島津氏老臣連署知行目録
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 649頁
慶長十九年七月二十三日、明石川喜之内の高十四石を淵辺主計助へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署する。本文には編年位置を誤った文書との注記がある。
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慶長十九年七月廿三日 / 冊子 649頁
慶長十九年七月二十三日、明石川喜之内の高十四石を淵辺主計助へ宛行った知行目録。三原重種・伊勢兵部少輔・比志島国貞・町田久幸が連署する。本文には編年位置を誤った文書との注記がある。
(慶長六年)八月六日 / 冊子 772頁
島津義弘が島津忠恒に、談合のため富隈へ来るとの意向を喜び、風が強ければ義弘のもとへ直接来るよう伊地知主計助を介して伝える。面談して相談すべき事柄が多いため来訪を待つとした書状案。
(慶長十九年)七月八日 / 冊子 531頁
慶長十九年七月八日、島津義弘が、長年笛を稽古し音楽で奉公することを望む宮原主計助を召し寄せたとして、伝授済みの技法を残らず指南するよう笛師へ依頼した書状。
七月六日 / 冊子 33~34頁
賦所が、諸士と従者の人数、夫役、船数、乗船地、飯米の受領方法を定めて平田狩野介・上原源右衛門尉へ達した文書。如瀬浦・名護浦へ移動し、山田主計助の指示で乗船すること、三枚帆三艘への割付や三日分の飯米を用意することなどを命じる。
「寛永十八年」十二月廿六日 / 冊子 181~183頁
川上久国・新納久詮が国元の重臣らへ、九州巡回上使の松田善右衛門・蒔田数馬・曽川喜左衛門を迎えるため、国絵図を持参して経路や宿所を協議した結果を報告した連署書状。上使は江戸を正月二十三日に出立し、細島・佐土原・飫肥・志布志・肝付・根占・佐多・種子島・屋久島・永良部島・山川などを巡る見込みで、渡海船・水主・供人数・宿所・賄い・案内人を整え、天候や海上事情に応じた代替経路を準備するよう指示している。追記には、十二月二十六日付の書状が翌年正月十八日に御道具衆によって届けられ、飛脚が立山吉左衛門・末原甚左衛門であったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 549頁
加治木御日記の十月十四日条。相良清兵衛の使者長介が来訪し、島津義弘が以前から所望していた槍の柄三本を進上したこと、返書や使者への銭百疋の贈与、宮原主計助の相伴を記す。
(永禄十二年頃) / 冊子 224~225頁
島津忠良(日新)に加世田で仕えた人々を列挙した交名。大田・稲富・玉利・奈良原・鹿島・河崎・指宿・中条・富松・阿多・有馬・宮原・鮫島など多数の家臣名を掲げる。後世の奥書は村田市助の写本で、日新没後に子孫が鹿児島その他へ移住した者も多いと説明する。
12月15日 / 冊子 478~479頁/原整理番号 474
九州へ赴く松平伊豆守・戸田左門らのため、家中の船を大坂へ差し出すよう命じられた件を記す。奉行衆から七艘の着岸船数が書き出されたこと、上使衆召船への同心衆乗船と松隠州の船について、仁礼主計助へ照会・依頼する覚書。
年月日未詳 / 冊子 136頁/原整理番号 32
寛永十七年以降の正月の太刀進上の座順をめぐる経緯を記す覚書。新納家と佐多家が席次に異議を申し立て、家督の祝儀に限ると説明された配列が後年の先例とされることを嫌い、元日の進上を避けて日を改めた例を挙げる。慶安年間には両家の家位が決着しないため双方が太刀を進上しなかったと記す。
七月廿九日 / 冊子 488~489頁/原整理番号 622
山田有真が、鹿児島の家老衆から長岡式部少輔へ文箱を送るため遠竹大炊頭・鈴木主馬首が派遣されたことを知らせる。こちらには賦銀がないので受取側で用意し、往来五日分の賦銀を渡すこと、使者が鹿児島へ戻る時に渡す案もあるが急用のため即刻渡すよう相談してほしいと求める。
年月日未詳 / 冊子 154~155頁
