島津勝久書状
十二月三日 / 冊子 738頁
島津勝久が亀山又六久運に、豊州・新納方に関係する人物の処遇や前言の真偽について意見を求め、当人を戻すよう要請した書状。
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十二月三日 / 冊子 738頁
島津勝久が亀山又六久運に、豊州・新納方に関係する人物の処遇や前言の真偽について意見を求め、当人を戻すよう要請した書状。
文禄五年正月廿日 / 冊子 3頁
島津忠恒が入来院又六へ、改易によって代々相伝の領地を離れ、打ち上げた田数にも不足があって迷惑であろうと述べた。知行については龍伯・武庫と相談して特に念を入れて処置するため、心配しないよう伝えた証状。
(慶長四年)七月廿八日 / 冊子 409頁
島津義久が入来院又六に、現地で在番を続ける辛労をねぎらい、連絡が途絶えたことを詫びる。庄内への一挙の行動を考えていたところ内府の使者が到着し、島津方の存分で相談してよいとの意向を得たため、即時の勝利を期して一層の賢慮を求める。
十月朔日 / 冊子 93頁
石田三成が入来院又六の宿所へ送った書状。名護屋へ出陣せず人数も遅参していることを厳しく問題視し、島津氏への不届きはもちろん、唐入りの軍役を公儀の道理に反して怠れば上聞に達して身上を失いかねないとして、早急な着陣を命じている。
四月廿七日 / 冊子 110-111頁
近衛尚通が島津又六郎に、家門間の由緒を踏まえて消息を送り、公方の祝言と三月の若公誕生を祝した書状。都鄙の乱逆で家領が押領され家の断絶さえ危ぶまれるとして、旧好に基づく扶助・奔走を依頼する。
四月廿七日 / 冊子 111頁
近衛尚通が島津又六郎に、久しく書状を送らなかったことを詫び、乱世のため処理できない事柄が多いと述べた書状。今後は力を合わせて諸事を進めたいとし、九澤軒から伝える用件への助力を求める。
十月朔日 / 冊子 195頁
石田三成が入来院又六の宿所へ送った書状。名護屋へ出陣せず人数も遅参していることを厳しく問題視し、島津氏への不届きはもちろん、唐入りの軍役を公儀の道理に反して怠れば上聞に達して身上を失いかねないとして、早急な着陣を命じる。本文はNo.236と同文のため省略される。
六月廿七日 / 冊子 340頁
島津貴久が又六郎殿へ、入用の品があると聞いたため金一枚を進呈し、御用に立てば満足であると伝えた短い書状。
年月日未詳 / 冊子 366~367頁
島津義久が又六郎(島津歳久)に、心経、犬の具合、山神の祭祀、平田への祈念、狩猟や周辺への問い合わせなど、身辺の諸事について相談・依頼した書状。
三月四日 / 冊子 367頁
島津義久が又六郎(島津歳久)の体調を尋ね、境目の情勢、番衆が小勢となること、仕役の相談、典厩と同様の上申、清水への連絡について分別を求めた書状。
二月廿五日 / 冊子 368頁
島津義久が又六郎(島津歳久)に、大屋形様の仰せを受けて諸所へ軍勢の手配を命じたことを知らせ、歳久にも引き続き準備するよう求め、自身も明後日までに出立すると伝えた書状。
八月四日 / 冊子 368頁
島津義久が又六郎(島津歳久)に、火箭の口薬に用いる品を送り、細工を依頼した書状。弓竹などの材料を真幸方面で調達することや、念佛寺からの使僧についても問い合わせている。
神無月三日 / 冊子 368頁
島津義久が又六郎(島津歳久)に、祝意を述べ、自身は一色表への行動を心掛けているものの機会がなく、何日もむなしく過ごしていることを残念がった書状。
(慶長元年)四月十三日 / 冊子 16~17頁
島津忠恒が三名へ、近く軍事行動を命じる朱印状が出たため、油断なく準備するよう伝える。島津義弘が渡海すれば、自身は上洛して国元検地を命じられた礼と私用を申し述べ、石田三成の命により義弘の渡海次第ただちに帰朝する覚悟であるとして、三名にもこちらからの連絡を待つよう求めた書状。
