島津実久感状
天文四年十一月七日 / 冊子 737頁
島津実久が河上上野守に、薩摩国串木野井荒河・市来院内河上の所領について、忠義に報いて抽賞し進め置く旨を伝えた感状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
62 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 2
天文四年十一月七日 / 冊子 737頁
島津実久が河上上野守に、薩摩国串木野井荒河・市来院内河上の所領について、忠義に報いて抽賞し進め置く旨を伝えた感状。
年月日未詳 / 冊子 755頁
天文六年正月の竹之山合戦から島津実久方の退却までを薩州島津実久譜に基づいて記す。島津忠良・貴久方との戦闘、周辺諸城の攻防、本田・伊集院・加世田諸氏の動きを追い、実久方敗退後の加世田・伊集院方面の城・所領処置へ至る経過をまとめる。
天文九年十一月十六日 / 冊子 791頁
島津実久が薫首座を薩摩国感応寺の住持職に任じ、先例に従って寺務を執行するよう命じた公帖。
四月九日 / 冊子 88頁
島津実久が奈良原殿に、今度の弓矢で子息三人が比類ない高名を立てたことを賞した書状。無礼を詫びつつ、いずれ相手方へ赴くので対面の機会に詳しく話すと伝える。
七月廿八日 / 冊子 88(本文はNo.601・冊子頁265参照)頁
島津実久が奈良原八郎左衛門尉に宛てた書状。本文はNo.601と同文のため省略されている。No.601本文によれば、先便の趣旨を承知し、当該の件を早々に取り計らって下すよう求め、実現すれば喜ばしい旨を伝える内容である。
七月廿八日 / 冊子 280~281頁
島津実久が、境目の状況と親類中の申し入れ、東光寺を使者として進める相談、双方の協力と今後の判断について伊地知周防守へ伝えた書状。
四月九日 / 冊子 555~556頁
今度の合戦で奈良原氏の子息三人が比類ない高名を挙げたことを称賛し、証拠は十分であると伝える。自身が下向した際に対面するとした島津実久書状。
七月廿八日 / 冊子 556頁
境目で問題が起きれば親類を通じて報告し、各方面へ意見するよう求める。島津勝久の来臨に際して東光寺を使者に立て、伊地知氏の奉公心を評価し、自身も翌月五日に真幸へ参上して面談すると伝えた島津実久書状。
年月日未詳 / 冊子 665頁
島津実久が忠兼の継嗣となることを企てたため忠兼が憂慮し、大永六年十月に国政を島津忠良へ委ね、同年十一月四日に本田兼親へ曽於郡城を与えた経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 669頁
大永六年初秋、島津実久が太守勝久に背いたことから始まる家中対立を記す。島津忠良が調停・軍事介入し、新城・本城をめぐって両勢が動く中、岩永寿斎・伊集院氏らが使者となって条件を調整し、勝久と実久の関係修復を試みた経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 678~679頁
島津実久方の働きかけで勝久が心変わりし、忠良・虎寿丸との後継合意が崩れた経過を記す樺山玄佐自記。新納・伊集院・加治木・帖佐諸勢が勝久方と忠良方に分かれて動き、勝久は鹿児島へ帰還した。忠良方が退避した後に反撃へ転じるまでを追い、守護家内部の政変を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 680頁
島津実久が守護職を狙い、勝久と虎寿丸父子の約束を変えさせたうえ、大永七年五月十一日に忠良領の日置・伊集院城を攻め、同夜に陥落させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 682~683頁
大永七年六月二十一日、島津実久の軍勢が日新領の伊集院・日置両城を攻め落とした経過を記す。忠良方の将兵は園田氏宅などへ潜伏して抵抗・連絡を続けたが、城を維持できず退避した。落城後の部隊分散と貴久方の再起準備を伝える。
年月日未詳 / 冊子 727頁
天文三年、島津実久方が末弘伯耆守を谷山皇徳寺で討とうとした事件を起点に、樺山善久らの行動を記す。忠良・貴久方へ働き掛け、清水での襲撃を経て加治木方面へ進出し、北郷忠相・新納忠勝らとも連携した。実久方から貴久方へ戦線が広がる過程を示す。
年月日未詳 / 冊子 742~743頁
天文年間、薩摩・大隅・日向三州の諸将が離合集散する中で起きた伊集院城攻防を記す。島津実久方と伊集院忠朗・忠栄・梅久父子らが対立し、北郷忠相・町田氏も関与した。城下戦と籠城、家臣の戦死、忠栄・梅久方の退去までを追う。
年月日未詳 / 冊子 742~743頁
