島津義弘書状
(天正18年)正月8日 / 冊子 459頁
島津義弘が、又一郎の関東出陣に際して供を務めるよう佐多宮内少輔へ命じた書状。 危険の多い遠征であるため忠節を尽くし、又一郎を高城まで無事に伴うよう求める、小田原陣直前の随行命令である。
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(天正18年)正月8日 / 冊子 459頁
島津義弘が、又一郎の関東出陣に際して供を務めるよう佐多宮内少輔へ命じた書状。 危険の多い遠征であるため忠節を尽くし、又一郎を高城まで無事に伴うよう求める、小田原陣直前の随行命令である。
二月廿九日 / 冊子 167~168頁
伊勢貞昌が野州・喜入摂津守・比志島宮内少輔に、帖佐長右衛門尉夫妻の処遇を相談した書状。夫妻は又八郎の上洛に供奉し、妻は御姫様誕生時に乳母として留められ、九年間勤仕したため、帰国に際して屋敷・扶持・米などを与えるよう求める。
(天正四年)三月廿八日 / 冊子 473頁
島津義久が、相手方の船が前年に当地の港を出帆した際に敵に拿捕された件について、肝付氏との先例・仲介を踏まえて返還を取り計らったと通知する。今後も廻船などを通じて相互に連絡したいと述べた書状案。
天正八年八月廿五日 / 冊子 675頁
町田久倍が誠心をもって諏訪上下大明神へ不断香を奉献し、永代絶やさないため、麦生田名内霞原の屋敷を香資として寄進した証状。島津家の武運長久、久倍の無病息災・子孫繁昌、領内無事と衆人快楽を祈る。
元和九年六月十日 / 冊子 790頁
勘定所の糺明衆に日の出前の出勤と日没後の退出を命じ、代官の算用帳提出期限、諸役人の糺明と上納分請状、算用未決者への処分を定めた。また糺明衆への振舞いを一汁一菜・引菜二品・濁酒一度に限るとした三名連署の掟書。
(寛永四年)四月廿四日 / 冊子 34頁
喜入忠続・伊勢貞昌が、薩摩殿父子の御目見は又三郎の腹痛で延期されたが四月二十三日に実現し、両御所が一同の参上を大いに喜び、兄弟も御前で褒美を受けたと早打で報じる。
天正六年九月十五日~二十九日 / 冊子 547頁
豊後勢集結の日、島津方が石城を攻め、城方も昼夜防戦した。稲津孫八郎・福永宮内少輔はたびたび鑓を合わせ戦死し、山田土佐守・宮田太郎次郎・長倉勘解由左衛門は分捕りの高名を挙げた。しかし豊後の軍事行動が遅れて救援を得られず、九月二十九日に石城を捨てた。
年月日未詳 / 冊子 73頁
天正十三年閏八月二十六日、田代宗典父子以下五人が島津義弘を訪ね、翌二十七日には矢部の居所から五人が来て太刀・馬を持参した。二十九日には島津家久の使者三原宮内少輔が田代直経を介して矢部・山中方面の動きを報告し、高知尾の三田井氏にも触れる。在地勢力の出仕・贈答と情報連絡をまとめた譜記事。
文禄4年9月3日 / 冊子 909~910頁
義久は帰朝の時期について繰り返し尋ね、諸将が一斉に上洛するなかで一人だけ国元へ戻るのは不都合だとして慎重な判断を促す。 宮内少輔や石田三成からの伝言にも触れ、在所・上洛・在陣の動きを周囲と合わせるよう諭した書状。
(慶長四年)正月十八日 / 冊子 350頁
前原貞能・宇多某が安楽大炊介へ、正月十六日の出撃と戦果を報告した連署状。頴娃左馬・敷仲兵・比志島宮内少輔らが大将となって敵五人を討ち、高城口からの追撃でも三人を討ち取って黒田加兵衛・新納勘解由・蘭牟田弥吉らが槍働きをしたこと、当日に陣替えを行うことを伝える。
慶長十一年十一月廿五日 / 冊子 95頁
慶長十一年十一月二十五日に行う犬追物の手組を記した一覧。殿をはじめ本田弥六・島津摂津守・島津次郎・比志島宮内少輔など射手の名と割当てを列記する。
(元和八年)六月廿五日 / 冊子 784頁
島津家久が佐多伯耆守へ、喜入摂津守・比志島宮内少輔から関東・上方の様子を聞いたことを伝え、越前宰相に関する京都の情報について細川内記へ届ける書状の取次ぎと返書の送付を命じた。自身は九月に出立する予定であり、本多上野介らから照会があれば事情を心得て応答するよう求めた書状。
