島津家久譜
年月日未詳 / 冊子 319頁
島津家久譜の記事。寛永九年九月八日、家久が通常どおり拝謝し、公が千石大和守を介して美濃柿一筥を家久に賜ったことを記す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 319頁
島津家久譜の記事。寛永九年九月八日、家久が通常どおり拝謝し、公が千石大和守を介して美濃柿一筥を家久に賜ったことを記す。
正月十九日 / 冊子 409頁
島津義久が宰相殿へ、遠境のため連絡を欠いたことを述べ、日向境への出兵と防戦、千石・長宗我部・義統らの動向を説明する。京都との疎隔はないので戦を避けるよう申し渡したが承引されず、戦勝と多数の討死に至った経緯、府内で京都・四州の士卒を島津家久が船で退避させたことを伝え、仲介を求めた書状案。宰相殿の人物同定は保留する。
元禄十三年七月三日 / 冊子 220頁/整理ID 753
島津綱貴が新納美作久珍を介し、島津周防久儔へ采地五千石と御判物を与えた記事。
年月日未詳 / 冊子 220頁/整理ID 754
島津綱貴が島津周防久儔へ高五千石を宛行うとした文書。本文は「此節其方に高五千石宛行う」の趣旨を掲げ、全文は綱貴公御譜中にあるとして省略する。
年月日未詳 / 冊子 448頁/原整理番号 425
島津久賀に従軍した時任氏の日記所収「有馬一起物語」。本丸の有馬四郎をはじめ、二・三の丸、出丸の将や侍大将・使番・鉄砲頭・武士頭・普請奉行の名を列記する。物頭は合計二十一人、年齢は二十から五十まで、勢は一万騎とする。肝付兼屋の従臣緒方主殿の日記にも大同小異の名書きがあり、異なる箇所を傍記したと説明する。
天和元年九月四日 / 冊子 195~198頁/原整理番号 120
『横山慶左衛門日記』延宝八年正月の記事。十二日の春山初御狩には近在の衆中が前日から参集し、日記はこれを『御関狩』と記す。同日鹿児島で大火が起こり、筆者の家も焼失し祖母が亡くなった。後続の記事は被害・死者の報告や救済の米支給を記す。季安は行間注で『御関狩』の呼称の古例を列挙し、この年の狩りと火災を結び付けて考証する。
年月日未詳 / 冊子 355頁
九州の戦乱後、島津義久が一族の女性らを伴って上洛した際、食料不足に陥ったため、豊臣秀吉から扶持として五千石を与えられた記事。 人質的な上洛生活を支えるための扶持給付を記し、豊臣政権下に置かれた島津一族の境遇を伝える。
天正15年10月13日 / 冊子 355頁
八木二千石を島津義久へ与えるので確実に受領するよう命じた朱印状。 上洛中の島津義久に対する具体的な扶持・知行給付を示す短い文書である。
天正15年10月13日 / 冊子 355頁
前文書と文言・月日付・御朱印が同じで、八木千石を原文表記「そうふへきうない」に与えることを記した朱印状抄。 給付対象の人物比定はできないため、島津義久への扶持とする従来の推定を削除した。同時期の八木における知行配分を示す簡潔な記録。
天正15年10月13日 / 冊子 355頁
前文書の「同」を受け、文言・月日付・御朱印はNo.381と同じで、八木千石を「こいてはりまのかミ」(小出播磨守)に与える朱印状抄。 島津義久への給付ではなく、同日に八木の知行が複数の給付先へ配分されたことを示す短い記録である。
天正15年10月13日 / 冊子 355頁
蜂須賀阿波守が借用していた米千石を島津義久へ与えるので、確実に受け取るよう命じた朱印状。 単なる所領給付ではなく、他大名の借米を島津家の扶持へ振り替えた具体的な財政措置が分かる。
天正15年10月14日 / 冊子 356頁
豊臣秀吉が島津義久の在京生活を支えるため、上方で一万石を宛行うと定めた判物。具体的な所付は翌春に決めることとし、当年分は物成の半納分として八木五千石を与え、関係者に配分するよう命じる。降伏後に京都へ留め置かれた義久の生活基盤を豊臣政権が保障したことを示す。
文禄3年8月21日 / 冊子 807頁
