政国書状
十一月廿二日 / 冊子 473頁
政国が二階堂三左衛門定行から太刀一腰と鳥目三千疋を受領した礼を述べ、返礼として太刀一腰(景光)と織物を進上した書状。
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十一月廿二日 / 冊子 473頁
政国が二階堂三左衛門定行から太刀一腰と鳥目三千疋を受領した礼を述べ、返礼として太刀一腰(景光)と織物を進上した書状。
十一月廿二日 / 冊子 474頁
政国が二階堂三左衛門定行に贈答への謝意を述べた書状。本文はNo.1471と同文のため省略される。
六月十九日 / 冊子 146頁
島津常久が入来院三左衛門尉に、京都滞在中に石州から事情を聞き、先方が諸事に辛労していることを労った書状。留守中のことを特に心配しているが、下向の時期も近いと聞くので安心するよう伝え、詳しくは面談時に話すとする。
天明四年十二月十八日 / 冊子 775~776頁/原整理番号 2169/整理ID 2169
知行高百九十石四斗五升五合八勺八才を鹿児島武村・荒田村、谷山中村・五ヶ別府村、溝辺麓村、高山宮下村・野崎村、大崎神領村・持留村、綾北俣村、須木須木村、串良岡崎村、田布施大野村・尾下村、大村北方村、伊作入来村、末吉中之内村・諏訪方村・二之方村、百引百引村、横川下之村、庄内高城桜木村・穂満坊村・大井手村、高原水流村、山之口富吉村の各村内に列記する。渋谷喜三左衛門が妙心院の家本として帯方に従い救済に尽くした事情を述べ、山下御屋敷の私買地高から右の高を拝領させたので職務に励むよう命じる。十二月十八日付宮之原通直・二階堂行旦・島津久健・島津久起連署で、包紙にも拝領知行目録写一通と記す。
(寛永五年)十一月四日 / 冊子 72~73頁
田代三左衛門尉が、喜入摂津守の拝領品である呉服二つを確かに受け取ったと証明する請取状。
康正三年四月廿六日 / 冊子 431頁
島津忠長が二階堂殿に対し、薩摩国田布施の所領について先例に任せて沙汰するよう命じた宛行状。
(慶長元年)三月九日 / 冊子 11頁
島津義弘が又八郎へ、朝鮮在番衆の辛労をねぎらい、図書頭・石田治部少輔らの供奉、伊勢弥九郎の上洛、光明院・神徳院による渡海祈念について伝えた。さらに、明の勅使来朝に伴い、朝鮮在番衆の各主将は人数を残して帰朝すること、約七百人を伊集院抱節・比志島紀伊守・鎌田出雲守のもとに残し、又八郎らは直接京都へ上ることを指示した。船数を確実に整え、不足時は国元へ連絡すること、残番衆の士気や帰国用の船に配慮し、小西摂津守と相談することなども求めた書状。
寛永十六年三月十六日 / 冊子 401~402頁/原整理番号 515
大膳亮内の上田三左衛門尉は加久藤御曖衆へ、妻の妹への宗門手札交付を依頼する。妹は先年の改めの際、加治木又八郎の御前に奉公しており、御内方には手札が下されなかったため現在も所持していない。寛永十三年八月に暇を得て上田のもとへ来た後、加久藤衆中小原織部佑方へ遣わしたので、今回の改奉行へ申し入れて手札を下すよう求める。
九月六日 / 冊子 586~587頁
累年預かっていた長光太刀が安堵されたことを大いに喜び、その礼として領地一町を新納忠勝へ贈る。今後は小法師との契約により保管し、異議はないと伝えた新納武久書状。
寛永14年11月4日 / 冊子 309頁/原整理番号 275の2
府内御横目衆からの返書写し二通を見せられたことへの礼を述べ、島への贈物・兵糧類を家中で賞味した旨を伝える田中宗行外二名連署書状。家老衆への取次ぎを頼み、十一月四日付で山本三左衛門宛に結ぶ。
11月24日 / 冊子 412頁/原整理番号 375の5
十一月二十四日、赤米十八石三斗八升と真米二石三升三合を掲げる。天草一乱に伴い加世田内の小湊・小浦・片浦から仕立てた船の船頭・水手・上乗衆の飯米として、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ渡すよう篠原三左衛門・丸田内膳正へ命ずる。数量の横には前かき・右同と記す。
6月15日(寛永13年の傍注) / 冊子 577頁/原整理番号 83
