島津久元・伊勢貞昌連署書状
寛永五年四月八日 / 冊子 58頁
島津家久が初めて上洛した際、平島休右衛門尉の父母が宿を提供して厚くもてなしたことへの恩賞。父に米二十石、本人に七石を与えていたが、今回八石を加増し、以後は年十五石の扶持とする。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
44 件 (全巻)/ 1–44件を表示
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寛永五年四月八日 / 冊子 58頁
島津家久が初めて上洛した際、平島休右衛門尉の父母が宿を提供して厚くもてなしたことへの恩賞。父に米二十石、本人に七石を与えていたが、今回八石を加増し、以後は年十五石の扶持とする。
慶長十一年十二月廿四日 / 冊子 102頁
慶長十一年十二月二十四日、入津した南蛮船の生糸について、京都・大坂の商人を呼び寄せ、割付後に残った糸も商人へ売るよう島津家久が命じた判物。価格の相談と売却に油断のないよう両名に指示する。
年月日未詳 / 冊子 701頁
矢崎の陣で拙斎が敵から島津家久の標識を奪い、丸田休右衛門に急いで城へ登るよう促されて横入りし、城を落としたという武功譚。丸田休右衛門は当時十六歳で、敵三十六人を討ち取ったと伝える。
慶長十六年正月十七日 / 冊子 310~311頁
慶長十六年正月十七日、蒲池休右衛門尉・本田伊賀守が島嶼検地の組頭へ出した連署達書。飯米・薪・酒・米・船頭食・油などの支給基準、現地調達の手順、百姓への寄付・人夫徴発を不当に行わないことを細かく定める。
十月十六日 / 冊子 90-91頁
新納忠清が司馬老・自閑老に、遠路からの書状への礼を述べ、道純作の籠について以前取り次いだ件の首尾を尋ねた書状。当分当地に滞在しているため喜入休右衛門尉にも書状を送り、詳しく言い含めるよう求める。道純の病状が快方に向かわないことを惜しみ、今月中も変わらなければ翌月早々に鹿児島へ赴いて世話をすると述べる。
天明八年六月十八日 / 冊子 58頁/原整理番号 289
御記録奉行川上親敷が、関ヶ原退陣時に福島佐渡介秀安が八代の御仮屋守を勤め、惟新を迎えた功により御仮屋地周辺を拝領した由緒と、その後の相続・譲渡を福嶋休右衛門の申出に基づき証した覚書。天明八年六月十八日付。
十月十一日 / 冊子 97~98頁/原整理番号 16
伊勢松浦貞由が崎元休右衛門へ、両親・一族への格別の配慮を依頼し、儒書・和漢書や柳弓、朱学文などの書物・技芸の伝授と写本について相談する。翌春の来訪を待つ旨を記す。
年月日未詳 / 冊子 184頁
『朝鮮日々記』から、新納勘解由の内衆が古仙界の山で鹿狩り中に虎と遭遇し、射止めて御城へ持参したため、褒美として「虎兵衛」の名を与えられた記事。あわせて、漢南から大軍が出たとの風聞を受け、古丸・晋州・猿羽見へ相良玄蕃、寺山四郎左衛門、川上休右衛門らを物見・警固として配置したことを記す。
天正13年(1585)・寛永5年(1628) / 冊子 381頁/原整理番号 191
焼失した蒲池休右衛門家の系図に基づく家伝と、記主自身の考証を併記した覚書。筑後国蒲池城主の蒲池家は天正年間の合戦で敗れ、備中入道が天正十三年に島津義久へ属して千石を与えられたとする。備中入道の養子新助は山田民部入道性円の兄で小根占地頭、その嫡子が八郎左衛門で、記主は八郎左衛門の猶子だと述べる。備中入道を野田地頭とする家伝は当初不明としながら、寛永五年の御人数賦帳に『野田蒲池備中入道』とあるため正説と考えるに至った。
年月日未詳 / 冊子 604-606頁