8月26日但馬(末尾申渡) / 冊子 380頁/原整理番号 542の3/整理ID 542-3
長州征討に付いて、先陣惣督嶋津又六郎へ諸隊を指揮し機先を察して勝利と威武を保つよう命じ、先陣副惣督嶋津主殿へ惣督と相談して軍謀を誤らず指揮するよう命じる。続いて一陣惣物主島津隼人に伊集院一組の人数を召し付けて出軍させる指示を向々へ伝え、地頭・用達にも知らせる八月廿六日但馬の申渡。命令内容と組の召集を記録し、戦闘の結果や出軍人数はここから確定しない。
(慶長四年)三月廿五日 / 冊子 362~363頁
竜伯が又八郎に、大坂出船後の帰着、当所へ移す衆と屋敷配分、馬術に優れた入来院又六を当地に置く希望を伝える。荒地が多く当年の耕作が進まないこと、種子島左近大夫の知行を検地高五千二百余石と内検高八千五百石の中間である七千石(うち三百石加増)とする案、右馬頭の返地後に種子島を与える段取りを述べ、京都の息女の件を石田治部少輔や小西へ働きかけるよう依頼する。
(慶長五年)四月廿七日 / 冊子 537~538頁
島津義弘(惟新)が島津義久(龍伯)に、徳川家康へ出仕して庄内平定を祝賀したところ機嫌がよく、入来院又六と善載坊が召し出され御前で食事を賜ったと報じる。長尾殿の上洛延期の事情を確認するため伊那図書頭と奉行衆が使者を添え、善載坊が帰国時に詳報する予定であること、又八郎にも一連の事情を伝えるよう依頼する。
(慶長五年)五月五日 / 冊子 541~542頁
島津惟新が少将殿に、山口直友の上洛に伴い入来院又六と善載坊を使者として送り、口上を受けて大坂から内府へ報告したと伝える。庄内の平定、源二郎の召し出しと知行二万石、茶碗拝領を喜び、奥州出陣時に少将が伏見城番を命じられる見込みであるため、堅固な留守番衆を整えるよう善載坊を通じて指示する。
永正十二年二月七日 / 冊子 606頁
永正十二年二月七日の犬追物について、初日二番の射手と射数を列記した手組。
永正十二年二月七日 / 冊子 606頁
No.1856と同日の犬追物について、別の初日二番の射手と射数を列記した手組。
(慶長四年)七月十六日 / 冊子 403~405頁
島津義弘が少将に、伊集院源次郎の兄弟と母を佐竹方へ預け、近日中に関東へ送る予定を知らせる。山田城攻略や高原境・都之城周辺での勝利と多数の討取を称え、源次郎への対処を論じる一方、国元の情勢、兵糧・年貢収納、使者派遣、関係者の処遇などを詳しく指示し、今後も油断なく処置するよう求める。
(慶長五年)四月廿三日 / 冊子 536頁
山口直友が惟新に、四月二十三日朝に大坂へ着いたことを報じる。内府へ出仕する予定だったが、惟新が下向するとの旅庵の連絡を受けて対面を待つため延期したとし、惟新の用向きと下向の有無を知らせるよう求め、返報に応じて出仕すると伝える。
年月日未詳 / 冊子 301~302頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0652
久四郎忠清一流の系図に久岑を掲げ、虎松・又六と記す。慶安三年八月九日生、母は救仁郷天神坊頼重の娘で、光久の四男と明記する。明暦二年八月十五日に光久が虎松へ佐志三千石の遺領を賜り、自ら加冠して又六と号させ、島津市正忠廣が理髪を務めた。寛文八年十二月十二日死去、十九歳。
永正十一年九月十四日 / 冊子 604頁
永正十一年九月十四日、鹿児島殿中で蘭窓(島津忠治)の代に初めて行われた犬追物について、参加者別の疋数と検見・喚次を記した手組。
永正十一年十一月十四日 / 冊子 605頁
永正十一年十一月十四日の犬追物について、殿以下の参加者と検見・喚次を配列した手組。
永正十一年十一月十九日 / 冊子 605頁
