島津竜伯書状
(天正20年)7月21日 / 冊子 597頁
島津義久(竜伯)が大慈寺へ、歳久が秀吉の九州下向時に兵糧提出を拒み矢を射掛けたことなどから処断命令を受け、一身を犠牲にして家を残そうとしたと説明する。 歳久の家臣が殉死し、さらに宮之城へ籠城する動きが続いたため、龍雲寺の一岳和尚とも連携し、残党を説得して国家と家を存続させるよう依頼した書状である。
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(天正20年)7月21日 / 冊子 597頁
島津義久(竜伯)が大慈寺へ、歳久が秀吉の九州下向時に兵糧提出を拒み矢を射掛けたことなどから処断命令を受け、一身を犠牲にして家を残そうとしたと説明する。 歳久の家臣が殉死し、さらに宮之城へ籠城する動きが続いたため、龍雲寺の一岳和尚とも連携し、残党を説得して国家と家を存続させるよう依頼した書状である。
(天正20年)7月27日 / 冊子 597~598頁
島津義久(竜伯)が大慈寺へ、歳久の処断によって島津家の安全を図ったにもかかわらず、家臣たちが戦死し、残る衆が宮之城に籠城したことを「天道を恐れず君臣の法に背く」と厳しく非難する。 大慈寺に対し、袈裟菊丸以下の者が下城すれば安全を保障すると伝え、籠城衆を説得するよう求める。武力衝突の回避と歳久家の救済を僧侶へ託した書状である。
天保4年4月15日(本文) / 冊子 976~977頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0139
No.2704の附属資料「の9」、島津圖書久寶が献じた祭文。重豪が二月三日に武江で死去し、国元玉龍山に帰葬して冥福を修める水陸法会を設けたと、祭文の経過を述べる。臣藤原久寶は、これまで教育を受けた末属として、領地の雲秀寺の僧徒を遣わして法筵に列させ、祭祀を行うとする。本年四月十五日を明記し、宮之城家との本文注を伴う。韻文は三州の統治、厚徳、天に則る気風、城邑と海外の平穏、光る位階と僧道の帰服を讃え、寿命の延長を祈った哲人の死を嘆く。霊鳥、梁苑の煙、梵唱、斜月・残灯、霧と涙を用い、臣としての追慕と残る策・名誉を詠んで「尚饗」と結ぶ。久寶の献祭と雲秀寺僧徒の派遣、水陸法会と祭文の供養を分け、僧侶の出席を久寶本人の現場出席と置き換えない。
文化10年9月(朱年注。日なし) / 冊子 415~416頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1301
全上・扣正文在家老座。①一門家の重富・加治木・垂水・今和泉と四家の日置・宮之城・花岡・都城は格別の家柄で名代等も任せるが、身分を慎まぬとの聞きを戒め先年の細達を遵守させる。世間徘徊は忍たりとも駕籠・乗馬・歩行に相応の家来を召列し、相当の家柄・間柄の者を差し越す。身分違いの向きは縦令間柄迚もと記し家老の指図を得る。出入・集会も人柄を勘弁せず一般の風俗に合わせないよう、身分の心得違いを戒める。②大目付以上は政事を預かるのに心得が薄く程過・不沙汰を放置するため、国政・諸役場・支配下を監督して全体の風俗を立直す。常時見聞の趣を穿鑿し油断・万事不行を防ぎ、物躰取締、目付役の勤向監督、諸蔵方・出入取捌の厳格化を命じ、各方面相談してさらに細かく申し付ける。文化10年朱注9月、家老中・若年寄・大目付宛、重豪名義は目録。一門家四名と四家四名を一群四名に縮めず、人物の身分・行動規制と役人の政事責任を二条で分ける。
