島津武久書状
年月日未詳 / 冊子 493頁
島津武久が飯尾前大和守・布施下野守に、琉球国からの渡海船を先例どおり取り扱うこと、御奉書の趣旨に従うことを述べ、公私の事や讒言・凶書を互いに隠さず知らせるよう求めた書状。
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年月日未詳 / 冊子 493頁
島津武久が飯尾前大和守・布施下野守に、琉球国からの渡海船を先例どおり取り扱うこと、御奉書の趣旨に従うことを述べ、公私の事や讒言・凶書を互いに隠さず知らせるよう求めた書状。
永正九年閏四月六日 / 冊子 601頁
島津忠治が祢寝大和守に、指宿院について従来の知行を踏まえ、内々の相談が決着した時に宛行う旨を示し、忠儀を守るよう命じた安堵状。
大永八年九月十日 / 冊子 695頁
島津勝久が菱刈大和守の忠節に報い、薩摩国牛尿院内の青木・長尾両名を宛行った書状。
応永六年十一月十九日 / 冊子 185頁
大和守直久が樺山殿へ、堅い親交を誓い、大小の事に用立つことを約束し、偽りがあれば伊勢天照大神・正八幡大菩薩・大明神の罰を受けるとした契状。
天正六年八月吉日 / 冊子 547~548頁
佐多大和守・寄田内記允・市来加賀守が専修寺へ、天正三年に近衛前久が出水へ下向した際の接待を賞して勅願所とする旨が示され、天正六年に綸旨を頂戴したことを祝う。前代未聞の栄誉で永代の亀鑑になると述べ、島津義虎も大いに喜んでいると伝えた連署状。
寛永十七年五月廿六日 / 冊子 74~76頁/原整理番号 29
大和守久章が五月十七日に京都三条宿を出て帰らなかった件について、従者二人、持ち出した腰物・衣類・箱、宿の手配、茶屋や宿の亭主への聞き取り、京都各地を分担した捜索を箇条書きにする。宿からの行方を確認できないまま五月二十六日に伊地知重政・相良権兵衛尉が連署した調査記録。
応安元年八月十二日 / 冊子 52頁
正八幡宮の法眼・大和守が、御供所職の任料用途三十貫文を受領したことを証した請取状。
年月日未詳 / 冊子 66頁
応安六年三月一日に岩河大和守盛久が日向国簑原で戦死したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 267頁
伊東大和守が山東曾井方面へ侵攻したため、北郷知久が樺山・和田・高木諸氏と迎撃した合戦記事。伊東軍の攻撃で島津方に死傷者が出るなか、島津久豊率いる薩摩・大隅勢が救援に到着し、敵を退却させた。追撃後、参戦した伊集院・蒲生諸氏らへ恩賞・所領処置を行うまでを記す。
七月十七日 / 冊子 502頁
足利義政が島津陸奥守に、参洛に向けた奔走を評価し、光通蔵重に関する措置を速やかに命じ、伊東大和守の件も処理するよう伝えた御内書。
年月日未詳 / 冊子 541~542頁
種子島氏家臣知覧氏の系図記事。島津久逸方の戦い、島津忠朝と新納忠武の関係を述べ、加治木大和守が帖佐城を奪取すると島津忠昌が加治木を攻めた経過を記す。降伏後の阿多移封までを追い、園田新右衛門・川山忠直ら知覧氏関係者の軍歴と所領移動を示す。
年月日未詳 / 冊子 568頁
明応四年六月二十九日、加治木大和守の反抗を受けて帖佐城・加治木城をめぐる軍事行動が起こり、樺山氏側の動向を記した島津忠昌譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 570頁
明応五年二月、加治木大和守の城が落ち、加治木大和守が阿多城へ移ったことを記す島津忠昌譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 600頁
永正九年閏四月六日、島津忠治が祢寝大和守尊重に関して下した処置を記す島津国史の記事。
十二月十三日 / 冊子 615頁
大内義輿が島津忠隆に、分国へ帰還した事情を述べ、御内書の趣旨に従い伊東大和守と相談して忠節を尽くすよう求めた書状。
大永九年三月廿四日 / 冊子 699頁
岩出輔共・東郷重随が牧田吉右衛門尉に、篠原口合戦で一階堂大和守を射た忠功を認め、子孫まで相違なく扱うと証した連署状。
年月日未詳 / 冊子 715頁
伊作方が南郷城を奪取して永吉と改称したころ、樺山玄佐が忍んで山野を越え、伊集院大和守まで使者を送り、変わらぬ忠節を通じたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 732頁
天文四年、貴久が人知れず鹿児島へ帰り、川上大和守らの動きとともに市中へ火が放たれ、煙が七日間絶えなかったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 773頁
この頃、伊集院大和守が鹿児島の上之山を手に入れて自ら移住したことを、千秋万歳の吉兆として記す。
年月日未詳 / 冊子 773頁