永正十一年十一月十九日の犬追物について、殿以下の参加者と検見・喚次を配列した手組。
文禄2年9月10日 / 冊子 725頁
島津久保(又一郎)の死去を受け、弔いを理由とする帰国を厳禁し、義弘の許可を得た百人以外は渡海してはならないと定める。 久保の陣所を老臣・有力者に守らせ、普請・城米・後続船の兵糧収納を急がせ、下人を含む無断帰国を処罰するとした軍中統制の事書。
文禄4年6月3日 / 冊子 887~888頁
義弘は、知行方の詳しい処理は石田三成に相談し、図書や旧来の名簿を整えて関係者へ割り付けるよう家久へ指示する。 出船する船と城米の徴収、悪天候時の対応にも触れ、針や薬など珍しい品を贈るとして、領地実務・兵站・贈答を一通で伝える。
4月三署;去11日拝謁、甲子4月14日申渡・同日四ツ時祝儀 / 冊子 361~362頁/原整理番号 521の1/整理ID 521-1
少将が去る十一日に帰国の暇を受けるため参内し、装束で鶴の間にて甘露寺頭辨らの対面を受け、天盃を賜ったと報告する。虎の間で伝奏野宮中納言から、帰国許可と扇子三本・白晒五端の拝領、公武一和の基礎を開き昨秋以来の参預に尽力した功による従四位上・左近衛権中将の宣下を伝えられたという。通知到来を受け、一門・嶋津又六・大身らが月次礼の席で、明十四日四ツ時に登城して家老・太守・中将へ祝儀を述べるよう命じる。四月丹波・摂津・但馬の三署、甲子四月十四日の申渡注。拝謁・拝領の報告と官位官職・祝儀指示を分け、少将と昇進後の中将の呼称をそのまま示す。
永仁五年十月廿八日 / 冊子 383頁
薩摩郡串木野村内冠嶽南山の神領田畠・山野等を奉免し、権利を承認した大江景遠・沙弥道意らの連署奉書。
慶安三年八月九日 / 冊子 174頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0325
綱久公譜中の久岑の誕生・系譜記事。綱久・女子三人・久定・忠長・久岑を兄弟として系図に示す。久岑を虎松丸・又六と称し、慶安三年八月九日に誕生、母は家臣救仁郷大神房頼重の娘で、家臣島津又六久近の後嗣となったと記す。
年月日未詳 / 冊子 446頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0961
系譜は、島津綱久の男子久寛が寛文元年十月二十日に誕生し、母は家の女房で、のち島津又六家の後嗣となったと記す。久寛には久當・松千代丸・權七・伊賀・縫殿・勘解由・将監の称が掲げられる。
明和四年亥十一月廿八日 / 冊子 178頁/原整理番号 434/整理ID 434
嶋津長袈裟の加冠に際し、仮名を又六郎とすることを「宜爲」と書き出す。明和四年亥十一月廿八日付。花押の表示に島津重豪の注とNo.2の番号を付す。正文は島津但馬のもとにあるという。命名を行う重豪と、書出しの対象である嶋津長袈裟及び与えられる仮名又六郎を区別する。
天明四年閏正月十日 / 冊子 728~729頁/原整理番号 2055/整理ID 2055
妙心院の中陰法事を閏正月八日・九日に福昌寺で執行したと報告する。八日は島津図書が代参し、九日の施餓鬼は島津又六郎久良、同日の満散に伴う半斎の代参と寄合の名代は島津玄蕃が務めた。明姫・嶺松院・千萬からの香奠を寺へ納め、一門・大身分・女中方・久起らの献納物も納めた。法事中は鹿児島中へ慎みを申し渡した。妙心院の病気見舞いに遣わされていた大野休之丞には、死去後の法事節の代香を命じ、前日に生花二筒・大香三把を位牌前へ供えさせ、法事中は寺へ詰めさせた。天明四年閏正月十日、島津大進久起から島津左中久金へ宛てた書状。
文化8年の配列。10月19日(本文独立年なし) / 冊子 377~378頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1181
