島津家久起請文案(本多正信・酒井忠世宛)
慶長十九年九月七日 / 冊子 546~547頁
島津家久が本多佐渡守正信・酒井雅楽頭忠世に宛て、両御所(徳川家康・秀忠)へ別心や表裏を持たないこと、上意に背く相談を一切しないこと、法度に毛頭違背しないことを誓約した起請文案。違反時には梵天・帝釈・四大天王以下の諸神から神罰・冥罰を受け、現世では重病、来世では無間地獄に堕ちることを誓う。
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慶長十九年九月七日 / 冊子 546~547頁
島津家久が本多佐渡守正信・酒井雅楽頭忠世に宛て、両御所(徳川家康・秀忠)へ別心や表裏を持たないこと、上意に背く相談を一切しないこと、法度に毛頭違背しないことを誓約した起請文案。違反時には梵天・帝釈・四大天王以下の諸神から神罰・冥罰を受け、現世では重病、来世では無間地獄に堕ちることを誓う。
二月六日 / 冊子 457頁
書状と新しい鷹一羽を拝領したことへ礼を述べ、近日数寄を催す際に調教して御前へ取り成してほしいと願う。また堀田加賀守の草案を送り、十日から二十日までの間に相談したいとした某書状。
応永七年二月五日 / 冊子 193頁
佐渡守親宗が樺山方へ、公方・私事の重大局面には身命を懸けて力を尽くし、不慮の風聞があっても直接釈明を求めることを、伊勢天照大神・熊野大権現・正八幡大菩薩などに誓った契状。
元禄十二年五月十三日 / 冊子 117頁/整理ID 418
島津綱貴が小笠原佐渡守方へ、島津左京が願いどおり佐土原を城地と認められたことを自分としても格別ありがたいと述べ、早くからの取り持ちで首尾よく済んだことを謝し、祝いと御礼の目録記載品を進めた書状。
三月廿六日 / 冊子 448~449頁
光久が国元で越年するため江戸へ年始使者を出すよう命じたのに、家臣らが不要と相談して中止し、幕府対応が無調法になったことを厳しく叱責する。先例を挙げ、今後は公儀の時宜を誤らぬよう手順を書き留めて油断なく処置せよと命じた島津光久書状。
十二月三日 / 冊子 451頁
本田仲左衛門尉が評定所の秘密を知って申し出た件について、老中衆の議題を誰から聞いたのかを徹底して究明し、隠せば処罰すると申し渡すよう命じた島津光久書状。捜査できなければ老中の一人と仲左衛門尉を直接対決させる方針も示す。
(慶長七年)五月朔日 / 冊子 816頁
本多正純が贈答に礼を述べ、龍伯・少将の願いが解決したことを祝う。この機会に龍伯の上洛を急ぐよう相談すべきだとし、佐渡守宛の巻物を受け取って届けること、今後も用向きを申し付けるよう伝えた。
(慶長七年)五月朔日 / 冊子 816頁
本多正純が鎌田政近へ、前年以来の相談に礼を述べ、龍伯・少将の願いが御前で解決したことを報じる。龍伯の上洛を急ぐよう求め、佐渡守宛の硫黄五十斤を受領して届けると伝えた書状。
(慶長七年)十二月十六日 / 冊子 866頁
島津義久が忠恒へ、又四郎および本多佐渡守父子の書状写を受領・披見し、返書を惟新へ回すと伝える。惟新が当分鹿児島に滞在していること、薩摩では十二月八日以来の大雪が消えず寒さが厳しいことも報じた。
(慶長八年)四月廿七日 / 冊子 889頁
徳川秀忠が義久から陽春の祝儀として太刀一腰・馬一疋を贈られたことに謝意を示し、詳しい返答は本多佐渡守正信から申し伝えるとした御内書。
(慶長八年)五月四日 / 冊子 892頁
徳川秀忠が忠恒から端午の祝儀として帷子・単物十領を贈られたことを喜び、詳しい返答は本多佐渡守正信から申し伝えるとした御内書。
(慶長九年)正月晦日 / 冊子 925頁
徳川秀忠が島津忠恒へ、遠路から蜜柑一箱が到来したことを喜び、詳しい返答は本多佐渡守正信から伝えるとした御内書。
(慶長九年)五月朔日 / 冊子 932頁
徳川秀忠が島津忠恒へ、端午の祝儀として帷子など単物数十点が届けられたことを喜び、詳しくは本多佐渡守正信から伝えるとした御内書。
