山田四郎左衛門聞書
年月日未詳 / 冊子 842-843頁
山田四郎左衛門の聞書は、龍伯・惟新・忠恒の関係が疎遠となり、家臣も三方に分かれて不穏な風聞が広がった時期を回想する。忠恒の船行に供衆が緊張したことや、のちに押川強兵衛・中村氏へ命じて平田太郎左衛門を鉄砲で討たせたことを記す。
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年月日未詳 / 冊子 842-843頁
山田四郎左衛門の聞書は、龍伯・惟新・忠恒の関係が疎遠となり、家臣も三方に分かれて不穏な風聞が広がった時期を回想する。忠恒の船行に供衆が緊張したことや、のちに押川強兵衛・中村氏へ命じて平田太郎左衛門を鉄砲で討たせたことを記す。
十一月六日 / 冊子 786頁
義忠と称した島津勝久が前田四郎左衛門尉に、肝付越前守や局へのたびたびの厚意を喜び、今後も変わらぬ好意を寄せるよう依頼した書状。
元和六年五月十三日 / 冊子 732頁
上小河院内の田地について、田ごとの面積・籾高・石高を記し、蒲地四郎左衛門に宛てた喜入久政・川上久晴連署の名寄目録。
(寛永十年)二月廿五日 / 冊子 404~405頁
児玉利昌の覚書。御ひたいれ、籠手、弓懸、履物、下着の帷子などについて、色・文様・寸法・数量・仕立て方を列挙し、伊東仁右衛門・渕谷四郎左衛門へ伝えた。
七月廿七日 / 冊子 172頁
北条泰時が豊後四郎左衛門尉に、薩摩国御家人の揖宿平四郎忠秀と頴娃平太との間で争われた開門神領の件について、豊後三郎左衛門尉とともに双方を召して裁決し、その結果を申告するよう命じた書状。
寛永六年八月廿四日 / 冊子 103~105頁
樺山美濃久道が、過去の合戦・境目警固での働き、帖佐春毛村などの所領処置、敷根氏らへの返地・配分、加増・替地・兵粮扶持・役料等の経緯を列挙し、未決の扱いを明確に裁定するよう求めた長文覚書。自身が老齢で後に尋ねられる者がいなくなるため、今回の機会に返答を得たいと述べる。本文署名は寛永八年八月二十四日、樺山美濃久道。
寛文九年閏十月十四日 / 冊子 205~206頁
堀四郎左衛門が、島津忠国・元久・用久・忠良・久逸らの親族関係と、忠国の娘玉泉智芳大姉をめぐる玉泉寺の由来、長興寺からの改称、寺領・由緒を記した覚書。
慶長十七年六月十七日 / 冊子 364頁
慶長十七年六月十七日、町田久幸が、錦袋・御景図・兵書・本尊絵・羽形日記の数量を列挙し、右鹿児島へ召し上げるよう命じた覚書。
寛永五年四月廿四日 / 冊子 34~35頁
新納忠清が、平野六郎左衛門主従四人と美代主殿助主従三人の国元帰還に際し、当月分の賦銀、海道十五日分の賦銀、二十三日までの飯米を当地で渡したことを報告し、以後の海道飯米代銀の処理を依頼する。
(寛永五年)四月廿四日 / 冊子 68頁
新納忠清が、平野六郎左衛門尉主従四人と美代主殿主従三人の国元下向に際し、当月分の賦銀、海道十五日分の賦銀、前日までの飯米を当地で渡したと報告する。今後の海道飯米代銀は受取側で手配するよう求め、同日出立した旨を知らせる。
応永廿二年十二月吉日 / 冊子 292頁
四郎左衛門入道政前が河邊郡宮村松崎の焼峯を長興寺へ寄進し、子々孫々の違乱・妨げを禁じ、妨害時にはこの寄進状に従って処置するよう定めた文書。
年月日未詳 / 冊子 525頁
文明十七年四月十四日、吉田飯山で鹿児島衆と吉田衆が合戦し、吉田方の中村藤左衛門尉・山崎掃部助・小山二郎五郎らが討死し、宮原四郎左衛門尉も退却中に戦死したことを記す譜記事。
永禄十年 / 冊子 161頁
