勝部兵右衛門聞書
年月日未詳 / 冊子 189~192頁
勝部兵右衛門聞書。七月十四日、島津軍が岩屋城を十重二十重に包囲し、鉄砲・石火矢を交えて攻める一方、高橋紹運は降伏を拒み、城門・岸・城内で激しい白兵戦を展開した。攻め口ごとの進退、将兵の負傷・討死、守兵の奮戦を具体的に描き、落城後は箱崎・香椎への参詣、秋月種実との相談、高良山への軍勢預置、豊後進攻をめぐる軍議まで記す。岩屋城合戦とその直後の島津軍の動きを連続して追える長大な現場記録である。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 189~192頁
勝部兵右衛門聞書。七月十四日、島津軍が岩屋城を十重二十重に包囲し、鉄砲・石火矢を交えて攻める一方、高橋紹運は降伏を拒み、城門・岸・城内で激しい白兵戦を展開した。攻め口ごとの進退、将兵の負傷・討死、守兵の奮戦を具体的に描き、落城後は箱崎・香椎への参詣、秋月種実との相談、高良山への軍勢預置、豊後進攻をめぐる軍議まで記す。岩屋城合戦とその直後の島津軍の動きを連続して追える長大な現場記録である。
年月日未詳 / 冊子 192~194頁
島津義久譜の記事。天正十四年七月十日に筑紫広門が勝山城を明け渡したのち、十二日に島津軍が天拝嶽へ進み、十四日から高橋紹運の守る岩屋城を包囲した。少数の守兵が矢・鉄砲・石火矢で激しく抗戦し、島津方も多数の死傷者を出しながら城門・城壁へ攻め寄せた経過を詳述する。落城と紹運方の最期に加え、島津方の討死者・戦功者を細字で多数列挙し、合戦参加者を復元できる中心的な譜の記事である。
年月日未詳 / 冊子 174~175頁
筑前岩屋城合戦に参加した島津方の諸将・部隊を、所属・役職・戦死や負傷の注記とともに列挙した従軍者交名。島津忠長、伊集院忠棟、新納忠元、上井覚兼、北郷忠虎らの配下まで記し、鉄砲・弓などの攻城部隊や各家の動員状況も追える。岩屋城攻めの軍勢編成だけでなく、誰が戦死・負傷したかを具体的に復元できる名簿史料である。
(天正18年)6月20日 / 冊子 473頁
本文はNo.143と同文のため省略されている。No.143は筑前岩屋城合戦に参加した島津方の諸将・部隊を、所属・役職・戦死・負傷の注記とともに列挙した従軍者交名である。 島津忠長・伊集院忠棟・新納忠元・上井覚兼・北郷忠虎らの配下まで記し、岩屋城攻めの軍勢編成と人的損害を復元できる名簿史料の重出である。
正平十二年四月日 / 冊子 4頁
比志島範平が、前年十月二十五日の岩屋城退治以後の従軍と、正月二十一日・二十五日および三月二十日夜の濱陣合戦で先懸けを務めた軍忠を申告した。自身・中間平六・弟範家の負傷と見知人を挙げ、注進と恩賞を求める。
正平十二年四月日 / 冊子 4~5頁
比志島範平が、前年十月二十五日の岩屋城退治以後の日夜の合戦と、正月および三月の濱陣合戦での先懸け・負傷を申告した軍忠状。度々の注進勘文を根拠に、後日の証拠となる一見状を求める。
正平十二年五月日 / 冊子 5頁
野田刑部左衛門尉某が、岩屋城退治以来の諸合戦と三月の濱陣合戦での軍忠を申告した。弟の宮内右衛門尉兼弘が負傷し、島津氏久が同所で見知ったことを挙げ、注進と恩賞を求める。
年月日未詳 / 冊子 153~155頁