(慶長九年)九月三日 / 冊子 942頁
徳川秀忠が島津忠恒へ、重陽の祝儀として小袖五領が届いたことを喜び、詳細は本多佐渡守正信から伝えるとした御内書。
(慶長九年)十二月晦日 / 冊子 960頁
徳川秀忠が島津忠恒へ、歳暮の祝儀として小袖五重と蜜柑二箱が届いたことを喜び、詳細は本多佐渡守正信から伝えるとした御内書。
(慶長十年)八月八日 / 冊子 28~29頁
本多正信(佐渡守)が島津忠恒(羽柴陸奥守)に、当将軍の春の上洛に際して忠恒も上着し、首尾よく務めたことを祝した書状。先に鎌田出雲守と申し合わせた筋目について、双方が相違なく協議を続けることを喜ぶ。江戸御証人衆が当地へ下ることに伴う宿所などの準備について、大久保相模守・土肥大炊頭と相談するよう伝え、本多上野介との懇意に謝して引き続き力添えを求める。太刀一腰・馬代金子一枚の贈答にも礼を述べる。追而書では、伏見滞在中の造作の辛労を気遣い、来年の下向に先立つ諸準備を面談したいとする。
(慶長十年)八月十九日 / 冊子 29~30頁
山口直友が島津義弘(惟新)に、本助丞方が上着し、一人を添えて下着させたこと、本多佐渡守・同上野介が披露して首尾が良かったことを喜んだ書状。和久甚兵衛が先に述べた琉球人の渡海が済んだかを問い、上様へ礼を申し上げさせることを最優先とする。まだ渡海していなければ、御人数を相渡すよう先方へ重ねて伝え、それでも渡海しない場合は上意を得るよう求める。また琉球へ使者を渡して油断なく実情を究明し、本多上野介からも申し越されたこの件を島津忠恒(奥州様)と詳しく相談するよう勧め、詳細は本助丞が申し上げるとする。
慶長十一年正月二日 / 冊子 53頁
徳川秀忠が島津忠恒へ、恒例の蜜柑が遠路から届いたことを喜び、格別の心遣いに謝意を示し、詳細は本多正信(佐渡守)が伝えるとした御内書。
(慶長十一年)十二月十二日 / 冊子 93頁
山口直友が島津忠恒(家久・陸奥守)に、贈られた唐皿への礼を述べ、大御所徳川家康の関東下向が息災であると知らせた書状。薩摩国の加子らの件は本多佐渡守の取り計らいで解決したと伝える。また、琉球に唐船が着いたため薩摩の商人を買付けに赴かせる案をもっともとしつつ、翌年の「御働」に差し支えないか十分に検討するよう求め、詳細は先に下向させた和甚兵衛に申し含めたとする。
(慶長十七年)十一月五日 / 冊子 385頁
慶長十七年十一月五日、真福寺照清が島津家久の側近へ、幕府周辺での作事や諸役の取次状況、佐渡守が満足して上様へたびたび言上したことなどを報じ、今後の支援を約した書状。
(慶長十七年)十二月廿二日 / 冊子 387頁
慶長十七年十二月二十二日、山口直友が島津家久の側近へ、本田新介の上着と佐渡守父子への申越し、蜜柑の進上を報じ、船中の草花が傷んだため翌年改めて送るよう求めた書状。
十月 / 冊子 421頁
十月、島津家久が、前年以来伊勢兵部少輔を介して進めた願件について、本多佐渡守が上意を伺った後も返答がないため、改めて伊勢兵部少輔を差し上せ、詳しい口上を託して取次と入魂を求めた書状案。
十月 / 冊子 421~422頁
十月、島津家久が本多上野介らへ、緩子五十端を贈り、前年から伊勢兵部少輔を介して本多佐渡守に申し入れた件の返答と上聞への取次に謝し、御前でのさらなる取合せを求めた書状案。
十月廿五日 / 冊子 422頁
十月二十五日、島津家久が山駿州へ、前年の願件につき伊集院半右衛門尉と本多佐渡守を通じて得た上意と厚意への礼のため、再び伊勢兵部少輔を派遣し、段子十端を贈って今後の入魂を求めた書状案。
慶長十九年九月 / 冊子 546頁
慶長十九年九月、島津家久が二心のない忠誠を示すため、本多佐渡守正信・酒井雅楽頭忠世を介して、徳川家康および将軍徳川秀忠へ神裁を誓う起請文を提出したことを記す、続くNo.1162の起請文本文への導入記事。
十月廿九日 / 冊子 386頁
家久の留守居衆への音信のため北郷佐渡守が訪れたので、山口直友が同行して一同へ家久の意向を伝え、皆が承知したことを報告した山口直友書状。