新納旅庵が、出水滞在中に上方の不穏を聞いて大坂・伏見へ向かい、島津義弘(惟新)に従って関ヶ原合戦期の軍事行動と退却を経験した経緯を記す。使者の往来や、龍伯・少将の上京をめぐる本田助之丞との交渉にも及ぶ。
年月日未詳 / 冊子 426~427頁/原整理番号 173
丸田が武蔵守から拝領した鬼神太夫の刀と、自身の軍労を記す。庄内の初太刀の褒美として龍伯から刀を与えられた。矢崎では敵七人を追い、五人を討ち留めたが、二人の死骸を武蔵守に、さらに二人分を敵に取られたため残りを捨て、のち本陣に戻ったという。會木天道川で武蔵守が見つけた際には、大閣から拝領した甲も与えられた。末尾に武蔵守への奉公、短尺、全昌との軍事のやり取り、黒馬と居所を記す。
寛永9年8月 / 冊子 23~24頁/原整理番号 30の1
白坂篤豊が知行八十五石八斗二升について、寄高を含めず自分高のみで乗馬奉公すると申し出る。手持ちの鉄砲一挺・鑓一本・弓一張と矢を申告し、馬と不足する諸道具の支給を求める。
亥5月9日(本文。享和3年は一件蓋紙による) / 冊子 218頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0049
706の1。お隣・剛之進・武五郎の母は嶋津久山(久建注)娘、職之助・お美壽の母は林玄長娘、お長の母は永田閑龍(利安)の養女で実は清水源左衛門(盛之)家来の青木休右衛門娘と記す。記録奉行から子女の実母附について申出があり、吟味を命じられて調べたところ右のとおりだったと報告する。亥5月9日、御側御用人・御側役。母の養家・実父と子女の対応、官職による連名を保持する。別系譜661・662の武五郎及びお美壽の母表記と同一姓名へ置換しない。
文化13年6月(年は目録・一件、日付なし) / 冊子 494頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1502
白木御文書八番箱中十二。都君には斉宣の女との注がある。青木休右衛門の娘琴の腹に出生したが、林権太夫の妹伊尾の腹に出生した筋でそれまで取り扱っていたと記す。大御隠居から、以後は内実の通り青木休右衛門娘ことを実母とするよう仰せ出されたことを伝える。六月、御取次伊集院隼衛(兼当注)から内蔵(新納久命注)への申渡。従来の林氏側扱いと以後の青木氏側への変更という文書の説明を保持し、ここから母の独立した出生証明や過去の記録がすべて修正済みだったとは断定しない。
文化13年7月(申渡、日なし)/同年7月15日(包紙の交付) / 冊子 495頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1505
都君は青木休右衛門娘琴の腹に出生したが、林権太夫妹伊尾の腹に誕生した筋で従来取り扱ってきたと説明し、以後は内実の通り琴を実母とするよう命じたので、後年に間違いのないよう帳面に記し置くことを命じる。七月、監物(町田久視注)から御記録奉行への申渡。包紙には、都君の実母についての御書付一通を文化十三年子七月十五日に監物から上村藤之丞へ渡し、白木御文書八番箱に納置したと記す。さらに、この件で江戸の得能正助へ仰せ渡された御書付の写一通も一包に納置したとある。本文の七月と包紙の十五日を区別し、琴・伊尾の従来と今後の扱いは文書の説明として採録する。系譜や公辺書出の修正完了を直接証明する記事ではない。
明応9年11月11日(久逸戦死時との注)、天文7年、寛永11年 / 冊子 178頁/原整理番号 58