寺山氏の一族・子女を記す系図。寺山直久の娘が肝付雅楽助の室となり、その母を島津中務太輔忠成の末女とすること、四郎左衛門入道定雲が永禄十年に猿渡休費の娘を母として生まれたことなどを載せる。
慶長三年六月廿日~九月廿日 / 冊子 242~243頁
『盛香集』が、寺山四郎左衛門久兼の望津での対陣と家来神宮矢兵衛の射撃を伝える記事。久兼は漢南の大軍を前に、晋州の川を隔て約二百人で六月廿日から対陣し、人数の多少を悟らせない計略で敵を悩ませた。九月廿日の命令で望津陣を払い新寨へ移る際に敵が渡河を試みたといい、鉄炮上手の神宮矢兵衛が川越しに撃つ弾だけは外れず、唐人が大いに恐れたとする。
年月日未詳 / 冊子 252~253頁
『図書頭忠長譜』が、明軍の泗川攻撃に対する島津忠長の迎撃を記す記事。明側から降伏を促す書状が届くと、義弘は勝敗は戦って決すべきだと退けた。九月十九日に明軍二十万が進み、忠長は九月廿八日の戦闘で自ら敵へ向かい、野添帯刀長・本田與兵衛尉と合力して数人を討つ。義弘が忠長の危急を見て数百騎を救援に送り、寺山四郎左衛門尉の働きもあって明軍を敗走させ、晋州川まで追撃したとする。
(慶長三年)十一月十一日 / 冊子 279頁
島津忠恒が(慶長三年)十一月十一日付で発給した過所。薩摩船六端帆一艘に、船頭四郎左衛門・中乗五人・船子五人の計十一人と馬五疋を乗せて帰朝させるため、船改御奉行に対し、異議なく通行を認めるよう命じる。
(寛永四年)七月廿七日 / 冊子 39頁
喜入忠続・比志島国隆が、京都で調達すべき御用品の注文書を荷方衆から持たせたので、渋谷四郎左衛門・上井東市正へ渡して調達させ、主君の上洛を待つよう命じる書状案。
(寛永五年)五月六日 / 冊子 61~62頁
比志島国隆に近侍して不正を助長したとされる折田四郎右衛門・家村四郎左衛門について、高岡の者も責任を訴えているとして、死罪ではなく流罪とする方針を伝える。国隆に殉死すると称した者や種子島へ従わなかった者の扱いも含め、山田土佐守らと協議するよう求める。
寛永十一年九月廿五日 / 冊子 450頁
伊勢兵部少輔の分として千石を上置きしたうち、今度返給となった千石について、淡谷四郎左衛門・児玉筑後守からの下知に従って支配するよう命じた達書。この高の分は上地しないものとする。
寛永十二年十二月四日 / 冊子 506~507頁
壱岐右近将監幸光・川崎大学助祐宣・肥田木主馬佑重昌が島津弾正へ、キリシタン改めに伴う往来管理について志布志方面と相談したうえで、清武と高岡の間で同様の取扱いを定めるよう求めた連署書状。清武側では平渡長右衛門・田中四郎左衛門の印判により奉公人・町人・百姓以下を往来させ、高岡側も同じ定めとするよう求める。本文日付は寛永十二年十一月十七日で、索引の十二月四日とは相違する。
(寛永十五年)二月三日 / 冊子 749~751頁
阿久根宿泊に際し、地頭衆の滞在で不自由が予想されるため、四郎左衛門を帰すか地頭衆を戻すか相談するよう指示し、出水までの宿泊・昼休みの割付を別紙で送る。黄門様の容体がこの三日軽快していること、薩州様の船が大雨で遅れていること、迎えの者を順次派遣したことを伝える。天草在番衆に油断なく警戒させ、富岡の状況を詳しく注進するよう求める。軍衆の祈念として六十六本の御神舞を行ったこと、兵粮を積めないため二千余人を召し戻す相談、天草番手を五、六千人とし江戸から三千人を遣わす案、百石につき三人の軍役を記す。さらに琉球船が米二百六十石・上布・焼酎などを積んで山川へ来たため、出水へ回航するよう岩切六右衛門へ指示した。川上久国・三原重庸の連署で、山田民部少輔・島津下野守宛。寛永十五年二月三日付。