年月日未詳 / 冊子 598頁
袈裟菊丸らが宮之城に籠城した際、義久が比志島紀伊守や福昌寺・龍雲寺の僧を派遣し、袈裟菊丸の家督と知行を保障して下城を促した交渉経過を記す。 袈裟菊丸の母は、歳久と同様に処断されるなら助命に意味はないと一度は拒むが、重ねて身上・知行の保全を約束され、最終的に下城して入来へ移った。歳久家存続の具体的条件が分かる覚書である。
9月5日摂津(通知);当7月19日の武功への言及 / 冊子 386頁/原整理番号 548の1/整理ID 547-1
当七月十九日の長州勢襲来で諸軍を率いて禁闕の危難を救ったことを称え、嶋津圖書に感状一通・太刀一振・鞍置馬一疋を軍賞として賜うと記す。次に小松帯刀にも同日の大事の際に尽力して危難を救った功により、感状一通・拵刀一腰・馬一疋を賜うとする。九月五日摂津の通知で、表方と奥掛御勝手方へ伝えるよう命じる。原本の第548号の1に当たり、二人の賞品と単位は別に保持し、原通知から現物の同一性や実受渡日を確定しない。
寛政2年5月(朱注) / 冊子 5頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0017
中将様への八朔の進上物について、一門方、日置家の島津左衛門、花岡家の島津美濃、宮之城家の島津図書、都城家の島津筑後を対象として取扱いを伝える内意書。今後は江戸で名代を立てて太刀を進上し、年頭と同じように扱うとする。そのうち江戸詰の者には年頭に準じた扱いを定め、家格・地頭職により太守様へ八朔の進上物を出す者も中将様へ同様に進上させ、仕向等も同様にするよう伝える。目録は島津重豪内意書とするが、本文に独立した署名・宛名はない。
明和八年十一月二十八日(包紙は卯十一月二十九日納置) / 冊子 306頁/原整理番号 830/整理ID 830
この日、嶋津又五郎が家格どおりの進上物を差し上げ、御直元服を命じられ、土器・盃を頂戴したほか刀の拝領を命じられたことを記す。寛保二年戌に、今は亡き嶋津圖書が元服した際には土器・盃と肴を与えられたが、このたび又五郎には肴を与えず、今後は一門以外へ肴を下賜しない旨が命じられたので、帳面へ記録するよう申し渡す。十一月二十八日付、年は明和八年の朱注、左京の署を備える。包紙には、又五郎の元服に際して挾肴を下賜しない旨を左京から村橋左膳の取次で伝達され、横切の写しの書付どおり児玉主左衛門が承知し、卯十一月二十九日に納め置いたと記す。御譜中の文書の写しで、正文は文庫にある。
安政6年3月(本文);外包:3月15日 / 冊子 208~209頁/原整理番号 287/整理ID 287
周防と圖書の出仕・御礼待遇を定める沙汰。周防は相応の年齢と太守との格別の続柄により、年頭・八朔その他の表向御礼席への出仕を宥捨し、時宜によって奥で対顔し、奥へ通る際は櫻之間で相扣えるよう命じる。圖書は太守との続柄による特別な思召として、年頭・八朔・五節句・月次等に御座之間で御一門方に続き嶋津左衛門より上で御礼する旨を定める。太守留守の年は鶴之間で家老へ祝儀等を述べること、休息所順に準じる扣席、年頭八朔の独礼・着座等にも触れる。以上の待遇を帳面へ記すよう求める。三月の駿河の記載、外包には安政六年三月十五日、駿河から千田七郎兵衛へ渡し白木御文書十番箱に収納した記録がある。
十九日戦闘・同十九日髪毛到来/8月7日優證・18日感状後記 / 冊子 378頁/原整理番号 540の5/整理ID 540-5