天正十四年三月二十七日の伊地知蔵人重増をはじめ、天正年間に豊後・筑前・筑紫・日向などで討死した島津方武士を、氏名・戦場・年齢・所属・同時戦死者とともに列挙する『殉国名藪』。岩屋城攻め、豊後陣、高城・赤城など各地の戦死者を収め、父子・兄弟・主従がともに戦死した例や遺族関係まで付記する。九州統一戦で島津軍が負った人的損失と家臣団構成を具体的に追える名簿史料である。
年月日未詳 / 冊子 174頁
天正十四年夏、筑紫広門の離反を受けて島津義久が大軍を率い、八代から筑前方面へ諸将を進めた経過を記す島津義久譜の記事。島津忠長・伊集院忠棟を将帥とし、新納忠元・北郷忠虎・上井覚兼らを動員して、大友方の要衝・岩屋城を攻撃した。高橋紹運が籠城して激しく抗戦し、島津方も多数の死傷者を出しながら七月六日に城を陥落させた、九州征伐前夜の激戦を伝える。
年月日未詳 / 冊子 175~183頁
天正十四年六月一日から七月二十九日まで、上井覚兼が筑前・筑紫方面への出陣準備と軍中の日々を記した長大な日記。鹿児島・肥後・豊後・京都との使者や書状の往復、船・兵糧・武具の手配、諸将の参陣、軍議と進発日程を逐日追う。宗麟・志賀氏への対応や秀吉・近衛家をめぐる交渉も軍事行動と並行し、祈祷・連歌・酒宴・射礼、病気見舞いなど陣中の日常まで詳しい。筑前侵攻と岩屋城攻めを目前にした島津軍の意思決定、情報伝達の遅れや諸将間の調整を、当事者の視点から復元できる重要な日記史料である。
年月日未詳 / 冊子 185~186頁
『島津世録記』の記事。天正十四年六月十八日に筑紫討伐を決し、七月二日に肥後八代へ軍勢を集結した経過を記す。島津忠長・伊集院忠棟・新納忠元・北郷忠虎ら諸隊の編成と進路を列挙し、鷹取城や筑紫広門の降伏、岩屋城での高橋紹運との激戦、双方の討死者へと展開する。大軍の構成から各城攻略までを一続きに示す戦役記事である。
年月日未詳 / 冊子 194~195頁
島津歳久譜の記事。義久が肥後八代へ進んで筑紫城・宝満城・岩屋城を攻略した経過を前置きし、続いて大友氏を討つため豊後進攻を決したことを記す。家久には一万余騎を率いて三重方面へ、義弘には三万七百余騎を率いて肥後から長野峠へ進ませ、歳久も義弘軍に従った。岩屋城一戦の軍功記事ではなく、筑前平定から豊後侵攻へ移る島津四兄弟の軍勢配分・進軍路を示す譜の記事である。
年月日未詳 / 冊子 195頁
島津忠隣譜の記事。筑紫進攻で副将となった忠隣は、七月六日の鷹取城攻撃で外門へ迫り、強敵と槍を合わせて八か所余りの傷を負いながら生還した。家臣の脇元城介は忠隣をかばって一歩も退かず討死し、河上左京亮も同日に戦死した。翌七日には忠隣が板添口から岩屋城へ直進して攻略に加わったと記し、忠隣本人が岩屋城で戦死したわけではない。
年月日未詳 / 冊子 195~196頁
島津忠長は筑紫城攻略後、七月七日の岩屋城攻めで自ら前進し、城兵の長刀・鉄砲・投石を受ける接近戦を家臣らと戦った。攻城の激しさと味方の死傷を記したのち、落城後に高橋紹運の子・弥七郎直次(高橋統増)が宝満城から人質として来たこと、なお立花城が降らず使僧を送って開城を迫った経過までを載せる。
年月日未詳 / 冊子 197頁
北郷忠虎は七月十四日の岩屋城攻めで、高橋紹運が守る城を四方から包囲する陣の一角を担った。二十七日の総攻撃では、石・木・鉄砲で抵抗する城兵に対し、忠虎も岸壁近くまで進んで攻城に加わった経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 197~198頁