正月八日 / 冊子 453頁
年始の使者と太刀一腰・馬一疋を遠路から贈られたことへ謝意を示し、詳しくは北郷佐渡守が伝えるとした島津光久書状。
(慶長七年)十一月三日 / 冊子 858頁
本多正信が忠恒へ、上洛の労をねぎらい、前年に鎌田政近へ伝えたとおり島津家へ少しも疎意はないと再確認する。山口直友らも同意しており、内府が年内に上洛した際には諸事を詳しく取り計らうと約した。
(慶長七年)十一月三日 / 冊子 858-859頁
本多正信が島津義弘へ、大野市兵衛を通じて申し越された件を内府へ披露し、その趣旨が承知されたと伝える。山口直友からも連絡を受け、義弘の上洛に伴う苦労を察し、今後の取成しや諸用についても尽力すると約した書状案。
(慶長七年)十一月九日 / 冊子 860頁
徳川家康が忠恒へ、大坂へ到着したとの報告を了承し、自身も近く上洛するので、その時に会うと伝えた御内書。詳細は本多正信から伝えるとした。
(慶長八年)五月四日 / 冊子 893頁
本多正信が忠恒から端午の祝儀として帷子五つのうち単物三領を贈られたことに謝意を示し、遠路からの厚意を喜び、詳細は後便に譲るとした書状。
(慶長九年)正月晦日 / 冊子 925頁
山口直友が島津忠恒へ、前年に関東へ送った音信と進物が本多父子の取次で徳川家康に披露され、機嫌よく受け取られたと報じる。家康が翌月末ごろ上洛する見込みを伝え、忠恒の上洛と面会を待つと述べた。
(慶長九年)二月廿四日 / 冊子 926-927頁
山口直友が島津忠恒へ、徳川家康が翌月十日以前に上洛する予定なので、年頭礼のため油断なく早く上洛するよう勧める。佐土原の件が解決したことを祝い、本多正信・正純宛ての書状を取り次ぐと伝えた。
(慶長九年)四月廿日 / 冊子 931頁
本多正信が島津忠恒へ、前年に示された内意について健軍猪右衛門尉と相談して披露したところ、従前どおり懇意にするとの意向が示されたと伝える。さらに使者を送って申し入れる際も、適切に相談し取り計らうとした。
(慶長九年)六月廿五日 / 冊子 937頁
本多正信が島津忠恒へ、上洛以来あいさつできずにいる事情を述べ、本多正純との相談に沿って連絡すると伝える。二日前の大雨の影響を気遣い、後日の面談を期した書状。
(慶長九年)十二月晦日 / 冊子 960頁
本多正信が島津忠恒へ、二度に分けた蜜柑が悪天候で同時に着き過半が傷んだため四箱を家康へ進上したと報告する。家康は遠路の心遣いを喜び御内書を送り、正信自身も四籠を受け取って賞味したと礼を述べた。
(慶長十八年)十月廿二日 / 冊子 421頁
慶長十八年十月二十二日、板倉勝重が、島津家久の妹を江戸へ移すため駄賃馬三百疋を用意し、女房衆用の小荷駄五十五疋を含め、宿々で不足なく調達して道中を遅滞させないよう命じた達書。
三月廿三日 / 冊子 400頁
島津義久が、城内で二之丸の火事が発生したとの急報を受けて驚き、遠国のため承知が遅れたことを述べる。詳細と現地の状況を報告するよう求めた書状案。
十一月廿五日 / 冊子 726頁
地頭不在の時期にも一味同心して忠実に奉公した曾於郡衆の懇志を喜び、特に川上十郎左衛門ら諸士の入魂を頼もしく評価する。番所の用心を堅固にして油断しないよう命じ、雪花の件には急ぎ合力すると約した島津忠兼書状。
(寛文七年)十二月廿五日 / 冊子 541~542頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1240
板倉重矩・土屋数直・久世広之・稲葉正則・阿部忠秋・酒井忠清が牧野佐渡守(親成傍注)へ、松平修理大夫が従四位下・侍従に任じられたため、口宣等の儀を伝奏衆へ申し入れて調えるよう命じる。
明和九年三月十三日 / 冊子 320頁/原整理番号 879/整理ID 879
