伊勢貞昌書状
(元和六年)五月朔日 / 冊子 729頁
伊勢貞昌が島津久元に、加治木で山伏が封じ物を埋めた一件と鎌田幡摩守夫婦・又三郎への悪心の疑いを報告し、直ちに死罪とせず霊社で厳重な起請を立てさせ、真偽を見極めるよう進言した書状。
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(元和六年)五月朔日 / 冊子 729頁
伊勢貞昌が島津久元に、加治木で山伏が封じ物を埋めた一件と鎌田幡摩守夫婦・又三郎への悪心の疑いを報告し、直ちに死罪とせず霊社で厳重な起請を立てさせ、真偽を見極めるよう進言した書状。
(元和六年)閏十二月廿九日 / 冊子 739~740頁
喜入忠政・伊勢貞昌が国元の重臣に、出水・長島から百姓二十余人が逃散した件、風水害後の収納・荒地・移住・開発を調査し、良地悪地を区別して御蔵入の後年負担を避けるよう協議を求めた連署状。
(元和七年)二月五日 / 冊子 764頁
喜入忠政・伊勢貞昌が島津家久へ、江戸で大火が起こり、強風で家久邸にも延焼が迫ったため家財の搬出・避難を行ったこと、火災後に銀子五百貫目の拝領があったことなどを報告した連署状。
元和九年二月廿七日 / 冊子 786頁
伊勢貞昌・島津久元が伊勢神宮の御炊大夫へ、先年寄進した知行百石は遠国から毎年使者を派遣して所務するため負担と損失が大きいとして、百石分の代わりに毎年銀子十枚を奉納するので了承するよう伝えた連署状。
(元和九年)七月廿八日 / 冊子 794頁
児玉氏所蔵写の島津久元・伊勢貞昌連署状。本文は次号No.1808の連署状と同文であるため、本冊では省略したと注記されている。
七月廿八日 / 冊子 794~795頁
島津久元・伊勢貞昌が伊東祐昌・児玉利昌へ、近隣国の軍勢催促や諸大名国替の風説について内密に情報収集し、必要なら兵三千人ほどを出せるよう兵糧等を準備する一方、正式な人数割はしないよう命じた。将軍在京中のため諸国から注視されているとして警戒を促し、出雲・筑前・越前などの動静や軍馬購入の情報を挙げ、異変があれば注進するよう求めた連署状。
(元和九年)十一月十四日 / 冊子 800頁
喜入忠政・伊勢貞昌が種子島久時へ、母の死去に際して本田甲斐守が見舞いに派遣されたことを伝えた。久時が幼少であるため家臣に職務を尽くさせ、島内の者に無理非道を命じず、幕府への奉公と家職の維持を心に刻み、今回の上意を怠りなく守るよう諭した連署状。
(寛永二年)四月廿四日 / 冊子 826~827頁
喜入忠政と伊勢貞昌が比志島国隆・島津久元らへ、又三郎の腹痛により十八日の予定が延び、二十三日に両御所への礼を済ませたことを急報した連署状。家久が子らを伴って来たため両御所の機嫌が格別で、兄弟も御前に召されて褒められたと伝えた。
慶長十五年九月廿五日 / 冊子 296頁
慶長十五年九月二十五日、内田直定が伊勢貞昌に、島津家久と本多正純の特別な盟約を受け、両家の使者として私心なく協力し、秘密を漏らさず、表裏なく務めると神前に誓った起請文。
慶長十五年九月廿五日 / 冊子 296頁
慶長十五年九月二十五日、諏訪頼満が伊勢貞昌に、無事の帰着を祝し、同名の者に関する用件を了承したと伝えた書状。後日あらためて訪問するとして、まず簡潔に返答する。
年月日未詳 / 冊子 356頁
島津家久譜の記事。上使の帰還後に家久が伊勢貞昌へ謝意を伝え、取次と使者の労をねぎらう一通を送ったことを記す。
(慶長十六年)十二月廿八日 / 冊子 356頁
