有川貞政書状
(慶長六年)五月二十五日 / 冊子 762頁
有川貞政が本田助允に、銀子二百五十八匁の相渡しと、供の者六人へ三か月分の飯米・衣裳分を給したことを記し、銀子の用途を詳しく書き留めるよう求めた書状。
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(慶長六年)五月二十五日 / 冊子 762頁
有川貞政が本田助允に、銀子二百五十八匁の相渡しと、供の者六人へ三か月分の飯米・衣裳分を給したことを記し、銀子の用途を詳しく書き留めるよう求めた書状。
応永十八年十二月五日 / 冊子 260頁
本田元親が樺山方に、公方へ忠節を尽くすこと、互いの重大事を自分の重大事とし、和譲・凶害を申し出る者の言葉を相互確認なしに信用しないことを神仏に誓った契状。
応永廿三年二月廿九日 / 冊子 295頁
本田元親が用途のため、水田一町を代銭二十七貫文で本物返の質地として入れ置き、定めに従って請け戻すことを約した質券。
文禄3年5月7日 / 冊子 785頁
元親が帰朝前に確認すべきことがあり出発を延ばしていると知らせ、島津侍従から石田三成へ飛脚を立てる件を取り次ぐ。大坂へ直行する船を用意し、船中の賄いも手配すると申し出る。 飛脚と書状を幸侃へ確実に届けるよう求めた、朝鮮から上方への連絡・輸送を具体的に示す書状。
(慶長元年)五月朔日 / 冊子 20頁
長宗我部元親が羽柴薩摩侍従方へ、前日に使札を受け取り、龍門の途中で相手方の使者に会ったことを伝える。陣の交替衆が近辺まで渡って来たとの風聞は真偽不明とし、薩摩侍従が帰朝するなら必ず対面して意向を承りたいと述べた書状。
(慶長三年)四月九日 / 冊子 202~203頁
長曽我部元親が又八郎へ、諸城へ備蓄する玉薬について、固城で寺沢殿の指図と割符があり、藤堂佐渡の備蓄数に応じて元親方も加えるよう志摩殿から伝えられたため、新たに玉薬三万放を持参させた書状。封をしたまま受け取り、以前の二万放と合わせた請取状を使者へ渡すよう求める。また先に返送された玉薬は元親方で未受領だと照会し、又八郎の十分な玉薬準備を寺沢殿へ報告したこと、当地の普請は二十日頃に概ね整い帰朝予定であることを伝える。
慶長六年正月十九日 / 冊子 743頁
本田助允(元親)が、上方で不慮に拘束され領国安堵のため往返した際にも、島津家に害となる情報を漏らさず、計策に加担せず、他家へ仕えず、龍伯・義弘・忠恒に忠節を尽くすことを神文にかけて誓った起請文。
慶長六年正月十九日 / 冊子 743-744頁
本田助允(元親)が自身の知行を整理した覚書。永吉村・入来裏名村・帖佐舟津村・蒲生久徳村・馬越徳満村など計百八十石の内訳と、勝次郎の次男分としての新地、京都への領国安堵使節を重ねた功による加増二百石の約束などを記す。
慶長七年七月七日 / 冊子 823頁
本田親次・元親父子が連署し、主君に背かず命を懸けて奉公すること、外部の計策に従わず直ちに報告すること、主家のためになる事柄を隠さず申し上げることを神仏に誓った起請文。
慶長七年七月五日 / 冊子 823-824頁
本田親次・元親父子が、主君への忠節、陰謀への不参加、重要情報の即時報告を誓約した連署起請文。違反時には諸神仏の罰を受けるとする。
慶長七年七月十七日 / 冊子 827頁
本田助丞元親が、財部伝内・中馬甚右衛門尉との三人組で菊屋宗可から京都で購入した小袖代の未進銀六十八匁について、返済責任と精算方法を記した証文。
慶長十二年十二月廿二日 / 冊子 136~137頁
慶長十二年十二月二十二日、本田元親が、高麗から伏見へ上った時期、庄内の戦いに伴う使者奉公、帖佐・伏見間の往復、随行人数と帰着日、在京中の合力や飯米支給などを年代順に申し出た指出。
慶長三年正月廿六日 / 冊子 59~60頁
蔚山での明・朝鮮軍の攻撃を踏まえ、西生浦・順天・泗川・固城・梁山など朝鮮南岸諸城の位置、在番大名、兵数、普請分担を再検討し、島津勢の配置替えを含む防衛再編案を豊臣政権へ言上した連署状。