三月廿八日 / 冊子 89頁
堀四郎左衛門が安養院へ伝えた口上覚。島津綱久の厄年に伴い、西原山王へ年数珠を当年から三年間奉納する誓願について、当年三月から十二月まで十一か月分の年数珠を届けるので、吉日を選んで奉納し祈祷するよう依頼している。
四月廿七日 / 冊子 155頁
喜入忠続と比志島国隆が本田源右衛門に、京都で調達すべき御用物の注文を御荷内衆に持たせたと知らせた連署書状。注文を渋谷四郎左衛門と上井東市正へ渡して品物を調達し、上洛を待つよう指示する。
年月日未詳 / 冊子 331頁
阿多と加世田が万之瀬川の鎮守の渡で戦った際、劣勢から退いた阿多勢が再び進撃し、激戦の末に敵数十人を討ち取った記事。肥後掃部左衛門・宮人・井尻四郎左衛門らが戦死したため、その忠節に報いるべく戦死地に六地蔵を建立し、冥途の灯とした。
年月日未詳 / 冊子 525頁
四月十四日の吉田飯山合戦について、鹿児島衆と吉田衆が戦い、吉田方の中村藤左衛門尉らが討たれ、残兵が退いた経過を記す文明記記事。
慶長三年九月十九日 / 冊子 238~239頁
『島津義弘譜』が、島津忠恒配下の寺山久兼が望津の守備中、明・朝鮮軍の兵力を偵察し、猛暑時に兵を川辺へ伏せて敵の人馬が水に入るところを鉄砲で一斉射撃し、多数を倒したと記す記事。さらに山谷に火を放って大軍が潜むように見せるなど奇策を重ねたため、董一元は九月十九日に晋州へ進出しても島津義弘の武勇と城の堅固さを恐れ、攻撃を控えたとする。
万治二年二月六日 / 冊子 512~513頁
島津弾正が寛永十八年に御納戸から借りた普光院の琉球関係文書と徳川秀忠御内書について、万治二年に返上の有無を島津大膳家へ照会した経過を日付順に記した覚書。受取の返却可能性も含め、老中・御納戸を通じた確認手続きを記録する。
元和6年(1620)5月13日 / 冊子 381頁/原整理番号 188-24
元和六年五月十三日、川上伊予守が喜入大炊助・蒲地四郎左衛門へ示した名寄目録。上小河院内で与三右衛門に関わる川添一反六畝内・下田一反一畝七分を掲げ、籾合計七俵二斗二升六合二勺、高にして二石六斗三升五合と算定する。編者注は、この文書を含む十八通の写しが蒲地四郎左衛門家にあると記す。
7月27日(年未詳) / 冊子 452頁/原整理番号 14-1
北条泰時が豊後四郎左衛門尉へ、薩摩国御家人・指宿平四郎忠秀と頴娃平太忠継が争っている開門神領について、豊後三郎左衛門尉と共同で両当事者を召して裁決し、双方の主張と処置を注進するよう命じた七月二十七日付書状。本文後には指宿氏系譜を続け、忠成が郡司・小次郎を称し、法名を了心としたことを記す。
貞治二年十月八日 / 冊子 75頁/原整理番号 330
一色範親が、清武城合戦で負傷しながら軍功を挙げた大脇四郎左衛門を神妙と賞し、その功を注進するとした感状。貞治二年十月八日付。
貞治四年八月十三日 / 冊子 75頁/原整理番号 331
足利義詮が、一色刑部少輔範親から注進された大脇四郎左衛門の清武城での功名を神妙と賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた感状。貞治四年八月十三日付。
年月日未詳 / 冊子 486頁
文明八年三月、指宿城攻めや鹿児島松尾坂の戦いで五代筑前守・福崎入道・飯肥平二郎・松元四郎左衛門らが戦死したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 184頁