慶長十六年十二月二十八日、揖斐政長が伊勢貞昌へ、書状の到来を喜び、下向中の種々の饗応に謝し、帰国後に上聞へ達したことと来春の下国時に詳述する旨を伝えた書状。
(慶長十七年)正月廿日 / 冊子 357頁
慶長十七年正月二十日、山口直友が伊勢貞昌へ、島津家久からの龍伯遺物である刀剣・色紙等を確かに受け取り、使者へ渡す旨を答えた書状。
(元和五年)三月廿五日 / 冊子 692頁
島津家久が伊勢貞昌へ、三月二十四日に大坂へ無事着船したことを報告し、愛宕祈念への謝意、秀忠が四月二十日頃に上洛するとの情報、江戸での用件を本多正純・土井利勝へ取り成すことなどを頼んだ書状。
(寛永七年)一月十三日 / 冊子 133頁
島津家久が、将軍御成は当世では前例に通じる者が少ない大事であるため、伊勢貞昌が保存する旧記を頼りに準備を整え、年寄として十分に調えるよう求めた書状。
(寛永十五年)四月朔日 / 冊子 796~798頁
薩州様(島津光久)が帰府するまで御番を務める件を確認し、大坂から届いた品の送状を火災後の分と照合して、見つかった分を三札にして送る。桑畑藤右衛門尉・大脇正右衛門尉の到着、光久の参府見込み、野村勘兵衛尉を松平伊豆守へ遣わしたことを報告する。有馬一揆の城が先月二十七、八日に落ちたが、銀不足のため祝儀使者を差し止めたこと、山田民部少輔・新納加賀守ら薩摩勢が約二百の首級を挙げたとの情報を記す。江戸・京・大坂で借銀できず、借銀の利息さえ払えない窮状を述べ、銀子の送付を求める。新納勘解由が奉行する大廻船の仕出しや屋敷の無事も伝える。島津久慶・鎌田政統の連署で、島津久元・伊勢貞昌・川上久国・三原重庸・山田有栄宛。寛永十五年四月朔日付。
正月廿八日 / 冊子 2~3頁
新納忠清が伊勢貞昌に、島津光久の参府に供奉する息子刑部の指導を頼むとともに、自身の知行・加増問題で外聞を失い、奉公を続けにくい窮状を訴えた書状。昨秋以来返答のない件について、他の重臣やその子が加増地を保持する例を挙げ、大口国境の衆中を預かる立場から、明確な沙汰と取り成しを求めている。
(慶長十年)四月廿八日 / 冊子 16頁
伊勢貞知(友枕斎如芸)が伊勢兵部少輔に対し、公方の参内供奉と親王への礼を祝し、太刀一振を一度に持参すべきか、伝奏衆の意向や禁中での仕合に配慮しつつ照会し、伏見通行の折に参上して取り次ぐ旨を伝えた書状。
四月八日 / 冊子 366頁
散った花の名残と春の暮れを詠んだ歌が直されたことを受け、その出来を抜群と称賛し、自作まで褒められた冥加を謝して披露を願った沙弥某書状。
四月十九日 / 冊子 366~367頁
前夜に郭公を待って詠まれた歌を称賛しつつ、一音と声の語の選択について古歌を引き、表現案を示して披露を願った沙弥某書状。
十二月廿九日 / 冊子 374~375頁
相良勘解由を通じて書状を拝見し、御座所を建昌へ移す件が佐州まで伝えられたことを報告する。差し迫った時期でも鹿児島で辛抱するのがよいとの意見と、上州へ相談したうえで駿府から詳細な指示が来る見込みを伝えた三原重種書状。
慶長19年7月23日 / 冊子 615頁
隅州栗野内木場村の知行目録について、慶長十九年に伊勢貞昌・三原重種・比志島国貞の三名が連署して確認した文書。 天正期の知行関係を後年に再確認した可能性があり、土地権利の継承と家中行政を追う材料となる。
(文禄2年)6月20日 / 冊子 653頁
大島忠泰が「御請国」の際に薩州様から知行を与えると約束されながら、出立時に必要な書状が付されず、給付が実現していない事情を伝える。 伊勢貞昌は弾正大弼・下野守へ書状を送り、大島側からも事情を申し入れるよう勧めており、未処理の知行給付を実現するための取次状。