応永十九年二月八日 / 冊子 263頁
島津元久が、本田氏相伝の大隅国守護代職について、代々の忠節と元親の奉公を踏まえて相続を認め、先例を守って国中の成敗を行うよう命じた施行状。
応永卅四年六月一日 / 冊子 338頁
本田元親こと沙弥安了が、道親・妙壽両霊の位牌田として雉牟田所在の田三段を榜巖寺へ寄進し、違乱を禁じた文書。
応永卅四年六月一日 / 冊子 338~339頁
本田元親こと安了が、妙榮大姉の買得地である五反畠五段を先妣玄久禪尼の後生菩提のため榜巖寺へ寄進した文書。
応永卅四年六月一日 / 冊子 339頁
本田元親こと安了が、妙榮大姉の位牌田として大山所在の田五段を榜巖寺へ寄進し、違乱を禁じた文書。
年月日未詳 / 冊子 448~449頁
本田国親が屋形重恒を不義として退けようとした事情と、元親・親光・重恒をめぐる本田家の家督・所領継承、被官の直参化、国親の鹿児島居住と奉公の経緯を記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 238~239頁
島津家久が豊後南郡へ進み、府内近辺の諸城を攻略する一方、大友義統・仙石秀久・長宗我部元親らの大軍が十二月十三日に家久の利光陣へ迫った経過を記す。家久方は河川の増水と地形を利用して伏兵を置き、敵の渡河を待って反撃し、長宗我部信親らを討つ。戸次川合戦から大友方の退却、島津軍の追撃・府内進出までを連続して示す。
年月日未詳 / 冊子 255~264頁
天正十四年末、島津軍が複数路から豊後へ侵攻した経過を、各隊の進路・城攻め・戦死者まで日を追って記す長編軍記。鶴賀城攻防を経て、戸次川では島津家久軍が仙石秀久・長宗我部元親ら四国勢を破り、長宗我部信親・十河存保らを討ち取った。その後、府内へ進み、大友宗麟が籠もる丹生島城をはじめ諸城を攻めるが、鉄砲・夜襲・火攻めを交えた激戦でも堅城の抵抗は続く。島津方の勝利だけでなく、損害・兵站・攻城の難航まで描き、豊後戦役全体を追える中核史料である。
(慶長六年) / 冊子 740-741頁
本田助允(元親)が自身の知行内訳と加増約束を記した案文。本箇所はNo.1453と同文のため本文省略。永吉村など計百八十石、勝次郎の次男分の新地、京都への領国安堵使節の功による加増二百石の約束を内容とする。
慶長六年正月十三日 / 冊子 741頁
本田助允(元親)が、上方で不慮に拘束され山口直友のもとに置かれた後、領国安堵の使者案内として下向した事情を記し、上方の計策に加担せず、島津義久(龍伯)・義弘(惟新)・忠恒(家久)への奉公以外に別心を持たず、他家へ仕えないことを誓う起請文前書の案文。
(慶長六年)正月十六日 / 冊子 741-742頁
島津忠恒(家久)が鎌田政近に、上方からの使者への返答は従前の方針を変えず、本田元親に十分理解させるよう指示した書状。徳川家康への忠誠を忘れず島津家の存続を図る一方、義久自身の上洛には慎重を期し、最悪の場合は家中一味で防戦する覚悟を伝える。
年月日未詳 / 冊子 231頁
『島津国史』が、応永十六年春に島津元久が将来の幕府参向を見据えて留守を諸将へ託したこと、同年三月二日に九人が連署し、争いと讒言を避けて協力し、国を守り元久の帰還を待つことを神前で盟約した経過を記す記事。
応永十六年三月二日 / 冊子 231~232頁
山田玄威ら九人が、島津元久の上洛中は一味同心して国を守り、匠作の不忠が明らかな以上は協力して退治し、讒言や争いが起きれば理非を確かめて処置すると神々に誓った連署契状。
年月日未詳 / 冊子 849~850頁
大隅で本田氏旧臣が反乱し、政道を乱したため、本田治部左衛門らの処断と一党の追放に至った経過を記す覚書。
年月日未詳 / 冊子 241~242頁
