町田存松領知目録
文禄3年2月13日 / 冊子 767頁
薩州伊作領内にある町田存松の領知を、門・集落ごとの石高とともに列記した目録。田代野の門、三枚田、道上、楠木か丸、山の口、山神の前、新山など多数の地名を掲げ、畠方・浮免を合算する。 伊作地域の村落構成、地名、知行高を具体的な数値で復元できる土地台帳である。
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文禄3年2月13日 / 冊子 767頁
薩州伊作領内にある町田存松の領知を、門・集落ごとの石高とともに列記した目録。田代野の門、三枚田、道上、楠木か丸、山の口、山神の前、新山など多数の地名を掲げ、畠方・浮免を合算する。 伊作地域の村落構成、地名、知行高を具体的な数値で復元できる土地台帳である。
年月日未詳 / 冊子 858頁
豊臣秀吉は島津家当主の居城を大口に定めたが、当主は富隈へ移り、町田存松が大口城代を命じられた。存松は文禄四年に大口へ移って長年守備したという。 のちに石谷の市山一所、一之宮村・長羽村などを加増された経緯も記し、城代任命と知行褒賞を結び付ける。
文禄4年5月16日 / 冊子 880頁
町田存松は、川上善左衛門尉を介して受けた厚意に礼を述べ、武庫様の帰朝に関する朱印が届いたため帰国を待ち望んでいると伝える。 一同帰帆との風聞から若殿も同時に戻ると期待し、京都での仕合も順調なので安心するよう知らせる。
文禄4年6月14日 / 冊子 889~890頁
町田存松は、武庫様が六月五日に着船し、十二日に上洛したことを鎌田政近へ報告する。 若殿様も無事で、御本所へ朝鮮在陣の様子を詳しく報告する予定だと伝え、島津家中の帰朝後の動きを知らせる。
文禄五年四月廿八日 / 冊子 18~19頁
町田存松久倍と新納旅庵長住が、鹿児島分などの黄銀・銀子を項目別に受け取ったことを記す受取状。銀の不足分を差し引き、出目入銀を加えた計算も示して、受取額を確認している。
文禄五年四月廿八日 / 冊子 19頁
町田存松久倍と新納旅庵長住が、金子六枚(秤目二百六十三匁七厘)を受け取ったことを記し、勝目兵右衛門・古後七郎右衛門へ宛てた受取状。
文禄五年閏七月廿八日 / 冊子 35~36頁
町田存松久倍・新納旅庵長住が安宅三川守へ、加治木衆新納仲左衛門に関する米三千六百余石をはじめ、船賃米、銀への換算額と一石当たりの換算率などを示した算用証状。
文禄五年閏七月廿八日 / 冊子 36頁
町田存松久倍・新納旅庵長住が安宅三川守へ、文禄四年分の石田治部少輔蔵入目録に関する米高と、同年四月から閏七月まで五か月分の利平銀を算出して示した証状。一貫目につき一か月三十匁という利率も記す。
文禄3年正月28日 / 冊子 763頁
町田久倍が新年を祝い、義弘の三月帰朝を待ち望むと伝える。又八郎忠恒は十二月十三日に大坂へ着き、十五日に石田三成と面会して順調だが、秀吉への目見得日はまだ未定だと報告する。 忠恒の拝謁後に久四郎が帰国する予定も知らせ、島津後継者の中央交渉の進捗を国元へ伝えた書状。
正月28日 / 冊子 864頁
No.1234と同文であるため本文を省略した重出書状。九州・中国衆の朝鮮在番命令に伴う追加軍役と名護屋普請の負担、京都で借りた銀の返済における唐目・日本目・後藤判の秤量差を扱う。 軍役動員と銀決済という二つの実務問題を島津又八郎へ報告した文書で、異なる伝来形態で同内容が残されたことが分かる。
(慶長八年)二月二日 / 冊子 881頁