二月廿九日 / 冊子 340~342頁
伊勢貞昌が、朝鮮からの撤兵時に小西行長の籠る城が漢南・高麗勢に包囲された際の救援と海戦を報告した書状。立花飛騨守・宗対馬守・高橋主膳らとの協議、島津方の番船・迎船、敵の火攻めによる船の焼失、負傷・戦死、漂流者の救助、退路確保と乗船の混乱を述べ、帰国後も国政に油断なく励むよう求める。
慶長四年六月三日 / 冊子 389頁
伊勢貞昌が入田左馬入道に、孫右衛門尉を介して伝えられた件を披露したところ御感を得たと報じる。忠節を尽くす者があれば取り立てること、御前への披露以外は知る者のない件なので隠密に扱うことを求め、後日の証拠として関係する二人にも書付を送った旨を伝える。
(慶長四年)十二月十七日 / 冊子 476~477頁
伊勢貞昌が薩州少将の側近へ、孫右衛門から承った縄瀬の番手について、入来院殿へ老中の使者を立てたが、その後の決着が分からないため様子を問う。玉薬三百放を先に送り、鉄炮は鹿児島から追送すると知らせる。本来は陣所へ参上すべきところ、まず龍伯のもとへ赴くため、濱之市から改めて参上するとし、上方は平穏なので安心するよう伝える。
慶長五年正月廿六日 / 冊子 501~502頁
伊勢貞昌と別府景秋が、主君のためには意見が違ってもありのまま申し上げること、使者として私事を交えないこと、私怨から他人を陥れたり贔屓で悪人を取り成したりしないことなどを誓い、違背時には諸神の罰を受けるとする連署起請文。
(慶長九年)七月四日 / 冊子 938頁
伊勢貞昌が田村新兵衛へ、伏見への使いで返事が遅れた事情と面談の手配を伝える。国元から届いた銀で、福島正則から借りた二百貫目の残額百貫目を返済するため、受け取りを依頼した。
(慶長九年)七月八日 / 冊子 938-939頁
伊勢貞昌が田村新兵衛へ、公方への諸大名の進上物について本多正純に確認し、国持衆は銀子に帷子を添えるとの指示を忠恒らへ伝えた経緯を報じる。談合内容の変更を土井利勝の書状でも確かめ、返答を求めた。
慶長十年晦日 / 冊子 45頁
伊勢貞昌が、御前で稽古や書物に関わって知り得た事柄を一切他言しないと誓った起請文。違背した場合は梵天・帝釈・四大天王をはじめ日本国中の神々の罰を受けるとする。
慶長十四年十月八日 / 冊子 246頁
慶長十四年十月八日、伊勢貞昌が女房衆・奉公人に対し、役目と勤務、身持ち、争論の処理、届け出、次郎四郎らへの相談、命令順守などの家内規律を条項ごとに定めた掟書。
年月日未詳 / 冊子 246頁
伊勢貞昌自記。朝鮮出兵時の川内山田、庄内合戦後の谷山、祖父新納忠元との縁による大口地頭就任と辞退、谷山復帰を述べ、馬の調練や妻子・娘の婚姻など家政上の出来事を記す。
(慶長十六年)九月二日 / 冊子 342頁
慶長十六年九月二日、比志島国貞・伊勢貞昌が、見舞いのための来訪、陸奥守への連絡、両所の供奉、下野守の派遣などについて調整した連署状。
慶長十八年九月廿四日 / 冊子 414頁
慶長十八年九月二十四日、鬼界島内荒木本横目浦治の高十石を宛行い、知行について別途召し出し・扶持する旨を記した伊勢貞昌・三原重種連署知行目録。
(慶長十九年)十二月十六日 / 冊子 567頁
上洛中に用いる十文字の紋を早急に用意し、少しも油断しないよう指示する。事情を確かめるため、誰か一人を派遣して相談するよう求めた伊勢貞昌書状。
九月三日 / 冊子 571頁
白鳥山の知行地は従来どおり諸公役を免除し、検地の竿入れから除外するよう命じる。除外分は鹿児島の石高へ加えるとした比志島国貞・伊勢貞昌連署状。