伊勢兵部少輔貞昌と川上左近将監久国が四人の宛先へ、薩州様が国分に居住したいと望み、酒井讃岐守を通じて披露したところ許可されたと伝える。連署の奉書が出され、黄門様が下国すればこの件も追って伝えられる見込みだという。詳しい事情は野州老から伝えるためここでは述べきれないとし、この段は承知してほしいと通知する。6月15日付で、寛永13年は本文外の傍注。確認用画像第2頁は次項84の冒頭『貴報』のみで、本書状の本文は第1頁・原PDF冊子577頁上段で完結する。
年月日未詳 / 冊子 236頁/原整理番号 172-9
四月六日付の書状。沢原野御馬追をめぐり、参加人数の変更や近隣の人々との相談、雨天時の対応について報告する。御座を設けることや諸事を事前に確かめるよう求められた件にも触れ、準備の見通しを伝える。
万治二年十月十五日 / 冊子 27~28頁/原整理番号 32
加久藤側の三名が山奉行の三原九兵衛へ、飛札を受けて御狩倉付と御用木留帳を調べ、書付を差し出したことを報じる。御狩倉付は御支配所の用向きでもあると添える十月十五日付書状。
元文四年十月三日 / 冊子 549頁/整理ID 1368
郡奉行と山奉行の連署証状。重富にまだ役人が常駐していないため、当面は帖佐・吉田の役人が所管地を引き渡し、後に重富の役人が移ってきた際は両方へ届け出て、定めた境界どおり引き継ぐとする。
「寛永十七年」七月十一日 / 冊子 130頁
菱刈美濃守重綱と米良三左衛門尉が国元の重臣らへ、相良清兵衛を江戸へ召し出すよう相良壹岐守から命じられ、清兵衛が先月二十日に出立したことを報じた連署書状。その留守中に清兵衛方の者と犬童牛兵衛が同心して逆心し、勝手な振舞いをしたため討ち果たしたが、すでに残党なく事は収まったとして安心するよう伝え、詳しくは使者の口上に委ねている。
寛永十八年四月吉日 / 冊子 150~151頁
黒田三左衛門頼崇が、振舞方の見廻役として諸事に念を入れて奉公し、御前で聊爾がないよう注意すること、どのような策があっても同調せず直ちに言上すること、聞き違いによる疑いを受けた場合は糺明のうえ召し仕えるよう願うことを誓った起請文。違反時には梵天・帝釈・四大天王・日本国中の諸神などの神罰を受けるとする神文を伴う。本文見出しは「起請文前書之事」、本文署名およびインデックス表題はいずれも「黒田頼崇」と確認した。
十月十二日 / 冊子 247~248頁
西国時通らが、秋月家家老の入江三左衛門一行の通行を知らせた書状案。入江は父子三人・弟一人・女房衆五人を含む上下四十五人で唐津方面へ向かい、野尻に宿泊後、八日町の三学院付近へ到着したとする。伊地知杢右衛門からの連絡を受け、宿泊・通行への対応を関係者へ申し送っている。
十月十二日 / 冊子 248頁
西国時通らが、秋月家家老の入江三左衛門一行が翌日に当地へ通行する予定であることを知らせた書状案。父子三人・弟一人・女房衆五人を含む上下四十五人で唐津方面へ向かい、前日に野尻、当日に八日町へ宿泊した経路を示し、宿所・通行の準備を求めている。
寛永廿一年二月五日 / 冊子 320頁
有馬・天草両陣の軍衆人数極。鹿児島衆・外城衆などについて内衆と披官・小者の人数を区分して集計し、両陣に動員された人数の総計を示す。黒田三左衛門・土持左馬権頭の確認を伴う。
年月日未詳 / 冊子 647頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1616
徳川家光の二十五年忌法会に際し、島津光久が仁礼興三左衛門景林を使者として、銀二十枚の香奠を東叡山の尊霊前へ奉献した記事。
年月日未詳 / 冊子 834頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2199
元禄二年三月二十六日、村尾重栄を琉球在番奉行として派遣し、東郷三左衛門らを副役に付け、任期を終えた元禄四年七月十八日に薩摩へ帰ったことを記す記事。
元文五年九月十五日 / 冊子 615頁/整理ID 1549
継豊の妹於民について、九月十五日に生まれ、母は近藤三左衛門嘉包の娘であると記す。後に伊勢兵部の妻となったことも付記する。
天明四年正月十三日~二月七日 / 冊子 729~730頁/原整理番号 2058/整理ID 2058