天文五年前後の北原氏との戦いと伊集院城攻防を、複数の系譜に基づいて整理した国史記事。島津実久、北郷忠相、伊集院忠朗・忠栄・梅久、本田董親らの軍事行動、城郭の陥落、家臣の戦死と退去を照合し、諸家の帰属変化を示す。
年月日未詳 / 冊子 745頁
天文五年の伊集院城をめぐる島津実久方と伊集院忠朗・忠栄・梅久らの抗争を記す。夜襲、城下への放火、籠城戦、家臣の戦死を追い、忠栄らが城を退去した後の処遇と伊集院氏の系譜まで記して、城の争奪が一族の継承に及ぼした影響を示す。
年月日未詳 / 冊子 754~755頁
天文六年、島津忠良・貴久方が諸勢力の結集と守護を神仏に祈願し、島津実久方との決戦を進めた経過を記す。竹之山・加世田方面で出陣・攻城を重ね、家臣の戦死を伴いながら城郭を攻略し、本田・伊集院・北郷諸氏を取り込んで勢力を拡大した。
年月日未詳 / 冊子 779頁
島津実久方として市来城を守った新納忠苗が、天文八年閏六月十七日に貴久軍の攻撃を受け、城の陥落後も夜陰に紛れて脱出したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 225頁
大田忠角譜の記事。忠角は大田吉兵衛忠綱の養子で、実父は島津実久の庶子・三葉左近太夫忠継入道竹庵であり、島津義弘から賜った法度の条目を深く尊び櫃に収めて伝えたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 324頁
伊集院氏支流飛松氏の系図抄。久友(富松左京亮)以下の系譜を掲げ、島津忠良から富松左京亮・野村兵部少輔へ与えられた契状を収める。また加世田城攻めに先立ち久友が島津実久方の大山宮内少輔と刺し違えて戦死したこと、落城時にも猿渡氏と市来氏が刺し違え、両者の墓が城門左右に「富松猿渡墓」として残ったことを記す。
二月廿一日 / 冊子 339頁
島津忠朝が島津忠良へ、新春を賀し、前年以来南方が平穏で、島津実久と渋谷氏が和融したとの風聞を喜ぶ書状。弓矢の覚悟と勝利・落着に触れ、詳細は金吾から伝えるとして忠良側の動静を尋ねる。
年月日未詳 / 冊子 556~557頁
島津実久の子女と婚姻、将軍から偏諱を受けて陽久・義利から義虎へ改名した経緯、忠継が大田忠綱の養子となったことなどを記した薩州家系図抄。
年月日未詳 / 冊子 716~717頁
川上忠克が串木野領主から島津実久方に属した後、天文八年の市来攻防で勝敗を見極め、忠興と協議して串木野を島津貴久へ献じ、子忠頼を帰属させた経緯を詳述する。甑島配流後に赦免され家老へ復帰したことも記す。
年月日未詳 / 冊子 174頁
恕翁公譜の記事として、谷山郡司入道佛心とその一族に反逆の風聞があり、元久が警戒と地域防衛のため一族・被官の配置を改め、実久へ報告した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 661頁
島津忠昌の三子から忠兼(勝久)が家督を継いだ経緯を述べ、忠兼の人物と政道を厳しく批判する島津日新譜記事。忠兼・実久・忠良・北郷忠相らの対立によって家中と国中が動揺したことを記し、守護の賞罰・人材登用の誤りが政争を拡大したとの評価を示す。
年月日未詳 / 冊子 666頁
大永六年十一月七日前後の帖佐方面の戦いで、鎌田政辰や島津安久・又七郎らが戦死した経緯と、邊川方への援軍・戦闘を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 668頁
大永六年初秋、島津勝久と実久の不和が深まる中、勝久が忠良へ奉公と支援を求めた経過を記す。伊集院・阿多加賀守・本田紀伊守らが仲介し、忠良の子貴久・虎寿丸を勝久の後継に据える政治調整を進め、家中対立を収拾しようとした。
年月日未詳 / 冊子 680頁
大永七年六月二十六日、実久の奔走によって勝久が再び鹿児島へ入部したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 680~681頁
大永七年六月二十一日、実久の偽計によって勝久が再び鹿児島へ入り守護となり、伊作へ戻る意思を失ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 725頁
天文三年十月二十五日前後、末弘伯耆守ら家臣の動向を受けて勝久が鹿児島を去り福昌寺方面へ移ったこと、実久と連判衆の対立・乱入、鹿児島で七日間続いた放火により勝久が退去を余儀なくされた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 725~726頁