(元和元年)閏六月二日 / 冊子 598~599頁
山口直友との面談や佐州方面への使者・軍勢の指示、関係者の病気と書状の伝達など、上洛後の諸案件について詳しく報告した伊勢貞昌の書状。
閏六月六日 / 冊子 600頁
鹿児島から戻った使者が御書を届けたことを報じ、上洛後の指示・国元の奉公・惟新への伝達などを迅速に進めるよう求めた伊勢貞昌の書状。
四月十八日 / 冊子 642頁
伊勢貞昌が家久の京都出立、将軍の日光参詣と江戸還御、家久の江戸滞在・上洛予定を伝え、義弘の病気平癒を祈る愛宕百味の奉納品を進上した書状。
(元和五年)四月廿二日 / 冊子 693~694頁
島津久元・伊勢貞昌が、島々で旅人や無主の者が集まり私的支配が生じることを防ぐため、奉行の常置、住民・耕地・船・家畜等の調査、指定者の移転、明細帳の提出など島嶼統治の措置を伝えた連署状。
(元和五年)六月三日 / 冊子 701~703頁
伊勢貞昌が、家久が将軍御前へ召し出された際の懇ろな言葉と、秀忠・本多正純・土井利勝ほかから贈られた太刀・銀子・馬代・帷子等の品目を列挙した覚書。
(元和五年)十一月廿七日 / 冊子 719頁
伊勢貞昌が江戸から、到着後の情勢、加藤家関係の処分や幕府の対応、借銀返済・物資調達・人馬手配などの諸事を島津家久方へ詳報した書状。
元和九年二月廿七日 / 冊子 769頁
島津久元・伊勢貞昌が、大神宮へ知行百石を寄進した先年の文書があるものの、遠国から毎年使者を派遣して所務を行うのは負担になるため、百石分として毎年銀子十枚を奉納することを通知した連署状。
(元和七年)六月廿八日 / 冊子 772~773頁
伊勢貞昌が喜入忠政・三原重種へ、島津家久が六月二十七日に大坂へ着き、相次ぐ注進を受けて翌朝江戸へ急行したことを報告した。また和子入内の供奉、大坂普請での巨石運搬と費用、家久進上材木の利用などを伝えた書状。
(寛永四年)二月廿四日 / 冊子 31~32頁
伊勢貞昌が、年末に当地へ赴いて越年するよう命じられた旨を寺田与左衛門方の内儀から聞き、急な出立に備えるよう早打で知らせる。老中にも書状を送り、又三郎・又十郎の息災と御姫様の出産後の状況も報じる。
(寛永四年)四月廿四日 / 冊子 34頁
喜入忠続・伊勢貞昌が、薩摩殿父子の御目見は又三郎の腹痛で延期されたが四月二十三日に実現し、両御所が一同の参上を大いに喜び、兄弟も御前で褒美を受けたと早打で報じる。
(寛永四年)六月廿七日 / 冊子 38頁
伊勢貞昌が、今度誕生した男子が立派で成長も順調であり、父君によく似ていると報じる。乳人がいなかったため当地で探して二人を召し置いたことも伝える。
(寛永四年)八月六日 / 冊子 39~41頁
伊勢貞昌が、出水の神主中野村兵部少輔をめぐる不審事を報告する。屋敷から本尊・看経道具・霊剣などが掘り出され、矢先が城へ向けられていたことから、地頭への悪意や呪術的行為を疑い、本人を厳しく尋問して上意を仰ぐよう求める。
(寛永四年)十一月廿八日 / 冊子 47~48頁
島津久元・伊勢貞昌が、島津家久の到着と将軍の鷹狩、江戸での勤務交代、狩野永甫をめぐる処置、参勤時に必要な乗馬衆の人数と配置、霧島からの材木手配など、江戸滞在中の諸案件を詳しく協議・指示する。
(寛永五年)正月九日 / 冊子 52頁
島津久元・伊勢貞昌が、年頭の使者と贈物が到着したことを喜ぶ。又三郎・又十郎にも服と熨斗が贈られたことへの礼として、銀子二枚を使者に託し、詳しいことは使者に申し含めたと伝える。