大内義興書状
七月廿三日 / 冊子 662頁
大内義興が本田三河守に、近年匠作との関係が不安定だと聞いたので旧来の筋目を守ることが肝要であり、詳しくは杉三河守が伝えるとした書状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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七月廿三日 / 冊子 662頁
大内義興が本田三河守に、近年匠作との関係が不安定だと聞いたので旧来の筋目を守ることが肝要であり、詳しくは杉三河守が伝えるとした書状。
二月十六日 / 冊子 117頁
新納忠勝が杉三河守に、乱劇のなかで不適切な事態があったことに触れ、義伝芳院が事情を詳しく知っているので確認できると伝えた書状。従来の親交を踏まえて、今後も変わらぬ助力と取り計らいを依頼する。
年月日未詳 / 冊子 655頁
世間騒動のなか、本田因幡守の娘婿方である太郎左衛門尉と本田三河守広久が結び、大永五年九月二日に清水隼人城と小濱生別府城を同日に奪取したことなどを記す。
十月六日 / 冊子 695頁
大内義隆が島津忠朝に、日向安国寺を渡唐の副使にする件について了承と意見を求め、詳しくは陶安房守・杉三河守から伝えるとした書状。
年月日未詳 / 冊子 11頁
弘治元年三月二十七日の帖佐攻めで、薩摩勢は別府川南、大隅勢は岩野原に布陣。島津尚久は薩摩南方衆を率いて牛渡で敵を遮り、自ら大太刀を提げて高樋橋口へ進んだ。強敵の鑓兵は家臣山本三河守が討ち、味方は城門を破って放火したが、尚久の厳命で神社仏閣は焼失を免れた。敵首二十六を挙げ、四月二日夜に帖佐・新城・山田の敵が退去した。
永禄十一年八月十九日 / 冊子 201~202頁
永禄十一年八月十九日、大口勢が深水三河守を大将として堂崎に陣を取り、伊東勢も桶比良へ進出した。義弘は飯野へ戻り、菱刈表から援兵が送られたが、大雨で誘引・伏撃策は実行できなかった。大口方は馬越・田中河内で番替え部隊を襲い、川上丹波守・堀之内二郎左衛門と是枝大膳坊が戦死した。日新は長陣と損耗を避けるため山野を相良方へ譲って一時和睦するよう勧め、感応寺和尚の仲介で和議が成立した。
元亀二年十一月廿三日 / 冊子 258~259頁
島津忠平が上原長門守の書状を読み、懸念していた一件に変化がないと知って安心した旨を伝える。詳細は川上三河守との相談内容に合わせ、適当な時機に面会して協議するよう求めた書状。
(天正15年)5月13日 / 冊子 329~330頁
福智三河守長通が兵庫頭へ、羽柴秀長が翌十四日に都於郡を出発し、中務殿も同行する予定だと知らせた書状。秀長が兵庫頭の病状を案じているため、可能なら鹿児島へ赴き、難しければ子息を出頭させるよう勧める。使僧へ自分の考えを残さず伝えたので、その説明を聞いて判断してほしいとも述べる、豊臣方との接触を調整する実務連絡。
(天正15年)5月16日 / 冊子 330頁
福智三河守長通が桑山修理亮の側近へ、二通の書状を披露したことを伝え、兵庫頭に翌日参上するよう返事を出すべきだと相談する。兵庫頭を同道して太平寺へ赴き、豊臣秀吉への礼参が遅れている件を協議するよう求めており、島津方家臣の出仕と礼儀を豊臣方が具体的に調整した書状。
(天正15年)11月5日 / 冊子 365頁
川上三河守らと同様に、遠慮なく諸事を相談し、物事が滞りなく進むよう奔走することが肝要だと伝える。家臣相互の協調と実務遂行を求めた簡潔な指示書状。
年月日未詳 / 冊子 711頁
文禄二年六月、諸将が大軍で晋州城を攻めた際、島津豊久も城内へ突入したことを記す。 横目の片桐主膳正・藤懸三河守が戦況を記録し、味方の戦死者も出たという、豊久隊の晋州城攻撃参加を示す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 121頁
『島津常久譜』から、宇多与右衛門尉が上京して安宅三河守へ訴状を提出したため、五代右京亮らを招いて糾明した経過を記す。関係者の申状・答書を京都へ送り、太守兄弟から与えられた書状もあわせて記録したとする。