秋月種実が、豊後へ進むにはまず筑前の岩屋城を落とすべきだと進言したことから説き起こし、島津軍が城を包囲して総攻撃に移るまでを記す。岩屋城では高橋紹運方が鉄砲・石・長刀などで激しく抗戦し、島津方も多数の死傷者を出した。樺山忠助も城際で負傷しながら退かず、家臣に救われたことを含め、攻城の戦略と個々の戦闘を結び付けて伝える。
年月日未詳 / 冊子 198~199頁
七月七日の筑紫岩屋城攻めを起点に、落城後の筑前・筑後・肥前方面の軍事行動を日付順に回想する。秋月種実らとの折衝、諸将・使者の往復、城々の降伏と人質、兵糧・船・鉄砲の手配、仙石秀久ら大友方援軍の情報などを収録する。島津軍が岩屋城攻略後に北部九州を掌握し、さらに豊後侵攻を構想する過程を、現場の軍務・補給・情報伝達から具体的に知ることができる。
年月日未詳 / 冊子 199~209頁
上井覚兼が七月朔日から二十九日までの軍務を日ごとに記した長大な陣中日記。筑紫表への出陣準備、諸将との軍議、日州・薩州各衆の配置、使者・書状の往復、兵糧・酒・船・鉄砲の調達を追う。岩屋城では包囲・総攻撃、城兵の抵抗、味方の負傷・戦死と高橋紹運の最期、落城後の捕虜・人質・戦功確認を記録する。さらに秋月氏・立花城などとの交渉、寺社参詣や帰陣までを含み、九州征伐期の作戦決定と兵站・情報伝達を一体的に示す第一級の現場史料である。
年月日未詳 / 冊子 209~211頁
長谷場越前の回想。七月十四日に武蔵方面へ陣を移し、天拝山を経て岩屋城へ迫った島津軍の配置と、二十七日の総攻撃を詳述する。鉄砲・石火矢・弓・長刀が飛び交い、城戸口や岸壁で敵味方が入り乱れ、長谷場配下も多数の死傷者を出した。高橋紹運方の頑強な抗戦、城内突入と落城、戦後の戦功・死傷確認に加え、安楽寺・太宰府天満宮などへの参詣や筑前での行動までを載せる、攻城参加者側の具体的な戦場記録である。
年月日未詳 / 冊子 211~212頁
樺山紹剣が、豊後へ進む前提として岩屋城を攻めることになった経緯から、七月二十七日の総攻撃と落城までを回想する。城兵は石・長刀・鎗などで激しく防戦し、島津方も岸壁や城際で組み討ちとなって多数の死傷者を出した。配下の樺山忠助が重傷を負いながら退かず戦ったこと、各隊の攻撃位置や討死・負傷者、落城後の処置までを挙げ、岩屋城合戦の苛烈さを樺山家側から伝える。
年月日未詳 / 冊子 212頁
岩屋城主高橋紹運が島津忠元の降伏勧告を退け、城兵とともに抗戦して討死した理由と、その忠節を語る。大形宗肌責の説話を引き、少数でも主君への恩に報いるべきだという紹運の覚悟を示す、敵将評価として注目される記事である。
天正14年7月27日 / 冊子 212頁
前田兼政が当日の城攻めで高名を立て、武運長久を得ることを願い、願いが成就した場合には鵲戸で七日間参籠し、八幡宮へ連歌百韻を奉納すると誓った立願状。岩屋城攻め当日、武将が戦功と生存への願いを参籠・連歌奉納という具体的な宗教行為に結び付けたことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 213頁
島津義久が岩屋城陥落後、立花城の高橋統増(宗虎)へ降伏を勧めた交渉を記す。 宗虎は、父紹運が義理を守って討死した以上、自分だけ領地と命を惜しんで降るのは恥辱だとして拒絶し、義久もその義理と勇気を認めた。
年月日未詳 / 冊子 215~224頁