町田久倍と鎌田政近が連署し、豊後から帰国させる捕虜について、耕作期を逃さぬよう正月二十三日までに出立を協議し、主取衆と相談するよう指示する。帰国者の人数・名簿を肝煎衆が五、六日中に提出し、乗船準備を遅滞なく進めるよう命じた。
(慶長二年)六月二日 / 冊子 104頁
島津義久が又八郎に、長い在陣の苦労を察し、帰朝が延びていることを案じた書状。注文した武具は存松が精を入れて完成させたため送ること、安国寺恵瓊の才覚で鹿毛・糟毛の馬を求めて送ることを伝え、詳細は岩切三郎二郎に含める。
(慶長四年)八月十日 / 冊子 424~425頁
島津義久が武庫入道島津義弘に、当家の人質として十三年間在京した自身の娘について、帰国後の付人や身の置き所を相談する。娘には三清夫婦、のち存松夫婦を付けたこと、又八郎の置目との関係や外聞を案じ、又八郎とも協議して面倒な事に関わらせず長く扶持するよう求める。あわせて又八郎の振舞いを神妙と評価し、飲酒を過ごさないよう細かく諭してほしいと頼む。
(慶長四年)九月十一日 / 冊子 435頁
島津忠恒が本田六右衛門尉に、長く在京している辛労をねぎらい、奥方のことを引き続き油断なく取り扱うよう求める。庄内情勢はなお変わらず心配だが、兵を出して戦っているので近日中に決着するだろうと述べ、以後も逐次報告するとする。また存松を急いで上らせるので、交替して下向するよう命じる。
(慶長四年)十一月廿四日 / 冊子 468~469頁
島津惟新が少相に、悪筆を詫びたうえで本六の件を述べる。竹織が上った際に失念していたが、存松の上洛時に処置するとの少相の書状を喜ぶ一方、当人を存松とともに動かすとの風聞を懸念する。当人をその場に留め、惟新の手前の用所も申し付けるよう求め、事態の落着を待ち望む。
(慶長五年)正月十四日 / 冊子 498頁
島津義弘(惟新)が又八郎に、存松への伝言を承知したと述べ、遠方から音信として銀子五枚と長刀一振を贈られた厚意に感謝する。諸件は本田源右衛門尉へ申し含めて派遣したので、書状では詳しく述べないとする。
(慶長五年)八月五日 / 冊子 562頁
島津義久(龍伯)が吉田美作守へ、奥方に奉公する者たちへこの時節は力を尽くすよう申し聞かせてほしいと頼む。使者を上らせたところ京都が騒乱になったと聞いたため、島津義久(龍伯)の息女の傍に確かに付き添うよう求め、存松が病気で用に立てないなか、時節柄とくに心を添えるべきだと伝える書状。
(慶長五年)八月廿一日 / 冊子 568頁
島津義弘(惟新)が吉田美作守へ、島津忠恒(又八郎・家久)の書状により奥方側の置目を吉田へ任せるとの意向を承知し、念入りに処理するよう求める。存松の下向について増田長盛へ出した書状の写しを渡し、口頭でも説明するよう依頼する。美濃垂井の陣は敵と五、六里の近さで戦闘が迫るのに手勢が乏しく、長宗我部勢が五千を率いる一方、薩摩から援軍が一人も来ないと嘆き、留守中の規定も緩みなく整えるよう命じる書状。
慶長八年五月廿日 / 冊子 893-894頁
川上日向守が、八町田存松・川上将監・川上藤右衛門らの上洛や渡海奉公、随行人数、滞在期間、飯米・扶持の支給状況を箇条書きにした覚書。無足奉公に伴う負担と勤務実績を整理する。
四月十一日 / 冊子 37~38頁
町田久政が、公役人員の名簿と門前屋敷をめぐる処理について蒲地伊賀入道へ回答した書状。別紙の人数書付を送り、新城にいる山田藤内左衛門への連絡を求めるとともに、門前屋敷の持合や旧来の墨付をめぐる問題は、存松の帰着後に協議する方針を示す。
七月廿日 / 冊子 388頁