十二月五日 / 冊子 635~640頁
島津義弘の旗下で奉公する新納長住に対し、川上三河守らと同様に遠慮なく諸事を相談し、奉公が行き届くよう尽力することが肝要だと諭した島津義久書状。系図中に収載される。
年月日未詳 / 冊子 511頁
文明十六年十一月十七日、郡本と熊田原の両陣が帰還する途中で合戦となり、部隊が散開して諸士に戦死・退却者が出た経過を記す譜記事。
(永正十三年) / 冊子 612頁
永正十三年と注記された犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
永正十四年九月十六日 / 冊子 615頁
永正十四年九月十六日の犬追物について、二日二番の射手と射数を列記した手組。
年月日未詳 / 冊子 368~369頁
島津忠国のため菱刈三河守元隆が川辺で戦死したこと、川田三郎太郎義清が肥後津奈木の戦いで宗徒数十人とともに戦死したことを記し、いずれも年月不詳として考証を付す記事。
年月日未詳 / 冊子 510頁
文明十六年の田野・飫肥・三俣方面における伊東方と新納・島津方の戦闘を日付順にまとめた殉死者記事。入佐孫六、伊東祐国、新納忠続、西牟田三河守、佐多忠山らの出陣・戦死を戦場と対応させ、連続する合戦で生じた人的損害を記録する。
(慶長元年)八月六日 / 冊子 37頁
安宅三河守秀安が島津又八郎(忠恒)へ、布二巻と書状への礼を述べ、大明勅使と豊臣秀吉の対面後に朝鮮在陣衆が帰朝する見通しを伝えた。しかし地震で伏見・大坂の城内対面所が損壊したため唐人の御礼が延期され、伏見城の天守・矢倉も損壊した一方、島津義弘の屋敷と石田治部少輔(三成)の家は無事であること、三成が注文した桑木の風呂材に満足したことなどを報じた書状。
文安三年二月日 / 冊子 414~415頁
文安三年二月に行われた犬追物の手組を記し、各組の射手・配置と検見役などを列挙する。陸奥守を中心に、島津・本田・村田・伴・祢寝・新納・肝付らが参加した。
永正十一年十二月九日 / 冊子 605頁
永正十一年十二月九日の犬追物について、殿以下の参加者と検見・喚次を配列した手組。
永正十三年八月廿九日 / 冊子 612~613頁
永正十三年八月二十九日の犬追物について、各組の射手と射数を列記した手組。
年月日未詳 / 冊子 654頁
本田次郎左衛門尉の専横、本田因幡守の娘と樺山信久の婚姻関係、曽於郡の給付と返還をめぐる経緯を記し、大永五年九月二日に因幡守と太郎左衛門尉がそれぞれ城を築いたとする記事。
(大永八年)七月廿三日 / 冊子 694頁
杉興重が島津忠朝に、国内の鉾楯を鎮めるため早急に無事の調停を進めるよう求め、詳しい事情は傳芳院から伝えると述べた書状。
(大永八年)七月廿三日 / 冊子 694頁
大内義興が島津忠朝に、国内騒乱の調停について意向を伝え、詳しくは杉興重から申し述べるとした書状。
(享禄元年)七月廿三日 / 冊子 694頁
大内義興が新納近江守に、近年の対立を和らげ和睦を整えるよう求め、詳しくは杉興重から伝えるとした書状。
年月日未詳 / 冊子 10~11頁
弘治元年春、平松城を拠点とする島津方が帖佐を攻めた経緯を記す。三月二十七日、軽鋭の歩卒五人が高樋口で敵一人を斬り一人を捕え、島津尚久らが牛渡で敵を遮断して追撃、計二十六の首級を挙げた。尚久は城下放火の際に神社仏閣を厳しく保護した。四月二日夜、帖佐・新城・山田の敵が祁答院へ退去し、島津方が掌握した。
永禄十一年八月十九日~永禄十二年三月十八日 / 冊子 200~201頁
永禄十一年八月十九日、大口勢が堂崎の通路に陣を構え、伊東勢も桶比良に進出して加久藤・馬関田の村々へ放火した。貴久・義久は菱刈表から援兵を送り、伏兵で誘い出そうとしたが大雨で失敗した。のち大口方が田中河内に伏兵を置き、番替え中の川上丹波守・堀之内某を討ち、救援した是枝大膳坊も戦死した。長陣に疲れた相良方は出水感応寺の僧を介して和議を求めた。
永禄十二年五月六日 / 冊子 218~219頁