島津義久が日向・大隅・薩摩・肥後・筑後の軍勢を動員して豊後へ向かわせ、義弘が肥後口から南郡へ、家久が日向側の険路から進んだ配置を記す。家久勢は城を攻め、敵の救援軍を河川・険路で迎撃して多数を討ち、府内方面へ追撃した。戸次川合戦を含む家久軍の進路、兵数、攻城と追撃を詳述する軍記記事である。
年月日未詳 / 冊子 254~255頁
別の『日向記』は、高城敗北後に圧迫された大友宗麟が上洛して羽柴秀吉に救援を求め、秀吉が中国・四国勢を豊後へ送った背景から説き起こす。宇喜多・毛利・小早川・仙石・長宗我部らの軍勢が進む一方、島津家久勢がこれを迎撃し、河原・城郭での戦闘、敗走、討死・捕虜の発生へ至る。九州征伐前夜の豊臣方援軍と島津軍の衝突をまとめた記事である。
(天正15年)正月19日 / 冊子 272頁
本文はNo.230と同文のため原資料では省略されている。島津義久は、戸次川合戦について、大友方が仙石秀久・長宗我部勢を引き入れて日向境へ攻め寄せ、制止にも応じなかったため、やむを得ず防戦して勝利したと説明する。数千を討ったと報告する一方、府内に残った京都・四国勢には弟の島津家久が大船を用意して退去させたと述べ、秀吉の停戦命令に背く意図はないこと、敵兵にも寛大に対処したことを強調して取り成しを求める。戸次川合戦後の島津方の弁明と外交戦略を示す書状。
(天正15年)正月19日 / 冊子 272頁
本文はNo.231と同文のため原資料では省略されている。島津義久は、戸次川合戦について、大友方が仙石秀久・長宗我部勢を引き入れて日向境へ攻め寄せ、制止にも応じなかったため、やむを得ず防戦して勝利したと説明する。数千を討ったと報告する一方、府内に残った京都・四国勢には弟の島津家久が大船を用意して退去させたと述べ、秀吉の停戦命令に背く意図はないこと、敵兵にも寛大に対処したことを強調して取り成しを求める。戸次川合戦後の島津方の弁明と外交戦略を示す書状。
正月19日 / 冊子 272頁
島津義久は、戸次川合戦について、大友方が仙石秀久・長宗我部勢を引き入れて日向境へ攻め寄せ、制止にも応じなかったため、やむを得ず防戦して勝利したと説明する。数千を討ったと報告する一方、府内に残った京都・四国勢には弟の島津家久が大船を用意して退去させたと述べ、秀吉の停戦命令に背く意図はないこと、敵兵にも寛大に対処したことを強調して取り成しを求める。戸次川合戦後の島津方の弁明と外交戦略を示す書状。
正月19日 / 冊子 273頁
島津義久が石田三成へ送った書状。島津義久は、戸次川合戦について、大友方が仙石秀久・長宗我部勢を引き入れて日向境へ攻め寄せ、制止にも応じなかったため、やむを得ず防戦して勝利したと説明する。数千を討ったと報告する一方、府内に残った京都・四国勢には弟の島津家久が大船を用意して退去させたと述べ、秀吉の停戦命令に背く意図はないこと、敵兵にも寛大に対処したことを強調して取り成しを求める。戸次川合戦後の島津方の弁明と外交戦略を示す書状。
(慶長三年)四月十五日 / 冊子 203頁
池田孫次郎が又八郎へ、豊臣秀吉の朱印により、城の普請が完成して城主へ引き渡した後は、示した案文どおりの請取状を得て帰朝するよう命じられたと伝えた書状。長土佐・中修理からも同趣旨の連絡があったため、両所に送ったものと同様の一書を求める。池田自身も翌日に現地へ赴き、近く帰朝するので使者へ渡すよう依頼し、疑念がないよう朱印の写しを添える。
慶長六年五月二十五日 / 冊子 762頁
本田助允が、有川貞政から受け取った銀子・米・銭・衣裳調料などの内訳と、その配分先・数量を列記した会計覚書。
慶長七年七月十七日 / 冊子 827頁
本田助丞が、曽木五兵衛・中馬甚右衛門尉との三人組で菊屋宗可から京都で購入した小袖代の未進銀二百四匁について、自分の負担分を算用して精算するよう求めた証文。
慶長七年七月七日 / 冊子 50頁/原整理番号 5
本田元親・親次が伊勢平左衛門尉へ、上方での戦後、惟新を見捨てず身命をかけて奉公し、逆心の誘いには加わらず、計策や御為になる情報を直ちに報告し、隠密を守ると誓う慶長七年七月七日付起請文。
