某覚書五寛永七年八月七日某覚書
寛永六年十一月廿一日 / 冊子 355~356頁/原整理番号 2
本田助之丞所蔵の帳面から、定禄、島津久光ほかの知行高、各所の石高を抜き書きする。給地の数量を石・斗・升・合・勺の単位で列挙する。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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寛永六年十一月廿一日 / 冊子 355~356頁/原整理番号 2
本田助之丞所蔵の帳面から、定禄、島津久光ほかの知行高、各所の石高を抜き書きする。給地の数量を石・斗・升・合・勺の単位で列挙する。
元亀二年四月廿六日 / 冊子 243~244頁
島津義久の三女に関する系譜記事。元亀二年四月二十六日、種子島左近大夫時尭の娘を母として生まれ、のち島津家久の夫人となった。寛永七年十月五日に鹿児島で六十歳で没し、持明彭窓庵主・興国寺殿と号した。
年月日未詳 / 冊子 133頁
島津久元が寛永七年正月に島津家久の参勤に随行して出発し、翌寛永八年七月に帰国したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 147~149頁/原整理番号 32
梶原左衛門景時の二男景高を祖とし、景純以下、純家・兼純・滋純・信純・義純・重純・政純・元純・氏純・房純・成純・尚純らへ続く梶原左近尉家の系図。滋純が北条弥次郎を号して日置に住み、建武元年に下大隅へ入ったこと、信純が応安五年の日州合戦で御旗の役を務めたこと、政純が島津久豊の東福寺城で重代の太刀を守る番役中に討死したことを記す。元純については島津忠昌の隅州正八幡宮初詣供奉と年代矛盾を記録官史が指摘し、政純の子ではないとする。氏純・房純・成純らの官途、加世田での死、島津貴久への奉公、寛永七年に江戸で島津家久の命を受け、大迫と称していた家名を梶原左近尉へ復した由来も載せる。さらに尚純の母方について、志賀播磨が降参時に携え島津義弘へ献じた瀧田九郎の娘二人のうち、姉は曽木五兵衛に嫁ぎ、妹が尚純に与えられたと記す。
寛永七年五月廿三日 / 冊子 140~164頁
寛永五年頃から進めた家久桜田邸の御成門・主殿・寝殿・数寄屋・舞台などの作事と、寛永七年四月十八日の家光御成、同月二十一日の秀忠御成の次第を詳記する。建物寸法、障壁画・調度、茶席、能・饗応、役人配置、進物・拝領品までを網羅した伊勢貞昌の覚書。
寛永七年十一月廿七日 / 冊子 175~178頁
寛永七年十一月二十七日に催された和漢聯句。懐旧を発端に、月・雪・梅・春秋・旅・仏法・忠孝など多様な題を和句と漢句で連ね、家久・貞昌・久元ら多数が参加した。末尾に各参加者の句数を記す。
寛永七年九月十三日 / 冊子 333頁/原整理番号 61
土井利勝ら四名の連署書状。翌十四日の昼に西丸で御茶を下賜するので登城するよう薩摩中納言に伝える。寛永七年九月十三日付。
寛永七年正月~十一月(寛永八年四月十三日集計) / 冊子 102~103頁/原整理番号 10
加久藤長江浦名から寛永七年に出した殿役夫と馬を月日順に記す。鹿児島への輸送、宿送、馬屋普請、寺での作業、六度御狩の持夫などがあり、夫三百六十七人と馬六疋を合わせた三百七十三の役数を集計する。季安は月三日役の制に比べ軽い負担と評する。
年月日未詳 / 冊子 133頁
寛永七年正月三日、島津家久が参勤のため鹿児島を出発して江戸へ向かい、島津久元が従駕したことを記す譜記事。久元以外の供奉者名は伝わらないとする。
年月日未詳 / 冊子 134頁
寛永七年二月二十三日、島津家久が伏見を出発して江戸へ向かったことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 135頁