『朝鮮日々記』から、新納勘解由の内衆が古仙界の山で鹿狩り中に虎と遭遇し、射止めて御城へ持参したため、褒美として「虎兵衛」の名を与えられた記事。あわせて、漢南から大軍が出たとの風聞を受け、古丸・晋州・猿羽見へ相良玄蕃、寺山四郎左衛門、川上休右衛門らを物見・警固として配置したことを記す。
(明暦三年)十月廿一日 / 冊子 359~360頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0762
萩原三郎右衛門らが、阿久根への便船、村内の人員配置、切支丹宗門関係者の吟味・身柄、長崎役所への報告、使者の取扱いについて詳細を伝えた書状。
出典江城日誌五月6日条、戦闘本月朔日・閏四月28日到着(正文) / 冊子 565~566頁/原整理番号 736/整理ID 736
江城日誌五月六日条から、薩藩池上四郎左衛門の帰府言上の大略を収める。閏四月二十八日に奥州白坂駅(川カ注)まで着き、二十九日の白川城攻撃予定が延期され、本月朔日未明から三方に手配し、五番隊まで黒川村から原街道へ進んだとする。台場を築いて防御する相手へ進撃し各所を崩し、長州・薩州・大垣が城口へ攻め入って多数を討ち首級等を分捕ったと報じる。五六百位という概数も述べ、十分好都合で遺策がなかったとの評価を示し、詳細は本営から届けるとする。自藩の戦死・負傷人名を示す見出しを置くが、その列名は略す。戦況と数量評価は言上の報告として記す。
年月日未詳 / 冊子 293頁
島津久世が、久豊と伊作勝久らの対立を和睦させるため評議し、甑島・川邊を往来して交渉した経過を記す。久豊の帰還、所領・居城をめぐる処置と、家臣の謀議を抑えようとした久世の働きを述べる。
年月日未詳 / 冊子 294頁
伊集院・伊作・川邊方との和睦を進めるため、久豊と伊作勝久が会談し、久世を介して川邊への帰還を図った記事。交渉中に家臣団の内紛と暗殺の疑いが生じ、福昌寺和尚の仲介にもかかわらず小田原弾正らの対立が激化した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 761~762頁
天文七年の末吉・加世田などの合戦で戦死した家臣を列挙する『殉国名藪』記事。山崎民部左衛門成通、城ヶ崎右衛門儀実、井尻祐秀、猿渡信資らについて戦死日と戦場を記し、北郷忠栄の藤野原での戦死にも触れる。複数戦役の死者情報を人物別に検索できる。
天正六年正月十六日以後 / 冊子 589~591頁
日向が島津領となると、伊東方の残党が縁故に従って帰属し、従わない者は誅伐された。義久は正月十六日に都於郡へ入り仕置を進めるが、伊東旧臣らは豊後の義祐・大友父子に再興を訴えた。門川・塩見・山陰・三城の城主らが人質を出しながら豊後方へ内応し、大友軍を迎え入れる一方、人質の米良弥八郎らは警固を破って脱出し父のもとへ向かった。
年月日未詳 / 冊子 206~208頁
慶長三年四月五日、泗川新城の普請中に敵騎兵の動きを知った島津勢が出撃した経過を記す。伊集院源二郎・北郷作左衛門らが鉄砲隊と伏兵を分け、雨で火縄が働きにくいなか敵を誘い込んで射撃し、騎馬・徒歩の諸隊が追撃した。敵の反撃で混戦となった後も、原野や伏草へ陣を移しながら交戦し、多数を討ち取って日暮れに帰城したとする。
寛永十一年七月廿日 / 冊子 438~439頁
伊勢貞昌が、家久の参内や将軍の能・大坂行きを報じ、八千貫余の借銀返済のための知行上地、在江戸家臣の妻子帰国、銀子借上や刀装具の献納、倹約を国元へ徹底するよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 319頁
