天寧寺某請取状
(寛永九年)七月六日 / 冊子 297頁
天寧寺が、東郷肥前守から音信として送られた小判金八両を確かに受け取り、国元へ書状で礼を述べるとした請取状。仁礼右近将監の使者である伊東志摩丞宛。
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(寛永九年)七月六日 / 冊子 297頁
天寧寺が、東郷肥前守から音信として送られた小判金八両を確かに受け取り、国元へ書状で礼を述べるとした請取状。仁礼右近将監の使者である伊東志摩丞宛。
年月日未詳 / 冊子 763~764頁
有馬春之城の本丸へ乗り込み敵三人と槍を合わせたことを、入来源左衛門・肱岡右近、三原大蔵太輔・西郷壱岐守らの立会・証跡を挙げて証明した仁礼左近将監の戦功証文。
九月十四日 / 冊子 59~60頁
仁礼頼景が川上勘解由に、双方の家族・在所の近況を伝えた書状。満吉が宮原長次郎のもとで謡を稽古していること、薩州様の帰国見込み、江戸滞在中の費用に備えて親父から借銀する相談などを報告する。
九月十八日 / 冊子 60頁
仁礼頼景が、江戸到着後の拝謁・饗応と今後の行程を報告した書状。八月二十四日に江戸へ着き、翌日御前に出て振舞を受け、九月十一日に京都へ向かったことを述べ、勝利して帰国する願いと、若衆に舞・兵法を励ませるよう求める。
正月廿九日(包紙に年なし) / 冊子 51頁/原整理番号 161/整理ID 161
大田播磨守の役替えにより、跡の御目付御用を松平庄九郎に依頼したところ、引き受ける旨の返答が来たので、此面に伝えるよう山城が指示した。また、大田三郎兵衛が播磨守へ改名したことを知らせる。仁礼仲右衛門が、右のとおり申し渡されたので通達すると正月廿九日付で記す。仁礼には勘定奉行・仲古の注、大田には正房、松平庄九郎には忠郷の人物注がある。包紙は年記なしで、山城から仁礼仲右衛門へ取次を通じて渡された書付一通と記す。白木御文書五番箱中の写。
(寛永三年)八月廿八日 / 冊子 18頁
牧野清兵衛が島津家久の中納言任官を祝い、上様と又三郎様が息災であること、当地に異状がないことを知らせる。詳しい当地の様子は仁礼蔵人と鎌田左京から申し上げるとする。
年月日未詳 / 冊子 64頁
仁礼蔵人景親が長年江戸で島津家久に仕え、よく勤慎したことを家久が賞し、知行百石を加増したと記す系譜記事。
寛永五年六月廿三日 / 冊子 64頁
親王の薨去により家久の暇が延引する可能性、江戸での大規模普請に伴う国元普請の抑制、仁礼景親への百石加増、祭礼への子弟参列を指示する。また比志島国隆の旧臣は当面の奉公を認めつつ行動を監視し、他国へ出ることを禁じる。
年月日未詳 / 冊子 131頁
北郷久加が鷹府亭に島津家久・姫君と供奉の貴族を招いて饗応し、馬・青銅・時服などを拝領する一方、太刀・馬代・青銅を献じたこと、仁礼頼景が又次郎から佐渡へ改号したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 195頁
三月二十二日に秀忠から使者を通じて御鷹の雁二羽を賜り、家久が謝した記事に続き、北郷忠能の人物と都城支配を論評する。忠能が幼くして孤児となり専横に育ち、賞罰を誤り忠臣を殺害・追放して北郷家を傾けたため、死後、家久が嗣子忠亮へ数条の教訓を川上久国・仁礼景親を介して示した経緯を記す。
(寛永八年)五月十一日 / 冊子 213頁
庄内北郷氏について、年頭礼や公儀への連絡の遅延、祝儀使者の手配不足、内之浦の殿役未履行などを列挙する。公儀と領内を別扱いし、仁礼蔵人の妻の祈祷を頼む使者を善財坊へ取り次がなかった事例などを挙げ、北郷領の役人・統治慣行を問題視した覚書。
十二月七日 / 冊子 399頁
島津家久の袖判条書。内談衆の協議、人事・知行、仁礼蔵人・山田民部少輔らの配置、沙汰の手順、検地・立野・南蛮宗などの案件を条項ごとに定める。
寛永十年正月三日 / 冊子 405頁
