新納忠元書状
七月五日 / 冊子 29頁
新納忠元が、鎌田少外記から度々申し越された勘左衛門尉の件に返答した書状。二人の意向を聞き取り、その事情に応じて取り成すと伝える。
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七月五日 / 冊子 29頁
新納忠元が、鎌田少外記から度々申し越された勘左衛門尉の件に返答した書状。二人の意向を聞き取り、その事情に応じて取り成すと伝える。
十一月廿四日 / 冊子 29頁
新納忠元が、鎌田少外記と同名の外記殿に仕える内衆を返す件について回答した書状。外記殿の意向を詳しく確認するため留めていたが、異議がない旨の一通を受け取れば、本人にも帰るよう固く申し付けると伝える。
五月廿五日 / 冊子 29~30頁
新納忠元が、鎌田少外記の被官に関する件へ返答した書状。池上藤右衛門尉の書状も添えられ、勘左衛門尉の意見や成敗の意向を承知したとし、頼って来た者の申し分を踏まえた回答と、詳細は使者から説明させる旨を伝える。
六月廿日 / 冊子 30頁
新納忠元が、先日から続く被官の処遇について再度返答した書状。成敗を恐れて自分を頼った者が、今後は油断なく奉公すると申し立てているため、召し置くならまず糺明し、決着後に相談したうえで返すと伝える。
八月五日 / 冊子 30頁
新納忠元が、自分を頼って来た者を直ちに返すのは難しいため、何とか取り成す考えを述べた書状。詳しい使者を出すとの先の返事に対し、当地の祭礼で取り紛れて遅れたが、近日中に必ず使者を送ると約束する。
十二月三日 / 冊子 30~31頁
新納忠元が、頼って来ていた者を園田狩野介方へ返す件について回答した書状。使者を通じて相談した内容に相違はなく、園田狩野介へ連絡して帰すと伝え、狩野介が留守だったため返事が遅れたことを詫びる。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 194~195頁
小苗代原へ出た新納忠元が薬師堂を拝み、堂の板へ歌を書こうとしている間に敵が迫り、家臣久保筑左衛門・尾崎能登に引き下ろされたことを記す。忠元は白坂口で八代の的場五藤兵衛と太刀で戦って顔にも傷を負い、春成外記が弓で敵を射伏せた。求麻方の東藤左衛門・愛甲助三郎らが突入したが、鎌田壱岐守らが討ち取り、寄手は退いた。
年月日未詳 / 冊子 190頁
二月、秀忠が隅田川辺で鳥銃により得た白鳥を内藤外記を介して家久へ与え、家久が登城して謝したこと、二十一日に山里の数寄屋で家久が正客を務めたこと、二十二日に駿河蜜柑一箱を拝領したことを記す家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 190頁
二月十二日、秀忠が使番を通じて御鷹と鳥二羽を家久へ与え、家久が西丸へ参上して謝したこと、十八日には病気の家久へ内藤外記を介して枝柿一箱を見舞いとして贈ったことを記す家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 205頁
大御所秀忠が内藤外記を使者として、御鷹の獲物三十羽を家久に下賜し、家久がすぐに登営して拝謝したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 214頁
五月十日、大御所秀忠が内藤外記を使者として鮎の鮮魚を家久に下賜し、家久が常範を通じて拝謝したことを記す。
三月十三日 / 冊子 31頁
新納忠元が、鎌田玄蕃允から届いた書状の日付と到着日に隔たりがあることを不審とし、眼病のため印判を用いたと断った書状。同名の外記殿の内衆について以前に返答していたが、外記殿の急逝後に事情が改まったため、本人の申し分を十分に聞き届けるよう求める。
二月廿三日 / 冊子 31~32頁
新納忠元が、長菊殿の被官をめぐる再度の問い合わせに答えた書状。当人は暇を得て日向へ赴き不在なので、帰還後に存分を聞いて返答するとし、以前に外記殿から成敗の内意を承っていた経緯も踏まえ、事実を聞き届けた後に相談すると伝える。
(寛永七年)九月廿四日 / 冊子 171~172頁
比志島宮内の改易前後に、反抗・野心を疑われた者たちから同心を求められたが、道理に合わないため一貫して拒んだと述べる弁明の覚書。鹿児島の人数、町への配置、上洛時の進言、密事の注進、船での逃亡情報など複数の案件を列挙し、自身の忠節を説明する。