年月日未詳 / 冊子 231頁
島津元久譜が、元久の上洛決定後も山東に住む久豊への懸念が残ったため、在国の新納・佐多・北郷・樺山・山田・平田・上井・本田らが無二の忠功を誓う連判起請文を作成した経緯を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 125~126頁
『征韓偉略』から、日本軍が三道に分かれて南原へ向かい、宇喜多秀家を将とし、小西行長を先鋒、島津義弘らを諸隊に配したことを記す。南原城を守る明将楊元らとの攻防、兵数、包囲と攻略準備を叙述する。
(慶長三年)正月廿六日 / 冊子 190~192頁
宇喜多秀家以下十三名が、蔚山での明・朝鮮勢の攻撃を踏まえ、朝鮮在陣諸城の配置と普請方針を再検討して奉行衆へ言上した連署状。蔚山は突出し川越えの難所もあるため、西生浦に加藤主計頭を置き、安芸宰相勢五千を残して普請させる案を示す。順天は大河と遠い干潟のため海陸から救援しにくいとして、小西勢を島津の泗川城へ、島津勢を固城へ移す案を提示するが、小西摂津守・対馬守は同意しなかった。順天・蔚山の普請は下知まで見合わせ、梁山を加徳へ替えて安芸宰相に普請、黒田甲斐守に在番させ、毛利壱岐守を固城在番とし、城主の半役を普請に充てるよう提案する。
(慶長三年)正月廿六日 / 冊子 192頁
本文はNo.367と同文であるため本冊では省略されている。No.367は、蔚山戦後の城配置を見直し、西生浦への加藤勢配置、小西勢の泗川移動と島津勢の固城移動、梁山から加徳への城所変更、黒田甲斐守・毛利壱岐守の在番、城主半役による普請などを提案した十三名連署言上状。旧写と文意に少し異同があるため、改めて写して参照に供したとの注記がある。
慶長四年五月朔日 / 冊子 379頁
大井七右衛門ら五名が、鞍馬へ移った幸侃の妻子の居所へ連絡しないこと、小傅次兄弟のもとへ国元の者が出入りすれば親類でも報告すること、番勤中の見物・社寺参詣を慎むことなどを誓う。さらに小傅次兄弟の家中との交通、公用以外で他方の者と会うことを禁じ、違反すれば神罰を受ける旨を記す。
文正2年梅雨吉日(1467、干支表記に『ママ』注) / 冊子 426~428頁/原整理番号 12
桓武天皇・葛原親王から高望王、貞盛、維衡以下へ続く桓武平氏の系線を起点に、平家諸流から大平氏・牛屎氏へ至る系譜を示す。清盛・重盛・頼盛・敦盛・宗盛・知盛らの系統を配し、元重・元真・元包・宗実・師盛以下では備中守・土佐守等の官途を記し、薩摩四郎を牛屎院の始祖として掲げる。元光については夢告によって大平から大秦へ改姓したと注記し、弟元能を後平二、国元を同太郎とするほか、元兼・元茂・元尚・高元・元勝らへ系線を延ばす。近世側では元秀(近江守・法名省忠)、久元(越後守・法名光久)、歓元(越後守・法名光秀)、元親(右衛門尉・法名梅岳源春)等を記す。末尾は文正二年『ひのとの卯』(ママ)梅雨吉日、牛屎大秦懿元の書判とし、系線は朱書であったとの注記を伴う。
文安3年、天文23年、弘治3年4月19日、永禄2年6月16日、永禄9年10月26日、天正6年11月12日、文禄元年7月18日、慶長5年9月15日、慶長13年9月29日 / 冊子 13~17頁/原整理番号 4
本田氏十代家督・重恒(又二郎、信濃守、法名義翁)を祖とする系図。兄元親から家督を譲られ、島津忠国に仕えて家老となったが、国親の讒訴で家督を奪われ、文安三年の上洛中に清水城を攻略され、のち曽於郡で国親に殺された経緯を記す。後裔について、隅州菱刈院・穂北・伊集院・湯之尾等の地頭職、親貞の養子相続と関ヶ原後の新納旅庵との周旋、高城・蒲生・滝ヶ水・牛根・三之山・関ヶ原での戦死、朝鮮出兵・川辺地頭、婚姻・養子による諸家への分岐を収める。
2月20日(年未詳、同文参照)~万治元年(1658)の記事 / 冊子 431~437頁/原整理番号 13-5