五月六日の戸神尾合戦を詳述する。家久が兵糧輸送を装い、三十余騎で大口方数千騎を誘引した。伏兵が早く起とうとした際、忠元・兼寛が団扇で制して好機を待ち、家久が敵中深く引き込むと一斉に挟撃した。相良・菱刈方は大敗し、武将の首百三十六、雑兵の首八百余を数え、討ち漏らされた者は大口城へ籠った。
元亀三年五月四日 / 冊子 279~280頁
伊東方の大軍が加久藤を攻めた際、島津義弘が木崎原へ横撃して伊東文次郎・落合源左衛門らを破った戦いを記す。島津方は鎌田大炊助・野田越中坊・曽木播磨守らを失ったが、義弘自ら敵中へ斬り込み、古陣原・本知原の敵陣を次々に崩して小林方面まで追撃した。多数の戦死者を弔うため戦場に六地蔵を建てたことと、義弘の信心・武運を讃える。
天正九年八月十八日~九月二十日 / 冊子 698~699頁
五万三千余騎とする島津軍が八景尾・銭亀尾・熊牟礼・軽石尾などに布陣し、水俣城を昼夜包囲した長文記事。矢文連歌の応酬とその故事を記し、相良義照が水俣・津奈木・湯浦・佐敷・市之瀬を差し出して和議を求めると義久が許し、嫡子に島津家の通字を与えて四郎太郎忠房と名乗らせたとする。
天正十一年三月五日~二十六日 / 冊子 751頁
天正十一年三月の島津義久の政務記事。鹿児島で居所を得た南蛮僧を父・貴久以来の禁制により追放させ、八代では秋月・龍造寺の和平、田尻への兵船、八代への移転、大矢野氏の処置、出勢時期を評議した。さらに相良忠房の来訪・献上、八代を守護領として城門・郡郷を諸将へ配分する命令、忠房の起請文提出と饗応を記す。
(文禄2年)6月22日 / 冊子 709~710頁
朝鮮へ渡海して各地の城番を務める島津勢の配置や、久四郎をめぐる処置について報告し、帰国・上洛後の扱いを相談する。 鉄砲・刀・脇差などの武具の配分、酒宴や家中の振る舞いにも触れ、在陣中の軍務と親族・家中への細かな指示が入り交じる義弘書状。
の1:安政6年9月25日;の2:今廿六日;の4:10月2日;外標:安政6年未12月 / 冊子 224~225頁/原整理番号 307の1~4/整理ID 306-1
印刷第307号の1~4を収める一件。の1は安政六年九月廿五日付武家諸法度を天保九年二月廿一日付と同文として略す注で、法度正文は載せない。の2は今廿六日、間部下総守が御條目写一通を家来へ渡し、御國持四品以上の各家へ順達するよう命じた旨の覚。受領した各家が銘々下総守へ使者を遣わして名面書どおりに順達し、この方へ返却されたら重役にも伝える。の3は相模守・大膳大夫以下、修理大夫・有馬中務大輔・細川左京大夫・南部美濃守等の名面書。の4は西筑右衛門の御名内宛報告で、先月廿六日に阿波守家来へ渡された御條目写一通が有馬中務大輔方から今日到来したため、国許の修理大夫へ知らせ承知のうえ御請を申し上げるとする。十月二日。外標は安政六年未十二月。
大永6年11月7日、同年某月28日 / 冊子 340~341頁/原整理番号 130-27
樺山玄佐の自記から、大永六年の島津忠兼・本田氏関係と河上氏系譜記事を抄出した記録。十一月七日、金吾様に同行した忠兼が鹿児島へ帰陣し、本田因幡守兼親と父三河守親安の無二の奉公により本田氏へ曽於郡を与えたが、ほどなく河上次郎左衛門の姉に関わる事情から召し返したため、本田氏が恨んで出仕を止め、新納殿を頼ったと記す。さらに新納殿が本田氏へ内通した時、大永六年某月二十八日に宮内の社頭が天火かによって全焼したとする。付随記事は、市来氏へ嫁いだ女子の年代矛盾、僧一人、源左衛門の坂元氏養子、厚地吉内左衛門家長の曾祖父が家林から厚地名字を許された由来を記す。
慶長11年正月19日ほか / 冊子 343~346頁/原整理番号 130-33
