島津忠平義弘書状
(元亀三年)九月十一日 / 冊子 292頁
島津義弘が伊地知主水佑へ、上洛以来会えず朝夕懐かしく思うと述べ、再度の下向を望む。伊東勢が加久藤麓へ侵攻して退いた戦いでは、院内衆だけで五百人を討ち、今も山中で遺骸が見つかると戦果を報告する。左近権介も大いに働き無事であり、忠勤を重ねているので安心するよう伝える。
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(元亀三年)九月十一日 / 冊子 292頁
島津義弘が伊地知主水佑へ、上洛以来会えず朝夕懐かしく思うと述べ、再度の下向を望む。伊東勢が加久藤麓へ侵攻して退いた戦いでは、院内衆だけで五百人を討ち、今も山中で遺骸が見つかると戦果を報告する。左近権介も大いに働き無事であり、忠勤を重ねているので安心するよう伝える。
天正八年二月吉日 / 冊子 647頁
日向国飫肥院の上崎門・巳ノ崎などの田地を懸命の地として井黒主水佑へ宛行った坪付。伊集院忠棟と本田親貞が連署する。
文禄五年十二月二日 / 冊子 55頁
伊集院幸侃が児玉主水佑に、隅州肝付郡西俣村・河原村内の土地を、村別・名寄別の石高を掲げて充行った領知目録。
(慶長四年)七月二日 / 冊子 395頁
島津義久が倉光主水佐に、前年に捕えた羽虫鷹の羽穴を木釘で補修し、羽や尾羽を整えている状況を詳述する。鷹を扱う阿多甚左衛門は正式な鷹匠の作法こそ知らないが養生には通じるとし、薬の使用法を尋ねる。また、関白の薩州下向時の騒動で以前拝領した鷹を失ったことや、鷹の馬への据え方・馴らし方にも触れ、飼育上の助言を求める。
慶長六年三月廿二日 / 冊子 754-755頁
伊集院抱節と山田理安が、日向国財部・松山・志布志などの知行を合計六百石、児玉主水佑へ加増として配分した連署知行目録。
慶長六年五月廿一日 / 冊子 755頁
伊集院抱節と山田理安が、河原村・見次村などの複数の土地を児玉主水佑へ加増として配分した連署知行目録。各地の石高・浮免を列記する。
(慶長六年)十二月廿三日 / 冊子 796頁
島津龍伯が倉光主水佑へ、先日の返書を拝見し、猫の件を承知したので今度六匹を送り、田舎細工で見苦しいながら「ゑふくろ」二つも進上すると伝えた書状。猫とゑふくろの進上先は相手の判断に委ねる。自身は老衰しているものの、度重なる上洛要請を受けて翌年上洛する覚悟を固め、相模に関する件もその時に申し上げるので、この意向を披露するよう依頼した。
(慶長十五年)正月十六日 / 冊子 265頁
慶長十五年正月十六日、島津義久が倉光主水佑に、尾張名古屋城普請が薩摩にも命じられ福崎某を派遣したと伝え、大事業への心遣いと今後の助力を願った書状案。
二月十二日 / 冊子 154頁
島津殿の子息誕生祈願を御家門から命じられたため、取り急ぎ修法を始め、札と守りを送ったことを伝え、その旨を披露するよう倉光主水助へ頼んだ書状。
(慶長十年)九月 / 冊子 31頁
島津義久が関白職就任を祝う書状案。祐乗法印の治療で自身の病状はおおむね快方に向かったが、膝痛と脚気で歩行が難しいことを述べ、南蛮頭衣一つと革五枚を進上して取り成しを頼む。
(慶長十年)九月 日 / 冊子 31頁
本文はNo.102と同文のため省略された島津義久書状案。関白職就任の祝賀、自身の療養、南蛮頭衣・革の進上に関する内容である。
(慶長十二年)七月二日 / 冊子 124頁
慶長十二年七月二日、島津義久が五月三日付の書状を受け、互いの無事を喜び、病状、家臣・知行、銀子、年々の用務などについて近況と意向を伝えた書状案。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 538頁
