一色範親感状
延文六年六月廿九日 / 冊子 20頁
一色範親が土持八郎に、清瀬徳らが当井城へ攻め寄せた際に馳せ加わって合戦し、親類・若党が負傷したとの注進を賞し、今後も忠節を尽くせば恩賞を与えると伝えた感状。
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延文六年六月廿九日 / 冊子 20頁
一色範親が土持八郎に、清瀬徳らが当井城へ攻め寄せた際に馳せ加わって合戦し、親類・若党が負傷したとの注進を賞し、今後も忠節を尽くせば恩賞を与えると伝えた感状。
延文六年十月九日 / 冊子 21頁
一色範親が土持八郎に、三日の合戦で忠節を尽くしたとの貞綱の五日付注進を確認し、毎度の軍忠を賞して、さらに忠節を尽くすよう求めた感状。
永享四年十一月十六日 / 冊子 359~360頁
島津忠国が二宮八郎左衛門へ、薩摩国河辺別府の『先立弐』と記される所領を、忠節に相違がないことを条件として宛行った文書。本文年紀は『永享三年十一月十六日』。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 234頁
前田八郎左衛門尉に宛て、薩摩国加世田庄宮原名内の田畠を列記した老臣連署坪付。久木井・喜栴介などに関わる田地・畠地を合計二反として示す。
文禄4年8月3日 / 冊子 904~905頁
義弘は久四郎の死去を悼み、悲嘆を抑えて国事に当たるよう鳴津又八郎を励ます。 祈祷の僧や八幡座主・貞徳院のこと、京都出立から細島着までの帰路、栗野在番衆の交替や船の手配まで伝える、公私の用件が重なる書状。
文禄4年8月15日 / 冊子 905頁
立花方は大明との和平に関する知らせを喜び、しばらく滞留する件を了承したと鳴津又八郎へ伝える。 海路・陸路とも警戒を固め、用件があれば申し越すよう求めるなど、講和局面でも交通と軍事上の用心を解かなかったことが分かる。
文禄4年8月27日 / 冊子 908頁
竜伯は鳴津又八郎に対し、久四郎が七月四日に死去したとの知らせを受けたと記し、言葉に尽くせない驚きと嘆きを伝える。 短文ながら、朝鮮出兵期の島津家中における近親者の死の伝達と心情が直接表れる弔意の書状。
文禄4年8月28日 / 冊子 909頁
秀吉は鳴津又八郎が当番衆として残り、引き続き辛労していることをねぎらう。 詳しい事情は岡田勝五郎に申し含めたとし、静謐が進んでいるので心配は不要と伝え、増田長盛・石田三成・山中山城守からも説明させる朱印状。
文禄4年9月13日 / 冊子 912~913頁
義弘は二人の処罰や関係者の処置について、竜伯・石田三成との熟談を踏まえて幸侃と帰国し、知行配当を進めていると報告する。 京都・九州衆・在陣衆の動向や帰朝後の配置にも触れ、講和・撤兵期の家中再編を又八郎へ細かく指示した長文書状。
文禄4年10月2日 / 冊子 916頁
竜伯は石田三成から贈られた黒馬をいったん「武庫」のもとに置き、後日又八郎へ渡す手順を伝える。 京都での役職・人員配置や召し寄せについても触れ、使者の平田太郎左衛門から詳しく聞き、重要事項なので油断なく処理するよう求める。
文禄4年10月2日 / 冊子 916~917頁
義弘は京都での処置が延引している事情を伝え、領内の人員移動や知行配当を急いで進めるよう又八郎へ指示する。 食糧不足や物資輸送への配慮、幸侃らとの相談にも触れ、帰朝後の混乱を抑えながら国元再編を進める苦心が表れる。