島津久慶が江戸・長崎関係の処置を列記した覚書。江戸城で諸大名へ申し渡された吉利支丹改めの手順、端午の御服と御内書を持ち下った使者が大坂船を待って遅れた件、老中への確認、大野内記・鬼塚源太左衛門が持参した相良主計助の条書を記す。さらに長崎奉行へ折々に情報を伝えること、江戸上屋敷の留守居として家老一人を早く上らせることなどを、種子島左近忠時へ申し含めるよう示している。
「寛永十九年」二月七日 / 冊子 192~193頁
川上久国・新納久詮が国元へ、例年の四国浦廻上使として小笠原安芸守・向井右衛門佐が下向するとの情報を受け、相良主計助が両名に確認した結果を報告した連署書状。出立は同月二十~二十一日頃、巡見の方角は大坂で蔵奉行らと相談して決める見込みとし、国元へ早く知らせるよう求める。あわせて大名家の誕生祝儀・振舞、参府、虎寿の無事、銀子や屋敷の件にも触れている。
11月28日 / 冊子 428頁/原整理番号 401の2
同日、児玉主計助の主従に真米一斗・赤米一斗を掲げる。市来湊から出船する五艘の上乗として、十一月二十八日以後二十日分の海上飯米を一日五合で算用し、天草一乱の人衆乗船のため渡すよう命ずる。五艘は船の数で、受給者の人数とは区別する。
正月廿八日 / 冊子 20頁/原整理番号 28
川上久国の覚。伊豆守の命により島津久元と三原重庸を帰陣させる件について、到着時は黄門様が重体だったため久元の帰宅を東郷肥前守らと相談したが、前日から容体と脈がやや回復したので、誰を陣に残すかは現地で協議し一人を帰すよう求める。仁礼主計助が下向した際の条書に関連し、獅子島へ出した人数を途中で引き取ったことに薩州様が今も強く怒っていると伝え、諸将の帰宅や後立人数の帰陣は慎重に協議すべきだとする。江戸では自国の加勢が目立つことを期待されており、他者の働きかけで不首尾に見えることを懸念している。
七月二日 / 冊子 471頁/原整理番号 603
山田有栄は、長崎への黒船来航により出水衆138人を選び、4人ごとに夫丸1人を御蔵入から出すよう命じる。飯米は福之江の蔵衆から渡し、物主は山田主計助とする。五日・六日の間に出立し、かせだうで乗船できるよう遅滞なく準備させる。
年月日未詳 / 冊子 111頁
新納氏古日記の記事。五月朔日に島津光久が日光参詣へ出発し、伊勢貞昌・野村大学助・新納刑部太輔ら九名が供奉したこと、四日に登山して太刀一腰・馬代銀三十枚、神祭料金子一両、宮仕・八乙女への青銅、毘沙門堂門跡や各院へ銀子を進上したこと、六日に帰館して日光での勤めを終えたことを記す。
七月九日 / 冊子 462頁/原整理番号 584
山田有真は、京泊から船4艘が到着し、1艘を高尾野へ、1艘を地頭乗船に充て、残る11端帆・9端帆の2艘を乗合船にしたが人数に足りないため、今釜の12端帆も召し寄せたと報告する。帆1枚につき5人の配分でも不足が見込まれるため、追加船と未使用の篙を急ぎ手配するよう求める。追而書では寺領衆の集合状況も伝える。
七月十日 / 冊子 462~463頁/原整理番号 585
山田有真は、今釜の祇園丸に必要な角材木、釘・鎹・地金、鍛冶炭を米之津・久見崎方面で手配するよう求める。乗合船に水桶・筈樽(箱カ)がなく支障するため、米之津客屋・水夫屋の品を急送させる。また船一艘につき5本として、はしけた用の竹75本を御城山から翌日届けるよう命じる。
七月十三日 / 冊子 463~464頁/原整理番号 587
山田有真は、山田民部少輔の命により楯板200枚を召し寄せるため、六月田の海辺近くの御蔵にある楯板を至急送るよう野村一郎右衛門・伊藤壱岐入道へ求め、不足分は麓方面でも相談するよう指示する。さらに急状として出水へ回し、野田・高尾野の御曖衆に速やかな転送を命じる。
七月十三日 / 冊子 464~465頁/原整理番号 588
山田有真は番衆・使者の行き違いを報告したうえ、長崎の黒船について、鍋島勢が港口を材木で閉ざして出帆できず、船名は『がりゃん』と聞くこと、黒田勢が左右に小早2艘ずつを置くが南蛮人は自由に振る舞い、黒田勢だけでは対応困難なことを伝える。松山からの隠岐守入津や諸国からの人数参集、長崎から届いた絵図にも言及する。