伊東作太夫家の系図。祐康は井尻を号し源兵衛を称し、祐能は孫右衛門として伊作久逸に仕え、加世田で戦死したと記す。傍注はその時を久逸が戦死した明応九年庚申十一月十一日であろうとする。祐秀は四郎左衛門で間瀬川に戦死。祐貞は伊賀守として日新公に仕え、天文七年戊戌に日州日知屋へ移って地頭となった。別系の祐盛は伊賀守で功があり、祐盈は太郎四郎を称して京都で没した。末尾の祐義は伊左衛門、寛永十一年生まれで母を仁礼蔵人の女とし、養子で実は喜入休右衛門久守の三男、伊東へ改号したと記す。島津光久の江戸下向時に平戸で没した。
享保九年閏四月廿五日 / 冊子 428頁/原整理番号 176
丸田利兵衛が祖父休右衛門からの口伝を届ける。慶長十四年、忠元の指示で菱刈などの勢と中宿町の人々を集め、佐敷城攻めを用意したという。津奈木の銭亀ヶ尾に籠城した敵に対し、休右衛門が筑後へ遣わされ事情を探った。小川内で忠元が首尾を聞き、百間ヶ尾への備えが敵を惑わせたこと、馬場走左衛門の助言で銭亀ヶ尾の勢が落着したことを記す。文書はなく、口伝だけだと明記する。
年月日未詳 / 冊子 187~188頁/原整理番号 519
本文に『伴家津曲氏一流系図』と題する津曲休右衛門家の系図。天智天皇・大友親王から余那足、善名、国通、仲用、兼行以下を連ね、兼善(源兵衛)ら津曲氏諸代の官職・通称・法名、母方、婚姻と分岐を記す。
宝暦十年十月十二日~翌年四月二十五日 / 冊子 811~812頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2455
家治の将軍襲職に伴う領知印章改賜の命令を受け、家康から家重までの旧印章、延享三年十月十一日の領知目録、写し九巻と郡村高辻簿四冊などを江戸へ送った。本田新右衛門親方・田中孝右衛門守邦らが十月十二日に鹿児島を発ち、十二月五日に江戸へ着き、翌年正月十五日に重豪が芝邸で閲覧した。二月二十四日に家老島津主鈴久郷が戸田采女正氏英邸へ提出し、御右筆らが校正して写し三部を氏英に留め、原本三部を主鈴へ戻した。三月一日に原本を箱に封じて伊集院休右衛門らに返送させ、四月二十五日に鹿児島へ着くと、家老鎌田藏人正房が開封して文庫へ納めた。
亥8月晦日(本文。享和3年は一件蓋紙による) / 冊子 219頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0051
706の3。お長の母は永田閑龍養女、実は清水源左衛門家来の青木休右衛門女との申出を受け、系図の母附をどう書くか吟味する。史料は休右衛門の身分を理由に名前を書かず閑龍養女とのみ記す案を挙げ、寛陽院(島津光久)の子女の先例では家の女房とし父の姓名を省いた例と、士以上の女子は父兄の姓名を書く例があると比較する。休右衛門は元来下中町名頭青木嘉右衛門と称したが、家来となってもその名前を載せ難いとする。結論と署名は同じ上段左側に続く。亥8月晦日、本田孫九郎・平山五郎右衛門・平田貞太郎・橋口善兵衛、記録方見習の相良太郎太・本田休七・八田孝之進が列記される。目録は本田孫九郎外八名連署首尾書で、実見できる名は7名のため人数異同を留保する。史料の身分観と記載方針として説明し、現代の人物評価へ転用しない。
享和2年5月15日武五郎生、5月20日於美壽生、7月18日於長生(本文。後年注あり) / 冊子 204~205頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0661
御系図中。図に斉興・男女7人と武五郎及び女子2名を並べる。武五郎は享和2年壬戌5月15日生、母島津仲久達女(建カ注)。文化6年己巳、先に島津若狭忠寛の嗣子としていたが、この6月に帰す命があったとの近秘野帥注を伴う。文化9年壬申2月22日早世、2月20日を忌日とする記載を保持し、法名霊含院殿義相理演大禅童子。女子の於美壽は享和2年5月20日生、母林安右衛門昌世妹、9月17日死亡、法名瑞光院殿月心秋桂大禅童女。女子の於長は長姫・苗姫・聰姫・聰徳院の名を連記し、阿部飛騨守正篤夫人とする。享和2年7月18日生、母は操姫と同じ、実母青木休右衛門盛晏女。明治5年8月29日卒、法名聰徳院殿光蓮社永譽壽妙貞行大禅祥大尼。図の斉興を父に読み替えず、各子女の母、生卒と忌日、養子注と別系譜662を区別する。
