久が下大隅へ出兵して小浜を攻略し、北郷時久も肝付領へ攻勢をかけたほか、国分国主院の死去や琉球王尚元の死を記す。
天正元年 / 冊子 295~296頁
天正元年の主要記事を編年で記す。正月の住吉原合戦で北郷時久父子が肝付勢を破り、宝持院・八木昌信らの密使によって禰寝重長を肝付方から離反させ、二月に盟書を交わした。三月には禰寝氏と共同で肝付領へ出兵し、高洲・西俣で戦い、七月には肝付勢の早崎襲撃を島津家久らが撃退した。北郷氏の平松在陣、牛根城包囲、改元、琉球王尚永の即位なども記し、人物・系譜・典拠の考証を添える。
元亀二年十一月廿日~天正元年 / 冊子 305~307頁
肝付・伊地知方の大船団が桜島を経て鹿児島湾へ侵入した海戦と、その後の下大隅征討を長文で記す。伊集院善左衛門が海戦で戦死した後、瀧水では平田新三郎ら約五十人が上陸を阻み、島津家久が瀬戸村で追撃して敵船を軽石へ退けた。続いて早崎・小浜城を攻め、伊地知美作守が退去した城へ家久が入り、牛根城も攻撃したが諏訪神事のため一時帰陣したとする。海戦年次には本文内注記との相違がある。
元亀二年十一月廿日 / 冊子 308~310頁
伊地知重興が肝付・禰寝・伊東方と結び、三百余艘で鹿児島湾へ侵入した海戦を詳述する。鹿児島では伊集院善左衛門が鉄砲で戦死したが、帖佐地頭平田美濃守ら約五十人が瀧水の要害を守り、勝部与左衛門が鉄砲で馬場玄蕃・田上助左衛門らを倒した。敵は上陸を断念し、島津家久の指揮する瀬戸村も避けて下大隅へ退却した。
天正元年七月廿三日~廿四日 / 冊子 311頁
天正元年七月二十三日夜半から二十四日黎明、敵軍が山背の樵夫道を案内者によって密かに進み、早崎陣を包囲して火矢・鉄砲で攻撃した。守兵に多数の死傷者が出るなか、島津家久が従者二、三人と敵中へ斬り込み八か所を負傷した。喜入久績も二か所を負傷しながら敵を斬って家久を救い、平田光宗らも奮戦した。
元亀三年~天正元年七月廿四日 / 冊子 311頁
肝付・禰寝・伊地知三氏の離反と廻城奪取、元亀三年の早崎築陣・小浜攻略を前史として、天正元年七月二十四日の早崎夜襲を記す。守将家久は川南式部左衛門と戦い、田之上清左衛門に救援されつつ全身八か所を負傷した。喜入久績も負傷しながら敵を退け、平田光宗らも力戦して、二十六歳の家久は危機を免れた。
天正元年七月廿四日~十二月十四日 / 冊子 311~312頁
長雨のなか早崎両陣の普請が続いた後、天正元年七月二十四日夜に敵が後山から忍び寄り、翌朝西口を攻めて陣屋へ放火した。島津家久は敵数百人へ斬り込み、深手八か所を含む多数の傷を負ったが、喜入久績が駆けつけ、二人とも負傷しながら敵を退けた。その後も牛根進攻が評議され、十二月十四日には歳久を大将として平常に数千騎が布陣した。
天正元年 / 冊子 318~319頁
天正元年九月二十七日の小浜城攻略から牛根城包囲、早崎陣夜襲までを記す。小浜では敵百余人を討ち伊地知美作守を退けたが島津方にも戦死者が出た。諏訪神事で主力が帰還した隙に肝付勢が山道から陣へ侵入すると、留守将島津家久は少数を励まし、島津忠良の教訓歌を唱えて敵中へ斬り込み、河南安房守らを討って敵を牛根へ退けた。
(天正元年九月廿七日) / 冊子 319頁
伊地知重興・肝付省釣方との戦いで、島津軍が早崎野から敵兵を城へ追い込み、城地頭伊地知美作守が逃亡したため城を攻め取ったことを記す。大将は島津家久であったとする。
元亀三年正月~天正元年十二月 / 冊子 322~323頁
元亀三年正月から天正元年十二月までの軍事日程を記す。浜市小島の肝付兵船捕獲、廻・三山・木崎原・早崎・住吉原・西俣の諸戦、禰寝重長の帰順と下大隅渡海、平松陣の役人・作法、恒吉宮ノ原の損害、平床への着陣などを日付順に列挙する。
天正二年正月三日~廿七日 / 冊子 333頁
天正二年正月三日の茶園ヶ尾合戦、牛根城切岸の掘削と開城、同十九日の禰寝方面の戦闘を詳述する。家久・忠長らの追撃、霧島山神火の瑞兆、喜入季久の奮戦と弟二人の戦死、人質交換、新納忠元の入城を記し、切岸を掘り抜いた三名の働きを高く評価する。