七月五日 / 冊子 459頁/原整理番号 578
多田崎の遠見番衆から、げずみ沖に大船が見えるとの報告があったと知らせる。船は遠く詳細不明だが帆二つが見え、船首は南へ向いているようだといい、変化があれば追って報告するとする。七月五日戌初刻付。
年月日未詳 / 冊子 431~432頁/原整理番号 403
『平田宗直船賦帳』所収。市来湊から出す六端帆五艘の舟頭・水手人数を列記し、児玉主計助を上乗一人とする。続いて串木野から出す五枚帆・四枚帆・六端帆など九艘について船頭と人数を列記し、近間内膳正・春田大左衛門を上乗二人として、両船団を出水へ出船させる。末尾の総船数・総舟頭水手数の欄には数値の記入がない。
正月25日 / 冊子 786頁/原整理番号 870
仁礼蔵人の二十三日付書状と佐土原からの薬を受け取り、黄門が礼を述べたと伝える。一方、病状はよくなく、食欲も落ちていると報じる。鬼塚の来訪を受け、軍衆以外の諸国使者は軍務の妨げになるので帰す方針を述べ、天草の細川勢に代わって薩摩勢二、三千ほどが番手を務める見通しを知らせる。主計助の帰国希望にも触れる。
二月十五日 / 冊子 141~142頁/原整理番号 239
川上久国・三原重庸が渋谷四郎左衛門尉へ、薩州様の帰国行程に伴う宿泊・昼休・供奉を指示する。十四日ごろ有馬へ着船し松平伊豆守への礼後に川内筋を通る見込みとして、西方では仁礼主計助、向田では鎌田源左衛門尉・相良新右衛門尉、市来湊では新納右衛門佐らに手配させ、昼夜を問わず後報するよう求める。
七月日 / 冊子 473頁/原整理番号 607
弟子丸宗方は、瀬之浦に到着し、長崎への南蛮船来航のため急行していると伝える。翌晩に会って相談する意向を述べ、奉行所から届いた条書を閲覧後に返送するよう山田主計助・伊藤壱岐入道へ求める。目録年月日は『七月日』を維持し、本文の七月三日とは区別する。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 779
正月十八日を中心に、米之津へ参着した各郷の人躰・卒者・夫丸と、主だった者が連れた人数を記す。恒吉・日当山・飯野・曽木・加久藤・須木・馬関田・踊・高原・出水・山之口・小林・諏訪神・曽於郡・野尻・真幸吉田・志布志・清水・蒲生・百引・庄内高城・東郷・高岡・高山・横川・穆佐・串良・垂水・伊集院などを列記し、十日または二十日分の飯米支給を注す。高山の名簿に載る以益について白坂氏譜を引いて帰還時期を考証し、兵糧不足による減員帰還と読む。末尾は十九日条への分載と十八日着津者の補記。
寛永十五年正月廿九日 / 冊子 30~32頁/原整理番号 45-2
寛永十五年正月二十九日の島原出陣に備え、武器・軍勢・奉行・輸送・兵糧などの割当を列挙した頭書。御備は昇100本、外城衆の鉄砲300挺・弓200張、御道具衆の鑓200本、馬乗衆50騎(分限役の馬は別)、陸衆150人(外城衆は別)、召立乗馬50騎とする。有馬には3,262人中782人が帰り2,480人、天草には5,201人中1,624人が帰り3,577人が残り、両地の残留総数を6,057人とする。軍勢の兵糧・船手、兵具・送夫馬・普請・諸調、旗本・供衆、船手奉行、先備、玉薬、持道具、番道具、普請奉行、法度、武器別奉行・備頭、仮屋、使番・使衆・右筆・代官・給書・物荷・膳配・同朋・小姓・評定・医師・納戸・進物・門番・陣僧・振舞等の担当や準備事項を挙げる。鉄砲備頭5人・小指物1,050本、弓備頭3人、鑓備頭3人、惣備奉行10騎、御備直し20人、仮屋見舞衆3人なども定める。末尾で編者は、『旧記雑録後編五』222号文書と同文だが後半を欠くとし、以下は二月朔日の肩書により同日に写載したこと、軍衆法度の旧留は続く三公の掟を指すらしいと注記する。
寛永十五年正月廿九日 / 冊子 37~40頁/原整理番号 55