慶長十一年正月十九日付の切紙名寄帳抄。〔日か〕州久津良村の浮免坪付を省略し、合計一石四斗四合を衆中屋敷として返地したと記し、高岡御支配所印を据える。付随系譜の十四代忠辰は天正十三年生まれで、島津光久から三河守の名を賜り、家久の出馬に十八歳で馬廻として供奉し、寛永三年に上京した。光久の御題「春の雪」・菊・清見関の梅に応じた和歌を載せ、江戸で奏者番、日州代官役、与頭役を務め、寛文元年十二月十七日に七十七歳で没したとする。十五代久堅は元和六年生まれで光久の扈従となり、笹右衛門の名を賜って援役・与頭役を務め、元禄二年十一月十九日に七十歳で没し、子女・養子・婚姻・法名を列記する。十六代家寛は慶安三年生まれで、元禄八年に曾祖父忠宅が改めた源姓川上を上野守久尚へ返進して大蔵姓を再び継承し、援役・与頭役を務め、享保十一年正月二十四日に七十七歳で没したと記す。
5月7日(天正15年の目録推定) / 冊子 579~580頁/原整理番号 88
義珍が本田下野守へ、関白への差出をめぐる急な交渉を『一大事』と捉え、福智三河守・石田らを介した調整と十分な祈願を促す。忠棟が日州から船出したとの知らせを受け、その後の所在を尋ねる。入来院は重要な場所として典厩を籠めて固め、真幸は日州・菱刈をつなぐ通路で京衆が通るため強く応対し、祁答院には伊集院肥前守を入れて守備を相談するよう求める。飯野は城が弱く、敵が埋草などで取り寄せれば直ちに対応する必要があるため、諸方面の談合を急がせる。日州安堵が実現すれば宮崎を霧島へ寄進し、高原についても同様に祈願することを勧め、追書では高原の吉田若狭守退去の風聞と庄内への使者派遣に触れ、味方関係を確かめ油断しないよう戒める。5月7日付で、天正15年は目録上の推定年次。
年月日未詳 / 冊子 208頁/原整理番号 540
大追物の手組を記した名簿。『殿・與岳』以下、島津左衛門尉、肝付又八郎、本田三河守、島津太郎左衛門尉、伊地知又七、吉田若狭守らの担当疋数を列挙し、検見・喚次を示す。末尾に大寺駿河守を記す。
〔天保九年〕二月廿二日(年は目録による) / 冊子 13~14頁/原整理番号 22の2/整理ID 22-2
松平三河守斉民の使者が、御条目の写し一通に添えた口上書。二月二十二日に太田備後守から家来へ写しが渡され、大広間四品以上の人々へ順達するよう命じられたため、使者で送り、各家から備後守へ承知の届を出すよう求める。順達後は写しを返却し、回覧先は別紙に添えるとする。同じ写しを松平加賀守にも渡して残る同席の人々へ回す手筈であり、加賀守の順達先も早く届く予定と伝える。
二月廿三日~廿五日の回覧書込(年は目録一件から天保九年とみられる) / 冊子 14~15頁/原整理番号 22の3/整理ID 22-3
大広間諸大名の交名と、武家諸法度の写しが届いた家・次に順達した家を記す一覧。「次第不同」とし、松平越前守・大膳大夫・三河守・因幡守などを掲げ、松平大隅守(島津斉興)に続いて松平陸奥守・阿波守・大和守・右近将監・上総介らの順達先を列記する。書込によれば、有馬玄蕃頭から二月二十五日に松平越前守へ、松平大膳大夫から二十四日に松平大和守へ、上杉伊予守から二十三日昼に上杉弾正大弼へなど、複数の経路で送られた。回覧の個々の到着日と送り先を追える史料であり、単独の差出人・宛先を持つ書状ではない。
〔天保九年〕二月廿五日(年は目録による) / 冊子 15頁/原整理番号 22の4/整理ID 22-4
井上逸作が央様に、法令写しの回覧到着と受けの手続きを報告する。二月二十一日に出された法令の写しは松平加賀守・三河守へ渡され、有馬上総介から二十五日に島津家へ順達されたため、国元の太守島津斉興へ申し上げる旨の手扣書一通を、担当老中太田備後守の取次恒岡傳八郎へ持参して説明・提出した。取次から老中へ伝えるとの返事を得た。追記は、太守が承知した後に受書を差し出す予定とする。
〔天保九年〕二月廿一日(年は目録による) / 冊子 16~18頁/原整理番号 22の8/整理ID 22-8
代替わりに伴う武家諸法度頒布の、二月二十一日の儀礼次第。御三家、万石以上の領主、交替寄合が登城し、御座間では紀伊・尾張・水戸の順、黒書院では田安ら、御上段では松平加賀守以下の諸侯へ、将軍が法令を出す旨を伝えた経過を記す。大広間へ渡る際の先導、将軍の着座位置、掃部頭・老中・奏者番・若年寄らの席次、嫡子や菊之間縁の人々の配置も詳しく定める。老中太田備後守が法令を出す旨を伝えた後、将軍と出席者はいったん退出する。御法令を文台に載せて置き、林大学頭が読み上げ、諸侯が謹んで聞いて挨拶の後に退出した。松平三河守は養父看病による御暇との注がある。