(寛永四年)十二月廿七日 / 冊子 49~50頁
寺領への居所移転、使者の人選、比志島宮内少輔のもとへ出入りする者の礼法・監視を指示する。また、度重なる命令不履行、訴訟で自説を押し立てること、他人と相談しないことなどを問題として、宮内少輔へ申し聞かせるよう命じる覚書。
(寛永五年)十二月晦日 / 冊子 77~78頁
島津家久が、比志島宮内少輔の仕置に際して出した命令を写した長文覚書。比志島家の過去の奉公と不始末、霧島への流罪、家族・親族の処遇、家財・知行・返地、関係者の監視や奉公先などを細かく定める。
年月日未詳 / 冊子 81頁
大野久武・高崎能乗・平田純正の三名が島津家久の使節として、比志島宮内少輔の処分など数条の命令を携えて江戸から帰着したことを記す。政務停止や宝福寺への移動を命じ、国分民部左衛門尉が正月八日付書簡を持参して領内処置を伝えた。
(寛永六年)正月八日 / 冊子 81~82頁
島津家久が喜入忠続・川上久国に、比志島宮内少輔の曲事は深刻で、今後国のためにならないとして処分を徹底するよう命じる。先に派遣した三人への指示どおり、情実を交えず相談し、詳しくは国分民部左衛門尉から聞くよう伝える。
(記事) / 冊子 151頁
入来院八代重長を起点とする一流の系図。重長の法名に関する注記を付し、出羽守・越前守・山城守・左馬助・宮内少輔などへ続く子孫・一族関係を系線で示す。入来院氏の支流と家臣層の系譜を伝える記事である。
年月日未詳 / 冊子 324頁
伊集院氏支流飛松氏の系図抄。久友(富松左京亮)以下の系譜を掲げ、島津忠良から富松左京亮・野村兵部少輔へ与えられた契状を収める。また加世田城攻めに先立ち久友が島津実久方の大山宮内少輔と刺し違えて戦死したこと、落城時にも猿渡氏と市来氏が刺し違え、両者の墓が城門左右に「富松猿渡墓」として残ったことを記す。
八月廿九日 / 冊子 384~385頁
島津龍伯が、白坂七右衛門尉を介して加治木御蔵入の前年収納分の進上が遅れている件を伝え、下代への処置と般若院への指示を急がせる。あわせて伊集院宮内少輔を差し上せる旨などを示し、処置と報告を求めた書状。
十二月晦日 / 冊子 162~163頁
若年の忠恒を補佐して家中を守った伊集院久治・鎌田政近・比志島国貞らの功績を回顧したうえで、比志島宮内少輔を無知無能で旧政に背き、蓄財・酒色・殺害に及んだとして種子島流罪後に死罪とした理由を説明した。さらに高城籠城や秀吉九州征伐時の山田理安ら旧家老の忠節と家老家の由緒を記した覚書。
年月日未詳 / 冊子 163頁
寛永五年正月二十七日、江戸の中納言家久から大野勝監・高崎玄蕃頭を使者として比志島宮内少輔の意向が悪いと申し渡し、二十九日に熊之岳へ入寺させ、二月七日に谷山から遠島へ送った経過を記す雑抄記事。
(慶長四年)十二月二日 / 冊子 471頁
島津義久(龍伯)が又八郎に、奥方へ召し仕える人衆の選定と配置を相談する。先に鹿児島へ召し置いた者をまず任用し、不足分を浜之市などから補うよう求め、選定を一人の分別だけに任せることへ異議を示す。十人の書立から五、六人を今の衆へ加えて二番替とし、鹿児島へ置く小者二十人の書立からも三、四人を送るよう望む。在伏見の体裁が悪く迷惑しているため、出陣中ながら人員整備を急ぐ事情を述べる。
寛永四年四月廿日 / 冊子 34頁
島津久元ら三名が算用奉行衆へ、諸物方の算用で利息を付ける物について、従来の二分利から今後は三分利へ改めて計算するよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 780頁
天文八年閏六月十七日以降の島津貴久軍の市来方面作戦を記す。忠将・樺山玄佐・蒲生宮内少輔・伊集院大和守・三原下総守らの配置、城攻め、八月四日の再戦を追い、九月朔日に本城を奪取して守備兵を配置し、地域支配を固めた。
永禄十二年五月廿五日~七月十四日 / 冊子 221頁