(寛永八年)十二月廿四日 / 冊子 254~255頁
伊勢貞昌が、国許から江戸へ運ばれた進上鷹は道中の取扱いもよく到着し、鷹方の者が褒賞されたことを報告する。さらに、相国(徳川秀忠)が病中であるため鷹進上の扱いを土井利勝に相談し、将軍方の鷹部屋に繋いだこと、日向産の鷹は近代まれで、幕府側で見分され喜ばれたことを伝えた書状。
元亀三年三月中旬 / 冊子 262頁
元亀三年三月中旬の岩瀬戸口合戦に参加した島津方の将兵を列記する。川上上野守・肝付弾正忠兼盛・野村兵部少輔・樺山兵部太輔・上原長門守・鎌田少外記のほか、猿渡越中守・喜入摂津守、島津右馬頭歳久・島津図書頭忠長らを掲げる。
元亀三年九月廿七日~天正元年三月十八日 / 冊子 294頁
元亀三年九月二十七日の垂水早崎陣と、その後の禰寝・肝付方面の軍事・交渉に関与した将兵を列記する。大将島津歳久、肝付兼寛・鎌田外記・伊集院久春・上原尚近らのほか、禰寝重長との密議・和議を担った宝持院・八木越後守、新納忠元ら、天正元年三月十八日の西俣合戦で働いた島津忠長・樺山規久らを掲げる。
年月日未詳 / 冊子 502頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1111
島津綱久の男子十九人のうち島津外記が、寛文五年三月二十八日に隅州桜島で家の女房を母として誕生したことを記す系譜記事。
元禄十二年八月十八日 / 冊子 148–150頁/整理ID 523
神宮司外記ほか佐土原側五名が家老五名へ、島津左京の上野中堂御手伝で生じた借金、扶助米五千石と運賃米七百石、銀への換算、十年年賦による返済、知行・扶持方の削減、家中倹約を整理して申し上げた口上覚。新たな借金を避け、家老が正道を守って家中を統制し、財政を立て直す方針を示す。
元禄十二年八月十八日 / 冊子 150–151頁/整理ID 525
神宮司外記ら計五名が高橋左門・野村太左衛門へ、島津左京方が銀五百五十六貫目と米五千石を借りたことを証した連署証文。米は一石六十匁替で代銀三百貫目、二口合計銀八百五十六貫目とする。来辰年から毎年銀八十五貫六百目ずつ十年年賦、毎年極月までに大坂御蔵屋敷へ滞りなく返すと定める。神宮寺外記の署には司との傍注がある。
永禄十一年二月廿八日~三月廿三日 / 冊子 192~193頁
永禄十一年二月二十八日、小苗代原で敵が不意に出た際、新納忠元が薬師堂の板に詩句を書き終えるまで動かず、家臣久保勝八に引き退かされた直後、竹添丹後守の鑓で左脇を突かれた逸話を載せる。忠元はなお敵三人を討ち、自身も六箇所の傷を負ったため、貴久から使者を通じて感賞と見舞いを受けた。三月二十三日の曽木・市山攻撃では、未平癒ながら出陣し白坂と永福寺口の守備を指揮した。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 194頁
永禄十一年二月二十八日、小苗代原で大口方の大軍と戦った経過を詳述する。肝付兼寛が諸軍を指揮し、新納久継が負傷、鎌田政年が敵中で下知を行い、面高真連坊が鉄砲で敵将牧野を倒した。新納忠元は白坂口で的場五藤と戦って数箇所の傷を負い、求麻方の勇士三名を守兵が討った後、貴久の使者から軍忠と市山在番への感謝を伝えられた。
元亀三年三月中旬 / 冊子 262~263頁
禰寝重武が伊東・肝付・伊地知方から離れて島津方への忠勤と番兵派遣を願い、島津歳久・忠長を大将とする三千余騎が禰寝へ渡った経緯を記す。元亀三年三月中旬、大姶良方面で敵の誘撃を受け一時混乱したが、歳久・忠長の八百余騎が横撃して敵を破り、重武は幼い息子を人質として差し出した。
元亀三年三月中旬 / 冊子 263~264頁
禰寝重武が島津方へ帰順し、元亀三年三月中旬に伊東・肝付・伊地知方と戦った経緯を詳述する。大姶良方面では島津歳久・忠長らの反撃で敵を退け、重武の子を人質として境目の城々に番兵を置いた。のち敵が小禰寝の浜城を落とすと、喜入図書助・小四郎兄弟らが戦死し、岩瀬戸口で島津方が追撃して多数を討ち取った。
天正元年三月十日~十八日 / 冊子 302頁
天正元年三月十日、薩隅軍が禰寝城へ入り、義久は指宿に進んで肝付兼続討伐を指揮した。十四日は大雨で戦えず高洲浦の船を奪って帰り、十八日に西俣で肝付勢と交戦した。歳久・忠長らが奮戦して敵を破り、禰寝重長も参戦して凱歌をあげた。重長はのち指宿で義久に謁し、鹿児島で数日饗応を受け、横尾合戦では敵五十余人を討ったとする。
