斯波氏経書状
〔康安元年〕七月廿日 / 冊子 24頁
斯波氏経が島津安芸守に、鎮西の凶徒退治のため発向するよう命じ、準備を整えて下着を待つこと、船津某の来着を喜び、国中の働きを頼みにしていることを伝えた書状。
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〔康安元年〕七月廿日 / 冊子 24頁
斯波氏経が島津安芸守に、鎮西の凶徒退治のため発向するよう命じ、準備を整えて下着を待つこと、船津某の来着を喜び、国中の働きを頼みにしていることを伝えた書状。
応永六年十二月三日 / 冊子 186頁
島津元久が菱刈安芸守久隆へ、日向国求仁郷内十五町を祈祷所として宛行い、先例どおり沙汰するよう命じた宛行状。
明応四年六月廿一日 / 冊子 568頁
島津忠昌が忠節の賞として、日向国島津庄郡本四十町・山田三十町・薄壇五町、計七十五町を樺山安芸守へ宛行った宛行状。
十二月廿五日 / 冊子 345頁
島津忠良が椎山安芸守へ、歳暮の祝意と賀札への礼を重ねて述べた返書。明春には互いに満足できるよう、改めて祝意を申し加えたいとして慶事を喜ぶ。
九月廿四日 / 冊子 22~23頁
不断光院清誉が、以前の下向時に受けた厚遇への礼が遅れたことを詫びた書状。相手の国元での高名を喜び、帖佐のうち寺家二所を預けられたことを祝う。今後の取り成しを頼み、平穏になれば上洛を待つと伝える。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 182頁
永禄十一年正月二十日、大口城の球磨・葦北・八代勢が城外へ出たため、義久・義弘が戦おうとしたが、貴久は無評議の出勢を軍法に反するとして川上久朗に制止させた。すでに先陣が接戦していたため久朗・義弘が殿となり、別府安芸守ら敵の先鋒と激戦した。久朗は七箇所の深手を負い、義弘も諸将と退路を支え、義久・貴久の援軍到着によって曽木へ退いた。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 182~183頁
永禄十一年正月二十日、義弘が少数の精兵で大口方を誘い出して戦った経過を記す。敵先鋒の別府安芸守らに対し義弘が弓で応戦し、川上久朗も奮戦して重傷を負った。島津軍が退く際、義弘は殿となって追撃兵を繰り返し退け、歳久・伊集院久治らの来援で曽木城へ退却した。貴久は援軍を率い、進まなかった梶原某を追放した。
永禄十一年正月廿日~二月三日 / 冊子 184~185頁
永禄十一年正月二十日、大口城から出た球磨勢との戦いで、貴久が無評議の出勢を戒めたにもかかわらず先陣が接戦したため、川上久朗が義久・義弘を守って殿軍を務めた経過を詳述する。久朗は別府安芸守らと戦って七箇所の傷を負い、家臣に助けられて退いた。両将から軍功を感謝された後、二月三日に三十三歳で死去した。
(寛永七年)五月二日 / 冊子 166頁
安芸守の意向だけに任せず十分に申し含めるよう求め、今回の仕合に満足していること、自身も暇を待って近く帰国することを知らせ、花を折り返し贈った島津家久の仮名書状。
(寛永七年)十二月廿九日 / 冊子 186頁
側近に遠慮なく意見する者がいるか、従来の談合が維持されているかを問い、鹿児島で安芸守・下野守・弾正の屋敷へ落書が投げ込まれた件を報告する。さらに各奉行の職務遂行、家老への態度、役人中の怠慢や身びいきを調べるよう求めた覚書条書。
(寛永九年)十一月二日 / 冊子 322~323頁
軍勢編成の覚書。大将を兵庫頭殿とし、その六百六十七人をはじめ、安芸守・下野守・中務少輔・喜入摂津守・川上因幡守・三原左衛門佐らの人数を列記し、合計千八百十三人とする。
延徳二年三月廿日 / 冊子 548頁
上原氏文書に残る、飫肥で二度目に行われた延徳二年三月二十日の犬追物手組。島津忠昌ら少数の参加者と疋数を記す。
延徳二年三月廿三日 / 冊子 549頁