十九日未明、二本松御屋敷から禁闕警衛へ出た野村勘兵衛が、隊を二つに分けて公家御門や日野御門の談合役を担い、会津・越前の堅場にも援助したとする記録。蛤御門等へ多数の長州勢が押し寄せた際、勘兵衛と土卒一人が砲撃を受け戦死し手負も多かったという。遺骸を相国寺へ引き取り、公子から金子十両を与えて林光院へ葬送し、年三十五、法名忠勇明榮居士と記す。同十九日の髪毛到来と同日八ツ後の弔儀、八月七日の両公子の優證・金三十疋、福昌寺での葬式、八月十八日の感状等を続ける。戦闘の働き、死去・葬送と子への賞賜はこの記録の叙述として読み、他条の賞額や死傷数と総額・総人数へ合算しない。
延享四年十一一月 / 冊子 305~307頁/原整理番号 1
「諸旧記文書」の冒頭で喜入家の来歴を述べる家譜記事。喜入家六代式部太輔久道に男子がなく、義弘の子万千代丸を養子に迎えたことや、久道・久亮らの系譜と改名、島津家への奉公を記す。
暦応四年九月十二日 / 冊子 742頁
宮之城の阿久根徳石衛門所蔵であることを示す所蔵注記のみを掲げた莫祢円也軍忠状の項目。本文は収録されていない。
年月日未詳 / 冊子 598頁
袈裟菊丸らが宮之城へ籠城した際、義久が東郷藤兵衛尉重位へ密命を与え、船木口から宮之城近辺へ赴かせた経緯を記す。重位は野伏の兵を避けつつ鍋倉将監を呼び出し、義久の命を伝えた。 その後、籠城側へ義久と細川幽斎の誓紙が与えられたことを記し、武力衝突を避けて幼主常久の家を存続させる交渉の舞台裏を示す。
天正20年7月26日 / 冊子 598頁
島津義久が袈裟菊丸へ、歳久の妻子・袈裟菊丸と母ら三人、さらに家臣までが今回の取り扱いに従って宮之城を下城すれば、以後の安全を保障すると誓約する。 約束に違反した場合は梵天・帝釈天をはじめ日本六十余州の神々から罰を受けると明記する。幼い後継者と一族を安心させ、籠城を終わらせるための義久側の起請文である。
天正20年7月26日 / 冊子 745頁
島津義久が袈裟菊丸へ、歳久の妻子・袈裟菊丸と母ら三人、さらに家臣までが宮之城を下城すれば、以後の安全を保障すると誓約する。違反時には日本六十余州の神々の罰を受けると明記する。 本箇所はNo.940と同文のため本文を省略しており、幼い後継者と一族に籠城終結を促した起請文の重出。
年月日未詳 / 冊子 745~746頁
袈裟菊丸が籠る宮之城へ義久方の使者が赴き、母子と家臣の安全、知行の維持を保証して下城を促した交渉経過を伝える。母は歳久と同様の赦免を求め、福昌寺・新納武蔵守らの再度の説得を経て下城したという。 歳久死後の宮之城籠城が、身分・知行の保障を条件に収束した過程を具体的に残す書状。
年月日未詳 / 冊子 359頁
慶長四年三月、伊集院忠真が都城に拠って十二の砦を構え、同年六月に島津忠恒が出馬すると、北郷久村は宮之城から長千代丸に随って出陣した。敵の出城防戦に際し、味方が退いた後も久村は退かず、三度援兵を率いて敵城内まで追撃し、多くの家臣が戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 719頁
慶長五年に祁答院を与えられた島津忠長が、同年十二月中旬に東郷を離れ、子の河内守忠倍とともに宮之城へ移ったことを記す。
午10月軍務局/閏10月2日知政所(朱注明治3年) / 冊子 765頁/原整理番号 982の14/整理ID 982-14
大砲局と旧垂水・宮之城屋敷を取り払い、練兵場を設ける。調練中は通行を遠慮し、道脇や川尻でも往来等で調練の妨げをしないよう命じる。取違え等があれば当方に迷惑が及ぶとして、末々の諸士まで支配向と地頭から徹底するよう求める。午十月軍務局、閏十月二日知政所の周知文を伴い、明治三年の朱注がある。