天正二年七月廿日 / 冊子 342頁
天正二年七月二十日に催された『賦何船連歌』の連衆交名で、義久をはじめ僧俗の参加者と役・句数を列挙する。発句『ふく風やこ与ろの秋のま莱右』を掲げる。
「寛永十七年」七月十二日 / 冊子 130~131頁
高力摂津守忠房が島津家の重臣らへ、相良壹岐守家中で起きた騒動を報じた書状。江戸からの使者神瀬外記が犬童孫太郎の旧職復帰を申し渡そうとしたところ、犬童牛兵衛側が使者を捕らえて成敗し、清兵衛屋敷へ一門・与力が走り込んで楯籠ったことを伝える。関係者が薩摩へ逃げ込んだ場合は直ちに捕縛し、相良方へ引き渡すよう求めている。
年月日未詳 / 冊子 334頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0719
四月十六日から二十日まで東叡山で家光の七年忌法会が営まれ、光久が家臣桂外記忠守を使者として、香奠銀三十枚を尊霊の前に献じたとする。
(明暦三年)五月朔日 / 冊子 338頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0725
久茂が国元役人六人へ、神尾備前守・矢部藤九郎の書状を取り次ぐ。東叡山で十六日から二十日まで営まれた大猷院七年忌法事には桂外記を使者とし、香奠として隅州様から銀三十枚、薩州様から五枚を献じ、首尾よく受納され奉書が出たと報じる。外記の帰国と口頭説明を伝え、末注に六月十一日桂外記持下とある。
(寛文十年)八月十五日 / 冊子 566頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1341
稲葉正則が島津光久へ、島津外記が願いどおり将軍への御目見を無事に済ませ、礼を申し上げたとの報告を承知し、その礼使派遣について老中間で相談して将軍へ言上すると答えた書状。
(寛文十一年)二月九日 / 冊子 576頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1380
島津光久が、島津外記の跡目を島津権十郎に継がせるよう命じた仰出。庄内の事情が未解決であるため当面の措置とし、後見人を選んで政務を改めさせる一方、代々忠節を尽くした北郷家の血筋が断絶するのは本意でないので、後日適任者を選んで血統を立てる可能性があることも承知させるよう命じた。
年月日未詳 / 冊子 756頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1984
光久公御譜中に、貞享三年四月十二日に帰国を許され恩賜を受け、四月二十五日に江戸を辞し、大坂・京泊を経て七月朔日に帰城したことと、家老・用人の随行を記す。家臣桂外記忠剰が命を受け江府へ至り、九月朔日に恒例の錬芭蕉百端・塩鯛一箱・するめ(原鰑)一箱・昆布一箱・樽二荷を献上し、将軍が光久の使者に恒例どおり恩給した。
(貞享三年)八月廿九日 / 冊子 780~781頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2035
大久保忠朝が松平大隅守留守居へ、大隅守の帰国御礼使者である桂外記を翌朝五時以前に江戸城へ出仕させ、外記自身の御礼も申し上げるよう伝達を命じた書状。
(貞享三年)九月四日 / 冊子 781頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2036
大久保忠朝が松平大隅守留守居へ、桂外記を翌五日の四時に江戸城へ出仕させるよう伝達を命じた書状。
明和元年 十一月十三日 / 冊子 30~31頁/原整理番号 115/整理ID 115
左近衛権少将源朝臣重豪について、正二位行権大納言藤原朝臣兼胤が勅を奉じて左近衛権中将に転任させる旨を宣する。明和元年十一月十三日付、大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師資が奉じる。本文は冊子三十頁下段から三十一頁上段へ続く。出典注は正文在文庫。
安永四年乙未、四月二十一日~十一月十三日の記事 / 冊子 454頁/原整理番号 1260/整理ID 1260