島津義久が、存松・抱節への命令が難しいとの詫びを受けながらも重ねて申し付け、了承させたことを述べる。さらに出水の置目と武庫での奉公について、下知に従う旨を伝えた書状。
九月十一日 / 冊子 163頁
長期在京の辛労をねぎらい、奥方のため引き続き油断なく尽力するよう求めた。庄内の情勢は変わらず心配だが軍勢を出して働いているので近く決着すると見込み、存松を上京させるため交代して下向するよう命じた書状。
年月日未詳 / 冊子 676頁
細川幽斎が豊臣秀吉の命で薩摩に滞在し、旧規を改め新法を出して政務を改革した時期の町田久倍の対応を記す。新恩を求める者や旧臣の衰退を嘆く者が多いなか、久倍は私的栄達を求めず領国の安泰を願い、三か条の誓詞を島津義久へ差し出した。 義久も盟書を返し、久倍が家宝として伝えたという、豊臣政権下の領国改革と家臣の忠誠を示す譜記事。
11月6日 / 冊子 374~375頁/原整理番号 188-10
十一月六日、町田入道存松が蒲地伊賀入道・大野将右衛門へ、城屋敷の移転・配当について伝えた書状。山城入道が城屋敷へ移ったかを尋ね、麓人が当分不在であるため城屋敷を進上する意向を示す一方、先に両人から申し越された城屋敷配当については、今しばらく控え、後日あらためて談合するよう求めている。
2月26日 / 冊子 375頁/原整理番号 188-11
二月二十六日、町田羽入久倍(存松)が大野将右衛門尉・蒲地伊賀入道へ、太守の田布施下向、出米、京上船、人別銭について指示した書状。太守は来月二日に田布施へ下向し、三、四日間は当地の八幡宮へ社参する予定なので心得ること、石見九兵衛尉へ命じて処理させることを伝える。出米について一石につき二升および一升五合の記載を示して確定内容を確認させ、来月二日に京上船が入る予定と通知する。さらに今回の人別銭を早々に送らせ、当地の行衆へ渡すよう命じる。
正月晦日 / 冊子 376頁/原整理番号 188-13
正月晦日、町田羽入久倍(存松)が大野将右衛門・蒲地伊賀入道へ、奥に召し仕える『きりつほの下女』という呼称は御格護に紛らわしく不適切なので、兄の名字に従い『玉利名字之下女』とするよう指示した書状。併せて、所持させている『枯穂之帳』には門屋敷・浮免の持合人がなく、現地沙汰人と談合し、判明分を早々に付記して送るよう求める。当所で把握した者は少々書き付けたが所在不明者がいるとし、きりつほの兄で玉利名字の者の所に豊州の者がいるとの納所衆の情報も現地で糺明して同様に書付を提出させ、判明すれば『きりつほの下女』の称は不要とする。
文禄3年(1594)2月13日 / 冊子 379~380頁/原整理番号 188-22
文禄三年二月十三日、町田出羽入道存松が蒲地孫四郎へ示した薩州伊作内の領知目録。田尻名田代野門の三枚田・道上・楠木か丸・山の口・山神乃前・新山、大園・岩下・居屋敷・紺屋敷、祁答院塔之原内の浮免として東郷播磨先替地田・三嶋領くミ迫・養春院先名の木田、畠方のうるし畠・黒井堀を掲げる。田畠の合計は五町八反五畝五歩、分米は四十五石八斗四升六合である。
(慶長四年)閏三月朔日 / 冊子 364頁
幸侃成敗の際に国許の衆が伏見へ差し上げた連署状。成敗を事前に届けなかったため石田治部少輔が立腹し、長谷寺へ移ったとの風聞に一同が驚いたと述べる。一方、幸侃の罪科は石田も以前から承知しているので事情を聞き分けて穏便に収まると期待し、吉報を早く知らせてほしいと伊勢兵部少輔へ求める。
閏三月朔日 / 冊子 364~365頁