大隅国肝付郡串良岡崎村内の浮免九斗を稲荷大明神の神領として寄附し、公役を免じた四名連署知行目録。
文禄五年十二月二日 / 冊子 55頁
文禄五年十二月二日、公儀が児玉主水佑に隅州西俣村および河原村の土地を与え、国老伊集院幸侃が裁許して目録を授けたことを記す児玉氏譜の記事。記載高は合計五十三石八升で、従来分と合わせ百石とした経緯を述べる。
(天正元年九月廿七日頃) / 冊子 318頁
友野元真が早崎陣詰めの際、枝元神左衛門を討ち取り、女性一人を捕虜とした戦功を記す。その女性は中江主水佐の継母であり、合戦の証人として伊集院久治・箕輪舎人佐・木藤日向守・上原長門守・伊地知伯耆守を挙げる。
天正三年 / 冊子 438頁
天正三年、島津義久の命で歳久が市来湊から海路上洛し、川上忠真・八木主水佑を案内役として詩歌・連歌を学んだ。紹巴と連歌を催し、青蓮院尊朝・尊道親王・近衛前久の筆跡を得たことを記す。
(天正三年)八月廿日 / 冊子 438~439頁
青蓮院尊朝が島津歳久との対面を喜び、八木主水佑の求めに応じて入木道五箇条を伝授し、三種の贈物に礼を述べる。尊道親王筆一枚を添え、詳細は治部卿から伝えるとした書状。
慶長三年九月廿九日 / 冊子 240頁
『島津家久譜』が、九月廿九日に明兵一騎が新寨城門から三、四町の地点に標木を立て、ただちに退いたと記す記事。頴娃主水・白濱七助が標木を回収すると、翌十月朔日に新寨を攻めるので、寨将は油断しないようにとの予告が記されていたとする。
(慶長四年)九月六日 / 冊子 434頁
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、庄内の件を上使が無事に調停しようとしたが成立しなかったとの知らせを了承したと伝える。自身も山田方面へ出向き、現地の様子は頴娃主水正が見聞しているので詳述せず、委細は老名衆から申し上げるとする。
年月日未詳 / 冊子 583頁
北郷久永は十六歳で島津義弘(惟新)の陣にあり、関ヶ原敗戦後に義弘を追ったが及ばず、郎従が離散するなか四位主水だけが従ったと記す。敵中を三日進み、足の腫痛で歩けなくなると主水が背負って加藤嘉明の陣へ赴いた。久永は進退窮まり首を刎ねるよう求めたが嘉明に救われ、その後三年間囚われたのち暇を得て帰国した。
慶長六年三月廿二日・五月廿一日 / 冊子 754頁
児玉氏譜は、伊集院忠真の所領没収後、児玉主水佑が慶長六年三月二十二日に日向国財部・松山・志布志などで六百石を加増され、五月二十一日にも河原・見次村などへ知行替えを受けた経緯を記す。
九月五日 / 冊子 780頁
昭高院如雪道澄が島津家の和談成立を祝し、大峯での祈念を怠らないと伝える。上洛した鎌田政近が翌日帰国すると聞いたため書状を託し、松茸一折を贈り、詳細を倉水主水祐の口上に委ねた。
(慶長六年)九月五日 / 冊子 780-781頁
近衛龍山前久が、前日に龍伯法印の使者と初めて対面した喜びを述べる。もう一度雑談したかったが翌日帰国すると聞いて残念に思い、返書と松茸一折を託し、詳細を倉水主水祐に委ねた。
(慶長九(十)年)七月九日 / 冊子 939頁
近衛前久が島津忠恒へ、伏見滞在中に老衰・持病再発・難聴のため面会できなかった事情を釈明する。忠恒の近日帰国を聞いて遺憾とし、心中は使者倉光主水佑に含めたと伝えた。
(元和六年)十二月十九日 / 冊子 739頁
島津家久が、頴娃主水・白七・ぬく弥の成敗、七島へ遣わされた理心女房の罪が確定した場合の男女とも死罪、高闇孫市の所在究明を命じた覚書。
年月日未詳 / 冊子 252頁
寛永八年閏十月、坊津の村裏で捕らえた黄鷹を島津家久が中江主水に飼養させ、土井利勝への書状を添えて徳川秀忠へ献上し、十二月十八日に秀忠から喜びを示す返書があったことを記す家久譜の記事。