安永四年乙未、重豪が疱瘡を患ったことと、この年から目附を二年交承で三都へ遣わすようになったことを記す。四月二十一日に芝邸を発ち、六月四日に府城へ到着、十六日に玉松二山へ帰着を告げ、十八日に山下・築地と注す両館を訪れた。二十日は南泉廟、二十一日は垂水第、二十二日は尾畔、二十四日は花城第に赴き、七月十五日に玉松両廟へ謁したと列記する。七月二十七日には家老河野外記の職を免じ、廩米百苞を与えて終身食することを命じた。二十八日に赤松造酒則正を家老とし、二十九日には家老川田伊織國福の職を免じ、禄百石を与えて終身食するとする。百苞と百石の対象と単位を分ける。八月六日は伊集院で、九日と十五日は伊敷で放鷹し、十八日に市正宅、二十九日に兵庫茶亭に赴いたと記す。市正には山岡久澄、兵庫には島津久徴の注がある。十一月十三日に演武館へ臨み犬追物を観た。恤畜令以後は書伝を講ずるだけになり、技は久しく廃れていたが、公命で復興し観るべきものとなったと説明し、中興と評する。出典は朱の近秘野艸。原の交承、玉松、恤畜令などの語を保持し、目附の派遣先三都や寺廟を別の地名・施設名へ補って特定しない。
天明四年十月十八日 / 冊子 765頁/原整理番号 2143/整理ID 2143
浄岸院十三回忌に際し、御部屋から附用人小笠原外記を使者として香奠銀五枚が贈られ、附紙臺と目録が添えられたことを知らせる。江戸側の取持ちは表向・内証とも先例どおり済ませたので、将軍からの香奠等と同じ箱に入れて国許へ送る。御牌前への供備と国許への通知も先例どおり整えるよう命じる十月十八日付の家老連署書状。
文化6年12月16日 / 冊子 341頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1064
侍従源朝臣斉興と掲げ、正二位行権大納言源朝臣有庸が宣し、勅を奉じて件人を左近衛権少将に任じるよう命じる。文化6年12月16日、大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師賛奉との表示を原表記で採録する。1063と同日の任官関係文だが、宣する者・奉者と文型を別に保持し、1063の藤原隆純を本件奉者へ移さない。
嘉永五年十二月十六日 / 冊子 136頁/原整理番号 199の4/整理ID 199-4
左近衛権少将の源朝臣斉彬を左近衛権中将に転任させる宣旨。正二位行権大納言藤原朝臣實萬が宣を奉じ、件の人を転任させる旨を述べる。嘉永五年十二月十六日付で大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣の官称を記す。
安政6年2月7日 / 冊子 203~204頁/原整理番号 285の1/整理ID 285-1
旧御番所御文書四番箱中の侍従任命宣旨。従四位下源朝臣茂久について、正二位行権大納言藤原朝臣忠能が勅を奉じ、侍従に任ずべき旨を宣する。安政六年二月七日、大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師身が奉る。一通と記し、奉者名は次頁に続く。
安政6年2月7日 / 冊子 204頁/原整理番号 285の3/整理ID 285-3
従五位下源朝臣茂久について、正二位行権大納言藤原朝臣忠能が勅を奉じ、修理大夫に任ずべき旨を宣する一通。安政六年二月七日、大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師身が奉る。ここでは対象者の位階を従五位下と記しており、同日の侍従宣旨や御系図記事の従四位下とは原表記を分けて保持する。
安政6年2月7日 / 冊子 204頁/原整理番号 285の5/整理ID 285-5
侍従源朝臣茂久について、正二位行権大納言兼右近衛大将源朝臣建通が勅を奉じ、左近衛権少将に任ずべき旨を宣する一通。安政六年二月七日、大外記兼掃部頭造酒正中原朝臣師身が奉る。御系図記事の左近衛少将という記述と、宣旨の左近衛権少将をそれぞれ原表記どおり保持する。
文久4年正月14日 / 冊子 335頁/原整理番号 473/整理ID 473
従四位下源朝臣久光を左近衛権少将に任じる文久四年正月十四日の宣旨。正二位行権大納言藤原朝臣俊克の宣として任官を勅し、大外記兼助教中原朝臣師身が奉じる。直前の口宣案と同じ任官を示すが、宣旨の官位・奉者の記載をそれぞれ保持する。
文久4年2月1日 / 冊子 336頁/原整理番号 476/整理ID 476