上井覚兼が八月朔日から晦日までを記した長大な日記。岩屋城攻めで負傷した覚兼は帰路と療養の様子を記しつつ、立花・宝満・筑紫方面の処置、豊後出兵をめぐる評定、諸将・使僧・寺社との面会を続ける。書状や使者の往復、降伏者・人質・知行の扱い、兵糧・酒・贈物、医師の治療や負傷者への見舞いまで日々記録する。北部九州攻略後の占領統治と次の豊後侵攻準備が、覚兼自身の傷の痛みや日常生活と並行して進む様子を伝える陣中・軍政日記である。
年月日未詳 / 冊子 293~294頁
豊後進攻では諸城が次々に降参する一方、岩屋城だけが抵抗し、島津家久・新納武蔵守らが攻め落としたものの大きな損害を出した。その後、関白秀吉と大和大納言秀長の大軍下向を知って撤退を決断し、豊後国内で味方を失いながら追撃を受ける情勢を記す。
元和五年五月十七日 / 冊子 698~699頁
後醍院宗重が、相良氏との戦い、岩屋城・耳川・高麗など各地の合戦での先陣・太刀打ち・負傷・討取り等、自身と一族の軍忠を列挙し、証明を求めた長文の覚書。
年月日未詳 / 冊子 650~652頁
新納友義の三男忠光を祖とする支流系図。忠光が志布志落城後に島津忠幸へ仕え阿多地頭となったこと、久時父子の牛根・岩屋城での軍功と高城での戦死、久宣の朝鮮・庄内陣、焼亡による重器文書喪失、久宗の奏者番・御用人歴を記す。
年月日未詳 / 冊子 757~759頁
喜入季久の後裔系図。忠道・久績兄弟の根占戦死、久道の長患い、島津義弘四男の養子早世、岩屋城で戦死した久延、細川幽斎の進言で還俗し家を継いだ忠政、関ヶ原で戦死した島津豊久家を継いだ忠栄、島津光久庶子忠長の養子相続を記す。
年月日未詳 / 冊子 82~94頁/原整理番号 19
藤原鎌足・冬嗣から長良・良房・基経らを経て長谷場氏へ至る祖系と、薩摩・大隅・日向に展開した諸流を記す長大な系図。鹿児島郡司・弁済使・取納使、東福寺城・市来城・飫肥・櫛間・有馬等の所領・城地、建武期の足利尊氏による安堵、島津元久への東福寺城・長谷場屋敷の引渡しと清水移居、福昌寺創建、市来移住などを叙述する。近世部分では渋谷・伊東・大友・菱刈・豊後・庄内などの諸合戦、岩屋城・高城・小林城・大口・泗川等での軍功・討死、家督・養子・婚姻・法名・地頭職を列記する。実純の朝鮮出陣・泗川戦、琉球への武具奉行派遣、大坂陣、万治二年の琉球押奉行、松山・真幸・吉田地頭歴までを収め、末尾は純堯の女子四人と婚姻先を記して終わる。
2月20日(年未詳、同文参照)~万治元年(1658)の記事 / 冊子 431~437頁/原整理番号 13-5
冒頭は『諸家系図文書』10の7号文書と同一のため島津忠国書状を省略する。参照先は忠国が牛屎へ、菱刈方から詳細を聞いて早く来訪・決断するよう催し、対面を望んだ二月二十日付書状である。久元(牛屎越後守・法名光久)は永享十年の福昌寺仏殿造営勧進で、羽月元忠・山野頼元・北原久兼ら八十七人とともに馬一疋分の代銭を奉加した。歓元(同越後守・法名光秀)は文正二年梅雨吉日に牛屎家系図一巻を作り、薩摩守陳元から元親までの系譜を収め、文正元年から文明九年までの島津家系図・覚書も伝えた。応仁元年、牛屎院の兵乱で一門が日向真幸院へ移り、北原家との親族関係を頼ったこと、元親が大隅守・法名梅岳源春を称したこと、重元が永正六年に六十余歳で鷹書一冊二十五枚を書いたことを記す。天文十二年三月二十七日、実元は牛屎家先祖を覚書や本朝の大家系図と照合して記し、宗実兄弟が源頼政嫡子・仲綱の娘を母とし、建久七年に頼朝の恩免を受けて遠流先の薩摩へ下向し、羽月・山野・平泉を与えられ、子孫が牛屎・淵辺を称したとの家伝を載せる。