増田長盛は、義弘方の城米について陸路・船便で引き渡しを進め、到着した米は各城の扶持方へ配分すると伝える。義弘分千五百石のうち千石は上杉景勝の船で送る一方、現地の蔵が未整備との報告を受け、残りの輸送方法を石田三成とも相談するよう求める。 米の数量、船便、各城への配分を調整した書状で、諸大名間の輸送網と蔵の整備状況まで見える朝鮮在陣の兵站史料。
文禄4年3月18日 / 冊子 870~871頁
城の兵糧として米二千石を博多で渡し、山中山城守・石川紀伊守が受け取って蔵へ納めるよう命じる。船頭の飯米は百石につき四石と定める。 釜山浦の貯蔵兵糧も各城へ配分し、寺沢志摩守の指示で蔵へ保管すること、非常時以外の流用を禁じる。朝鮮在陣軍の兵站管理を数量と担当者まで示す重要命令。
文禄4年7月9日 / 冊子 900頁
細川幽斎(玄旨)が島津義久・義弘へ、島津領の検地後に行われた知行配分が上意どおり整ったことを祝い、島津家の面目となる処置だと評価した書状。 続いて、幽斎自身へ三千石を与えるとの申し出を承知したが、奉公らしい奉公もしていないとして以前から辞退してきたため困惑していると述べる。検地担当者への恩賞と島津領内での知行設定を示す重要史料である。
年月日未詳 / 冊子 913頁
北郷氏が日向都城など十五か所・六万九千石から、薩摩祁答院三万七千石へ所領替えとなった経緯を記す。 長千代丸と一雲法印の移住、家臣団の随従・残留、旧領との関係調整まで述べ、豊臣政権下の大規模な国替えが家中に与えた混乱を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 915頁
北郷時久の四男久村について、幼少の忠能に代わる名代として長年京都に人質滞在したことを記す。 伊牟田・長野・中津川・宋地三千石を石田三成から与えられたとする、北郷庶流の系譜と豊臣政権下での処遇を示す系図記事。
年月日未詳 / 冊子 1頁
文禄五年春、北郷久村が龍伯(島津義久)から肝属小原二千石を賜り、濱之市へ移住して奉仕したことを記す。久村がまだ登城しないうちに豊臣秀吉がその名を聞き召し、これにより小原二千石を与えられたとする譜記事。
文禄五年六月廿四日 / 冊子 29頁
島津忠恒が鎌田出雲守へ、検地後の知行替えで従来の知行が減少し、生活が成り立ちにくい事情を踏まえて処遇方針を伝えた書下。龍伯・武庫に意向を伺い、諸侍を安堵させること、鎌田については特に知行を配慮し、国々の事情で多少は変わり得るものの、まず三千石ほどを与える内意であることを示し、家臣を抱えて忠儀を尽くすよう求めている。
慶長二年十月廿六日 / 冊子 142頁
本文はNo.336と同文のため省略されている。豊臣秀吉が八木千石を原田喜右衛門へ与え、島津義弘の代官を通じて海辺で引き渡すよう命じた朱印状の重複写し。
慶長二年十月廿六日 / 冊子 148頁
豊臣秀吉が島津兵庫頭義弘に、八木千石を原田喜右衛門へ与えるので、薩摩方の代官を介して海端で確実に引き渡すよう命じた朱印状。知行の給付と現地での受け渡し方法を具体的に示す。
年月日未詳 / 冊子 209頁
五月三日、豊臣秀吉が小西行長の釜山先鋒・攻略の功を賞して剣と馬を与え、後日の加増を約した。また順天・蔚山撤退論に反対した加藤嘉明を褒めて三万七千石を加増し、同じく撤退に従わなかった宗義智にも書を与えて賞した。島津義弘父子も撤退論に同意せず、先鋒の判断に任せると述べたと記す。
(慶長三年)九月十六日 / 冊子 237~238頁
島津義久(竜伯)が島津忠恒に、大峯先達から島津義弘は護摩の効験で間もなく平癒すると聞いたこと、石田三成から義弘・忠恒父子は国元へ直ちに帰朝してよいとの意向を得たので相談して好機を選ぶことを伝えた書状。宰相の暇は伊集院幸侃を通じて交渉すること、買い入れた八木七千石のうち七百石しか上っていないため甚五郎の怠慢を責めること、相良新右衛門の奉公任命、在番三交替の調整についても述べる。
(慶長三年)十一月廿三日 / 冊子 287頁