児玉利実が、寛永十年十二月初七日付の江戸書状を翌十一年正月二日に受け取り、筑後守が始良(姶良)の地頭職と毎年八木(米)三十石を拝領した旨を確認した記録。同夜の兵法初めは式部大輔邸での実施が延期され、仁礼蔵人の宿所で若衆によって行われた。寛永十一年正月三日付で藤原氏利実が署名し、追記では同月二十三日・二十五日の市来八右衛門らによる地頭拝領関係の連絡・進物を記す。本文日付は寛永十一年正月三日で、索引の寛永十年正月三日とは相違する。
(寛永十四年)十二月十六日 / 冊子 710~713頁
家久の年寄衆からの返書と二通の御状を受け、黄門へ進上した書状や幕府側の命令内容を照合し、長島・獅子島への兵配置と天草への即時渡海を協議する。肥後勢が十二月三日に三角瀬戸へ到着し、翌日天草へ押し寄せるとの注進を踏まえ、薩摩勢が遅れないよう準備を急がせた。薩摩から首取千人・鉄炮衆千人・馬乗三騎を天草へ遣わすとの取沙汰、山田民部少輔・新納賀州・仁礼左将を獅子島番手とすること、船の手当、本文を流布しないことを記す。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十六日付。
八月廿七日 / 冊子 32~33頁
三原重庸が、京都で流行する弓矢の形状や好みを伝え、当地の矢筈・矢柄の調達を依頼した書状。細身の材料や焼き方などの仕様を示し、仁礼左近にも申し通じて、必要な品を整えるよう求める。
七月三日 / 冊子 136頁
差出人不詳の者が、三十余年前に仁礼右近を頼って御老中へ医道稽古のための暇を願い、許可された経緯を記した申状。島津家久から児玉筑後を介して懇意の上意を受けたこと、今回の下向に際して桂八左衛門・伊東次郎右衛門らを通じ再び訴状を提出し、国元での披露を願ったことを述べる。
(寛永八年)十二月十九日 / 冊子 253頁
江戸から国元への連絡覚書。上洛時の供衆は騎馬二十~三十騎ほどとし、追加の駄乗馬衆を後から召し寄せる準備を指示する。牧野内匠の照会に対し、江戸に詰める夫婦・父子の証人衆と知行高を書き上げた経緯、高力摂津守の所望品、薩州から黄門様・兄弟への年頭の樽と肴、美々津への船配置ができないこと、能の際に縁へ敷く幅広の毛氈の送付を伝える。
(寛永十一年)正月十三日 / 冊子 406~407頁
伊勢貞昌が種子島左近将監へ、明石掃部の子に関する急使書状の到着状況と遅延の有無を問い合わせ、過去に早打の遅延で扶持停止・道具衆追放となった事例を引いて注意を促した書状。
二月十日 / 冊子 153頁
鎌田政統らが本田蔵人に、上使下向に伴う石原での宿泊施設と振舞いの準備を指示した連署書状。宿は仮設程度に軽く造り、数百人の供衆には五、六か所で簡素な食事を供し、普請では前方衆の大工を使わず加治木の使衆と相談して整えるよう命じる。
(貞享三年)七月廿五日 / 冊子 764~765頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2003
相良長清・村田経景・中神内蔵が仁礼覚左衛門・高橋左門へ、村上三太夫らを高岡で伊集院宮内へ引き渡し、籠輿に乗せて天候に応じ海路または陸路で福山方面へ送るよう命じた連署達書。
正月卅日 / 冊子 42頁/原整理番号 59
三原重庸・川上久国が仁礼蔵人頼景に、薩州様の下向に伴って各所から迎えの者が参るため、船元まで他領を通行できるよう通手形を発給するよう求める。
二月朔日 / 冊子 52頁/原整理番号 73
川上久国・三原重庸が仁礼蔵人頼景へ、薩州様の着船が近いと見込み、急なことで諸事が整いにくいため、細島から高岡までの振舞や送りを油断なく準備するよう命じた連署書状。
二月二日 / 冊子 55頁/原整理番号 81
川上久国・三原重庸が仁礼蔵人頼景へ、薩州様着船の知らせを尋ねる。三日続きの大雨で日州に洪水が起きることを懸念し、渡船への注意を求めるとともに、黄門様の病状が軽くなり、薩州様の到着でさらに快復することを願う。
二月四日 / 冊子 66頁/原整理番号 103