『日新記』の記事。田布施在住の中間孫七が父を殺した事件を取り上げ、不孝の罪として処罰し、宮原六郎らの供述や高橋の土豪をめぐる事情を調べて、所帯・所領の処置を下したことを記す。
二月十五日 / 冊子 141~142頁/原整理番号 239
川上久国・三原重庸が渋谷四郎左衛門尉へ、薩州様の帰国行程に伴う宿泊・昼休・供奉を指示する。十四日ごろ有馬へ着船し松平伊豆守への礼後に川内筋を通る見込みとして、西方では仁礼主計助、向田では鎌田源左衛門尉・相良新右衛門尉、市来湊では新納右衛門佐らに手配させ、昼夜を問わず後報するよう求める。
6月(目録、年次記載なし) / 冊子 538頁/原整理番号 76
穆佐の旧権や安藤十郎らの申出を受け、伊集院・悟性寺に関わる古書の書写と差出を記す。
「寛永十七年」十一月十三日 / 冊子 142~144頁
伊勢兵部少輔貞昌と山田民部少輔有栄が国元へ示した、琉球渡海・翌年の帰国・江戸留守番に関する連署書状。八重山島へ南蛮船が来て多数が上陸したとの報告を受け、川上上野守らの渡海、鉄砲約百挺と物頭渋谷四郎左衛門尉の派遣を計画したが、病気のため一部を延期し、比志島監物の代わりに喜入吉兵衛を命じた経緯を記す。前年の八重山での南蛮船破損・多数死亡と琉球側への疑念を調べさせる目的、光久が翌年帰国する際の江戸留守番交替、迎船への乗船、諸役人・大番衆・祈念坊主今泉寺の交替も指示している。
(明暦三年)一月六日 / 冊子 317~318頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0688
鎌田政有が国元の役人へ、鶴御礼使の新納四郎左衛門と雁御礼使の本田仲兵衛が臘月二十八日に登城し、首尾よく正月六日に江戸を出立したことを報じ、御奉書を送る。薩州様が初めて御鷹之雁を拝領したことへの隅州様の祝儀、二種・一荷の調達と御礼の御服の相談、年頭の御礼・御名代、松河内守の参府と御孫誕生の祝儀等を伝える。正月六日付。封面には二月朔日に本田仲兵衛が持ち下ったと記す。
明和八年卯十一月十五日 / 冊子 301頁/原整理番号 812/整理ID 812
澁谷文次郎の加冠に際し、仮名を三四郎とするよう定めた書出。明和八年卯十一月十五日付で、重豪公の墨印を備える。正文は澁谷四郎左衛門にある。
12月(本文年・日不記);外包:安政6年未12月廿九日 / 冊子 226頁/原整理番号 307の9/整理ID 307-1
御條目写一通、御別紙一通、それに付く書附四通、御廻状写一通を列記し、留守居首尾書を添えるとする筑後の申渡。御代替初めに仰出された法令に関する書類が江戸から届いたので、先例どおり御記録所へ納めるよう命じる。本文十二月。外包には安政六年未十二月廿九日、筑後から川上四郎左衛門へ渡され、当座で格護を承知し白木御文書十番箱へ納めたと記す。列記通数と別添首尾書を分ける。
11月22日 / 冊子 396頁/原整理番号 361の1
『平田宗直案文留帳』所収の十一月二十二日付書状。小松原へ送った船の上乗に金田四郎左衛門を割り当てたところ、本人が自分の乗る船は都合が悪いと申し出たため、相談なく鮫嶋惣次郎を指定したと説明する。惣次郎側から希望したのではなく、上乗がいなかったため差出側の判断で申し渡したと伝え、急用として加世田御曖衆中に了解を求める。
二月十六日 / 冊子 148頁/原整理番号 260
川上久国・三原重庸が伊勢兵部少輔へ、渋谷四郎左衛門尉の報では島津光久の船が前日に阿久根へ着き、天候が良ければ今明日中に鹿児島へ着く見込みだと伝えた。光久帰国の報を聞いて黄門様の容体が急に改善し、庭の花を覧じ、脈も良くなったとの医師の所見を、先の悪化報告を訂正する次飛脚で知らせる。