島津義久書状案
八月十日 / 冊子 425~426頁
島津義久が進藤大蔵入道に、御家門様の書状を拝領し、京都の静謐と御姫宮の無事を喜ぶ。又八郎と玄与所への書状は届けたと報告し、わずかな品ながら生糸三斤を進上したいので、差し支えなければ受納の取り成しを願う。
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八月十日 / 冊子 425~426頁
島津義久が進藤大蔵入道に、御家門様の書状を拝領し、京都の静謐と御姫宮の無事を喜ぶ。又八郎と玄与所への書状は届けたと報告し、わずかな品ながら生糸三斤を進上したいので、差し支えなければ受納の取り成しを願う。
(慶長十年)八月 / 冊子 29頁
島津竜伯が進藤大蔵入道に、御所様が関白職を与えられたとの知らせを受けて祝意を伝えた書状案。太刀一腰・馬一疋・綾子二巻を進上するので、適切に披露してほしいと頼む。
(慶長八年)三月 / 冊子 885頁
島津義久の書状案。親王の筆になる名号八幅、家門の書状、加賀手綱五通などの拝領に礼を述べ、義弘らにも尊筆が届いたと報告する。市成掃部兵衛尉の下向に続き使者を遣わし、黒絹一巻を進上した。
七月十七日 / 冊子 166頁
以前から頼んでいた薫物を早く調製してもらったことへ深謝し、時折焚いて在陣中の窮屈を慰めていると述べた。帰国が延びているなか、相手の在国中に帰りたいので、心底では相手の帰京も少し延びてほしいと率直に記した書状。
八月十九日 / 冊子 228頁
大蔵卿法印宗久が島津義久に、油蠟製造のため唐人が召し上げられ、製造が成就したことを豊臣秀吉が殊のほか喜び、朱印を発したと伝えた書状。義久にも事情を心得て、さらに申し上げるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 684頁
中馬大蔵丞は出水から関ヶ原の急を聞き、九州路を昼夜兼行して合戦前に島津義弘(惟新)のもとへ着いた。敗戦後は少人数となった義弘を守り、伊勢・近江・伊賀・大和・河内を経て住吉まで退却し、野宿や絶食の中で宿所を巡回した。この奉公により感状と知行五十石を与えられた。
(慶長三年)八月十九日 / 冊子 372~373頁
大蔵卿法印宗久が島津修理大夫入道の側近に、油蝋の件は唐人を召し上げて成就し、朱印も発給されたので心得るよう伝えた副状。
(慶長七年)十月十五日 / 冊子 71頁
新納長任が大崎勘丞らに、福嶋様の振舞に招かれたこと、兵庫に着船した安藝少将が惟新様と会談し厚意を示したことを報じた書状。秀頼への目見得、馬一疋の贈与、銀子百貫目・米三千石の借用申出、龍伯様の好調など上方の政治的動向を詳報する。
永禄九年十月廿八日 / 冊子 151頁
細川藤孝が畿内の政変を先代未聞の事態とし、一乗院が甲賀和田へ退いたこと、近国への出勢命令を受けて入洛を急ぐことを伝えた書状。島津貴久・義久に忠功を求める御内書が出され、使者として上野大蔵入道を下向させたと述べる。
永禄十年十一月廿四日ほか / 冊子 170~171頁
永禄十年十一月二十四日の馬越城攻めを中心に、同月二十五日・二十九日などの戦闘で戦死・負傷した将兵を列挙する交名抄。辻大蔵左衛門尉、有馬軍弥左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、市来家利、伊集院久慶らの名と戦死・負傷等の注記を載せる。
文禄元年6月9日 / 冊子 570頁
文禄元年六月九日、島津義久が近衛前久へ鷹を献じ、同十一日には近衛殿の使者が贈物を届け、十二日には長束大蔵・石田木工頭らから朝鮮渡海に関する連絡があったことを記す。 鷹・単衣などの贈答と軍事連絡が同じ日記記事に並び、義久と近衛家・豊臣奉行衆との交渉の実態を短く示す。
(文禄元年)8月29日 / 冊子 647~649頁
高麗在陣中の大島忠泰が、家族には自分を心配しないよう伝え、大蔵仲兵衛・九郎左衛門尉らに留守宅と家中のことを託した書状。 十八日以降の日付ごとに、宿泊地、進んだ里数、川口への船着きなど移動の経過を細かく報告し、書状や贈物の受け渡しにも触れる。 軍務の背後にある家族への気遣い、留守居の運営、朝鮮在陣者の通信と移動実態が一通から読み取れる私信。