斉興公御譜中、10月19日の見出しから次頁本文へ続く。大家が斉興の襲封後初めて国に就いたことを祝い、宿次により書状を送り肴を賜ったため、島津又六郎久風を謝使として鹿児島から出発させたと記す。久風には置家との割書注。目録は文化8年の初入部に付肴を賜わる記事だが、本文に独立年はない。肴の種類・数量、大家の個人名、謝使の到着日や献上品は記載せず補わない。初就国祝の受領と謝使の出発を別の動作として採録する。現行通常・AIの二頁目に本文が揃い、見出しだけの一頁を本文欠と判定しない。
文化12年12月6日(各手組)/文政2年12月18日(末尾保管追記) / 冊子 480~482頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1461
白木御文書八番箱中三十二。包紙に神事犬追物手組とある、文化12年十二月六日の各組配列表。犬追物の上手組・下手組、神事犬追物の上手組、犬追物の次手組、神事の下手組、「論之犬手組」と記す表、神事の次手組を順に掲げ、各表に名前・疋数・検見・喚次を配する。最初の上手組は島津又六郎二疋・相良満十郎一疋・新納十郎一疋・北郷勘解由五疋など、下手組は川上庄八郎二疋・種子嶋次左衛門一疋・村橋主計一疋など。神事上手組では新納十郎三疋、木脇伊左衛門三疋、村橋愛之介一疋、続く次手組では南郷寛太郎一疋・島津矢六郎二疋。神事下手組では碇山仲左衛門一疋・種子嶋左八郎三疋・菱刈藤馬一疋。論之犬手組では田中七左衛門二疋・菱刈藤馬二疋・島津矢六郎三疋等を記し、碇山の疋数には「三疋カ」の注を付す。最後の神事次手組は川上金十郎一疋・南郷寛太郎二疋・伊集院伊膳一疋・田中七左衛門四疋・伊勢巖次郎二疋等。検見には川上庄八郎・島津又六郎・川上十郎左衛門が表ごとに載り、喚次は主に川上四郎兵衛。末に射手奉行木脇権一兵衛、日記池田次郎兵衛・土持平左衛門、幣之役島津鐵袈裟候補・赤塚吉十郎、犬奉行岸良矢右衛門・面高眞之丞を掲げる。朱包紙注は手組八通の記録所での格護を命じられたこと、文政2年卯十二月十八日に橋口今彦・平山五右衛門が承知し白木御文書八番箱へ納置したことを記す。各表の疋数を合算せず、配列図の線・符号を人数や実績頭数へ読み替えない。
4月4・9日(式部申渡);文久3年亥4月6・10日取次注 / 冊子 292~293頁/原整理番号 412の1/整理ID 412-1
五内容の通知群。第一は三郎が細嶋で機嫌よく滞在し、供人数と持道具が到着したので昨三日に発駕し宿割どおり通行するとする四月四日式部の通知と、松岡十太夫を通じて向々へ伝える同日通知。第二は来九日の帰着に備え、嶋津又六郎一列は所定の通筋へ出て、帰着後に本丸で家老へ祝儀を述べるよう求める。第三も三日に臼州細嶋を発ち九日帰着予定と伝え、手当の手抜かりを防ぐ四月式部の通知で、本文亥四月六日松岡十太夫取次注。第四は昨八日高岡を発ち、明後十一日に帰着する予定を宿割とともに伝え、四月九日式部、当日伊地知壮之丞取次注。第五は嶋津圖書が御迎のため都城まで遣わされ、附添の御供にも同様に命じたという四月通知で、文久三年亥四月十日向井新兵衛通達注。九日と十一日は各通知の予定として分け、統一した到着日を作らない。
子8月26日(割当書) / 冊子 378~379頁/原整理番号 542の1/整理ID 542-1
子八月廿六日、長州討手の先陣惣督を嶋津又六郎、副惣督を主殿、一陣惣物主を隼人とし、一・三・六番の物主に刑部・織之介・登を割り当てる書付。大口の山田司、志布志の福崎助七、国分の川上左太夫、清水の武宮十五衛門、二番の仁禮舎人、田布施の喜入雄次郎、末吉の川田掃部、高城の長束十郎、阿多の柳半之丞、帖佐の伊集院喜左衛門、大崎の益滿與右衛門を列記する。末尾にこのとおり長州討手を命じた旨と三原傳左衛門の名がある。担当・役職・組の対応を示し、各組の実出兵人数は記されない。