寛永七年三月九日に島津家久が江戸へ到着し、同月十八日に徳川家光へ拝謁して恒例の献上品を進め、家老島津久元も拝謁・献上したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 137~138頁
寛永七年四月十八日、将軍徳川家光が島津家久の江戸桜田邸へ御成した際の次第を記す。出迎え、座次、進物、能・音楽、饗応、退出時の拝領物、翌日の御礼までを詳述する。
年月日未詳 / 冊子 138~139頁
寛永七年四月十八日の将軍御成について、数寄屋露地口からの入御、相伴衆、床飾り、茶道具、花入、水指など、茶席と室内の設えを抜書した記録。
年月日未詳 / 冊子 139頁
寛永七年四月十八日、徳川家光が家久の桜田邸へ御成した際、光久が信国の太刀・馬・袷二十・白銀二百葉を拝領し、忠元らも進献・拝領したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 139頁
寛永七年四月十八日の家光による家久桜田邸御成に際し、久元を含む一族・旧臣十二人が拝謁して太刀などを献じ、返礼の品を拝領したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 139頁
忠亮が都城から江戸へ赴き、寛永七年四月十八日の家光による家久桜田邸御成で拝謁し、太刀・袷を献上して白銀を拝領したこと、六月に暇を得て帰国したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 168頁
寛永七年七月朔日、徳川家光が能の席で島津家久を召し、御座所で見物させた。家久は拝謝後、土井利勝へ書状を送り、厚遇への謝意を伝えたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 170~171頁
寛永七年九月十日、将軍家光が十四日に西丸で島津家久へ茶を賜う意向を示し、森川宗俊・青山幸成・永井尚政・土井利勝の連署奉書によって登城を命じたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 174頁
島津義久の娘で家久の簾中となった亀寿について、元亀二年四月二十六日生、寛永七年十月五日没、享年六十、法号を持明彰窓庵主・興国寺殿と記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 668~670頁
樺山久高の二男久盈を祖とする庶流系図。幼少の久辰に代わって家督を務め、寛永七年に島津家久の江戸屋敷へ来訪した徳川家光・秀忠へ拝謁して太刀・袷を献上し、白銀・衣服を拝領したこと、入来院重園三男忠則の養子相続を記す。
年月日未詳 / 冊子 261頁/原整理番号 214
『平塞録』の記事。松倉長門守重政と父豊後守重政の島原領支配、六万石の軍役と重税、寛永七年十一月十六日に五十七歳で死去した重政の苛政、鉄砲大小三千挺の所持を記す。
年月日未詳 / 冊子 324~325頁/原整理番号 172
始良氏の家事と奉公を記した事書。慶長八年二月十四日に猪俣則康が鹿児島へ戻った後に生まれたと記し、寛永七年八月から御船手奉行所を勤め、寛永十二年五月には家久の供で江戸へ上った。進物蔵役に任じられたが帰国予定のため蔵役を免ぜられ、野元権右衛門と交替して奉公したという。慶長十八年・元和六年・寛永九年・萬治二年の新次郎・三郎兵衛・十郎兵衛への俸禄も列挙する。
巻七/冊子 104~113頁