島津貴久が上之山へ出陣し、紫原で谷山勢と戦った経過を樺山玄佐が記す。平田備中守・阿多源太左衛門らが敵を敗走させ、夜中に城を攻撃した。神前への守備指示、伊集院大和守との交渉、使者派遣を通じて翌段階の攻城準備を進めた。
年月日未詳 / 冊子 777頁
多田紀伊介が兄とともに伊集院大和守の近侍となり、稲荷宮修理をめぐる密談から謀計を察知して日新公へ報告し、城方の計略を退ける助けとなった経緯を記す。
永禄十二年十一月十三日 / 冊子 228頁
伊集院大和守沙弥孤舟が、給分として宛行われた薩摩国鹿児島郡西田名の水田二段を来世のため笑岳寺へ寄進し、義久の判を受けた文書。転変で西田の土地が失われても、竹崎の水田二段は相違なく確保すると保証する。
年月日未詳 / 冊子 319頁
島津家久譜の記事。寛永九年九月八日、家久が通常どおり拝謝し、公が千石大和守を介して美濃柿一筥を家久に賜ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 18~19頁
肝付兼続が、当家へ忠節を尽くした安楽大和守の筋目を踏まえ、安楽因幡守を二男として扶持すべき旨を認めた証状。先神領のうち借屋之門と同屋敷二所を与え、社頭の儀に異議がないよう定めて証文を渡す。
七月十七日 / 冊子 221頁
足利義政が島津陸奥守の参洛に向けた内々の奔走を賞し、厳重に実行するよう指示した御内書。光通蔵主に申し含めた子細を速やかに下知し、伊東大和守の件も申し付けるよう命じる。
永禄三年六月朔日 / 冊子 342頁
島津貴久が講堂完成の報を喜び、完成までの力添えを依頼した書状。伊集院大和守を担当として申し付けるので、郷衆と協力し、分国の面目を損なわないよう尽力することを求める。
四月廿三日 / 冊子 346頁
島津忠良が本田殿へ、久しく音信がなかったところ懇書を受けたことを喜び、伊集院大和守と継続して相談することが第一だと伝えた返書。贈られた珍物の羔羊にも謝意を述べる。
貞治五年正月廿六日 / 冊子 43~44頁
正八幡宮領家が、御供所職を管領する前権執印永賢の任料未納について厳密に催促し、先例どおり所定数を速やかに納めさせるよう命じた下文。
延徳二年二月十四日 / 冊子 547~548頁
延徳二年二月十四日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を列挙した記録。本文の一覧は冊子五百四十七頁から五百四十八頁へ続く。
延徳二年三月卅日 / 冊子 549頁
延徳二年三月三十日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人の疋数を一覧にした記録。
延徳二年四月朔日 / 冊子 550頁
延徳二年四月朔日に福島で行われた犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者と成績を疋数で示した一覧。
延徳二年四月四日 / 冊子 550頁
延徳二年四月四日に志布志で行われた犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を記録した一覧。
延徳二年四月十八日 / 冊子 551頁
延徳二年四月十八日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を記した一覧。
年月日未詳 / 冊子 568~569頁
明応四年六月末から七月初めの加治木方との合戦について、喜入忠弘らが坂口の守備・反撃にあたり、敵を討ち退けた経緯を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 725頁
天文三年十月二十五日前後、末弘伯耆守ら家臣の動向を受けて勝久が鹿児島を去り福昌寺方面へ移ったこと、実久と連判衆の対立・乱入、鹿児島で七日間続いた放火により勝久が退去を余儀なくされた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 850頁
天文十七年、本田紀伊守父子の崩落、北原衆の奔籠、清水新城の攻防など、当年の戦乱を日付順に記す。
天文廿一年八月六日 / 冊子 901頁
島津貴久が大友方の重臣らに、日州千戈の儀をめぐる当家の妨げが深刻であるとして、宗綱への取り次ぎと堅固な申し談じを求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 901頁
島津貴久が大友方の重臣らに、飛脚の件や肥後の情勢、伊東氏の侵入をめぐる不和について申し談じ、宗綱への取り次ぎを求めた書状案。
元禄三年一月十三日 / 冊子 852~853頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2267