本文はNo.696と同文のため省略されている。幸侃成敗を無届で行ったことに石田治部少輔が立腹して長谷寺へ移ったとの風聞を受け、国許の連署衆が驚きを伝え、石田は幸侃の罪科を承知しているので穏便な決着と早い吉報を期待すると伊勢兵部少輔へ申し送った文書である。
慶長四年閏三月三日 / 冊子 365~366頁
幸侃成敗に関する諸相談の内容を一切漏らさず、伊集院源二郎をはじめ縁者・親類がいても庄内とは決して通用しないことを、上井里兼以下十四名が連署して誓う。違反すれば梵天・帝釈から霧島・新田八幡・鹿児島一宮・諏訪・愛宕など諸神の罰を受けるとする起請文。
五月六日 / 冊子 132~133頁
船の出航が遅れているため、兵糧米を借り受けて到着まで取り計らうよう依頼した。また国元の争いで上方へ逃れたところ武庫の判断により途中で討ち果たされた件、在洛中に受けた厚意への謝意を述べ、細島から夫丸五人の助力で入来院へ帰着し、帖佐の家族も無事だと報告した書状。
六月七日 / 冊子 177頁
返事が遅れた事情を聞いて便りを読み、相手が息災であることを喜んだ。当地で流行病・疱瘡の具合が悪く心配していたが、近ごろようやく改善したとの知らせを安堵して伝えた江戸発の仮名書状。
六月一日 / 冊子 145~146頁/原整理番号 29
六月一日、島津義久(龍伯)が兵庫頭へ送った覚書状。萩原寺が兵庫頭のもとへ赴くと聞き、現地での談合を求める一方、石田殿から直接、諸事を幸侃(町田久倍)が分別するよう命じられているため、別人との談合は不都合だと注意する。幸侃が存松・税所越入を通じ、談議所寺中で捕縛された科人の件を申し出たこと、萩原寺が京都・高麗にも言上したとの風聞を記す。科人勘介については、超雲の女房との密懐を成敗しようとしたところ逃亡し、霧嶋を頼って談議所へ来たとの披露を伝える。萩原寺側から正式に聞いてはいないため処置を差し延べているとして、翌日の来訪後に相談のうえ返答するよう求め、詳細は川東善左衛門尉が述べるとする。末尾に龍伯の花押を据える。
永正3年(平山村観音銘の傍注) / 冊子 339~340頁/原整理番号 130-24
川上忠塞家の系譜・姻戚・地頭歴を記した家譜抄。永正三年の平山村観音銘に当村地頭の河上掃部助栄久・同又八郎義久が見えることを掲げ、川上信濃守の女子七人が川上・町田・喜入・石谷・市来各家などへ嫁いだ関係、町田伊賀守の孫にあたる町田出羽守存松斎や河上山城守・舟伴入道との続柄を詳記する。また川上信濃守が串木野・川辺・市来の順に地頭を務め、男子馬之允、帖佐宗善寺の僧、又左衛門、又六(のち将監)へ系統が続いたとし、十一代家林の法名を道舜と記す。『家わけ三』町田文書一六六号と同文と注記する。
4月11日 / 冊子 376~377頁/原整理番号 188-14
四月十一日、町田源左衛門久政が蒲地伊賀入道へ、移衆全員を公役に出すとの来札を了承し、ただちに申し渡すと回答した返書。当地から伊集院方面へ公役に出る者が多いため、当時伊作にいる公役人数を別紙に書き付けて持たせ、すでに解役された者は大野将右衛門来訪時に詳しく付け立てて渡したと伝える。追而書では、川辺の新城にいる山田藤内左衛門には蒲地側から事情を説明するよう求め、門前屋敷について比紀州の同意がないのではないかと懸念し、旧墨付を改めて見せる必要はないとの見方を示す。争論を長引かせず、存松が下した屋敷だとして申し遣わすよう助言し、当地で尋ねられても同趣旨で答えると約す。
文治三年九月九日 / 冊子 523~524頁/原整理番号 331
新納為舟の書状。米や船の調達、使者の往来、当地の情勢について相談し、必要な手当てを求める。五月六日付。