川上久国・三原重庸が仁礼蔵人頼景へ、有馬表では肥後・肥前衆の仕寄が城の塀際から五間・十間ほどまで迫ったが、城攻めの沙汰はないと知らせる。薩州様の着船後の報知と、この文箱を細島へ早く送ることを求める。
二月五日 / 冊子 79頁/原整理番号 126
川上久国・三原重庸が仁礼頼景・伊地知重賢・大野久武・伊地知重順へ、去る四日付の有馬書状が今朝届き、松平伊豆守信綱から島津久元へ薩州様の有馬行きは不要と伝えられたと知らせる。その地の兵を出発させるかは、当地の兵少老と相談するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 132頁/原整理番号 215
『旧伝集』所収の仁礼九郎左衛門物語。島津光久が江戸から到着すれば城攻めがあると考え働きを期していたが、松平伊豆守から父・家久の病が重いので薩摩へ帰るよう繰り返し命じられ、光久の供として帰国したため、合戦に間に合わず軍物語がないと語る。
二月九日 / 冊子 102~103頁/原整理番号 163-3
新納久宣・仁礼頼充が山口直重へ示した出陣編成の覚。川辺・福山・恒吉・横川・指宿・末吉・加世田・清敷・伊作など各衆を組別に割り当て、総計二百四十七人、うち弓衆八十八人とする。道中で勝手な行動をしないよう命じる。canonicalの三月九日は採らず、目録・本文の二月九日とする。
寛永十五年二月廿八日 / 冊子 316頁/原整理番号 348
仁礼左近将監景頼が、有馬原城本丸へ一番乗し、敵三人と鑓を合わせたことを届ける証文。証人として出水衆入来源左衛門尉、大口衆肱岡左近、濱川西市丞を挙げ、立会人は三原大蔵大輔・伊集院衆西郷壱岐守とする。寛永十五年二月二十八日付で、新納佐左衛門尉・上原貞右衛門尉宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一三九号文書と同文とする。
年月日未詳 / 冊子 154~156頁/原整理番号 39
文徳天皇―惟喬親王を祖とし、建守親王・康和親王・正明親王・仁礼親王から惟貞・頼明以下へつなぐ仁礼覚左衛門家の系図。惟喬親王は木原王子・小野宮を号し、惟貞は正三位修理大夫で初めて藤原姓を賜ったとする。伴善男の後裔について、善男が宇多天皇の勅を奉じ薩摩・大隅・日向三州の長吏として寛平元年に下向したこと、兼行が勅命に背いたため天禄二年に仁礼新宰相頼明が円融院の勅で三州に下り伴家を平治したことを記す。さらに安元二年、後白河院の勅による一族の三州下向と、その後の上京・万里小路居住、薩州別府庄に残った経景が藤原姓を平姓へ改めた由緒を載せる。後半は景政以下の諸系線を示し、修理大夫景治の宮原号、信景子孫の中島号、友久に仕えた景治、『人物志』に伝記がある景次などを注記する。末尾の景治は二郎太郎・太郎兵衛・覚左衛門を称し、寛永二年生まれで、御用人、長嶋・伊佐地頭、吟味役を歴任したとする。
(元和九年)閏八月十日 / 冊子 796~797頁
寺山久豊・伊地知重竪が、薩摩へ来た南蛮の黒船は江戸へ使者を送る船で、順風がなく山川湊沖に停泊していると報告した。大型船のため頴娃・指宿・伊座敷などから引船を集め、長崎へは寄らず江戸へ向かう予定であること、積荷は糸・巻物・白黒砂糖など、人員は二百七、八十人で日本人約三十人を含むことを伝えた連署状。
寛永八年三月廿八日 / 冊子 195~196頁
北郷忠亮に、聖賢の道を学び賞罰を明らかにして家を長く保つこと、北郷家が島津家にとって重要であることを説く。忠能代の悪行に加担した者の追放・処罰、死罪・知行没収時の鹿児島への報告、鹿児島屋敷への移住などを命じた家久袖判の条書写。
寛永十一年三月朔日 / 冊子 413~414頁
月例出仕、未進・出物、武具携帯、殺人事件の切腹・遠流処分、徒党・私的交際の禁止、役人の収賄・私用使役禁止など、家中規律と刑罰を条文形式で定めた覚書。
十月朔日 / 冊子 69頁