甲子8月26日軍備・27日写/8月25日家老座・26日勝手方周知注 / 冊子 380~382頁/原整理番号 542の4~5/整理ID 542-4
原の4は旗本の惣督又六郎・副惣督主殿、一陣の組と番号隊を配置する軍備図。高山・大口・大崎には五百目弐挺を示し、国府・高城・清水・志布志・阿多・田布施・伊集院・末吉・帖佐、三・四・二・一・六番の各隊へ中軍・左右備・先手・遊兵・跡備と砲種・挺数を対応させる。五百目・六百目・七百目・二封度などは砲の原表示で、人員数ではない。甲子八月廿六日の長州征伐の軍備、同廿七日の写とする後記を持つ。原の5は九州討手の四順と、七月廿四日の指示どおり人数を繰り出し、八月下旬から九月十日までに筑前へ集会して指図を待つよう命じる書付。状況によっては指図前に進むことも認め、家の高に応じて精兵を選び雑人を省き、大小の船も用意するよう求める。子八月廿五日の家老座通知と廿六日の勝手方・中村新介取次を収める。
9月丹波ほか五署/甲子9月20日伊集院静馬取次 / 冊子 387~388頁/原整理番号 551/整理ID 551
去る五日、傳奏衆から家老が呼ばれ、家老代の高橋縫殿が桜之間で両傳奏衆に対面し、長藩士の暴挙に対して人数を出し追い退けた功により移鞍一具を賜うとの勅使書を受けたと伝える。品物は一橋中納言から渡されることとされ、翌六日に同所から引き渡されたとの知らせが到来した。太守が昨日十九日に拝戴したため、嶋津圖書・又六郎を含む一門、諸大身分と月次御礼の者は明廿一日四時に登城して家老の席で祝儀を述べ、太守・中将への祝儀の扱いも周知するよう求める。九月丹波ほか五署、甲子九月廿日伊集院静馬取次。賞賜伝達、現物引渡、拝戴と祝儀予定を分け。
御系図:元治元年11月記事/12月19日の刀賞賜記事 / 冊子 391頁/原整理番号 556/整理ID 556
御系図「忠義公」の元治元年十一月の記事。毛利大膳が異図を抱いて福原越後・國司信濃・益田右衛門介に率兵させ禁闕を犯したと述べ、勅によって大家が討伐し諸国に徴兵したとする。島津又六郎久明・喜入摂津久高・島津主殿・島津隼人久芳らが兵三千を率いて筑豊二州間に会し、別に在京の衛士が藝州へ派遣され、高橋縫殿種徳が指揮した。やがて毛利大膳が使者を出して降り、三将の首級を提出したので諸国軍を罷め、久明・久高らは鹿児島へ帰ったと記す。続く十二月十九日には久留島伊豫守通靖が茂久の代わりに登城し、家臣が長州勢を破った功への賞として、大家から刀一腰を賜ったとする。刀には越中國・則重の注がある。異図・反逆と功績、降伏・帰兵はいずれも系図の叙述として示し、兵三千は在京衛士を含む総兵力へ合算しない。
永正3年(平山村観音銘の傍注) / 冊子 339~340頁/原整理番号 130-24
川上忠塞家の系譜・姻戚・地頭歴を記した家譜抄。永正三年の平山村観音銘に当村地頭の河上掃部助栄久・同又八郎義久が見えることを掲げ、川上信濃守の女子七人が川上・町田・喜入・石谷・市来各家などへ嫁いだ関係、町田伊賀守の孫にあたる町田出羽守存松斎や河上山城守・舟伴入道との続柄を詳記する。また川上信濃守が串木野・川辺・市来の順に地頭を務め、男子馬之允、帖佐宗善寺の僧、又左衛門、又六(のち将監)へ系統が続いたとし、十一代家林の法名を道舜と記す。『家わけ三』町田文書一六六号と同文と注記する。
八月十五日 / 冊子 157頁/原整理番号 499
伊勢貞昌が肝付豹右衛門兼弘に宛てた書状。先日、又六の来訪時に提出した願文の案文を手元に置いたはずだが見つからないため、写して渡してほしいと頼む。願いの成就を進めたいとして相談を求め、前日に送った二巻も都合のよい時に読んで聞かせてほしいと依頼する。八月十五日付、伊弥九(伊勢貞昌)花押。