享和2年7月18日生(文化元年との異説注)、文化10~文政10年改名・許嫁・婚姻(本文) / 冊子 205頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0662
近秘野帥の斉宣公御子・女子於長の系譜。長姫・聰姫・苗姫・聰姫と名を連記し、阿部飛騨守正篤夫人、小字房丸とする。享和2年壬戌7月18日府城生(阿部氏は文化元年とする注)、母丹羽氏蓮亭夫人、実母青木休右衛門盛晏女・名琴。文化10年より前に島津太郎次郎へ許嫁、この12月に命により取りやめ長姫へ改名。11年2月聰姫へ改名、8月27日に啓之助君と府城を発ち、11月6日江戸着。12年11月に苗姫へ改名、14日に水野周防守忠篤(上総鶴牧1万5千石)へ許嫁、12日結納と記し、13年7月8日に忠篤卒・心喪3旬。文政2年6月に立花伯耆守(筑後柳川11万9千6百石)へ許嫁、3年10月11日に婚約を解く。6年12月阿部房丸へ許嫁し聰姫へ改名、27日に阿部氏へ適く。房丸の年齢について22と20の異説、出生を文化元年7月17日とする注があり、文政10年7月に聰姫へ改唱したと記す。複数の許嫁・解約と実際の入家、改名時点、結納と許嫁の日付の逆順、出生異説を原記載のまま分ける。
文化10年酉7月廿一日・廿二日(添書。主一覧は独立日付なし) / 冊子 407~408頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1280
白木御文書6番箱102。重豪男豹治郎を掲げ、富姫の産婦は會美、壽姫は千佐、右三方の産婦の親姓名・他人の養女等の関係は不知と記す。斉宣男泰之進と啓之助は青木休右衛門盛晏娘こと、謙次郎は荒田八右衛門常明娘たつ。斉宣女於郁もことと記したが、実母は林安右衛門昌世妹い尾出生と仰付けられたとの訂正注があり、於寶はこと、於幹は嶋津休山久健娘すか、斉宣男範之進はい尾。附書①謙次郎の実母を去未12月に青木休右衛門娘ことと伝えたが書違いのため、文化10年酉7月廿二日に将監から別紙御実母付を渡され白尾齋藏が承知し、写を添置したという。附書②謙次郎御実母八尾と掲げ、先年ことと申し出たのは書違いで八尾に別条なしと報告、文化10年酉7月廿一日、御廣敷御用人。本文たつ・附書ことから八尾への訂正、於郁の訂正、い尾/八尾の各表記をそのまま分け、誤記の説明対象を勝手に一括しない。
元禄十三年秋(序)、元亀二年六月二十三日~寛永十三年十二月八日(系譜中記事) / 冊子 490~491頁/原整理番号 21-1
元禄十三年秋、藤原純音が藤原姓平田氏の由来と純貞以下の履歴を記した序・系図。家は古く薩摩国牛屎院と大隅国太良院の境に住み、平良氏から平田氏へ改姓した藤原姓の家であって、平姓平田氏とは別系統だと口碑に基づいて論じるが、旧記が失われたため純貞以前の祖名は不明とする。純貞は島津貴久に仕え、貴久が元亀二年六月二十三日に没すると、その冥福のため六十六州を巡礼し、翌元亀三年の帰国後に殉死を望んで三月二十三日に南林の海へ歩み入り溺死した。遺体が数日後に南林の砂浜へ上がり、その地に葬られたこと、墓碑・法名を伝える。後半は九郎右衛門純昌、休右衛門純次、朝鮮国巨済で病死した女子、幼少から家久に奉仕し寛永六年に新恩地五十石を拝領した純正らの出生・婚姻・没年・法名を系譜化する。