寛永七年四月、将軍家光と大御所秀忠が江戸桜田の家久邸へ相次いで御成した際の記録抜書である。十八日の家光御成では、古田織部の指図を写した数寄屋で茶を供し、楚石の掛物、平野肩衝、高麗茶碗、利休作茶杓、信楽水指、車軸釜などの道具を列挙する。鎖の間・御寝殿・書院・会所・湯殿に至るまで、床飾、絵画、香炉、硯、筆架、違棚、台子、弓矢・甲冑・鏡、花入と池坊の立花などを図とともに詳細に記す。家久・嗣子又三郎(光久)・又十郎・越後守らは刀剣・小袖・銀・生糸・馬などを拝領し、将軍へも正宗・左文字等の刀剣や小袖・黄金・馬を進献する。家臣も縁側で礼を行い、島津一門・重臣への拝領品が個別に記録される。会所では能八番と乞能が催され、役者への小袖・金銭の配分、式三献・七五三の膳が整えられた。さらに琉球から美麗な少年楽人を呼び、琵琶・琴・三線・笛・鼓などによる異国の音楽を奏し、家光を喜ばせた。二十一日の秀忠御成も同様に茶・饗応・能・琉球楽が行われ、拝領・進献品と参加家臣が記される。近世初期大名邸の最高格式の接遇、茶の湯・室礼・能・琉球文化の政治的演出、将軍家と島津家の贈答関係を具体的に復元できる儀礼資料である。
(寛永七年)一月十三日 / 冊子 133頁
島津家久が、将軍御成は当世では前例に通じる者が少ない大事であるため、伊勢貞昌が保存する旧記を頼りに準備を整え、年寄として十分に調えるよう求めた書状。
(寛永七年)二月廿日 / 冊子 133~134頁
島津家久が仮名書きで、贈物の送付、翌二十一日の東国への出立、道中・江戸での無事と帰国の見通し、健康や薬に関する近況を伊集院忠覚へ伝えた書状。
(寛永七年)二月廿一日 / 冊子 134頁
島津家久が、伊集院忠覚の近況を喜び、自身は二十三日に江戸へ向けて出発すると知らせ、こちらに変わりはなく、越後守らにも伝えるよう仮名書きで命じた書状。
(寛永七年)三月三日 / 冊子 134~135頁
伊集院家の名字・家督について、松千代を定めた経緯、本人の名乗り、親族・関係者の同意と披露の手順を説明し、異論がないよう内談を求めた島津久元・喜入忠続の連署書状。
(寛永七年)三月十八日 / 冊子 135頁
島津家久が、又三郎(島津光久)の縁組祝儀として遠路から使札を受けたことを喜び、詳細は下野守が伝えると返答した書状。
寛永七年三月廿日 / 冊子 136頁
前年の蔵米の大坂未着分への対応、当年以後の法度、仕上米・積荷の二重検査、船頭・請人、役人の証文、蔵入地・荒地、盗難、茶の納直などを定めた連署達書。
(寛永七年)三月廿七日 / 冊子 136~137頁
土井利勝ら四名が、翌日に西丸で催される御能を見物するよう上意があったため、早々に登城するよう島津家久へ通知した連署書状。
(寛永七年)四月十日 / 冊子 137頁
江戸から三月十八日に出立した使者が到着したこと、中納言家久が三月九日に江戸へ着き、十八日に首尾よく御目見を済ませたことを知らせる。母からの消息にも触れ、相国から脇差を拝領したことへの祝意を述べた島津忠興の書状。
(寛永七年)四月廿五日 / 冊子 165頁
御成の見舞いとして朱蝋燭二箱二百入・樽十荷を届けられたことへの礼を述べ、詳細は弾正から聞くよう伝え、心安く思うよう申し送った島津家久の書状。
(寛永七年)五月二日 / 冊子 165頁
近く帰国した折に詳しく申し伝える意向を述べ、土岐守の意向だけに任せないよう求めるなど、当面の取り計らいと心構えを指示した島津家久の仮名書状。
(寛永七年)五月二日 / 冊子 166頁
安芸守の意向だけに任せず十分に申し含めるよう求め、今回の仕合に満足していること、自身も暇を待って近く帰国することを知らせ、花を折り返し贈った島津家久の仮名書状。
(寛永七年)五月十一日 / 冊子 166頁
藤次郎が若くして不慮に死去したことを夢のようだと嘆き、遺族の悲嘆と後の弔いを案じ、豊後守にも触れて慰問した島津家久の仮名書状。
(寛永七年)五月十五日 / 冊子 166~167頁
豊後守が安元へ赴いた労苦をねぎらい、子息藤次郎の不慮の死を聞いて意外の仕合に驚いたことを述べ、詳しい弔意は使者から伝えるとした島津家久の書状。