(元禄九年)八月四日 / 冊子 965頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2661
高砂覚に、松平修理大夫・源七らの名を掲げ、六日四時前に揃うこと、家来二人ずつを城内楽屋へ伴うこと、当日の献上物は不要であること、翌七日に登城して御礼をすることなどを列記する。当日遅く終わった場合の御礼や翌日の退出時の扱いも示す。
安永四年十一月十三日 / 冊子 475頁/原整理番号 1309/整理ID 1309
安永四年十一月十三日の代初犬追物稽古手組と記し、上手組の名簿を示す。名簿の列記順は嶋津又六郎(二の付記)、入来院隼人、嶋津権十郎(一の付記)、蒲生正左衛門、肥後太郎右衛門、瀬川作平次、上村休之進、海江田半蔵、本田孫右衛門(一の付記)、伊勢亘、嶋津内膳である。検見・喚次欄には川上十郎左衛門、岡元千右衛門を記す。名簿の掲載人名は11枠で、検見・喚次欄の二名は別に保つ。一・二の付記は一疋・二疋を示す。付記のない者もいる。
年月日記載なし(安永四年十一月十三日の四手組の文脈) / 冊子 476頁/原整理番号 1311/整理ID 1311
前後の代初犬追物稽古の四手組に属し、独立した年月日はこの表には記さず、次手組の名簿を示す。名簿の列記順は嶋津筑後、嶋津彌市郎(一の付記)、伊集院平治(一の付記)、上村茂兵衛、汾陽八右衛門、肝付郷右衛門、山澤十太夫、堀千次郎、木脇賀左衛門(二の付記)、新納次郎四郎、喜入善之助である。検見・喚次欄には嶋津又六郎、岡元千右衛門を記す。名簿の掲載人名は11枠で、検見・喚次欄の二名は別に保つ。一・二の付記は一疋・二疋を示す。付記のない者もいる。
安永四年十一月十三日 / 冊子 476~477頁/原整理番号 1312/整理ID 1312
論之犬稽古手組之事と安永四年十一月十三日を記し、論之犬稽古手組の名簿を示す。名簿の列記順は嶋津又六郎(一の付記)、嶋津十太右衛門(一の付記)、本田孫右衛門、喜入休兵衛、鎌田源八、後醍院八郎、嶋津彌市郎、倉山藤覺(一の付記)、蒲生正左衛門(一の付記)、川上四郎(一の付記)、嶋津又七郎(一の付記)、西左太郎(二の付記)である。検見・喚次欄には川上十郎左衛門、相良仁右衛門を記す。名簿の掲載人名は12枠で、検見・喚次欄の二名は別に保つ。末尾の包紙には安永四年未十一月十三日、代初稽古大追物の手組四通を帯刀殿から渡され、写し置いたことを記す。また白木御文書五番箱と百十中ニアリとの所在記載があり、箱の後の八/ハに見える字は原記載として留保する。
天明三年正月十一日~天明四年三月十五日(記事中の経過) / 冊子 737~738頁/原整理番号 2080/整理ID 2080
前年癸卯の正月十一日に南林寺で火災が起き、客殿まで焼けた。来訪中の蒲生郷士大脇孫六と住持泰禅は島津貴久(大中公)の影像を持ち出し、火災後は福昌寺に移した。その年七月二十六日に南林寺の再建工事を始め、翌春三月十日に落成した。十五日に影像を福昌寺から南林寺へ戻し、重豪は島津又六郎久良を、虎寿丸は大島休左衛門久章を大中公廟への参拝に遣わした。
永正十一年十一月十九日 / 冊子 134頁/原整理番号 52
永正十一年十一月十九日の犬追物手組。吉田若狭守・竹田藤次郎・平田右馬助・税所左衛門尉・島津又六郎らの射手を列記し、検見を伊地知周防守、喚次を飛彈源次郎とする。
永正十二年二月七日 / 冊子 135頁/原整理番号 55
永正十二年二月七日の犬追物手組。島津又六郎十九疋、税所左衛門尉十七疋、石井中務少輔九疋などの配当を列記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)、喚次を大寺駿河守とする。