五月廿一日 / 冊子 537頁
朝鮮出兵の諸船が揃いながら荒天で出船できず、名護屋での立場が悪化すると憂慮する。国役の調達、宮之城・鹿児島・清水との相談を急がせ、談合衆の勤務怠慢を戒め、豊臣秀吉が渡海すれば自ら供奉せざるを得ないとして出船準備へ尽力を求めた島津義久書状。
二月四日 / 冊子 67頁/原整理番号 104
川上久国・三原重庸が各地の普請方へ、薩州様の出陣に伴い通行する可能性があるため、道・橋の普請を怠りなく急いで整えるよう命じた廻状。宛所には吉野・吉田・蒲生・飯牟礼・久留木・宮之城・祁答院・伊集院・市来・串木野・隈之城・水引・高城・阿久根・高尾野・出水などを列記する。
二月七日 / 冊子 91~93頁/原整理番号 151
川上久国・三原重庸が島津久元・伊勢貞昌・山田有栄へ、去る四日付書状への返答として、薩州様の有馬到着見込みと帰国時の川内筋・蒲生・宮之城の宿所準備を伝える。有馬在陣は不要との指示を踏まえ、加勢人数を早く決めて船・兵糧を整え、琉球米船を山川・坊津から回送すること、先送した装備や迎えの手配を求める。
年月日未詳 / 冊子 145~146頁/原整理番号 489
宮之城の肝付七右衛門家の系図。肝付兼賢(初め兼延)以下、兼種・兼明・兼孝らの分岐を示し、兼明が永禄四年七月十二日に戦死して法名を寛心浄円居士としたこと、兼孝が同日忠節のため切腹したことを記す。後段は島津紹益への付人、加藤左衛門家への婿入り・跡目相続、婚姻・養子関係を経て兼郷・孫三郎へ至る。
年月日未詳 / 冊子 146頁/原整理番号 490
島津内記家中の肝付曽兵衛家系図。宮之城肝付与兵衛兼武の二男兼貞を祖とし、兼貞が延宝九年霜月四日に没して法号を旭山了輝居士としたことを記す。以下、曽兵衛兼弘、伝左衛門兼常・兼全らの出生、女子の婚姻、母方を列記する。
年月日未詳 / 冊子 153~154頁/原整理番号 493
伊集院の肝付十兵衛家系図。樋脇衆中の肝付隼人入道道庵兼里の二男、利作諸兵衛兼綱を祖とする。兼綱が島津忠長(紹益)に仕え、寛永十二年の手札改めの頃に宮之城で家臣となった経緯を記す。後裔の兼秀・兼張・兼憲らについて、尾張国での死去、婚姻、通称を列記する。
年月日未詳 / 冊子 154頁/原整理番号 494
宮之城の肝付諸右衛門家系図。肝付諸兵衛兼綱の三男兼張、兼憲、兼次へ続く系統を示す。諸右衛門市左衛門が天和元年七月廿五日に没し、法名を自参常心居士としたこと、男子がなかったため市来七郎兵衛家豊の子を猶子として家を継がせたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 596~597頁
祖父・島津歳久(晴蓑)が秀吉の意に背いたとして竜ヶ水で討たれ、従った家臣も相次いで戦死した後、幼い島津常久(袈裟菊丸)が家の存続を担うことになった経緯を記す。 六尺にも満たず母の膝を離れない年齢の当主と形容し、残党の籠城で家が滅びかねない危機のなか、義久が歳久を追悼しつつ後継者保護と家の存続を図った事情を伝える。
天正20年7月26日 / 冊子 599頁
細川幽斎(玄旨)が袈裟菊丸へ、秀吉の朱印は歳久本人の成敗だけを命じ、そのほかの者を処罰する文言はないと明言する。妻子・母ら三人と家臣が下城後に義久へ従えば、別儀なく扱われると保証した。 義久の起請文を豊臣政権側の幽斎が裏付ける内容で、違反時には日本中の神祇の罰を受けると誓う。籠城側が求めた安全保証を二重に示す重要文書である。