島津義久・義弘・忠恒が(慶長三年)十一月廿三日付で連署した条書。夫役は原則として高千石につき一人に制限し、代官の過剰徴発は訴え出るよう定める。年貢米の運搬距離、遠距離輸送時の飯米、水夫の切米・飯米、三人の蔵入分の負担方法を示し、麦年貢を永代徴収しないこと、植木・茶園は屋敷主や地下の扱いとすることなど、領内負担の統一基準を掲げる。
二月四日 / 冊子 351頁
島津義久が北郷長千代に、名代の久二郎は当分伏見にいて給分地二千石を確保しているものの、今後は若年でも自身で上洛するよう命じる。久二郎には高麗または当地で二千石相当の役儀を勤めさせる旨を安宅殿と相談したので、安三州からの指示も踏まえて分別するよう求める。
慶長四年二月廿日 / 冊子 352~353頁
島津義弘が亀寿に、薩摩国日置郡の串木野村・荒川村・羽島村・伊集院谷口村から合計五千石を公役のない知行として与える。幼少以来在京して一家のために奉公した苦労をねぎらい、事情が変わってもこの知行を相違なく保持するよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 355~356頁
慶長四年三月五日、島津以久が種子島から大隅垂水へ移され、島津忠恒から一万一千六百八十七石の知行に関する判物を与えられたことを記す。続く文面では、合計一万一千石のうち千石を無役、残る一万石を役儀負担とし、図書頭に勤務を命じる。
年月日未詳 / 冊子 356頁
島津忠長が新恩として、大隅国肝付郡の川東柏原村、串良の内岩広村、寄田村、上分高隈の内から浦役を含む合計二千石を与えられたことを記す。このうち千石は加増、千石は先年の支配時に上地した分の返地であった。
慶長四年三月五日 / 冊子 356頁
島津忠恒が図書頭に知行を宛行う。本文には、村々と浦役を合わせた二千石について、千石を加増、千石を先年上地した分の返地とする記載があり、続いて合計一万一千石のうち千石を無役、残る一万石を役儀負担として勤めるよう命じる。
(慶長四年)三月廿五日 / 冊子 362~363頁
竜伯が又八郎に、大坂出船後の帰着、当所へ移す衆と屋敷配分、馬術に優れた入来院又六を当地に置く希望を伝える。荒地が多く当年の耕作が進まないこと、種子島左近大夫の知行を検地高五千二百余石と内検高八千五百石の中間である七千石(うち三百石加増)とする案、右馬頭の返地後に種子島を与える段取りを述べ、京都の息女の件を石田治部少輔や小西へ働きかけるよう依頼する。
年月日未詳 / 冊子 495頁
慶長五年、北郷忠能が庄内の本領を安堵されたことに伴い、勝岡・石山の内から久村へ三千石を与えた記事。久村の知行三千石にかかる課役は、忠能の総高の内として扱われたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 539~540頁
慶長五年五月四日、北郷三久の七年間にわたる軍功を賞し、采地千石を加増したことを記す。
慶長五年五月四日 / 冊子 540頁
島津忠長と平田増宗が連署し、加増高二千七百三十石のうち、庄内下川路有水の高千石を北郷作左衛門尉に与えることを示した加増目録。
年月日未詳 / 冊子 662-663頁
関ヶ原敗戦後、伊勢平左衛門から島津義弘(惟新)の所在を聞いた今井道与は、住吉辺に潜む義弘を迎えて自宅で休ませ、厳しい落人改めを避けて夜に堺の塩屋孫右衛門宅へ移した。大坂川口の通行手形や船を手配し、義弘の船と夫人方の船を沖で合流させて帰国を助けた。この忠節により後に千石・無役を約されたと訴える願書である。
年月日未詳 / 冊子 672-683頁
新納忠元の勲功記から、慶長五年の庄内合戦終結、伊集院忠真の降伏、上杉征討、岐阜城・竹ヶ鼻での石田三成方の敗北、関ヶ原本戦と島津義弘(惟新)の敵中突破・退却、大坂の夫人方救出と海路帰国を詳述する。帰国後の稲津掃部の動きや伊東方への備え、肥後の加藤清正への警戒、大口の地頭職と千石加増までを時系列に記録する。
慶長五年十二月二日 / 冊子 719頁
薩摩国祁答院の山崎村、指宿十九町の浦之門・尾辻之門・下吹越之門内を、合計千石余の加増として島津忠長へ与える目録。鎌田政近・比志島国貞・平田増宗が連署する。