十月廿八日 / 冊子 375頁
近衛前久が龍伯に、前日の句会を殊勝と称し、夜遅い帰路を気遣った書状。長老の出座や礼のことに触れ、詳細は倉光主水佐が伝えるとして再会を期している。
三月九日 / 冊子 36頁
島津義弘が当日出京すると聞き、会えなかったことを残念がって安元への来訪を待つと伝え、気掛かりな件の確認のため倉光主水佑を遣わした近衛前久書状。
(寛永八年)十二月廿四日 / 冊子 254~255頁
伊勢貞昌が、国許から江戸へ運ばれた進上鷹は道中の取扱いもよく到着し、鷹方の者が褒賞されたことを報告する。さらに、相国(徳川秀忠)が病中であるため鷹進上の扱いを土井利勝に相談し、将軍方の鷹部屋に繋いだこと、日向産の鷹は近代まれで、幕府側で見分され喜ばれたことを伝えた書状。
十月廿三日 / 冊子 114頁
大神宮への千日参詣の名代と費用を手配し、島津少将による家の継承と、義弘自身が災難・悪名を免れることを祈る願が滞りなく成就するよう懇切な祈念を依頼した書状。
弘化元年十二月十三日(本文辰年) / 冊子 68頁/原整理番号 105の6/整理ID 105-3
「右之通」勤めて申し出たとして、法号を差し上げることを報告する短い添書。辰十二月十三日付で半田嘉藤次が主水へ宛てる。末尾に「右一冊トス」の表示があり、廣大院法号安置一件の冊子終端に当たる。
未3月11日(半田・早川の各報告);通知書付に明11日六半時 / 冊子 211~212頁/原整理番号 289の6~7/整理ID 289-3
印刷の6~7の書類。御代替に伴い誓詞を差し上げたい旨の伺を用番脇坂中務大輔方へ持参・演説して差し出し、用人を通じ落手を聞いたとする半田嘉藤次の筑後宛報告。大目付家人へ留守居附役名の書附で届ける旨も追記する。続く書付は明十一日六半時、和泉守宅へ太守が出て誓詞を行うことを伝える。早川務の主水宛報告は和泉守用人を通じて書付を受け取り、出席する旨を申し述べ、誓詞書附を受領したこと、明暁七時に私方へ下す旨の指示、翌日の同席者について用人へ照会していないと聞いた旨を追記する。両報告の未三月十一日と本文内の今夕・明日等の表記を、それぞれ保持する。
未3月11日(半田報告);外包:安政6年5月3日 / 冊子 213~214頁/原整理番号 289の10/整理ID 289-6
半田嘉藤次の首尾書。今朝和泉守宅で太守の誓詞に供をし、滞りなく済んだ挨拶を使者として門前から述べ、里村又十郎を通じて伝達する旨を聞いたと報告する。また用番脇坂中務大輔方へ出向き、前月同書を差し出していたことに触れ、今回和泉守宅で誓詞が無事済んだ旨を使者として申述べ、角田留平が取次を承知したと記す。未三月十一日、主水宛。外包には太守の誓詞関係書付都合十一通、安政六年五月三日に駿河から森喜藤太へ渡され白木御文書十番箱に収納した旨がある。報告日と一件の収納日を区別する。
宝暦九年七月朔日 / 冊子 727頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2202
宝暦九年七月朔日付の加冠仮名書出は、嶋津安太郎の加冠に際し、主水と称するよう定める。本文に「御判」と記す。
弘化元年十二月廿九日(書状)、弘化二年正月十四日(受渡)、正月十九日(到来) / 冊子 65頁/原整理番号 104/整理ID 104
太守が国許で御暇を命じられ、その御礼を御座之間で申し上げたいとする内願について、赤松主水が五名へ結果を知らせた書状。前年の御暇御礼は御黒書院へ上がったが、その後西丸での月並登城が御座之間の御目見となったため、今回の御暇御礼も御座之間とされ、御黒書院の格に心得るよう御書取を渡されたと記す。弘化元年十二月二十九日付。包紙は弘化二年正月十四日に石見殿から得能彦左衛門へ渡して納めたことを記し、正月十九日の到来と式日中急便の注がある。