寛政二年三月廿一日 / 冊子 182~183頁/原整理番号 149
寛政二年三月二十一日の「論之犬追物手組」。島津藤次郎・山田震九郎・木場休右衛門ら射手に足数を付し、検見・喚次・射手奉行・日記・幣之役を記す。続いて雨天時の集合時刻、着用、御覧支度に関する指示を載せる。
年月日未詳 / 冊子 419頁/原整理番号 163
矢崎の戦いで忠元が働いた際、丸田休右衛門が相良方の城へ入ったことを記す。忠元の到着が遅いと人を通じて急がせたところ、ほどなく登城して敵を討ったという。丸田が天正九年八月吉日に述べた記録で、当時十六歳、三十六人を討ち取ったとする。
(万治二年)六月廿六日 / 冊子 383~384頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0852
御支配所が鹿児島西田村の天神宮寺地について、国中の検地に際し前代以来の宮地・竿不入地との申出を認めて免許し、寺役・清掃を怠らず勤めるよう命じた証文。副書は文秀房の五仏堂建立、大乗院直末化、光久・綱久・綱貴・吉貴の参詣、綱久の詠歌を記し、本書が当時見えないと注記する。
明和五年戊子(年次記事、翌年の注あり) / 冊子 185頁/原整理番号 457/整理ID 457
明和五年の年次記事。元日は既に首途を済ませたため賀正を受けず、御座間で公族と三官に会い、外庭稲荷を拝した。正月十三日は護摩所・福迫・稲荷、二十日は大雄・松峯・玉龍を訪れ、鷹が捕えた鶴の賜りを十八日に拝受したことも記す。二月六日に府城を発ち、家老川田伊織国福・仲久健、用人・納戸奉行・使番らが同行する。大里から海路で坂越へ向かい、座船住吉丸と他の船を挙げ、小字注では船の総計を三十九艘とする。三月二日に大坂邸、六日に伏見邸、二十九日に芝邸へ到着。四月朔日は大家の使者が来て「守宮」を与え朝観を賀し、二日は閣老各邸を訪ね、護摩所の不動へ還謁する。七日は関山金陣を使わした。兒玉主左衛門利容らが購入した千字文・唐詩選・字林集等と、草菴・蒙求・和歌類題・古今集・天狗藝術論等を備え、親覧したと記す。八日は近衛公が諸大夫を遣わして賀正、十三日は大家の使いの閣老が邸で慰労し、十五日に朝観礼、十六日に大円寺、二十三日に高輪五社、二十四日に増上寺、二十九日に一橋邸を訪れた。六月朔日は朝から酒井雅楽頭邸を訪問し、近侍の高崎納右衛門ら及び有川・伊東・山田・林・相良・柏の陪席や召しにも触れる。七月十九日には大家が使者を遣わして雲雀を賜り、鷹が捕えたものと記す。二十五日には高橋此面種寿の家老職を、旨に逆らったため免じた。十二月十六日は使番興津左京が鶴を携えて邸に来たが、重豪は少し病んでいたため相良近江守に迎拝を託した。この鶴も鷹が捕えたものという。冬に福昌寺の新作を命じ、翌年秋に完成したとの小字注を付す。
弘化四年十一・十二月~弘化五年正月六日ほか(本文未年・申年。年・月日不記の条項を含む) / 冊子 83~89頁/原整理番号 131/整理ID 131
知行・給地高の改正と売買、所務・借銀返済に関する本文群。祖先の勲功と家筋、公務・分限を知行の本意とし、享保十三年規模帳以来の高上・高持成と名実の差、貧富と軍賦の関係を説き、質素・勤労と不正な売買の禁止を求める。代金未済、借銀利払い、売渡証文の欠缺、幼少・跡職未定、琉球海渡や三都長崎詰などには今回の特例で願出を認め、二月限の申請・三月限の処理を指示し、期限後の猶予や妨げとなる内意を戒める。鹿児島高と諸郷高の遣り・買入の禁止と今回の例外、寺社・厩・宗門方の所務代銀による借銀返上も取り扱う。軍役方の調査・支配頭の承知・高奉行への報告、凡下者が身分を越えて買い入れた高の本主への返還、名義預置・名前替・証文受合の未決案件の吟味を命じる。現職・地頭職や子孫の勤め、新番・正中等に応じ、千石・五百石・四百九十九石余・三百石・二百石・百五十石等の高上り限度を定め、小身者の現地総計五十石以下には別の特例を認める。名寄帳・連判二冊、改正案の提出と写しの返納について当月・来正月・来九日などの期限を示す。最後に本文を支配中へ早く回覧し、留めは明後十三日までに返納するよう命じる。原本文の各条件・期限・署判は二十六の内容区分で台帳に別記する。