冒頭は『諸家系図文書』10の7号文書と同一のため島津忠国書状を省略する。参照先は忠国が牛屎へ、菱刈方から詳細を聞いて早く来訪・決断するよう催し、対面を望んだ二月二十日付書状である。久元(牛屎越後守・法名光久)は永享十年の福昌寺仏殿造営勧進で、羽月元忠・山野頼元・北原久兼ら八十七人とともに馬一疋分の代銭を奉加した。歓元(同越後守・法名光秀)は文正二年梅雨吉日に牛屎家系図一巻を作り、薩摩守陳元から元親までの系譜を収め、文正元年から文明九年までの島津家系図・覚書も伝えた。応仁元年、牛屎院の兵乱で一門が日向真幸院へ移り、北原家との親族関係を頼ったこと、元親が大隅守・法名梅岳源春を称したこと、重元が永正六年に六十余歳で鷹書一冊二十五枚を書いたことを記す。天文十二年三月二十七日、実元は牛屎家先祖を覚書や本朝の大家系図と照合して記し、宗実兄弟が源頼政嫡子・仲綱の娘を母とし、建久七年に頼朝の恩免を受けて遠流先の薩摩へ下向し、羽月・山野・平泉を与えられ、子孫が牛屎・淵辺を称したとの家伝を載せる。元継の女子は兄弟不和のなか系図・文書を保持し、国分御前様に仕えた後に加藤金右衛門へ嫁いだため古文書が加藤家へ伝わり、頼朝御教書は公用のため提出されたとする。淵辺主計元継は慶長・元和の上地や宮越との田地争論で知行を減らし、寛永頃には約十石となった。弥兵衛は家に凶事が多く繁昌しないため母方の淵辺へ名字を改め、肥後の聖山伏を氏神として正宮・荒神宮に祀ったとし、元亀三年五月四日の真幸院における義弘と伊東家の合戦で五十四歳で戦死した。元秋は栗野に生まれ、父の戦死後に飯野・栗野を移り、伊東・大友との戦いを経て天正十五年豊後で戦死した。重綱は井手石氏の養子となり川上忠智に仕え、肥前深江・筑州岩屋城・朝鮮で戦い、朝鮮で左手を負傷して退き、加治木・鹿児島へ移って八十四歳で没した。元貞は父元秋の戦死後、十三歳で義弘に召し出され、吉松鶴丸村二十五石と栗野木場村三十石、計五十五石を与えられた。十五歳で義弘に従って朝鮮へ渡り、忠恒に近習・小姓として仕え、良右衛門の名、包清の脇指や衣裳を拝領し、のち帖佐・平松・加治木・鹿児島へ移住して、万治元年に百二十三石を持って隠居した。
元久2年、延文5年8月22日、応安6年3月3日、永和2年、天文17年10月9日、元和4年、寛永元年3月17日 / 冊子 3~8頁/原整理番号 2
本田氏正統の系図。桓武天皇七代の上総介忠恒につながる祖系から恒親・恒文を経て、親恒・貞親以下の本田氏歴代と諸分流を系線で示す。親恒・貞親の源頼朝・島津忠久への奉仕と大隅国守護、親保(静観)・氏親・親治・忠親・重恒・国親・兼親以下の家督・養子・婚姻を記し、執事・家老・地頭職、宇治川・二俣川・蓑原での戦死、姫木・清水両城、天文十七年の清水城没落、日当山・牛根・曽於郡・敷根等の知行、元和・寛永期までの没年を注記する。
年月日未詳 / 冊子 17~19頁/原整理番号 5
本田市郎左衛門家の略系図。清寧天皇から親峯・親正・親満・親定へ続く系線を掲げ、善光を天竺の月蓋長者・聖徳太子の過去世の師とし、難波浦で得た阿弥陀如来を信濃へ奉送したとする善光寺如来縁起を詳記する。続いて薩州出水郡山門院の本田氏について、平氏下向時に近衛家へ参って藤原氏を称したとの伝承、親森(道観)以下の系譜を記し、親治の大隅西原での戦死、正親の高麗留守・出水衆頭・富隈での老名役、親貞の家督相続、加治木板井口の戦闘と日州高城での戦死記事へ続き、末尾を「以下略」とする。
辰九月20日報告、去る18日死亡 / 冊子 599頁/原整理番号 779の2/整理ID 779-2
一番隊兵士の椋松善次は、疫症で病院に療養していたが養生がかなわず、去る十八日に死亡したと報告する。遺髪はこの節に一緒に送るので、国許に届いたら親類らへ渡すよう求める。病死ではあるが、それまで多日連戦した働きを取り計らい、戦死者と同様の取扱で葬式料等を与えるよう依頼する。辰九月二十日、会津在陣の御軍賦役から御国元陸軍所・京都本営役所宛。原の病死を戦場での即死へ変更せず、待遇上の戦死同様という要求を分けて示す。