文禄4年10月4日 / 冊子 917頁
忠恒は上井仲五から又八郎の無事な下着と意向を詳しく聞いて喜び、国元の「置目」を整える苦労をねぎらう。 帰朝後の奉公や家中の処置に加え、祈念坊主を市来大日寺から参勤させる件も相談し、政務と信仰実務を併せて依頼する書状。
(慶長元年)正月十六日 / 冊子 2頁
豊臣秀吉が島津又八郎の長期にわたる在番の辛労をねぎらい、小袖一領を下賜し、詳しいことは毛利豊前守・平野新八郎から伝えるとした朱印状。
(寛永八年)正月廿八日 / 冊子 249頁
山奉行の内田仲左衛門・大窪半兵衛が、島津又八郎の武芸鍛錬のため竹子鹿倉山を猟場とする願いについて、又八郎の家系と実父島津家久の朝鮮・琉球での軍功などを挙げ、国政への参与を願い上げた上申状写。
寛永十年二月十日 / 冊子 353~354頁
猿渡城之介・時任右京亮が本田与八郎へ出銀の皆済を認めた連署請取状。高百五十四石九斗六升を基礎に、米・鳥目の銀換算を記し、銀二百三十二匁四分四厘を受領した。
七月廿八日 / 冊子 88(本文はNo.601・冊子頁265参照)頁
島津実久が奈良原八郎左衛門尉に宛てた書状。本文はNo.601と同文のため省略されている。No.601本文によれば、先便の趣旨を承知し、当該の件を早々に取り計らって下すよう求め、実現すれば喜ばしい旨を伝える内容である。
四月朔日 / 冊子 38~39頁
徳川家康ら五大老が島津義弘(羽柴薩摩侍従)・島津忠恒(島津又八郎)父子へ、時勢を守り、下々の者がみだりに海を渡ることを厳禁し、法度に背けば本人だけでなく一類を成敗し、島津側の落度にもすると警告した連署状。
(文禄五年)正月十六日 / 冊子 157頁
長期間の朝鮮在番を大いにねぎらい、小袖一領を下賜し、詳細を毛利豊前守と平野新八郎に託した豊臣秀吉朱印状。
大永八年八月十九日 / 冊子 532頁
山田太郎左衛門と島津道正が争った倉分・倉所の所領について、山田方の非を認めて道正の跡を継ぐ島津八郎左衛門へ宛行い、年貢・諸公事を怠らず永代知行するよう命じた内藤光康書下。
(文禄2年)6月22日 / 冊子 709~710頁
朝鮮へ渡海して各地の城番を務める島津勢の配置や、久四郎をめぐる処置について報告し、帰国・上洛後の扱いを相談する。 鉄砲・刀・脇差などの武具の配分、酒宴や家中の振る舞いにも触れ、在陣中の軍務と親族・家中への細かな指示が入り交じる義弘書状。
文禄4年7月26日 / 冊子 904頁
連署者は書状の到着を受け、早々に出立して釜山海へ来るよう催促する。 当地で渡海を待つ者がいる事情を示し、相談すべき用件があれば急いで申し入れるよう求めた、朝鮮在陣中の移動命令に近い連署状。
文禄4年8月29日 / 冊子 909頁
三成は遠路からの使札に謝し、長期在陣の苦労をねぎらったうえで、竜伯・義弘の帰国と国元の知行配分を知らせる。 義弘の帰朝後も在陣側で番や法度を厳守し、失態がないよう申し付けることを求めた、領国再編と軍紀維持を結ぶ書状。
文禄4年9月3日 / 冊子 909~910頁
義久は帰朝の時期について繰り返し尋ね、諸将が一斉に上洛するなかで一人だけ国元へ戻るのは不都合だとして慎重な判断を促す。 宮内少輔や石田三成からの伝言にも触れ、在所・上洛・在陣の動きを周囲と合わせるよう諭した書状。
文禄4年9月13日 / 冊子 913頁
義弘は追而書で、栗野衆を帖佐まで移す一方、鹿児島への大量移転は事情があって見合わせたと伝える。 帰朝時に詳しく面談し、本源右衛門尉の件も処置するとし、領内の人員移動と配置を具体的に知らせる。