延徳二年三月二十三日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者と射た犬の疋数を一覧にした記録。
延徳二年三月廿六日 / 冊子 549頁
延徳二年三月二十六日に福島で行われた犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を記録した一覧。
延徳二年三月卅日 / 冊子 549頁
延徳二年三月三十日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人の疋数を一覧にした記録。
延徳二年四月朔日 / 冊子 550頁
延徳二年四月朔日に福島で行われた犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者と成績を疋数で示した一覧。
延徳二年四月四日 / 冊子 550頁
延徳二年四月四日に志布志で行われた犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を記録した一覧。
延徳二年四月六日 / 冊子 550頁
延徳二年四月六日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人の疋数を記録した一覧。
延徳二年四月十八日 / 冊子 551頁
延徳二年四月十八日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を記した一覧。
延徳三年三月十一日 / 冊子 558頁
延徳三年三月十一日に鹿児島で行われた犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を記した一覧。
年月日未詳 / 冊子 568頁
明応四年六月二十九日、加治木大和守の反抗を受けて帖佐城・加治木城をめぐる軍事行動が起こり、樺山氏側の動向を記した島津忠昌譜の記事。
(寛永八年)三月七日 / 冊子 192頁
使者を迎え、ほどなく自分も下向して慰めたいと述べる。新造の娘たちの寂しさ、長い旅と老いへの心情を詠歌を交えて語り、幼い者たちを案じ、弾正や袋へも伝言した島津家久の仮名書状案。
「寛永十九年」五月七日 / 冊子 195~196頁
島津光久が無事に参府して将軍への拝謁を済ませたことを述べ、国元の火災と放火の可能性、家老衆による穿鑿の進み具合、若者たちの振る舞い、弾正の養生、出羽守の訴訟の決着などを安芸守へ問い、逐次注進するよう求めた書状。
宝暦十三年七月晦日 / 冊子 985~986頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2814
松平薩摩守内の山本猪散太(済秋)が七月晦日、御勘定奉行一色安芸守へ、未稼働・休山中の銅山を調べて出銅を図り、その有無にかかわらず吟味結果を勘定所へ書付で出すよう命じられた件について届け出る。国元に照会したところ、薩摩領内では元禄年間以来、銅気のある山を度々掘ったが、産出が少なく山の具合も悪く、損失が大きく難儀したため一切止めたとの回答だったと記す。そのため国中に用立つ銅山はないと報告する。
年月日未詳 / 冊子 760頁
新納父子の没落後、城や所領の処置、安芸守の知行、上山城攻略、鹿児島・河田方面への移動と使者派遣を樺山玄佐が記す。
延徳三年十二月廿五日 / 冊子 558~559頁
樺山長久が弓矢の御弟子となるにあたり、授けられた日記や口伝を家督相続者以外へ伝えず、違反時には神罰を受けることを誓った起請文。
年月日未詳 / 冊子 756頁
天文六年七月二十八日、大迫川・山門周辺の所領や別府住居をめぐる申し合わせと、家臣への知行・役割分担について樺山玄佐が記す。
年月日未詳 / 冊子 757頁
天文六年七月二十八日、樺山玄佐が大迫村内の川路山之門を賜り、後に中村内の御園之門も与えられたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 777頁