文禄3年5月26日 / 冊子 785頁
新納拙斎忠元が、久しぶりの書状と鹿皮三枚の贈答に礼を述べ、坂上紀州の旧知行に関する納入状況を日記で確認したいと求める。老中の下知に従って知行が移された場合でも、墨付を確実に受け取るべきだと手続を説く。 冒頭では原口大蔵の新しい一件を薩左衛門へ伝えるよう依頼する。知行処理を口頭伝達だけにせず、日記・墨付で裏付けようとする忠元の実務姿勢が分かる書状である。
文禄五年八月廿二日 / 冊子 39頁
薩摩国の蔵米について、年度別の納物、米・大豆・銀の数量と差引残高を記し、徳善院・長束大蔵・増田右衛門尉が伊集院右衛門大夫へ示した算用状。
年月日未詳 / 冊子 281~282頁
『島津家久譜』の記事。十一月十八日の海戦後、乗船を焼かれて南海島に取り残された騎歩約五百人の救出経緯を記す。伊勢貞昌らが島津義弘・忠恒父子へ急報し、樺山忠征・島津久高・吉田大蔵・竹内兵部らが、生死をともにする覚悟で釜山浦へ救船を求めた。寺沢正成の提案を受け、小西・松浦・大村各氏が船を出し、敵中に孤立した将兵を収容した功労を称える。
年月日未詳 / 冊子 296~297頁
樺山久高譜が朝鮮撤収時の救援行動を記す。退陣期限が示された後、小西行長が順天で包囲され、義弘の救援船団も激戦に入った。島に残された五百余人を救うには釜山へ援船を求める者が必要だとして、久高は吉田大蔵少輔・竹内兵部少輔らと小舟で包囲を抜け、夜間に釜山へ到達する。援船を導いて残留者を収容し、自身らも無事釜山浦へ帰着して、その経過を義弘・忠恒へ報告したとする。
年月日未詳 / 冊子 410~411頁
池田貞安が、軍代の平田太郎左衛門が七月十三日に山口へ向かった際の戦闘を記す。池田・山口大蔵・大井五兵衛・青山利兵衛の四人が案内役を命じられたが、志和地・野々美谷・安永・高城などの敵が城から出撃したため苦戦して山田へ退き、その遠目塚で旗差を庄内方に奪われたという。
(慶長四年)九月廿三日 / 冊子 440頁
伊那令成が羽柴少将島津忠恒に、内府が十七日に大坂へ下向して秀頼へ重陽の祝儀を述べたこと、秀頼に対する悪事を企てたとして大蔵卿局・大野修理が退出したとの政情を伝える。大坂・伏見の仕置は心配不要とし、庄内の情勢を案じて折々の注進を求める。
年月日未詳 / 冊子 455頁
島津義久が惟新公へ送った書状の抄録で、財部口の合戦が甚だ激しく、平田三五郎が朝に負傷し夕方に戦死したこと、吉田大蔵が深手を負ったことを報じる。そのほかには被害がなく、めでたいと述べる。
年月日未詳 / 冊子 685-687頁
長野勘左衛門は上方の異変を聞き、借銀して武具を整え、出水から大坂・伏見を経て関ヶ原へ赴いた。徳川家康の大軍を夜襲するため百五十人を三手に分ける案を川上忠兄へ進言し、中馬大蔵丞には自分が討死した後も義弘を背負ってでも帰国させるよう託した。九月十五日の戦闘では敵首を挙げた後、再び大軍へ突入して戦死したと伝える。
慶長十二年四月朔日 / 冊子 110頁
慶長十二年四月一日、新納為舟(忠元)が湯田新右衛門尉に宛てた加増坪付。山野村内の中田一段六歩ほか、石高一石四斗二升八合、および由畠三段二畝十八歩・分米三石一斗五升六合などの田畠を記す。途中は「外数行略」として省略され、濱田将兵衛・大蔵の名も見える。
年月日未詳 / 冊子 605頁
元和元年七月十八日、吉富大蔵が主君の跡を追って四十二歳で殉死したことを記す『殉国名藪』の記事。
寛永十五年二月廿八日 / 冊子 767頁
有馬春之城の本丸へ乗り込み、敵二人と槍を合わせ、さらに鉄砲で敵を討ったことを、入来源左衛門・肱岡左近・仁礼左近・西郷壱岐守・長瀬新兵衛らの立会・証跡を挙げて証明した三原大蔵太輔の戦功証文。
九月二日 / 冊子 4頁
近衛前久が改年の賀詞を述べ、龍山宛の書状を披見したこと、長く音信が途絶えていたことへの思いを伝えた書状。見参のしるしとして扇三本を送り、詳しいことは大蔵少輔から申し伝えるとする。
九月廿六日 / 冊子 4頁
近衛信尹が、龍山から相手方へ送られた書状を披見したことを伝え、長らく音信が途絶えていたことへの遺憾を述べた書状。見参のしるしとして扇三本を送り、詳しいことは大蔵少輔が申し伝えるとする。
十月廿八日 / 冊子 222頁