天明四年正月十三日、重豪は江戸参勤のため鹿児島を発ち、家老島津左中久金、大目付川上頼母久品、側役岩下佐次右衛門方恭、側役格愛甲蔵記廉盛・児玉祝人実門らが供奉した。九州路を進み、二十三日に筑前木屋瀬、二十四日に豊前大里へ渡り、中国路を経て閏正月十一日に大坂、十二日夜に大坂を発して淀川を遡り伏見に一泊、十五日に伏見を発ち、十六日に近江高宮へ着いた。これに先立つ閏正月七日、将軍徳川家治は宿次奉書により、将軍家の鷹が捕った鶴一隻を重豪へ与えた。久世広明から留守居を通じて伝達され、鶴と奉書は村田藤九郎経條・河野三左衛門良堅が宿次で護送し、十六日に高宮の客舎で重豪が受領した。同日、重豪は側用人平田平太左衛門位就を謝恩使として江戸へ遣わした。位就は重豪を待って美濃国清洲駅にいたが、鶴受領の報を受けて同駅から江戸へ発ち、二十三日夜に到着、二十五日に久世広明宅へ赴き、翌日には老中各邸を回った。重豪は高宮から美濃路・東海道を進み、二月朔日に江戸へ到着して芝邸に入り、同日留守居を老中邸へ遣わして参府を報告し、六日には自ら老中各邸を回った。七日、久世広明は留守居に、通常は謝恩使が将軍に目見えして奉書を受ける例だが、この時は重豪がすでに朝覲していたため、将軍は謝恩使に会わず奉書も与えないと伝えた。
天明四年九月二十三日・十月一日(朱書追記) / 冊子 752頁/原整理番号 2117/整理ID 2117
田沼主殿頭の用人大竹三左衛門から切紙で呼び出された渋谷五郎右衛門が、朔望・二十八日などの登城時に大廊下下の休息所内で障子際へ控え、場所は大目付・目付に問い合わせること、年始・五節句にも同じ休息所を用いることを口達された。渋谷が礼勤めの要否を尋ねると、先の命令を補う達しであるため表向きの謝礼は不要と説明された。九月二十三日の申出に、十月一日の登城時、牧野越中守が大目付衆からの書付を重豪へ直接渡したとの朱書を加える。
7月12日三郎書状/7月11日連名書状/文久3年亥7月11日携帰・同13日拝聞注 / 冊子 304~305頁/原整理番号 432/整理ID 432
三内容の雑集。第一は三郎の七月十二日書状で、人心に関わるため親征に尽力したいとの依頼を受け、表向への許しと早い上京のための取り計らいを求める。大連署の建白が朝議に合ったことも述べる一方、親征は治定しておらず御時宜次第とし、詳しい話をして上京許可を得たいとする。第二は七月十一日の連名書状、三郎殿宛で、召しを受けた好機に上京し、懸案を分明にして親征の願いに力を貸すよう重ねて頼む。第三の注は小笠原圖書頭の上京の事情と対外沙汰への心得を載せ、文久三年亥七月十一日に奈良原幸五郎・税所喜三左衛門が京都から持ち帰り、十三日に御一門以下の諸役人・諸士が本丸で拝聞したと記す。書状の日付順と携帰注を整合のため書き換えず、上京・親征の実行完了を認定しない。
年月日未詳 / 冊子 309頁/原整理番号 275の1
四日、熊本家老中が山本三左衛門を松倉長門守方の籠城家老への見舞使者として遣わした記事。使者に対し籠城家老から書簡が贈られたことを記す短文。
(寛文三年)正月九日 / 冊子 460頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1007
北郷家跡目の処置について、千世松の縁組・家相続案、北郷又次郎への早期申渡し、知行三百石や開地の手当、家中・被官の処置を検討し、関係者を召して上意を伝えるよう申し上げた文書。
(寛文三年)正月十三日 / 冊子 460~461頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1008
島津光久側が、喜入摂津守と千世松の縁組、名字免許と北郷家相続、北郷又次郎への伝来刀・知行付与を進める一方、官位、知行・所領、家臣団、幼少の世継ぎがある場合の相続まで関係者で協議するよう伝えた申渡書。
(寛文三年)正月十八日 / 冊子 461頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1010
北郷跡を喜入摂津守へ仰せ付け、伝来刀・知行少分を北郷又次郎へ与える案について、又次郎の辞退理由をもっともと認め、付与を取り止める旨を伝えた申渡口上。
(寛文三年)正月廿二日 / 冊子 462頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1014
島津光久が、小杉家跡目について庄内へ照会し、役人らで相談して候補を申し上げるよう命じ、相談結果を早急に報告するよう重ねて指示した記録。