左近衛権少将源朝臣久光に大隅守の兼任を命じる文久四年二月一日の宣旨。正二位行権大納言藤原朝臣俊克の宣、大外記兼助教中原朝臣師身の奉を記す。左近衛権少将の官を記した上で大隅守を兼ねる命令であり、口宣案とは別に宣旨の記載を収める。
元治元年4月11日 / 冊子 357頁/原整理番号 509/整理ID 509
左近衛権少将源朝臣久光を左近衛権中将へ転任させる元治元年四月十一日の宣旨。従二位行権中納言藤原朝臣光愛の宣として命じ、大外記兼助教中原朝臣師身が奉じる。同日の口宣案と同じ官職への転任を示すが、宣・奉の官人と官位はこの宣旨の記載として保持する。
原2~4:10月、原4報告卯10月14日/原5~6:卯10月16日 / 冊子 416~417頁/原整理番号 592の2~6/整理ID 592-2
原第592号の2~6を収める。原2は重大事・外夷の衆議と両役の取扱い、諸侯上京までの従前取締と早い上京命令。原3は去る十三日に渡した御書取を奏聞し、昨日十五日に御所から別紙どおり命じられたと伝える十月の書付。原4は建白趣意受容の詔写と京都留守居の届書四通との注を掲げ、国家の大事の見込を聞くため十二日・十三日四時に二条城へ出る指示、重役の参集、太守宛封物一通の受渡を報告する。卯十月十四日に内田仲之助・新納嘉藤二が帯刀へ知らせる。原5は外夷の衆議・諸大名の両役取扱いの書付を日野大納言の雑掌近藤外記から受け取った十六日内田の報告。原6は同日新納から、二条城で戸川伊豆守らと同席し、太守宛封書一通を国元へ早く送るよう命じられて渡されたとの報告。各命令・受領・伝送を区分し、重複する書付や封書の表示を合算しない。
卯10月15日内田報告/外包:慶応3年卯12月19日収納注 / 冊子 417~418頁/原整理番号 592の7/整理ID 592-3
太守と中将への勅書写二通、召書一通を列挙する。召書は中将に快気がなければ太守が上京するとの扱いで、傳奏日野大納言の雑掌近藤外記を通じて渡されたとする。夕刻に出席する切紙を受けて出た際、国元へ早く知らせるよう申し置いたことを内田仲之助が帯刀へ報告する。卯十月十五日、留守居付役永山左内が同勤している旨と、用事による追加の出席指示も記す。外包には四通一包の注、慶応三年卯十二月十九日に内膳から上村休之進へ渡され、白木御文書十一番箱に納めたとの注がある。明細の二通・一通、報告と梱包数、十月の受渡と十二月の収納を分け、上京の完了や快気を確定しない。
の5:二月16日。の6:独立日付不記、去月6日発京・同19日帰邑の記述 / 冊子 490頁/原整理番号 657の5~6/整理ID 657-5
原の5では、平戸の肥前守が在京中なので布告を早速送達すると答え、勤王の誠意は主君累代の志で家臣一同も深く心に留め、伝えられた趣旨と異なる考えはないと述べる。二月十六日、松浦内膳信賢・松浦外記重光・小倉衛守長道・熊澤作右衛門正興が連署し判の表示を伴う。原の6では、木下鍛次郎が去月六日に京都を出て十九日に帰邑したところ御使者が到来し、家来から提出された布告を拝見したと述べる。勅諭の趣旨を天壌に載せる誠意に感奮し、勤王の志を実現するため尽力したいので、微力ながら相応の用務に付け、執奏と引廻しを願うという。使者長澤源之進をもって御請を申し上げる。
二月十日 / 冊子 114~115頁/原整理番号 180
川上久国・三原重庸が島津久元・山田有栄へ、四日付書状への返答として、旧冬に鹿児島町で出会った桂外記・柳元喜左衛門が福昌寺・浄光明寺から寺領を与えられ、当地へ来たかを尋ねる。幕府の公儀により町奉行へ任命できない事情を述べ、喜入久右衛門・相良杢助と相談して寺領・町奉行双方の扱いを調整するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 151~152頁/原整理番号 35
紀内親王を祖とし、日下部氏を称し、海江田氏へつながる系図。阿多の征伐時に但馬国木崎郡八千町を賜ったこと、子孫が将軍に供奉して薩摩郡を給されたこと、清原天神との関係を由緒として記す。信種・信春以下の多数の支流を系線で示し、信種を二男とする注記、信家・信重、信春・信亮・信行・信実・信道、信定・信秋・信光・信景・信時、信森・信末・信吉・信永、信尚・信歳、綱重・栄信・義香以下の諸代を掲げる。末尾には綱富、綱寛、綱藤、綱保、信外記ら近世の子孫を載せ、綱藤を仲左衛門・吟味役・久志秋目地頭、綱保を仲左衛門とする。