元継の女子は兄弟不和のなか系図・文書を保持し、国分御前様に仕えた後に加藤金右衛門へ嫁いだため古文書が加藤家へ伝わり、頼朝御教書は公用のため提出されたとする。淵辺主計元継は慶長・元和の上地や宮越との田地争論で知行を減らし、寛永頃には約十石となった。弥兵衛は家に凶事が多く繁昌しないため母方の淵辺へ名字を改め、肥後の聖山伏を氏神として正宮・荒神宮に祀ったとし、元亀三年五月四日の真幸院における義弘と伊東家の合戦で五十四歳で戦死した。元秋は栗野に生まれ、父の戦死後に飯野・栗野を移り、伊東・大友との戦いを経て天正十五年豊後で戦死した。重綱は井手石氏の養子となり川上忠智に仕え、肥前深江・筑州岩屋城・朝鮮で戦い、朝鮮で左手を負傷して退き、加治木・鹿児島へ移って八十四歳で没した。元貞は父元秋の戦死後、十三歳で義弘に召し出され、吉松鶴丸村二十五石と栗野木場村三十石、計五十五石を与えられた。十五歳で義弘に従って朝鮮へ渡り、忠恒に近習・小姓として仕え、良右衛門の名、包清の脇指や衣裳を拝領し、のち帖佐・平松・加治木・鹿児島へ移住して、万治元年に百二十三石を持って隠居した。
天正十四年~元和二年(高橋元種主要記事)、慶長十二年~宝永年間(後続系譜) / 冊子 501~506頁/原整理番号 23
高橋氏の出自を漢高祖・後漢霊帝の後裔から大蔵春実へつなぐ伝承で説き、筑前諸郡を領した大蔵姓高橋家に秋月氏から種時を迎え、顕種・元種へ続く系譜と軍歴を記す。顕種は大友方の攻撃を受けた筑前宝満城を守り、後に和睦した。元種は幼少で秋月種実の養子となり、天正十四年の島津勢による筑前攻略では父とともに大友勢を破り、七月二十七日の岩屋城落城・高橋紹運討死後、宝満城などをめぐる軍事行動に関与した。慶長四年、島津忠恒が伊集院忠真を都城で攻めた際には徳川家康から救援準備を命じられ、翌関ヶ原では当初西軍に属したが、福原・垣見・熊谷・木村らの処置をめぐり秋月種長・相良頼房らと共謀し、垣見・熊谷・木村の首を家康へ献じて本領安堵を得たとする。しかし同年冬、秀忠の命で領地を没収され奥州棚倉へ移り、元和二年十月九日に三十七歳で没した。後継の種直は慶長十二年に日州臼杵郡縣城で生まれ、旧臣の助力を受けて日州縣・高岡などに住み、光久の恩許により高橋姓を復した。以後の種長・種次・種栄・種良らについて、婚姻、知行、江戸勤仕、地頭職、没年・法名を宝永期まで載せる。
永禄二年四月、元亀元年、慶長五年ほか(系譜中記事) / 冊子 506~508頁/原整理番号 24
漢恵帝・呂后から少帝・劉建・孝建・孝倫へつなぐ渡来伝承を経て、大蔵姓の祖から原田・秋月・江上・高橋・田尻の各氏へ分岐する系図。原田太郎種臣を筑前三笠郡原田城、秋月二郎種信を弥須郡古所山城、江上三郎種光を筑後三潴郡江上城、多記四郎長種を筑後三原郡高橋城、田尻五郎種保を生葉の居住者として、名字と城・所領を対応づける。後半は高橋形部左衛門佐種基、種成・文種以下を経て、秋月豊前守文種の二男・元種、吉弘左近大夫鑑理の二男で大友義鑑女を母とする鎮種(紹運)へ続く。鎮種は高橋家断絶のため養子となって家名を継ぎ、筑前岩屋城で薩州勢と戦って義死したとする。元種は西征時に日向国縣城を与えられ、慶長五年の関ヶ原後に処分されたのち赦免された経緯を記し、子孫の官途・居城・婚姻・改姓も載せる。末尾は筑前国住士魯井道載方から高橋武右衛門種登へ送られた写本であると伝来経路を明記する。
年月日未詳 / 冊子 159~160頁/原整理番号 505