日付記載なし(宰相昇進後の礼席指図。口裏朱注は正月廿六日到来) / 冊子 26頁/原整理番号 35の3/整理ID 35-3
松平大隅守島津斉興へ、宰相昇進後の正月二日の登城と、その後の礼席を指示した書。太刀目録は老中が披露し、盃と「引渡」は三方で下すとする。五節句・八朔は白書院で老中が披露し、八朔の太刀目録は老中が持ち出す。敷居の内へ進んで披露を受け、右方へ着座して老中・御取合の退出後に退くとし、近江守・三河守の前へ出るよう指定する。月次は黒書院の縁頬で同じ順に披露を受け、若衆の礼も同様とする。口裏朱注は、転任後の勤向の伺いに関する件として正月二十六日に到来したことを記す。
日付記載なし(宰相昇進と正月二日等の礼席を扱う書付四通) / 冊子 35~36頁/原整理番号 46/整理ID 46
宰相に昇進した松平大隅守島津斉興への達し四通をまとめた書付群。第一は正月二日の登城で太刀目録を老中が披露し、盃と「引渡」を三方で下すことを定める。第二は正四位下中将からの宰相昇進を今回限りの特例とし、慶事・縁柄・大御所の意向を理由として、今後の家格には及ばない旨を伝える。第三は五節句・八朔を白書院で老中が披露し、敷居の内へ出た後に右方へ座り、老中・取合の退出後に退くことを指示する。第四は月次・若菜を黒書院縁頬で行い、近江守・三河守の前へ進むことを定める。各通の口裏・包紙に大隅守宛とあり、外包は御用番からの書付四通と記す。
6月29日宸翰写;8月摂津伝達(各原記載) / 冊子 373頁/原整理番号 535の3~5/整理ID 535-3
原の3~5を一行にまとめた文書群。原の3は御名の島津茂久と松平三河守・細川越中守ら二十三の官称を列記する名書。原の4は六月廿九日、一橋中納言へ賜った宸翰写で、世上の騒動を憂え、昨年八月十八日の出来事と関白らの意図を結び付ける噂に惑わされないよう述べる。大和への行幸は望まないと申し出たのに延期となったこと、守護職を肥後守に命じたのはその忠誠によることで私情ではないことを説明する。原の5は、長州人の入京を許さない旨の書付と稲葉美濃守の御渡書写で、本文は第533号の2と同文として略すとの注がある。さらに別紙五通を稲葉美濃守と所司代から受けたことを、漏れなく諸郷・私領へ周知する八月摂津の通知を収める。政治判断・噂の否定は宸翰や書付の叙述として読む。
文安三年二月犬追物 / 冊子 121頁/原整理番号 8
文安三年二月の犬追物手組。島津次郎三郎・本田因幡守・村田三河守・市来筑前守らの射手と犬数、検見を記す。欄末に平田美濃守を掲げる。
永正十一年十二月九日 / 冊子 134~135頁/原整理番号 53
永正十一年十二月九日の犬追物手組。殿・島津五郎丸に続き、島津左衛門督、税所左衛門尉、竹田藤次郎、本田三河守らの射手を列記する。検見は島津豊後守、喚次は島津十郎。本文に射手別犬数はない。
永正十二年二月十二日 / 冊子 135~136頁/原整理番号 56
永正十二年二月十二日の犬追物手組。加治木又八郎・島津又六郎・伊地知又七・本田三河守・税所左衛門尉らを掲げ、検見を島津十郎左衛門尉(義久)・鎌田勘解由左衛門尉、喚次を吉田若狭守とする。
永正十三年八月廿九日 / 冊子 138頁/原整理番号 64
永正十三年八月二十九日の別の犬追物手組。殿二十三疋、島津左衛門尉五疋、肝付又八郎五疋、本田三河守二疋などの犬数を列記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)、喚次を大寺駿河守とする。同日付の前件とは別番号。
永正十三年 / 冊子 138~139頁/原整理番号 65
永正十三年と記す犬追物手組。島津殿・廻兵部少輔・本田三河守・桑波田孫六・税所左衛門尉らの射手を列記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)、喚次を加治木筑前守とする。本文に月日は示されず、犬数もない。