松平薩摩守は当四月の参勤のため、例年どおり国元を出立したが、海路が順調で二月晦日に大坂へ着き、中途で滞ることもなかったので、来る二十四、五日頃に当地へ着く見込みであると届ける。定めの月より早く出府することになるため、その旨を届けておくようにとの連絡を受けたとする。三月十三日付、年は明和九年の朱注、松平薩摩守内有川勇馬と記す。注によれば、この届書一通を同日、留守居有川勇馬をもって御用番板倉佐渡守へ差し出した。控正文は江戸家老座にあるという。
四月8日、京都三区域取締の三通 / 冊子 555頁/原整理番号 717の3/整理ID 717-3
四月八日付の京都取締に関する三通を収める。紀伊中納言と眞田信濃守には下京中の取締を命じ、蜂須賀阿波守と引き合わせて十分行き届くよう勤めることを求める。南部美濃守と藤堂佐渡守には中京中の取締を命じ、加賀中納言と引き合わせて勤めるよう求める。稲葉右京亮と京極佐渡守には上京中の取締を命じ、島津修理大夫と引き合わせて勤めるよう求める。
11月22日 / 冊子 398~399頁/原整理番号 361の7
小松原の運賃船二十四端帆一艘の上乗衆が二度連絡しても来ないため、急いで乗船させるよう仁禮佐渡守・愛徳善左衛門へ求める。小湊の上乗四人にも早い出船を命じ、庄屋に渡してある飯米手形・送状を受け取らせること、小浦・片浦の船七、八艘ほどに必要な上乗七人を早く片浦へ送ることを指示する。差出側は三日中に仕事を終え市来へ行く予定と伝える。
正月廿九日 / 冊子 34頁/原整理番号 48
正月二十九日、川上久国・三原重庸が天草の北郷佐渡守・入来院石見守・喜入摂津守・豊後守へ送った連署書状。児玉筑後守を介して、江戸にいる園田清左衛門尉を早々に出立させるよう命令が出たため、急ぎ帰らせるよう指示する。薩州様が大坂から下向し日中に到着する見込みを伝える一方、黄門様は先日以来食事が進まず衰弱しているが、やがて快気するだろうとして続報を約す。宛所側に何程の番手が命じられたかを問い、狼藉がないよう談合することを求める。豊後守宛ては「次飛脚」と注記する。
正月廿九日 / 冊子 36頁/原整理番号 53
正月二十九日、川上久国・三原重庸が北郷佐渡守・渋谷石見守・喜入摂津守・豊後守へ送った連署書状。薩州様が有馬へ直接下向するとの、駿河発・十七日付の書状が今晩届き、早々に着陣する見込みだと報じる。天草の人衆も渡海させるため、野州様へ知らせ、下知に従って順次渡すよう求める。右飛脚に持たせた旨を付記する。本文中の十七日は到来書状の日付であり、本書の年月日は目録どおり正月二十九日とする。
二月七日 / 冊子 84頁/原整理番号 139-2
林丹波守克政が長岡佐渡守興長へ、国元から持参した鐘一口について、前夜に松平信綱から松平右衛門佐忠之へ貸し渡すよう命じられたため、興長の了承後に引き渡すよう求める。
正月9日(寛永15年か・傍注) / 冊子 566~567頁/原整理番号 66
川上久国が喜入摂津守・北郷佐渡守・渋谷石見守・山田民部少輔・三原左衛門佐・新納加賀守の六人へ、今回の陣中大将役を豊後守・下野守に命じ、談合衆を定めた旨を伝える。諸事をいちいちこちらへ伺えば遅れるため、相談して調えるよう児玉筑後守を通じて命じられたとし、甲斐掃部助・有馬左近将監にも詳しく伝えたので承知するよう求める。正月9日付の川上久国書状で、年次の寛永15年は本文外の『か』付き傍注。欄外は『旧記雑録後編五』1171号文書との同文を推定する。
(慶長十年)五月十四日 / 冊子 18頁
徳川秀忠が島津忠恒から端午の祝儀として帷子・単物十領が届いたことを喜び、詳しくは本多佐渡守正信から伝えるとした御内書。
(慶長十九年)正月六日 / 冊子 521頁
慶長十九年正月六日、徳川秀忠が島津家久へ、琉球から明へ遣わした使節が夏ごろ帰着する見込みであることを伝え、砂糖二百桶・焼酒二壺の到来を喜び、本多佐渡守からも伝達させるとした御内書。
(慶長十九年)正月十三日 / 冊子 521頁
徳川秀忠が島津家久から届いた沈香二十斤・生糸十丸・緋綾子十端を喜び、本多佐渡守からも伝達させるとした御内書。