宝永七年八月 / 冊子 910–911頁/整理ID 2968
八月の諸国巡見上使小田切駿負〈原注直廣〉・土屋数馬〈喬直〉・永井監物〈白弘〉の道中記事。家老島津中務久貫、用人黒葛原忠雄・町田忠堯、医師印東玄桂らが応接した。八日肥後川尻で田代安徹の子福良頼廣が謁見し、九日水俣、十日領内米津へ入境。阿久根・宮之城・加治木・金山・石原を経て十六日鹿児島着、十七日は風雨で滞留し、平川・喜入・指宿福良・山川を回り、二十一日に船で大隅大始良へ渡った。池之原・志布志・末吉を経て二十五日著寺柱、二十六日峯の境から伊東領へ出た。
宝暦十一年六月十二日~九月二日(記事) / 冊子 848~849頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2529
六月十二日、家重が江戸西城で五十一歳で死去して惇信院と諡され、二十九日に薩摩へ訃報が届き、重豪は三原源五左衛門を江戸へ遣わして香奠銀三十枚を献じた。西国巡見使の青山七右衛門・神保帯刀・花房兵右衛門が六月二十二日に出水米之津へ入り、阿久根・永利・宮之城・金山・蒲生・加治木を経て、二十八日に重富で重豪が応接し、家老・若年寄・大目付が侍座した。七月に今和泉・山川・大根占・大姶良を経て志布志へ進んだが、神保が病で残り、他の二使は飫肥へ向かったため、重豪は家老・用人・医師らを派遣した。神保は八月の記事中の脇注で「此月十日」に死去し、同使の命で喪を伏せたとされ、二十九日に喪を発して成願寺へ葬り、二使は九月朔日に肥後へ出境し、神保の従者は翌二日に米之津を発った。
辛未3月20日知政所 / 冊子 799~803頁/原整理番号 1020/整理ID 1020
親兵召集後の御城下常備隊に続き、外城兵隊の編成を定める。南方・宮之城・東郷・山崎・加治木・国府など各郷を十四組に分け、各地に一小隊ずつを割り当て、砲隊四座とあわせて一大隊・小隊・大砲夫の構成と総人数を示す。別冊の順序に従い軍務局へ申し渡すよう命じる。辛未三月二十日知政所。
11月20日 / 冊子 362頁/原整理番号 345の2
山元左近将監・黒木喜右衛門の帰路に用いる馬二疋と口引・荷持を宿次で継送するよう命じた手形である。十一月二十日付で北条時常・有川右近将監が連署し、蒲生・蘭牟田・宮之城・紫尾などの殿役担当者へ伝達する。
年月日未詳 / 冊子 50~51頁/原整理番号 70
島原出陣に伴う諸役の賦課・準備をまとめた頭書。二月朔日条で十文字幕・段子幕の調達を新納右衛門佐久詮へ申し渡し、出立衆の送状、阿久根・西方・向田・市来湊・宮之城・蒲生での宿泊・昼休と賄いを定める。続いて殿役・船・普請・町・高・蔵・兵具・馬屋など、出陣時に編成すべき奉行・役衆を列挙する。
寬永六年閏二月二日 / 冊子 337頁/原整理番号 77
祢答院宮之城が当時明城であることを踏まえ、今度の御与寄の際に妻子を置いて番を務めたいと申し出た件について、以前の約束も挙げて相手の意向を問う書状。慶長六年二月八日付。
記事成立日:未確認 / 冊子 583頁/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-A033
莫根次郎太郎成長入道圓也の注進目安状一通を紹介する。 「有御奉行所校正點古寫一通」と記し、貞久公御裏判の小字を添える。 正文が宮之城家臣阿久根伊右衛門良賢家にあると記す。 「記于左」によって七五号軍忠状案へ導く。