島津久慶が新納仲左衛門尉に、家譜へ記載するため過去の贈答・拝領記録を捜すよう頼んだ書状。関ヶ原後の伏見で黄門様が拝謁した際の進上・拝領物、惟新様病中の上使と拝領物、医者三官関係の書物などを詳しく調査して書き付けるよう求める。
12月15日 / 冊子 478~479頁/原整理番号 474
九州へ赴く松平伊豆守・戸田左門らのため、家中の船を大坂へ差し出すよう命じられた件を記す。奉行衆から七艘の着岸船数が書き出されたこと、上使衆召船への同心衆乗船と松隠州の船について、仁礼主計助へ照会・依頼する覚書。
正月25日 / 冊子 786頁/原整理番号 870
仁礼蔵人の二十三日付書状と佐土原からの薬を受け取り、黄門が礼を述べたと伝える。一方、病状はよくなく、食欲も落ちていると報じる。鬼塚の来訪を受け、軍衆以外の諸国使者は軍務の妨げになるので帰す方針を述べ、天草の細川勢に代わって薩摩勢二、三千ほどが番手を務める見通しを知らせる。主計助の帰国希望にも触れる。
書上一〇六正保三年九月十九日 / 冊子 187頁/原整理番号 106
正保三年九月十九日付、山奉行所から吉松・吉田・馬関田・加久藤・小林の郷中への書状。飯野御城山での御狩には衆中が取り計らって参加するよう命じ、日程は飯野と相談して定めるとする。狩奉行は弟子丸右京亮と伊地知主膳正であると追記する。季安は、百姓の狩立を免じ、衆中中心の狩りとなった例と注す。
11月20日 / 冊子 376~377頁/原整理番号 348の1
平田宗直方が舟賦帳を別紙で送り、当地にある七端帆の闕所舟も今回の船立に組み入れるよう小松原浦関係者へ命じた書状案である。上乗り役や船頭・加子、兵糧の渡し方を整え、翌日の出船に遅れないよう急がせる。
正月11日 / 冊子 595頁/原整理番号 651
伊地知杢右衛門尉から届いた大名・大人数と船の動員情報、島原城落去後の上使帰国見込みを伝え、出陣衆の米・大豆・野菜・薪、宿、船などを急ぎ手配するよう命じた書状。
年月日未詳 / 冊子 579~580頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1398
寛文十一年五月十四日、島津綱久が帰国の暇と例年どおりの拝領品を受け、六月三日に次男内匠を伴って江戸を発った。大坂・播州絵島を経て、参勤途上の父光久と対面し、七月に薩摩へ帰着したのち、仁礼平吉を江戸へ派遣して献上品を届け、帰国許可を謝した記事。
年月日未詳 / 冊子 647頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1616
徳川家光の二十五年忌法会に際し、島津光久が仁礼興三左衛門景林を使者として、銀二十枚の香奠を東叡山の尊霊前へ奉献した記事。
年月日未詳 / 冊子 691頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1777
光久は延宝七年四月十八日に参勤のため発ち、家老島津新八久馮、種子島久時、仁礼景治・大山綱道・相良長清らが従う。五月六日に久見で解纜し、六月二十一日に大坂、七月二十六日に江戸へ到着する。翌二十七日は上使大久保忠朝から台命による労いを受ける。光久は宿痾のため自ら登営せず、八月三日に島津甲斐久武を通じ、太刀一腰・猩々皮十間・羅紗十間・馬代銀五百枚を献上する。
(貞享四年)十月八日 / 冊子 799頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2105
伊勢御次太夫から神領寄進状の書替え願いが出されたため、仁礼覚左衛門・諏方仲左衛門を介して事情を聞き、他家の代替わり時にも書付が改められたという先例を踏まえ、願いの処置を記した覚書。
宝永六年十月三日~七年三月廿七日〈出府日月に原注ママ〉 / 冊子 874頁/整理ID 2864
求馬久房譜による。宝永六年十月三日、久房は仁礼仲右衛門頼常を通じ翌年の年頭賀使として江府へ赴くよう命じられ、黄金百両を賜って謹んで拝謝した。