弘化元年十二月廿三日(本文辰年)。弘化二年正月十八日(蓋紙の到来日) / 冊子 65~66頁/原整理番号 105の1/整理ID 105
廣大院の法号を国元の菩提所へ安置し法事を行いたいとの願いについて、赤松主水と調所笑左衛門が五名へ経緯を知らせた書状。御用番阿部伊勢守からの伺に関する指示を踏まえ、法号等は久世出雲守に承合うよう求められた。十二日に礼をもって渡し、十四日に留守居付役淵邊仁右衛門から法号の別紙を受け取ったことを報告する。二殿・貴間・大奥その他へ申し上げ、御記録奉行にも伝えるよう求める。宝鏡院にも報告し、寺社奉行・福昌寺への伝達を取り計らうよう求め、伺書写等を添え、法号を一箱に入れて送ると記す。辰十二月二十三日付。前の蓋紙には、弘化二年正月、廣大院法号の国許菩提寺安置一件として、伺書一通・留守居首尾書三通・江戸詰家老衆の問合書一通写をまとめ、正月十八日に急飛脚便で到来したと記す。
正月29日廻達到来の付記(任命本文に日不記) / 冊子 478頁/原整理番号 646/整理ID 646
澤前主水正を九州鎮撫惣督に任じたので承知するよう通知する。九州諸藩へ廻達することを注記し、正月二十九日に久留島伊豫守方の留守居から廻達が到来したと記す。任命通知と実際に廻達を受けた日を分け、惣督の現地到着や九州全藩への伝達完了をこの記録から推定しない。
天正二年正月十九日 / 冊子 327頁
天正二年正月十九日の禰寝方面の合戦で戦死した喜入季久の弟忠通・久績と、季久配下の武士らを列挙する。地下・足軽を含めて十五人が戦死したとする。
年月日未詳 / 冊子 296~297頁
天正十五年四月二十五日、豊臣秀吉が川内の太平寺へ着陣し、西国諸将の大軍と舟橋で人馬を渡した。平佐城へ降伏を迫ると、城方は「賢人は二君に仕えず」と旧主への忠義を理由に拒絶。二十八日には城門・藤崎小路で激戦となり、高木帯刀・谷山紀伊守らが奮戦して京衆・在地衆を感嘆させた。
年月日未詳 / 冊子 206~208頁
慶長三年四月五日、泗川新城の普請中に敵騎兵の動きを知った島津勢が出撃した経過を記す。伊集院源二郎・北郷作左衛門らが鉄砲隊と伏兵を分け、雨で火縄が働きにくいなか敵を誘い込んで射撃し、騎馬・徒歩の諸隊が追撃した。敵の反撃で混戦となった後も、原野や伏草へ陣を移しながら交戦し、多数を討ち取って日暮れに帰城したとする。
慶長三年九月廿八日~十月朔日 / 冊子 241~242頁
『島津義弘譜』が、董一元・茅国器らが内応者郭国安を用いて望津の兵糧を焼き、望津・永春・昆陽の三砦を攻略した後、泗川・新寨へ迫った経過を詳述する記事。島津義弘は金印を示す和親案を拒み、九月廿八日の撤収時には相良玄番ら約百五十人が戦死し、川上忠実は鎧に三十六本の矢を受けながら退却した。忠恒が反撃を望む一方、義弘は敵数不明として城門を閉じて応戦を控えさせ、明軍を退かせた。翌廿九日には明側が新寨より固城を先に攻める策を論じ、明兵が十月朔日の新寨攻撃を予告する標木を立てたとする。
年月日未詳 / 冊子 254頁
『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.482の記事と同文であるため省略されており、No.482の新寨攻撃を予告する標木の記事を参照する構成となっている。
(慶長五年)十月廿七日 / 冊子 602-603頁
立花親成が九州各地の軍事情勢と自身の和談成立を報じ、天下が静謐へ向かい江戸中納言の薩州出馬も見込まれるとして、島津方に早急に八代へ使者を送り、加藤清正・黒田如水らを介した詫言を進めるよう勧告する。