永禄十二年五月二十五日、祁答院長野城を攻め、守兵の激しい抵抗を受けた。比志島氏・鎌田政年らが奮戦し、仲俊坊・貴島源五郎・税所宮内少輔ら多数が戦死したが、各隊が死を顧みず攻めて勝利した。蒲生境でも敵数十人を討ったため伊東方は恐れ、七月十四日に飯野桶比良陣を捨てて退却した。
慶長十一年十一月廿五日 / 冊子 95頁
慶長十一年十一月二十五日の「初日」における犬追物手組の別記。一番の殿以下、本田弥六・島津摂津守・島津次郎・比志島宮内少輔などの射手と割当てを列挙する。
(寛永五年)正月八日 / 冊子 51~52頁
島津家久が、比志島宮内少輔国隆の重大な不行跡をこれまで表面に出さなかったが、今後は国家のためにならないとして処分方針を示す。一度の折檻で改まる人物ではないため、三名の担当者が遠慮なく協議するよう命じ、詳細は国分民部左衛門に伝えさせる。
寛永五年二月廿七日 / 冊子 53~54頁
比志島宮内少輔国隆の違法・不正とみられる行為を多数列挙する条書。度重なる命令不履行、独断的な裁判・人事、同僚との協議不足、賄賂や財物の扱い、縁者へのえこひいき、民衆への配慮不足、国政を乱す言動などを挙げ、家老として不適格であることを示す。
年月日未詳 / 冊子 172頁
児玉利昌が正月三日に鹿児島を発し三月九日に江戸へ着いたこと、比志島宮内少輔国隆が民を害し、保福寺での謹慎後も乱を企てて種子島へ流され、なお徒党を求めたため誅殺された経緯を記す。九月二十四日の徒党状況の申告や子の出家にも触れる。
十二月廿七日 / 冊子 361~362頁
たびたび命令に従わず、訴訟で多くの口上を並べて自己の主張を押し立て、他人と相談しないなどの振る舞いを列挙し、これ以外にも勝手な行為があるとして比志島宮内少輔へ伝えるよう命じた島津家久袖判条書。
年月日未詳 / 冊子 95頁
永禄四年七月、肝付勢が島津方の陣を崩して総大将の島津忠将以下多数を討ち、廻城の守備を救ったことを記す。さらに飫肥方との和議交渉、人質交換、先宮城の一部引渡しなど日向方面の動向を続けて記録する。
年月日未詳 / 冊子 103頁
島津忠親が伊東方との和睦条件に従い、永禄五年二月二十二日に志布志を伊東方経由で肝付氏へ渡した。五月十八日には飫肥も伊東方へ引き渡して忠親が櫛間へ退き、日置・柏原両氏には南郷三百町が与えられた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 103~104頁
伊東勢が本城・酒谷を攻略したため、島津忠親が飫肥南郷を伊東氏へ、志布志を肝付氏へ渡して福島へ退いた経過を記す。忠親は九月十七日夜に飫肥城を奇襲して百余人を討ち、翌日酒谷城も奪回し、北郷時久には末吉三百五十町などが与えられた。
年月日未詳 / 冊子 118~119頁
日置・柏原両氏ら三十六人が神判して時機を待ち、永禄五年九月十七日夜に忠親勢とともに飫肥本城へ侵入した経過を詳記する。伊東方の守兵と各門で戦い本城を奪い、翌十八日には酒谷城も落として、忠親が再び飫肥へ入部した。
永禄五年十二月十九日 / 冊子 119~120頁
島津良久が永禄五年十二月十九日に日向国広原で生まれ、母は伊東義祐家臣福永入道月甫の長女であったことを記す。天正二年、十三歳で広原八幡宮において元服し、又三郎良久と称した。
永禄十二年正月三日~十一月廿七日 / 冊子 210頁
永禄十二年に島津方で戦死・討死した者を月日別に列挙する。正月三日から十一月二十七日まで、三月十八日の蒲池越中守ら、五月二十三日・二十五日の伊地知重次、貴島源五郎ら、多数の家臣・従者の名と一部の戦場・討死事情を記す。
永禄十二年五月廿五日~九月廿日 / 冊子 222頁
五月二十五日の祁答院長野城攻めで下城を破ったが、島津方にも多数の戦死者が出た。桶比良の伊東陣撤退後、八月十八日から大口城を包囲し、諸将自ら秋作を刈って兵糧を断った。相良・菱刈方は度重なる敗戦で和睦を願い、九月中旬に球磨兵が撤退した。大口城で太平の祝宴を行い、菱刈氏に平城を残し、他城へ地頭を配置して貴久・義久が凱旋した。
永禄十二年五月廿五日~九月廿日 / 冊子 223頁