勝久が再び太守となった後、鹿児島で権力をほしいままにし、賢愚を分けず旧臣を遠ざけ讒佞の者を近づけたため国政が乱れたこと、実久方との抗争を経て都城・豊後油浜へ移った経緯を批判的に記す。
年月日未詳 / 冊子 726頁
天文三年十月二十五日、末弘伯耆守・川上大和守ら勝久近臣と実久方の争いから、島津勝久が鹿児島を離れた経過を記す。翌年帰還した後も連判衆・実久方が乱入・放火し、統治を回復できず再び退去した。守護権威の失墜過程を示す。
年月日未詳 / 冊子 731頁
天文四年四月、勝久が鹿児島へ還った後、川上昌久ら家臣と実久方の抗争・連判を背景に市村への放火が七日間続き、勝久が防禦を失った経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 733頁
天文四年十月十日、鹿児島東福寺城下の海浜から勝久が船出して帖佐へ向かい、鹿児島が実久の領有下となったこと、勝久の治国年数を記す。
「天文四年」十月二日 / 冊子 736頁
島津勝久が入来院殿に、逆乱のため人々が逃散する情勢と、実久方が郡山方面へ進出したことを伝え、忠節を尽くして軍事援助するよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 736頁
天文四年十月十日、実久方の軍勢が鹿児島へ乱入して村市を焼き、勝久が退去するなか、石谷梅久父子が密かに勝久を支援したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 738~741頁
天文四年の政変と合戦を、新納忠勝が聞書形式で日を追って記録する。島津勝久・実久、新納・伊集院・北郷諸氏の帰属、各城の攻防、使者往来を列挙し、梅久・忠栄ら家臣の戦死と恩賞、城・所領の処置までをまとめて家中対立の実態を伝える。
年月日未詳 / 冊子 745頁
天文五年、島津忠良・貴久方と実久方の戦いに伴う伊集院城攻防を記す。夜襲、城下への放火、籠城、伊集院氏家臣の戦死を追い、忠朗・忠栄・梅久らのうち忠栄らが退去した経緯と後裔の系譜を掲げ、敗戦後の伊集院氏の分裂と継承を示す。
天文五年十二月六日 / 冊子 751頁
石谷梅久が萩別府で戦死した経歴、実久方での活動、伊賀守から梅久への改名、法名心傳中空と没年月日を記した墓誌銘文。
年月日未詳 / 冊子 751~752頁
天文六年、肥後方面から入道らが移動した後、島津貴久方と実久方が竹之山・谷山周辺で戦った経過を樺山玄佐が記す。伊集院・北郷諸氏、山田倉良らの動向を追い、城の奪取、守備兵配置、敵の反撃、退却を繰り返した戦線の変化を伝える。
年月日未詳 / 冊子 755頁
島津忠兼から実久へ続く家系と、子女・婚姻関係を枝分かれで掲げた薩州島津氏の系図。
年月日未詳 / 冊子 756頁
天文六年四月以降、実久・加世田方との和睦と所領処置、伊集院・鹿児島・谷山・吉田方面の統治や防備について記す。
年月日未詳 / 冊子 756頁
実久方と豊州方の相談を受け、北郷・本田・新納・伊集院らの進退、所領分配と和睦交渉を進めた経緯を樺山玄佐が記す。
年月日未詳 / 冊子 756頁
天文六年、肝付兼演が守護職を望み、豊州・北郷・本田らと連携して兵を清水へ進め、新納氏を攻めようとした経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 760頁
実久が志布志から清水へ移り、大隅の兵を召集して相州・加世田方面への対応を進めたことと、入魂・所領処分に関する意向を樺山玄佐が記す。
年月日未詳 / 冊子 760~761頁
島津勝久が鹿児島から没落した後、守護職を望む実久が豊州・北郷・肝付諸勢を動かし、志布志の新納忠茂・忠勝父子を攻めた経過を記す。忠茂方は島津貴久を支持して救援を求めたが、攻勢を支え切れず、柴主殿助らと伊東氏・豊州方へ退いた。新納氏の帰属と拠点喪失を示す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 762頁
守護職を望む実久が豊州・北郷・肝付と結んで志布志の新納氏を攻め、忠茂方が柴主殿助を南方へ派遣して救援を求めたが落城した経緯を記す。忠茂はのち薩州小野へ移り、さらに日当山を与えられた。
年月日未詳 / 冊子 763~764頁
日新斎が実久領の加世田城を攻めた際、忠将が将帥として指揮し、自ら大敵へ馬を進めて奮戦したため敵兵が敗走し城が陥落したこと、追撃と味方の戦死者を記す。
年月日未詳 / 冊子 820頁
島津貴久が幼名虎寿丸の時に島津勝久の嗣子となった後、勝久が前約を変えたため家中が混乱した経緯を記す。島津忠良・実久ら一族の関与、貴久の家督継承を支持・反対する諸勢の対立を追い、太守の地位と国政主導権をめぐる争いの発端を示す。