慶長五年十一月廿八日 / 冊子 620頁
新納新八郎ら十一名が、用に備えて銀子一貫目(うち七匁不足)を借用したことを証する。利子について配慮を受けたことに謝意を示し、本銀は各人が国元へ下る次第、早々に返済すると約束する連署借用証文である。
八月廿六日 / 冊子 143頁
肥後勢が芦北方面へ渡ったとの情報と日向方面の雑説を案じ、祈念を依頼した本田六右衛門尉から成就の札が届いたことを伝えた。久富木掃部助に芦北の様子を尋ねると異状はないとの返答だったため、現地事情を詳しく報告するよう少将へ求めた書状。
弘化元年十二月三日・十二日・十三日(印刷枝番3~5の各通) / 冊子 66~68頁/原整理番号 105の3/整理ID 105-2
廣大院法号の国元安置に関する三通を収める。印刷「の3」は半田嘉藤次が辰十二月三日付で主水へ宛てる首尾書。阿部伊勢守・御用人山岡衛士の表示を付し、御勝手へ書付を持参して服部九十郎と相談し、御用人へ提出、帰宅後に結果を知らせる旨を伝え、西筑右衛門がその夕方に勤めたと報告する。「の4」は同じ半田が十二日付で主水へ報告する。御用人中の切紙により本日中に一人が出向き、付札のある御書付を阿部伊勢守の御用人町野平助を通して渡すこととなり、半田らと留守居付役川崎四郎左衛門が勤めた。追記で、その夜と翌朝の御請、御目付家への出向き、留守居付役名簿の備中守への提出、久世出雲守への法号承合も述べる。「の5」は十二月十三日付で留守居付役勤淵邊仁右衛門が半田へ宛てる首尾書。浅井傳八郎と出会い、久世への伺と前夜の付札を説明し、法号一枚を受け取って差し上げると報告する。追記では表方の使者を通した御請に加え、自分も勤めて帰ったため、別の御請使者は不要と伝える。
誓詞:安政6年3月11日;早川書状:未3月8日 / 冊子 210~211頁/原整理番号 289の3~5/整理ID 289-2
印刷の3~5の本文群。起請文前書は公方への忠勤を専一とし表裏を持たないと誓う。神文では一門・公家・親類縁者等に野心の者があれば早く言上し同心しないこと、御代替に際し公義の仕置を守ること、附属の琉球国について仕置に背く企てに加担しないことを述べ、違背時の神罰を掲げる。安政六年三月十一日、松平修理大夫の御判、掃部頭と老中五人の宛所を記す。続く未三月八日付早川務の主水宛書状は、来る十一日頃の誓詞出席と故障時の連絡、大目付伊澤美作守側への通知を求め、来書を添える。誓約本文と事前の手続連絡を区別する。
未3月11日(安政6年一件) / 冊子 213頁/原整理番号 289の9/整理ID 289-5
早川務が太守の誓詞実施を報告する首尾書。昨夕の和泉守の書付により今朝六半時に和泉守宅で誓詞を行うため、六時に供が揃い太守が出たと記す。誓詞を紋付挟箱に入れ、小姓・御納戸等と早川が先に行き、箱を用人杉戸助右衛門へ渡して太守を案内した。誓詞は滞りなく済み、退出したと報告する。宛所は掃部頭と老中五人を座並で認め、大目付名の書込みに触れる。伊澤美濃守の名には原文のママ注がある。誓詞案二通を老中側と大目付へ各一通差し出し、本書も同じ書式で整えて持参させたが提出に及ばず控えにするよう指示された旨を記す。半田は門前で供をし、和泉守への挨拶使者を勤めたとも報告する。未三月十一日、主水宛。
年月日未詳 / 冊子 355~356頁/原整理番号 325
阿多地域で島原出兵に備え、池之原伊与守・山田主水らへ配当する五匁・七匁鉄砲と人夫を列記した軍役簿である。武士だけでなく寺僧を含む人員を書き上げ、十一月十七日付で編成を確定する。
三月廿六日 / 冊子 415頁/原整理番号 209
鉄炮五人の割当てを記した書付。池田内膳殿に五人、山田主水殿に同数を配し、夫賦や寺・家臣の名を列挙する。寛永十四年十一月十七日付。