(寛永七年)五月十七日 / 冊子 167頁
新年の祝儀として国頭を通じて届いた贈物に礼を述べる。家久は正月に国元を発って江戸に滞在中であり、四月十八日と二十一日の家光・秀忠御成が滞りなく済んだことを知らせ、詳細は使者を国頭へ遣わして伝えるとした書状。
(寛永七年)五月廿日 / 冊子 167~168頁
江戸での逗留を終えて無事帰国することを喜び、出立時に秘蔵の馬を残し置いたことへの礼を述べ、次回参府の折に面談すると伝えた島津忠元・光久の書状。
(寛永七年)七月二日 / 冊子 168頁
前日の能で将軍家光が満足した旨を承知したと伝え、家久の書状内容は将軍へ申し上げ、詳しくは対面時に述べるとした土井利勝の返書。
寛永七年八月四日 / 冊子 168頁
未進を理由に知行を召し上げる際の永代返還なしの代銀基準を定める。上地は高一石につき二十匁、中地十七匁、下地十二匁とし、現地役人が等級と坪ごとに札を付して差し出し、手心を加えることを禁じた達書。
(寛永七年)八月七日 / 冊子 168~169頁
分国内の諸士知行物成を年内に処理する方針と、船役負担・借銀返済について協議した覚書。二千石を一単位に自船を負担し、五百石取四人の共同船では四十人乗り・十二端の船を建造、船子賃・飯米を含め銀四貫百目、石高一石につき二匁一分八厘と試算する一方、既存出銀への追加は困難とし、借銀返済を優先する方針を記す。
(寛永七年)八月十一日 / 冊子 169頁
西丸の秀忠御座近くで豊島刑部・井上主計らが関係する不慮の事件が起こり死者が出たこと、大名・小名が急ぎ登城し、混雑のため黄門も徒歩で入城したことを知らせた島津久元・伊勢貞昌の連署書状。
(寛永七年)八月廿七日 / 冊子 170頁
四月十八日・二十一日の御成に備え、琉球楽童を速やかに江戸へ派遣したことに謝意を表す。楽童が御前で音楽を奏して終日の宴を盛り立てたことを喜び、帰国する一行に謝状を託し、本朝の品々を別紙目録とともに贈った書状。
(寛永七年)八月廿九日 / 冊子 170頁
御成のため琉球から楽童五、六人を伴い、薩摩から江戸まで無事に引率して将軍御前で奏楽させた城間親雲上の功労を称える。海陸の長途を越えた働きを希世の名誉と賞し、再会を期した伊勢貞昌の書状。
(寛永七年)九月十三日 / 冊子 171頁
翌十四日に西丸で将軍から茶を賜うため、心得て登城するよう命じた森川宗俊・青山幸成・永井尚政・土井利勝の連署書状。
(寛永七年)九月十四日 / 冊子 171頁
家久の書状を拝見し、翌日の登城は必ず取りやめ、養生を第一にするよう勧めた土井利勝の書状。家久の申し出は将軍へ詳しく申し上げると伝える。
(寛永七年)九月廿四日 / 冊子 171~172頁
比志島宮内の改易前後に、反抗・野心を疑われた者たちから同心を求められたが、道理に合わないため一貫して拒んだと述べる弁明の覚書。鹿児島の人数、町への配置、上洛時の進言、密事の注進、船での逃亡情報など複数の案件を列挙し、自身の忠節を説明する。
寛永七年九月吉日 / 冊子 172頁
山川郷霧島神社の再興を記念した棟札。大檀那を藤原朝臣家久、地頭を鎌田出雲守とし、庄屋黒木主左衛門尉、願主・正祝有馬右近祐純直、権祝・大工・鍛冶らの名を列記する。
(寛永七年)十月廿七日 / 冊子 173頁
前日に家久から書状を受け取ったが帰宅が遅く返事が延びたと断り、茶を進められた件について家久の意向を承知したこと、上野介らが申し上げた内容をさらに伝えるとした土井利勝の書状。
(寛永七年)十一月三日 / 冊子 173頁
久しく便りをしていなかったため使者を遣わし、皆が無事であることを喜ぶ。春も近く、自身もほどなく帰国して花の時分を楽しむ意向を述べ、扇などを贈り、弾正や母へも伝えるよう求めた島津家久の仮名書状案。