〈寛延四年〉十月 / 冊子 340~341頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0996
重年が加世田日新寺への参詣、山川の児箇水での温泉入浴と郡県村落の巡見を行った記事。十月二十三日に鹿城を発ち、国老伊勢兵部貞起、側用人二階堂林左衛門行通、近習役福山平太夫安都・迫水善左衛門久芳、納戸奉行仁礼仲右衛門仲古らが同行した。谷山・伊作・田布施・阿多を経て二十五日に加世田へ着き、二十六日に日新寺へ参詣、二十七日に旅館の庭で加世田の士の歌舞、俗に加世田踊というものを見た。久志・泊・坊・鹿籠・知覧・頴娃を経て十一月朔日に児箇水へ赴き、十四日間温泉に留まった。十六日に山川、十八日に船で小根占へ渡り、大根占・田代・大姶良・高山・大崎・志布志・串良・鹿屋・花岡・新城・垂水などを巡って勝景・旧跡を見た。十二月十一日に垂水の海瀦から船で桜島有村へ渡り、十二日に横山仮館へ入り、二十二日に船で鹿城へ帰った。小根占通過の際には、国見城に住む迫田源右衛門の施水の行いを知った。源右衛門は父母を亡くしたが貧しく祭祀の費用を出せず、仏説の施恵が亡者の冥福になることを信じ、水場が数百歩も離れ、旅人が渇きに苦しむため、遠くから水を汲んで器に満たし往来の人へ施していた。二十年一日も絶やさない志を重年が憐れみ、十二月二十八日に源右衛門へ銭二千疋を賜り、妻と子茂右衛門にも賞を与えた。
明和八年四月(日無記載、包紙に四月十五日受渡) / 冊子 278頁/原整理番号 746/整理ID 746
先の家格寄合について、庶流の二階堂源太夫は先代の事情で連名の頭に置かれていたが、庶流の格式の先例にも触れ、同じ上座では嫡庶の別が立たず専実を失うため、そのままにできないとする。連名の順を仁礼仲右衛門、その次に源太夫と命じる。背道理の意味合いは捨て置き難いので、心得違いなく承知して申し渡すべき旨を示す。明和八年の朱注、四月付、主馬の署と記録奉行二階堂蔀宛を備え、大目付の注がある。包紙は五十三番、白木御文書五番箱にあり、明和八年卯四月十五日、主馬殿から写を渡されたと記す。正文は文庫にある。
年月日未詳 / 冊子 592頁/原整理番号 640
喜入摂津守忠政の加世田衆について、仁礼佐渡が諸士二百人余を率いて市来湊へ集結し、出水米之津から乗船して肥前へ渡海・上陸した経過を記す。
正月廿八日 / 冊子 20頁/原整理番号 28
川上久国の覚。伊豆守の命により島津久元と三原重庸を帰陣させる件について、到着時は黄門様が重体だったため久元の帰宅を東郷肥前守らと相談したが、前日から容体と脈がやや回復したので、誰を陣に残すかは現地で協議し一人を帰すよう求める。仁礼主計助が下向した際の条書に関連し、獅子島へ出した人数を途中で引き取ったことに薩州様が今も強く怒っていると伝え、諸将の帰宅や後立人数の帰陣は慎重に協議すべきだとする。江戸では自国の加勢が目立つことを期待されており、他者の働きかけで不首尾に見えることを懸念している。
年月日未詳 / 冊子 75頁/原整理番号 118
『加世田士小川日記』五日条。仁礼佐渡守が着船し、去る二十日の祭礼の花殻をはじめ、皆々の宿元から贈物が届いたと記す。目録年月日欄は空欄のため、五日や引用された去る二十日をB列へ補入しない。
年月日未詳 / 冊子 128頁/原整理番号 204
『旧伝集』所収の石原愚見の談話。若年時に島原へ派遣され、仁礼九郎左衛門の命を受けて使者・物資輸送や船の手配に関わり、夜間の航行や城からの鉄砲攻撃に遭った経験を語る。後記は関係者名・軍役人数の異同を考証する。
年月日未詳 / 冊子 130~131頁/原整理番号 210
小川監物日記。十四日朝に殿様の船が着き、直ちに上使の陣へ見舞って暇を得て船へ戻った。摂州様も帰国に供奉することとなり、十五日から船々が順次出航したこと、豊州様らへ落着を尋ね、二十一日に仁礼佐渡守が三分の一の帰衆を率いて出船したことを記す。