(慶長七年)十一月四日 / 冊子 859頁
島津忠恒が国元の家臣へ、上洛後に福島正則・山口直友や諸大名から格別の厚遇を受け、交渉が順調であると報告する。内府は関東へ下向中だが年内に上国する見込みであり、国元の諸事を念入りに処理するよう命じた。
(寛永九年)二月廿五日 / 冊子 259頁
学問、馬稽古と十八ヶ条、鉄砲稽古と薬の扱い、謡、蹴鞠、弓、狩り・鷹狩りを毎日油断なくたしなみ、かたきあしき者を好まないよう求めた条書。
正月十五日 / 冊子 174~175頁
年頭を祝い、祝儀として太刀一腰・馬一疋・小袖一重を贈られたことへ礼を述べ、当地は万事変わりないと知らせ、学問と奉公を油断なく勤めるよう求めた書状。
九月廿五日 / 冊子 542頁
中尾村争論が引付・評定を経て下知されたことを報告し、案文を送る。伊作庄の下知は重大なので国元で慎重に対処し、代官の非法によって所務命令が損なわれないよう配慮を求めた左衛門尉盛景書状。
慶長五年十一月廿八日 / 冊子 620頁
新納新八郎ら十一名が、用に備えて銀子一貫目(うち七匁不足)を借用したことを証する。利子について配慮を受けたことに謝意を示し、本銀は各人が国元へ下る次第、早々に返済すると約束する連署借用証文である。
宝暦九年七月朔日 / 冊子 727頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2198
宝暦九年七月朔日付の加冠仮名書出は、嶋津大八郎の加冠に際し、源七と称するよう定める。本文に「御判」と記す。
天明三年十月十九日 / 冊子 705~706頁/原整理番号 1986/整理ID 1986
島津重豪が島津千次郎の加冠に際し、仮名を又八郎とするよう定めた書出。天明三年卯十月十九日付、御判。正文は島津遠江にあるとの保管注記を伴う。
天明五年十二月二十八日 / 冊子 845~846頁/原整理番号 2328/整理ID 2328
家筋を重んじ、谷山下福元村・伊集院下谷山村・河辺郡山田中山田村・曽木永野村などの内から知行百石を山田八郎右衛門に与える。名寄帳は別冊とし、宮主膳ら五名が連署する。
目録年月日記載なし / 冊子 511頁/原整理番号 53
寛文八年正月十一日、先の寺社奉行鳴津新八郎の上洛御供と、御城内への書付差出・帳箱等の扱いを記す。
永享六年十月廿九日 / 冊子 368頁
石井忠義が亡父道亭のため、下大隅市木内の八郎次郎塩屋から上がる年貢三貫文を福昌禅寺へ寄進し、塩屋の万雑公事について子孫に至るまで違乱を禁じた文書。
寛正二年十一月廿四日 / 冊子 441頁
島津立久が、河上又八郎方と大寺彦左衛門の間で扱われた所領について、違乱がないよう安堵した文書。
寛正二年十一月廿四日 / 冊子 463頁
島津立久が、河上又八郎方と大寺彦左衛門の間で扱われた所領について違乱がないよう安堵した文書。本文はNo.1400と同文のため省略される。
年月日未詳 / 冊子 592頁
島津勝久が島津忠昌の第三子として生まれ、幼名を宮房丸、元服後に又八郎忠兼と称し、のち勝久と改名したことを記す西藩野史の記事。
年月日未詳 / 冊子 669頁
川上氏支流について、忠直・忠真・八郎三郎・筑前守らの系統、名乗りや続柄を列記した系図記事。
年月日未詳 / 冊子 683頁
町田氏の支流について、石谷高久から左京亮頼本・伊賀守梅吉・忠榮・八郎左衛門尉らへ続く系統と法名を記す系図記事。