天文八年閏六月十七日、貴久が伊集院へ軍を進めた際、樺山玄佐らが平良城に籠もる敵と戦い、味方の敗勢にもかかわらず奮戦して勝利へ導いたことを記す。
天正元年七月~天正二年正月 / 冊子 334~336頁
平床陣への肝付・伊地知勢の来攻、茶園ヶ尾の戦い、七月の諏訪祭礼で軍役が手薄になった隙を突く夜襲、家久の奮戦を叙述する。さらに敷根頼継の進言で牛根城攻めを継続し、義久の狂歌矢、切岸掘削、安楽備前守の降伏、肝付・伊地知両氏の帰順と城地配分に至るまでを記す。
慶長四年二月廿一日 / 冊子 353頁
飛鳥井雅庸が、当道門弟としての契約により、出題は一家の重事であるものの、深い懇望を受けて旧例に従い許可したと伝え、他者と混同しないよう口伝すると述べる。
明和二年四月十日 / 冊子 81頁/原整理番号 181の51/整理ID 181-51
大目付が四月十日、来る十七日の紅葉山御宮参詣に際して予参を勤めるかどうか知らせるよう、各家の留守居へ廻状を送る。その旨の書付を明後十二日までに稲垣出羽守方へ差し越すよう求める。廻状は順達し、最後の受取人から出羽守方へ返すよう指示する。宛先は「御名」の家に加え、松平出羽守、松平土佐守、有馬中務大輔、上杉大炊頭、松平安芸守で、まとめて右留守居と記す。予参の意向報告と書付の期限、廻状の順達・返却経路を示す。
暦応元年十二月廿七日 / 冊子 718頁
島津安芸守の勲功を賞し、所領を与えて先例どおり沙汰するよう命じた足利尊氏下文。
暦応元年十二月廿七日 / 冊子 718頁
島津安芸守への勲功賞と所領沙汰を伝達した高師直奉書。本文は前号と重複するため一部省略される。
「寛永十九年」二月七日 / 冊子 192~193頁
川上久国・新納久詮が国元へ、例年の四国浦廻上使として小笠原安芸守・向井右衛門佐が下向するとの情報を受け、相良主計助が両名に確認した結果を報告した連署書状。出立は同月二十~二十一日頃、巡見の方角は大坂で蔵奉行らと相談して決める見込みとし、国元へ早く知らせるよう求める。あわせて大名家の誕生祝儀・振舞、参府、虎寿の無事、銀子や屋敷の件にも触れている。
年月日未詳 / 冊子 196~197頁
寛永十九年、西国浦巡見の上使である小笠原安芸守・向井右衛門佐が下向し、薩摩国の京泊津に着船したのち甑島へ渡り、五月二十八日に加世田片浦へ来着して領内海辺を巡見し、六月十五日に領外へ出たことを記す。あわせて島津光久の帰館に触れる。
「寛永廿年」六月廿三日 / 冊子 241~242頁
島津久通・新納久詮が、証人衆の評定所出頭と逃亡事件を報じた連署書状。御証人奉行の切紙により証人衆を伴って評定所へ出頭した経緯を伝える。安芸守が主家との争いから国を逃れ、証人として江戸にいた子の弥四郎も留守居衆へ無断で逃亡したため、私怨の有無にかかわらず厳しく捜索・処置するよう求めている。
(貞享四年)六月十四日 / 冊子 791頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2078
阿部正武が松平大隅守へ、献上された馬二疋について稲垣安芸守と相談し、首尾よく披露したと答えた書状。
明和二年四月十日 / 冊子 81頁/原整理番号 181の52/整理ID 181-52
有川勇馬が四月十日、大目付の廻状を有馬中務大輔の家から受け取ったため、写しを差し上げたことを報告する。本書は松平安芸守方へ順達したと記す。前の廻状の行間朱書として載り、受領元、写しの上申、本書の次の順達先を簡潔に記録している。
延徳2年3月20日 / 冊子 255頁/原整理番号 97