綱貴が内藤大和守方へ、公方の健勝を喜び、同姓修理大夫が旧臘に元服し侍従を命じられたことへの謝意を述べる。奉書を受けて修理大夫が差し上げる使者の扱いについて差図を求め、太刀・馬代黄金十両・時服十を祝儀の印として進覧する。
元禄三年二月廿六日 / 冊子 853頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2271
島津綱貴が内藤大和守へ、同姓修理大夫吉貴の任官に際し、使者が宣旨・口宣を頂戴できたのは取持ちによるとして謝意を述べた書状。
宝暦十三年四月二十四日 / 冊子 980頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2795
松平薩摩守内の有川勇馬が四月二十四日、大御目付筒井大和守へ、無官の嫡子が御目見の際に綸熨斗目・白無垢を着用した先例、また老中の前で公の儀礼に臨む際の同様の先例を尋ねられた件について答える。薩摩守は無官の間、その装束を着用しなかったと報告する。
天明二年二月二十二日 / 冊子 654~657頁/原整理番号 1864/整理ID 1864
御縁女への冬から年頭にかけての献上品は先に伺って定めたので、以後の年中献上品も調べ、添えた例書に従ってよいか差図を求める。天明二年二月二十二日付、松平薩摩守名。御付紙には初雪の温飩について指示があり、その他は伺書の通りとする。別紙には在国・在府、参勤・帰国や上巳・端午・七夕・八朔・重陽・初雪などの時節に応じた献上例を二通り掲げる。例示品には御雛一対、白銀十枚、琉球製品、鯛、香類、色絹縮十端、砂糖漬天門冬、砂糖泡盛酒、御樽重などがある。同じ時節の別案を含む例書であり、品目・数量を実際の献上済み総数とはしない。後記には御留守居矢野清右衛門を通じて久世大和守方へ書付を差し出し、二月二十八日に付紙を受け取った経緯を記す。
天明三年五月十六日 / 冊子 691~692頁/原整理番号 1957/整理ID 1957
重豪は三月に帰国の暇を与えられたが脚痛で出発を延期し、下屋敷で歩行を試して養生しても回復しなかった。医師も暑中の長旅は無覚束ないとしたため、秋まで滞府して療養し、途中で快復すれば早速出発すると願った。天明三年五月十六日付。本城源七郎を通じ久世大和守へ提出し、同廿一日、矢野清右衛門が出向いて願いどおり滞府してよいとの付紙回答を受けたと注記する。
天明三年八月廿日 / 冊子 701頁/原整理番号 1975/整理ID 1975
重豪は脚痛のため秋まで江戸に滞在することを許されていたが、少し快方に向かったので近日出発すると届けた。天明三年八月廿日付。注記によれば、同日、留守居本城源七郎を通じて御用番久世大和守へ提出した。
天明四年閏正月十六日 / 冊子 731頁/原整理番号 2062/整理ID 2062
公方と大納言が機嫌よく過ごしていることを喜ぶ。宿次奉書により御鷹の鶴を拝領したため、御礼を申し上げる使者として平田平太左衛門位就を江戸へ差し上せ、これに伴って目録どおりの品を献上するので、しかるべく取り成すよう求める。天明四年閏正月十六日、島津重豪から松平周防守・田沼主殿頭・久世大和守へ宛てた書状。
天明四年閏正月十六日 / 冊子 732頁/原整理番号 2064/整理ID 2064
今月七日付の宿次奉書が十六日に近江国高宮駅へ到来したので拝見し、公方と大納言が機嫌よく過ごしていることを喜ぶ。御鷹の鶴を拝領したことをありがたく思い、その請けを申し上げるため書状を送り、この趣旨をしかるべく取り成すよう求める。天明四年閏正月十六日、島津重豪から松平周防守・田沼主殿頭・久世大和守へ宛てた書状。
天明四年七月二十九日 / 冊子 746頁/原整理番号 2103/整理ID 2103
島津重豪が、妾腹の娘が病死したため、七歳未満の先例に従い翌月朔日まで三日間遠慮すると届ける。七月二十九日早朝に留守居渋谷五郎右衛門を通じて御用番久世大和守へ提出し、牧姫の死去について西丸老中鳥居丹波守へも口頭で伝えた。西丸への届出は通常の先例にはないが、当時の縁女との関係から行ったと記す。
年月日未詳 / 冊子 209頁
島津久豊が穂佐高城へ移り、池尻・白糸・細江の諸城へ勇鋭の士を配して守備を固めた経過を記す島津恕翁譜。伊東大和守祐堯方との対立から城郭戦が起こり、本田小太郎・綾縫殿助らが戦死した。複数拠点による防衛網の形成と、伊東勢の侵攻に伴う人的損害を伝える。
年月日未詳 / 冊子 209頁
島津忠国について、初名を久、通称を又三郎、官途を修理亮・陸奥守とし、応永十年五月二日に穂佐高城で生まれ、母は伊東大和守祐堯の娘であったことを記す系図。
年月日未詳 / 冊子 306頁
応永二十五年正月、伊東大和守祐立との盟約を背景に、島津方が伊作・阿多勢を組織して敵対勢力へ対処した記事。援軍派遣、宿陣、戦闘と損害、各氏の帰順・離反を記し、次の伊東祐立契状へ続く経緯を示す。