細川藤孝が島津陸奥守・修理大夫に、公儀の異例の事態と一乗院殿の退座を受け、近国出勢の命令に従って忠功を尽くすよう求めた副状。足利義昭の御内書と使者上野大蔵入道の派遣を伝える。
五月十七日 / 冊子 303~304頁
見舞いの使札と砂糖一桶百斤・煙硝二桶二百斤を受け、秀頼へ披露すると大いに喜ばれたと報告し、大蔵卿局からも使者が来たことや、使者へ雉子二羽を与えたことを伝えた片桐且元書状。
(慶長四年)九月廿一日 / 冊子 439頁
島津惟新が少将に、大坂では難しい問題が起きたものの当面は異変がなく、内府の懇切な配慮も変わらないと伝える。内府が大坂に在るとの取り決めや伏見の諸侍への通達見込み、庄内の処置が定まらず案じていることを述べ、使者の口上を聞いて取り計らうよう頼む。
年月日未詳 / 冊子 646頁
島津義弘(惟新)勢が四国衆の陣を通過する際、敵味方の別が定かでない長宗我部らへ伊勢平左衛門を使者として送り、島津勢が退却中である旨を伝えた経緯を記す。使者は相手が逆心ならその場で討死する覚悟で臨み、陣中の者は立ち向かわず、後醍院喜兵衛も敵方の者に再会の証拠として命を助けると告げた。
元和六年三月十九日 / 冊子 645頁
吉松中津川村内の松蘭屋敷について、知行名寄を記した帳面。
承安二年十二月八日 / 冊子 27~28頁
入道西念が、薩摩国満家院内の四至で示した所領を大蔵義平へ永代譲与した譲状。関係証文を整え、他人の妨げなく領知し、子息らも処分帳に従って支配するよう定めた。
寛文五年正月吉日 / 冊子 500頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1103
久木田内蔵衛門らが、島津光久から受けた重い厚恩には現世で報い尽くせないため来世まで奉公したいと述べ、新納大蔵を通じて申し上げた趣旨に偽りがないことを誓った起請文前書。
元禄十六年十一月二十五日 / 冊子 447–448頁/整理ID 1534
嶋津淡路守惟久が嶋津大蔵へ、家来宇宿傳左衛門(久明と傍注)と三角太兵衛に不届きがあったため、今二十五日に暇を出し、御分国と日向国から追放して他家奉公を禁じたと通知する。中将へ伝え、宛先の家中にも二人を召し抱えないよう周知してほしいと頼む。十一月二十五日付。
文永元年十月十一日 / 冊子 17~18頁/原整理番号 200
沙弥見仏が三郎大蔵種忠に、薩摩郡内の名田・村々など相伝の所領を譲った譲状。譲与地を列挙し、子孫に至るまで妨げなく領掌させること、譲状の趣旨に背く場合の扱いなどを定める。文永元年十月十一日付。
永禄十年十一月廿三日~廿四日 / 冊子 171頁
永禄十年十一月二十三日からの馬越城攻めに従軍した将兵を、義弘・歳久の指揮下に分けて列挙した交名。戦功を挙げた者に加え、辻大蔵左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、新納九郎らには戦死の注記を付す。
天正元年正月六日~十一月 / 冊子 296~297頁
天正元年の島津方戦死者を日付別に列記する。正月六日の住吉原合戦で河野主税良次・田原大蔵信秀ら、三月十八日の西俣合戦で禰寝重長臣野間武藤守以下約三百人、早崎関係では肥後平次郎・桑波田孫太郎・河野玄蕃允らを掲げるほか、七月・十一月などの戦死・殉死者を多数収録する。
年月日未詳 / 冊子 75頁
天正十三年閏八月十三日の肥後甲佐・堅志田城攻めで、樺山久高が城門へ進み、防戦する敵兵と交戦した記事。高田中軍兵衛・森山主計が各一人を討ち、高崎大蔵兵衛正顕が首級を挙げるなど、久高配下の戦功を具体的に列挙する。
天正20年5月8日~6月24日 / 冊子 574~577頁
天正二十年五月八日、島津義弘一行が鹿児島を発ち、伊集院・串木野を経て朝鮮渡海へ向かうまでを日次で記す。御座船の造作と乗組、兵糧・酒・武具・馬の積載、祈祷や送別の寄合、各地の地頭・代官・僧侶・使者との応接が細かく記録される。平戸・壱岐方面の航海では風待ち、暴風、停泊、船の破損が相次ぎ、石田三成・長束大蔵らの書状や贈物、船団の進退も逐一記す。海外派兵を支えた船舶運用・物資調達・通信・儀礼と、海上移動の危険を同時に追える詳細な行程日記である。
年月日未詳 / 冊子 32頁