寛永十五年正月二十九日の島原出陣に際する御備・軍勢・奉行・輸送・兵糧等の割当帳。冒頭に「正文在文庫」「二重除之」とある。御備は昇100本、外城衆の鉄砲300挺・弓200張、御兵具衆の鑓200本、馬乗衆50騎、御陸衆150人、召立乗馬50騎とする。有馬3,262人のうち782人、天草5,201人のうち1,624人が帰還し、両地の残留総数を6,057人とする。御供、兵糧・船手、兵具・送夫馬・普請・諸調、法度、船手・先備・玉薬・持道具・番道具、火番・合印、武器別備頭、使番、仮屋、代官、絵書、荷物、医師、祈念、評定所筆者、納戸、進物、陣僧などの担当・準備事項を列挙する。鉄砲備頭5人・小指物1,050本、弓備頭3人、鑓備頭3人、惣備奉行10騎、御備直し20人、仮屋見舞衆3人等も定める。二月朔日の項では幕・進物蔵・送状、朱書の宿泊地等を扱い、二月七日には両条を新納右衛門佐へ申し渡す。さらに当地に必要な殿役・船・普請・町・蔵・兵具・馬屋・物奉行等を列挙する。編者は『旧記雑録後編五』222号文書と同一と注記する。末尾の「晦日甲午」は次の日次見出しである。
慶安元年九月廿六日 / 冊子 167~168頁/原整理番号 122
慶安元年九月二十六日の「初日四番四角之外」犬追物手組。島津圖書頭三疋、島津東市正五疋、柏原弥太右衛門尉一疋などを記し、検見を島津又左衛門尉、喚次を島津十郎とする。
二月十六日 / 冊子 148~149頁/原整理番号 261
川上久国・三原重庸が仁礼頼充・鎌田政有へ、薩州様が到着したら、どこへ早く赴くかを次飛脚で逐次報告するよう求めた書状。追而書で、この書状を新納右衛門佐に見せたうえで早々に源左衛門へ回し、油断なく注進するよう命じる。
七月二日 / 冊子 468頁/原整理番号 596
差出人不詳の書状で、長崎へ立つ衆の飯米と、随行する夫丸の出所を記した書物2通を調えて送る。地頭は翌三日に当地を出立する予定で、詳細は直接指示されているため省略すると伝える。
七月三日 / 冊子 474頁/原整理番号 610
大口の宮原乗泰ら3人は、今朝寅刻に長崎行きを命じられたと伝え、帰宅していると思われる山田民部少輔へ諸事を伺うよう廻文で指示されたため使者を下し、詳細な返答を求める。追而書で、新納加賀守が鹿児島へ参上して当地を留守にしていることも知らせる。
寛永十七年五月廿六日 / 冊子 73~74頁/原整理番号 28
京都にいた大和守久章が五月十七日に従者二人を連れて三条宿を出たまま帰らず、同二十二日に届けを受けた伊地知重政らが宿や周辺を捜しても行方が分からないと、江戸詰の関係者へ報告する。持ち出した道具の書立てと詳しい事情を別紙で知らせる旨を添える五月二十六日付書状。
七月六日 / 冊子 459~460頁/原整理番号 579
賦所は、指宿内蔵助らに対し、瀬之浦へ赴いて飯米を受け、山田主計助の下知で乗船するよう命じる。別に人躰12人・持夫3人を用意し、三枚帆3艘へ各4人を乗せ、4人ごとに相中夫1人を付ける。飯米は福之江で受けるが、長崎まで派遣するものではないとする。
年月日未詳 / 冊子 467頁/原整理番号 593-2
前文書への張紙として、竹元・六月田・福之江・今釜・野田・庄・米之津・平松などの人数を一番衆・二番衆に分け、山田主計助、井尻三郎右衛門、指宿内蔵助、加兵衛、大炊助、玄宅らの与や相中夫へ割り付ける。目録年月日は空欄のため維持する。
文治2年 / 冊子 171頁/原整理番号 51
有馬次右衛門家の系図。先祖は摂津国有馬を領したとし、純長から純衣へ続ける。伊与守純衣は文治二年に島津忠久に従って薩州へ下った。後続の諸系線として、伯耆守純幸―石見守純門―左衛門太夫純国、豊前守純満―日向守純尊―次郎左衛門純恒、対馬守純行―大和守純森―三河守純文、兵部太夫純柄―対馬守純守―主計助純武、丹後守純茂を掲げる。純武は田布施に住んで島津貴久に仕え、弓術と和歌の達人であったと記す。
天正十一年九月二十七日 / 冊子 754頁
天正十一年九月二十七日、秋月氏が龍造寺氏との和平条件を八代の島津諸将へ伝えようとし、隈本城主城氏が使僧を留めて同姓主計助に伝達させた記事。龍造寺・秋月の島津旗下入り、島津義久を鎮西守護とすること、肥後諸氏の処置、有馬からの撤兵、大友攻めを提案したため、諸将は真偽を判断せず上原尚近を鹿児島へ遣わした。