延徳二年三月二十日、飫肥で二度目に催した犬追物の手組。番号付きの項目として「一 殿」二十三疋、「二 島津摂津守」十三疋、「三 島津次郎三郎」四疋、「四 島津左衛門尉」五疋を記し、ほかに島津安芸守三疋、島津次郎四郎十一疋、伊地知周防守九疋、加治木又八郎四疋、平田又九郎四疋、上原次郎右衛門尉二疋、平田右馬助三疋、長井初五郎三疋、島津大和守五疋、島津徳三郎三疋を割り当てる。検見を餅原駿河守、喚次を平瀬三郎四郎が務め、犬追物に参加する人員と馬匹編成を具体的に示す。『旧記雑録前編二』一六八三号文書と同一と注記される。
寛永廿一年九月晦日 / 冊子 447~448頁/原整理番号 560-2
前文書の唐船・唐人警戒の趣旨を各地域の浦々へ確実に申し渡すよう、島津安芸守以下の地頭・役人へ命じる。本文は寛永二十一年十月三日付で四名が連署するが、目録年月日は寛永二十一年九月晦日である。
暦応元年十二月廿七日 / 冊子 718頁
No.2035と同文のため本文を省略した足利尊氏下文。
「寛永十九年」五月廿九日 / 冊子 197頁
二階堂伊行が、西国浦巡見の上使が五月二十八日夜に片浦へ着津した経緯を報告した書状。上使は京泊を出船後、予定外に甑島の中甑へ渡って各所を見分し、その日のうちに片浦へ着いたこと、前年までの上使が見なかった鹿児島表の内海も今回は巡見する意向であることを知らせる。
宝永元年七月三日 / 冊子 488–489頁/整理ID 1711
本庄宗俊が島津綱貴へ、綱貴が一位様へ献じた砂糖漬天門冬一器・鯛塩辛一器・琉球泡盛酒一壺を女中へ取り次いで披露し、一位様が喜んだと知らせた書状。追而書では、残り三種を宗俊へ贈った厚意に礼を述べる。
宝永元年八月二日 / 冊子 491–492頁/整理ID 1724
石尾氏信と佐久間信就が島津吉貴へ、琉球国大島に漂着して警固付きで送られた異国人が同日長崎へ到着し、引き取ったと知らせた連署書状。詳細は吉貴の家来と相談したと記す。
宝永元年七月三日 / 冊子 489頁/整理ID 1712
島津綱貴が本庄宗俊へ、一位様が健勝であるとの知らせに礼を述べ、砂糖漬天門冬・琉球泡盛酒・肴一種の献上が首尾よく披露されたことを感謝した書状。綱貴は病気中のため他筆で作成したと記す。
巻二/冊子 20~21頁
永禄十一年、忠平が大口勢を誘い出すため伏兵を置いたが、戦況が不利となった一連の戦いを記す。忠平は敵将別府安芸守を弓で射倒したものの、川上久朗らが戦死し、自軍は退却を余儀なくされた。歳久・伊集院久治らの援軍も交戦し、忠平は辛うじて曾木城へ入る。その後、忠長・肝付兼寛・新納忠元らが市山から大口城をうかがい、鉄砲と伏兵を交えた戦闘を行う。忠元は負傷中にもかかわらず兵を指揮し、市山へ退却した。勝敗だけでなく、忠平の殿軍、将兵の死傷、鉄砲の使用など戦場の具体像を伝える。
明暦三年九月十七日 / 冊子 355~356頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0754
御火事後の修理に進上する銅・漆・錫・石材・鉄・材木について、担当先別の数量・価格・寸法を列挙した進上物覚。
二月廿三日~廿五日の回覧書込(年は目録一件から天保九年とみられる) / 冊子 14~15頁/原整理番号 22の3/整理ID 22-3
大広間諸大名の交名と、武家諸法度の写しが届いた家・次に順達した家を記す一覧。「次第不同」とし、松平越前守・大膳大夫・三河守・因幡守などを掲げ、松平大隅守(島津斉興)に続いて松平陸奥守・阿波守・大和守・右近将監・上総介らの順達先を列記する。書込によれば、有馬玄蕃頭から二月二十五日に松平越前守へ、松平大膳大夫から二十四日に松平大和守へ、上杉伊予守から二十三日昼に上杉弾正大弼へなど、複数の経路で送られた。回覧の個々の到着日と送り先を追える史料であり、単独の差出人・宛先を持つ書状ではない。
安貞三年二月日 / 冊子 118~119頁/原整理番号 449
日向国櫛間院が、安貞二年の御検注に基づく田畠数を注進した目録。水田三百八十七町六段二丈を総数とし、荒田・常荒・年荒・見作田・損田・得田・野稲畠などの内訳を列記し、公文・弁済使・書生・地頭・御使兼留守が署判した。安貞三年二月日付。