本田助之丞家蔵文書に収める、近衛信輔が庄内都城で興行した和歌会の作品群。「松蔭新涼」「秋日同詠松蔭新涼和歌」などを題に、近衛信輔、龍伯、大蔵少輔長治、左衛門尉長家ほか島津家臣らが、松陰・秋風・露・涼しさを詠んだ。
慶長十四年八月十六日 / 冊子 391頁
大山稲介が町田勝兵衛尉に、八歳で島津久保に従って朝鮮へ渡り、二十歳で帰朝した経歴を述べる。庄内山田城攻めでは長寿院の組下で普請と仕寄に従事し、志和知・大手口の垂れの一つを焼き落としたこと、山の口では椎之大蔵・谷山次郎右衛門尉・伊地知民部少輔らと籠り合い、戦う出家を突き伏せて奉公した戦功を覚書として報告する。
(慶長四年)十月六日 / 冊子 455頁
島津義久が兵庫入道に、内府の使者が無事上国したことを喜び、毛利輝元から伝えられた大坂での置目の詳細と山口勘兵衛への書状取次ぎを求める。庄内では源二郎が和議後に違変したため二日に志和池境へ着陣し、財部口へ出した兵が敵四、五人を討った一方、平田三五郎・宮内式部左衛門が戦死し、吉田大蔵が深手を負ったこと、寺沢殿の到着予定、江戸中納言使者の下向、宰相殿の病状を報じる。
庚午9月大蔵省/閏10月12日知政所(朱注明治3年) / 冊子 765頁/原整理番号 982の16/整理ID 982-16
原「銀壱弐分金」の引替は、前年の巳年に千両につき三拾両の扱いで期限を定め、その後も早く差し出すよう三月に通知していたが、残額があるとして改めて提出を求める。提出の際限を設けていなかったため、来る十二月十五日を引替の期限とし、その後は引替をしない。各管轄に漏れなく告示するよう命じる。庚午九月大蔵省。閏十月十二日知政所が別紙のとおり朝廷から伝えられた旨を知らせる。明治三年の朱注がある。貨幣呼称と千両・三拾両の対応は原記載による。
文治三年七月日 / 冊子 60~61頁
大蔵種章が薩摩国山田村の所領・田畠をめぐり、先祖相伝の理を述べ、違乱の停止と安堵を求めた解状。
嘉禎四年十二月日 / 冊子 172頁
八幡新田宮権大宮司大蔵種良が、名主代成俊の訴えに対し、水田五段をめぐる先祖の譲り・本所裁許・名主領有、国衙領との境界や公事負担を挙げて反論した陳状。
正応六年六月六日 / 冊子 375頁
薩摩国御家人大蔵種忠が、五月三日に関東早馬の下着を受け、異国警固のため馳せ参じたことを証する延時氏文書。
元亨四年十月一日 / 冊子 523頁
関東御軍事により市来院河上へ馳参したことを届け、着到を披露するよう求めた高岡大河上氏こと大蔵家久の着到状。
嘉暦四年七月日 / 冊子 563~564頁
橋口次郎入道道円の女子大蔵氏が、阿多郡北方高橋郷の所用・得分をめぐり重ねて訴えた申状。父道円以来の知行、先行下知・請文、相手方の押領を挙げ、所領を回復して裁許するよう求める。
観応元年八月廿一日 / 冊子 796頁
大蔵頼平が、八月十八日の薩摩国郡山城合戦で大隅助三郎入道以下の凶徒と戦った軍忠を申す。親類小山田彦五郎の射傷、左衛門次郎・森五郎三郎らの負傷や討死、比志島孫太郎らとの合戦経過を列挙し、後日の証拠として御判を求めた軍忠状。
五月廿三日 / 冊子 114頁
島津大和久章の家臣伊地知大蔵丞が京都の御蔵奉行衆へ、久章の行方不明後に荷物を改めた際、見当たらなかった品々を列記した覚書。刀・脇指など複数の武具と拵、小袖六、帷子五、上下、蒲団、毛氈、硯、銀子百四十二匁五分などを挙げ、ほかにも持ち出された物がある可能性を記している。本文注記では島津光久譜にないとする。
正徳2年8月・正徳3年11月(先例)。末記2月、独立年記なし / 冊子 295頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0073
正徳2年8月、故薩摩守吉貴が留守差置家老嶋津内記の代わりとして嶋津大蔵を国元から差し越し、御目見願のとおり命じられた例を記す。内記に久貫、大蔵に久明の注がある。また正徳3年11月、その大蔵の代わりとして嶋津帯刀を国元から差し越し、同様であったと掲げ、帯刀に仲休の注を付す。末に2月の記載。現行標題の嶋津内蔵は本文の内記へ訂正し、内記から大蔵、大蔵から帯刀という二度の交替を分ける。文化5年の安房御目見が許可されたとの記録ではなく、提出された正徳期の先例書。