五月二十五日の長野城攻めでは下城を破ったが多数が戦死し、いったん退いた。その敗報で伊東方が桶比良陣を撤収すると、八月十八日から大口城を包囲して秋作を刈った。相良氏は島津への旧恩を思い和平へ傾き、九月に球磨勢が退去した。大口城を受け取り、相良の請願で菱刈氏に本城一所を残し、新納忠元を大口地頭・武蔵守として諸城へ地頭を置いた。
(慶長十一年)四月二日 / 冊子 64~65頁
島津義弘が島津忠恒に、在京中の労をねぎらい、琉球・大島渡海の談合と出兵準備について詳しく報告した書状。竜伯への相談、出物・人員の手配、関係役人との談合、振舞や接待の段取りなどを伝える。
年月日未詳 / 冊子 50頁
家老の比志島国隆は驕奢で不忠、家臣へのえこひいきや庶民からの収奪、独断によって政道を妨げたため、島津家久が罷免した。河辺の保福寺に入れ、所領・財産を没収し、種子島へ流したのち自害を命じたと記し、後世への戒めとする。
(寛永五年)二月晦日 / 冊子 54頁
島津家久が、比志島国隆は過ちを改めず再び奉公できる人物ではないとして、寺領から種子島へ人を付けずに厳しく移送するよう命じる。異議や抵抗があれば厳罰に処し、少しも処置を緩めないよう指示する。
年月日未詳 / 冊子 54~55頁
不正行為を列挙する別の条書。度重なる命令違反、自己中心的な判断、人を苦しめる新法、国内外への中傷、不当な財物・旅人物品の扱い、根拠の乏しい訴訟判断、同僚との協議不足、下位者への思いやりの欠如などを問題とする。
(寛永五年)三月朔日 / 冊子 55~56頁
島津久元・伊勢貞昌が、比志島国隆を寺から出して種子島へ移送する手配が整ったことを報告する。国隆が銀子を使って逃亡を企てる可能性を警戒し、種子島で番衆を付けて昼夜監視し、往来する船に紛れて逃げないよう厳重に申し渡すことを求める。
(寛永五年)三月十二日 / 冊子 56~57頁
比志島国隆の処分に関連する調査事項を列挙した覚書。新納越後との往来、国隆の蔵や金銀・家財の封印、京都での貸銀、種子島移送前後の様子、松本主膳の関係、国隆と親密な者の名簿を調べ、秘密裏に報告するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 58頁
比志島国隆の所領・家財は没収されたが、父国貞が島津義久・義弘・家久に忠勤したことを家久が追慕し、没収財産から祭田三十石を買い求めて国貞の神主寺へ付した。また国貞の未亡人の所領は没収せず、そのまま与えたと記す。
寛永五年四月十二日 / 冊子 58~59頁
比志島国隆の妻子の居所、後室の知行、国隆と親密な者の調査、家財中の金銀・米の算用と借銀返済、寺への三十石寄進、福昌寺住持、知行替えなどを指示する。さらに御蔵入百姓の調査、高岡への命令、書院普請、唐船来航時の取扱い、作事奉行の人選など複数の行政事項を列挙する。
寛永五年四月十二日 / 冊子 60頁
島津家久が、高岡地頭職を島津久元へ申し渡し、久元が帰国するまで現地の者が諸事を慎重に処理するよう命じる。また比志島国隆の不行跡を条書で周知し、旧家臣が他所で奉公することを認め、隣国との紛争を起こさないよう指示する。
(寛永五年)四月十六日 / 冊子 60~61頁
出水を預かる椛山美濃守の休息、亀山家の次男・三男と藤野への知行給付、種子島にいる人物と比志島国隆との接触禁止、平田太郎左衛門の子の所在調査、七島、高岡の御蔵入、水引城付村の扱いなどを列挙した行政覚書。
(寛永五年)五月六日 / 冊子 61~62頁
比志島国隆に近侍して不正を助長したとされる折田四郎右衛門・家村四郎左衛門について、高岡の者も責任を訴えているとして、死罪ではなく流罪とする方針を伝える。国隆に殉死すると称した者や種子島へ従わなかった者の扱いも含め、山田土佐守らと協議するよう求める。
寛永五年六月廿三日 / 冊子 64頁
親王の薨去により家久の暇が延引する可能性、江戸での大規模普請に伴う国元普請の抑制、仁礼景親への百石加増、祭礼への子弟参列を指示する。また比志島国隆の旧臣は当面の奉公を認めつつ行動を監視し、他国へ出ることを禁じる。