十月4日京都本営送状、名簿は八月20日~九月17日等、降伏報知は9月22日 / 冊子 600~606頁/原整理番号 780/整理ID 780
雑録中の会津進撃に関する隊別死亡・負傷名簿と、京都本営の送状。九番・十一番・十二番隊等の戦死者を掲げ、十二番隊では三春の村人や庄屋支配下の者も含め、即死・戦死を記す。諸隊の死者には手負の後に三春病院で死亡した者があり、続く手負人数では深手・浅手・薄手と、負傷した日・場所を区別する。田村小太郎、伊佐敷金之進、加藤郷兵衛、上原正八郎らのほか、道案内、隊付夫卒、地元村人などを列記する。原文内の異日付や前の名簿との異同は残し、同名を別人として合算しない。末尾の十月四日京都本営送状は、戦死手負書一冊・降伏状一帖・問合二通を掲げ、去る九月二十二日に会津へ進撃して終に降伏したとの報知を述べる。通行允許を携えて到京した日須峯敬二郎ほか一人に封書を託して国許へ送り、披露等を取り計らうよう御国許陸軍所へ依頼する。死亡・負傷の区分と送付の叙述は各名簿・送状に帰属させる。
(天正6年か)6月8日 / 冊子 58頁/原整理番号 55
島津忠平(義弘)が修理入道へ、子息の出家に配慮する旨を伝え、昨冬以来御山で堪忍していると聞きながら事情を知らず音信を欠いたことを詫びる。代々所持する幌については、自らに嗜みや相伝がなく軽々しく頂戴できないとして差し出し、相手の心遣いに謝意を示す。上洛予定や必要品も隔意なく申し越すよう伝え、詳細を使僧に託す。
寛永18年2月12日 / 冊子 714~715頁/原整理番号 747の3
加久藤地頭仮屋に伝わる有馬陣立差出。伊地知重政の主従21人について、与力・供人を帰還日別に列記し、正月十六日からの在陣日数を計算する。二月八日唐津から帰還した組、二月十七日・二十三日および三月八日に有馬から帰還した組を記し、惣合日数1342日とする。寛永十八年二月十二日付、谷口次郎左衛門と伊地知弥右衛門の署名がある。
寛永15年正月20日 / 冊子 764頁/原整理番号 816
谷山衆有馬氏所蔵の、寛永十五年寅正月二十日肥前天草立人数の名簿。西田貞右衛門、有馬千兵衛純堯、東郷長左衛門重尚らの名を列記し、東郷長左衛門内の吉利覚右衛門も載せる。夫丸を含む総人数の集計はない。
万治2年8月18日(1659)の覚書・慶長6年(1601)~明和4年7月(1767)の系譜記事 / 冊子 437~445頁/原整理番号 13-7
冒頭に『高麗人諸事問条記一通、但十五ヶ条』と掲げ、平田清右衛門が淵辺量右衛門へ、ほかにも覚えている事柄を詳しく書き付けて提出するよう求めた万治二年八月十八日付覚書。御記録方で使用するための聞取であり、朝鮮軍記の提出控えは別紙にあると注記する。続いて元貞以下の淵辺家系譜を収め、元貞が寛文元年に七十九歳で没して柿本寺へ葬られ、元辰・元隆・元智・元錦・元能・元苗・元儀・元詮・元長・元彬・元甫・元休・元堅・元伴・元次・元敏らの出生、幼名・通称・法名、母方・婚姻、早世・没年・墓所を各代ごとに記す。元辰は六歳で家久に召し出されて仲兵衛の名を受け、元隆は太守光久の目見を得て加治木の花堂・藤原重俊女を妻とし、元錦は太守光久への御目見、武州品川稲荷大明神への祈願成就、家督勤役と知行百壱石余を記す。元詮は天和三年に太守綱貴の初参勤供を務め、元苗は元文四年の清女産神・太田大明神参詣、元儀は綱貴・吉貴への御目見と町田・川上両家への奉公、元堅は太守継豊の初参勤供、元甫は島津小平太の供、元休は太守綱貴・重年への奉公、元詮系では太守吉貴・継豊の家督礼や島津家諸役を伝える。末尾は明和四年七月朔日、太守重豪への初而奉拝記事まで続き、近世淵辺家の奉公・婚姻・家督・墓所を世代順にまとめる。