慶長六年正月二十八日 / 冊子 744頁
北郷三久譜に、慶長六年正月二十八日に采地千石を加増され、その詳細は国老連判の証書にあると記す記事。証書本文は後掲されるが、三久譜本文には見えず疑義があるとの史料注記も付く。
慶長六年正月廿八日 / 冊子 744-745頁
日向国諸県郡の志和知・水流村など各地の知行を列記し、合計千石を北郷三久へ加増する目録。島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近が連署する。
年月日未詳 / 冊子 921頁
島津久元譜は、嗣子のなかった新納四郎忠実が島津久元(初名忠在)を猶子として家統を継がせたと記す。慶長八年十二月、久元は日向国真幸院木永村へ移住し、領内一千石を与えられた。
年月日未詳 / 冊子 960頁
島津忠直譜は、兄豊久が戦死して継子がなかったため、慶長九年に忠直が太守の命で後嗣となったと記す。しかし病で狂心となり、長女を喜入摂津守の長子へ嫁がせて兄の家を継がせ、自身は千石を領して三代堂村に隠居した。
年月日未詳 / 冊子 569頁
元和元年正月、大坂が平定され諸軍が帰還した後、北郷忠能の領地が多いことを検地で確認し、三千石を加増して本高を四万四千四百余石とした北郷忠能譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 720頁
島津義弘の娘が元和五年冬に江戸から薩摩へ戻り、多年の功労により加増地二千石を与えられ、元和七年に島津久元へ嫁ぎ、慶安二年に死去したことを記す系譜記事。
寛永九年四月廿二日 / 冊子 262~265頁
薩摩領内の知行物成の「ならし」と船役・出銀をめぐり、平田狩野介・東郷藤兵衛尉らとの談合事項を列記した条書。五百石取四人を合わせた二千石・四十人乗り・十二端関船について、船の仕立て、加子賃・飯米を銀四貫百目(高一石につき二匁)とする試算、自船・借船・船の惣置を検討する。さらに琉球口の商売と銀調達・出銀、駒牽夫、奉公衆と非奉公衆、領主・百姓の耕作と物成不足、外城衆・江戸上落衆の扱いなどを定める。
年月日未詳 / 冊子 278~279頁
島津家久が種子島左近大夫忠時の室・息女へ仮名書状を与え、忠時一族の代々の奉公と忠勤を賞したこと、忠時が家蔵の硯・茶壺を献上したことなどを踏まえ、種子島中の公領四千石を忠時へ与えたと記す家久譜の記事。
(寛永九年)八月廿二日 / 冊子 312~314頁
島津久元・伊勢貞昌が、吉利下総守・新納右衛門佐を通じて伝えた国元軍役の談合状況を問い、武具兵具の調達、道具用意、知行高に応じた具足・馬・武具の賦課、御城の総高六拾万五千石を基準とする軍役などについて、早急な決定と報告を求めた連署書状。
年月日未詳 / 冊子 366頁
島津家久譜の記事。長崎奉行今村正長・曾我古祐から、久元の所領について東郷三千石を新たに与え、従来分と合わせ一万石とし、公領も交えて支配させる旨の幕命が伝えられたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 374頁
島津家久譜の記事。島津又五郎久近の母が先年江戸で人質を務めた功により、島津義弘の死後、家久が高三千石を与え、諸役・公事を免除する証書を授けたことを記す。
(寛永十年)七月十二日 / 冊子 374頁
島津家久が、先年女性の身で江戸へ人質として長年滞在した功を賞し、知行三千石を与えること、本人一代は諸役などを免除することを仮名書きで伝えた書状。
(寛永十年)十月五日 / 冊子 387頁
島津光久が弾正大弼へ、祁答院返地に代えて東郷を与えられ、さらに三千石を加増されたことに伴う太刀一腰・馬一匹の進物を喜び、詳細は伊勢貞昌が伝えるとした書状。
年月日未詳 / 冊子 407~408頁
弾正への知行三千石について、祢答院と東郷の替地、三千石の加増、当初の約束と今回の処置、町田駿河守・児玉筑後守を使者とした経緯を記す覚書。