年月日未詳 / 冊子 867~868頁
天文十七年十二月十四日夜、伊東勢が再び新山城を攻めて火箭を射た際、村田八郎らが防戦し、本城の援兵とともに敵を退けた経過を記す。
天正六年九月十五日~二十九日 / 冊子 547頁
豊後勢集結の日、島津方が石城を攻め、城方も昼夜防戦した。稲津孫八郎・福永宮内少輔はたびたび鑓を合わせ戦死し、山田土佐守・宮田太郎次郎・長倉勘解由左衛門は分捕りの高名を挙げた。しかし豊後の軍事行動が遅れて救援を得られず、九月二十九日に石城を捨てた。
年月日未詳 / 冊子 667~668頁
加藤清正が咸鏡道から金山方面へ進む際、斎藤・立本・荘林隼人・龍造寺又八郎ら五千を先発させ、群盗に包囲された金山を救援した戦闘を記す。与三右衛門や伊東勘平・井出市左衛門以下二百余人が戦死し、援軍は遺骨を焼いて翌日帰陣した。 清正は咸鏡道を離れて二月五日に王城へ入り、休息せず五、六日間群盗を追討して城内を鎮静化したという。損害と戦後処理まで伝える朝鮮出兵記事。
慶長四年七月廿四日 / 冊子 406~407頁
御ちよ以下十九名が、又八郎夫妻に対して別心を抱かず、御前での応対、上方の沙汰、主人への取次、親子・夫婦間の事柄、朝夕の食事などについて秘密を守り誠実に奉公することを誓う。違背時には多数の神仏の罰を受ける旨を列挙し、連署する起請文である。
年月日未詳 / 冊子 461頁
庄内山田城の本丸と二之丸の間で十月廿一日夜に火災が起こり、周辺の陣屋多数が焼失したことを記す。この火災で兵器奉行の川上藤右衛門と伊地知彦八郎が焼死した。
(慶長五年)十月卅日 / 冊子 606-607頁
島津忠長が、使者として下向した本田助之丞を祝し、不慮の事態による一同の難儀を気遣って和平成立への見通しを述べる。上方へ送る書状などの取り次ぎと、書状中の割符を惣新八郎へ渡すことを依頼する。
慶長七年七月 日 / 冊子 828頁
島津義久が少将忠恒へ、度重なる上洛命令を受けて準備したものの、前年以来の病気が悪化したため、急きょ又八郎を上京させると説明する。名護屋在陣以来の厚意を忘れず、公儀へ別心はないこと、病を仮病と疑われるのは迷惑であることを神仏に誓い、この趣旨の取次を頼んだ書状案。
(慶長十一年)四月一日 / 冊子 63頁
島津義弘(惟新)がゆの殿に、世継ぎに関わる縁談について返答した書状。弥二郎を望む意向を承知した一方、藤二郎の妹との縁組について少将殿から話を受けているため、まず少将殿へ内意を伝えて返事を得たうえで、その意向に従って取り計らうよう述べ、弥八郎や平松への伝達にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 634頁
「光久公御譜中」に、島津忠朗(初名忠平、忠明、又八郎、兵庫)が元和二年十一月七日に誕生し、母は家臣鎌田政重の娘、延宝四年二月十六日に没したことなどを記す。島津光久本人の出生記事ではない。
(元和五年五月)廿五日 / 冊子 685頁
島津家久が、馬を次の上洛時に又八郎へ進めるので大切にするよう伝え、腫れ物は小さくなり、喉の具合はなお同じだが次第に回復する見込みで、ほかに変わりはないと加治木から知らせた書状。
(元和五年)六月五日 / 冊子 703~704頁
本田親政・高崎能乗が京都から、家久の将軍への御目見得が済んだこと、八郎の礼儀が賞賛されたこと、贈答品の処置や銀子の不足などを喜入・比志島・三原へ報じた連署状。