末吉の肝付覚左衛門家系図。上世の出所は不明と注記し、権之助豊前守兼隆が十七歳で伊東河内守を討ち、恩賞として知行六町を得たこと、二十三歳から兵道を行い、岩屋城攻めで敵三人を討ち取ったことを記す。兼隆が肝付郡高山から末吉へ移った由緒を述べ、治右衛門兼清・覚左衛門兼豊以下、伴右衛門・権右衛門らの分岐と婚姻を列記する。
巻三/冊子 35~38頁
天正十二年以降、合志・隈部・宇土をはじめ肥後・筑後・筑前の諸勢力が島津方へ服属し、忠平が守護代となって義弘を称した経緯を中心に記す。義弘は熊本・高森方面へ出陣し、赤星・大津山・和仁・小代・秋月・原田などの国人を従える。阿蘇方が花山を攻めると義久も八代へ進み、甲佐・堅志田・御船を攻略し、反島津の合志氏を降伏させた。高森が豊後方へ通じ、津守城でも反乱が起こると、新納忠元が謀略と急襲でこれを鎮圧する。後半は筑紫・岩屋・宝満・立花方面への遠征を記し、高橋紹運が守る岩屋城を激戦の末に落とす。島津方にも多数の戦死者を出し、紹運の子立花宗茂が抗戦の意志を示すと、島津諸将はその勇を認めて無益な攻撃を避けた。肥後支配の拡大、義弘の守護代就任、筑前方面への進出と岩屋城の激戦をまとめる大部の記事である。
年月日未詳 / 冊子 187~188頁
『日向記』の記事。六月から筑紫出兵を定め、義久が八代に留まり、忠長・忠棟らを大将として軍を進めた経過を編年で記す。七月の高良山着陣、鷹取城・和賀山・筑紫広門の居城攻略を経て、岩屋・宝満方面へ戦線を広げたこと、討死や攻城後の動向をまとめる。筑紫戦役の進行順序を追える記録である。
年月日未詳 / 冊子 184頁
北郷忠虎譜の記事。天正十四年六月十八日、島津義久が筑紫勢の攻略を企てて大軍を鹿児島から出し、七月二日に肥後八代へ入り、諸将が筑紫へ直進したことを簡潔に記す。忠虎が参加した筑紫進攻の発動と行軍を示す記事であり、鷹取城・岩屋城での個別の戦功までは本文に記されていない。
年月日未詳 / 冊子 186~187頁
長谷場越前の自記。天正十四年六月十三日に義久が国元を出馬し、肥後八代に在陣して筑後・筑紫へ先陣を送った経過を述べる。島津義弘・歳久・家久、忠長、忠棟、北郷忠虎、新納忠元らの部隊と配下を列挙し、高良山から筑紫方面へ進む島津軍の軍勢編成・指揮系統を詳しく残す。岩屋城内の白兵戦ではなく、合戦前の動員と行軍を知る従軍記録である。
年月日未詳 / 冊子 188~189頁
長谷場越前自記。七月六日、筑紫方との防戦を破って町口・板城戸を突破し、筑紫広門の居城へ攻め入った過程を描く。河上左京亮が十文字・八ツ花形に切り回って奮戦し、多数の傷を負って倒れ、介錯された最期を中心に、城内へなだれ込む島津兵と双方の死者を記す。岩屋城ではなく、筑紫方居城攻略の白兵戦を伝える。
年月日未詳 / 冊子 196~197頁
樺山久高は島津忠長・伊集院忠棟らの軍に加わり、七月十九日の筑紫広門の居城攻撃で、城門を開いて打って出た敵と白兵戦を交えた。久高は大刀で斬りかかる敵に応戦し、左手などに複数の傷を負いながら戦い続け、敵兵を討ち取ったという。岩屋城ではなく、筑紫広門の居城をめぐる具体的な戦闘記録である。
年月日未詳 / 冊子 526~531頁
伊集院久春(元巣)が十七歳以来、牛根・横川・飯野・馬越・敷根・長野城・荒平・穂北・安徳城・岩屋城などで負傷を重ねながら戦った軍功を詳述する譜。朝鮮へ七年間供奉し、撤兵時にも諸将を救った忠節までを『決勝記』として顕彰する。