寛政四年十月十一日 / 冊子 184頁/原整理番号 152
寛政四年十月十一日の犬追物稽古手組。上手組に島津與十郎ら、次手組に島津主税ら、下手組に島津圖書らを配し、各組の検見と喚次を記す。
(慶應元年)三月廿七日 / 冊子 569~571頁/原整理番号 6
季安が蓑田長胤に、忠久の治承三年出生・建久七年十八歳下向説は、後世の年数計算の誤りから生じたものと説明する。古系図、供奉者の系譜、玉海・東鑑の在京と鎌倉の記事、母丹後内侍と比企尼の関係を比較し、文治二年十八歳で関東から立ち西国へ下向したと推考する。相馬氏の系図と山田聖榮の聞書、道聖・伊集院氏らの口伝、後代の編纂と猿渡實信の書入を点検する。出生年と下向年が画像の来由とも符合しないことを述べ、中路権右衛門に示した資料を長胤にも見せ、内密に検討するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 312~313頁/原整理番号 14
島津運久が日新を養子に迎えたことから説き起こす一族の由緒。後に生まれた実子とその子孫の家督・奉公の経緯、所領を離れて諸国を転々とし、播磨国に移った家系を述べる。
状一二八慶長十七年十二月廿六日 / 冊子 368~372頁/原整理番号 128
本多正信が羽柴陸奥守に宛てた書状。北郷讃岐守を通じて嶋津菊袈裟の交替を披露し、菊袈裟の帰路、将軍の意向および当地屋敷の普請への配慮を伝える。慶長十七年十二月二十六日付。後段には関連する諸書状・記録の書出が続く。
二月廿九日 / 冊子 773頁
二月二十八日、有馬春之城本丸の石垣・塀を越えて城内で槍を合わせ、須木衆今村休右衛門尉を槍下で射止め、須木衆堀添十郎兵衛尉が首一つを取ったことなどを証跡とともに報告した村尾源左衛門の差出。
(寛永十五年)三月朔日 / 冊子 777頁
二月二十八日、有馬春之城本丸で須木衆今村休右衛門と槍を合わせ、左手に槍傷を負いながら敵を槍下に取り伏せ、須木衆堀添十郎兵衛が首を取ったことなどを、同行者の実見に基づき三月朔日に証明した文書。
元禄十七年二月十三日~宝永三年六月二十一日 / 冊子 463頁/整理ID 1600
伊集院賀左衛門久品が琉球在番奉行に任じられ、二階堂大兵衛・大迫休右衛門・小原助左衛門・竹之内仲右衛門らを伴って琉球へ渡り、諸事を監督した記事。久品らは任期を終え、宝永三年六月二十一日に薩摩へ帰国した。
二月廿九日 / 冊子 318頁/原整理番号 358
村尾源左衛門尉重候が、二月二十八日、原城本丸の石垣・屏を越え、城内で鑓を合わせたことを届ける覚。須木衆今村休右衛門尉を鑓下で『射とめ』たとし、その証跡として大口衆大田彦右衛門尉を挙げる。また、須木衆堀添十郎兵衛の首一つを取ったと記す。二月二十九日付。本文に宛所はない。編者注は『旧記雑録後編五』二一六一号文書と同文とする。
九月J\日 / 冊子 236頁/原整理番号 19
藤野休右衛門本に載る御旗に関係する短文を引き、旗をめぐる由来と奉仕のあり方を確認する。季安の集考に採られた異本の一つ。
慶長十一年五月朔日 / 冊子 401頁/原整理番号 161
伊勢貞昌の書状。中納言の初上洛の際に受けた相手の父の世話を振り返り、先年からの扶持と近況を伝える。寛永五年四月八日付、平嶋休右衛門尉宛て。