年月日未詳 / 冊子 920頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2496
使者が近藤吉左衛門宅で、光久が十一月二十九日に死去したこと、太守からの書状を届けたこと、幕府への届出について指図を求めることなどを申し述べた口上覚。
天明二年十月二十一日 / 冊子 676頁/原整理番号 1907/整理ID 1907
例年十二月に桜島蜜柑と炙鮎を献上してきたが、桜島の火災で柑木が損傷し、煙も続いて蜜柑の産出が少なく、先例どおりの献上が難しいと重豪が述べる。国産の代替品も見当たらないため、当面は炙鮎一種のみの献上を伺う。十月二十一日付。付札は蜜柑が再び出来るまで炙鮎一種の献上を認める。続く附記は、十月十八日に有川勇馬が田沼意次方へ書付を持参し、二十一日に本城源七郎が提出したこと、二十六日に用人を介して呼出し・相談を受けたことなどを記す。1906は同じ問題を要約した別記事。
天明五年三月四日 / 冊子 796~798頁/原整理番号 2195の9/整理ID 2195-9
将軍転任祝儀の招請人名を63件列記する。三月四日・御次第不同とし、大書院・表書院御取持・勝手之間・居間書院・居間・勝手の区分と各人の断注を記す。掲載数は出席人数を表さない。
天明五年三月六日 / 冊子 798~800頁/原整理番号 2195の10/整理ID 2195-10
将軍転任祝儀の招請人名を72件列記する。三月六日・御次第不同とし、大書院・表書院御取持・勝手之間・小書院・居間書院・居間・勝手の区分と各人の断注を記す。同名の再出を含む。掲載数は出席人数を表さない。
天明五年五月十五日(本文冒頭に九月十五日) / 冊子 809~811頁/原整理番号 2220/整理ID 2220
太守の登城と月次の礼を機に、田沼主殿頭からの伝達や大広間での沙汰を記す。今後の登城時、大廊下下の休息所を使用できること、年始・五節句などは扱いが異なること、白書院・黒書院での礼や席次、田沼からの呼び出しと先例との関係を詳述する。冒頭に「九月十五日」、末尾に「天明五年五月十五日」と記され、日付が一致しない。
寛永廿一年二月三日 / 冊子 442~443頁/原整理番号 553
天草出陣衆の延べ人日を一日賦で集計する。鹿児島衆は十万四千四百二十五人日で、人躰九千四十九人日、被官・夫九万五千三百七十六人日。外城衆は十五万六千八十三人日で、人躰十一万二千七百六十六人日、被官・夫四万三千三百十七人日。総計二十六万五百八人日は、人躰十二万一千四百二十五人日、被官・夫十三万九千八十三人日に分かれる。
寛永廿一年二月五日 / 冊子 445頁/原整理番号 556
本文は天草出陣衆の延べ人日を一日賦で集計し、鹿児島衆十万四千四百二十五、外城衆十五万六千八十三、総計二十六万五百八人日とする。内訳は人躰十二万一千四百二十五、被官・夫十三万九千八十三で、文書553と同内容である。本文日付は二月三日だが、目録は標題を「有馬立軍衆人数究」、年月日を寛永二十一年二月五日とするため、目録欄と本文内容の相違を保持する。
〈寛延元年〉九月九日(記事起点) / 冊子 105~106頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0305
家重の将軍職継承に対する琉球慶賀使の参府を記す。継豊は病気のため江戸に留まり、延享三年に家督を継いだ宗信が代行する旨を執政酒井雅樂頭忠知へ申し出て、許可された。中山王尚敬は慶賀正使具志川王子と副使與那原親方を薩府へ遣わし、寛延元年九月九日、宗信は正副使と従者九十八人を率いて薩城を出発した。島津兵庫久門、番頭格入來院石見定勝、家老鎌田典膳政昌、側用人本田孫右衛門親房、近習役澁谷喜三左衛門貫通・二階堂林左衛門行通・福山平太夫安都らが同行し、家老平田掃部正輔、用人有川幸右衛門貞利、近習役堀堀右衛門貞起らが使節を監督した。十一日に向田の仮館へ着き、十四日に琉球使・琉人監官・諸有司が久見崎港で乗船した。
〈宝暦三年〉四月二十三日~十一月六日〔記事〕 / 冊子 404~405頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1239
宝暦三年四月二十三日、重年が家老義岡相馬久中、側用人二階堂林左衛門行通・澁谷喜三左衛門貫通、福山平太夫安都、近習役河野安之右衛門通古らを従えて江戸芝邸を発った記事。東海道・伊勢路を経て五月八日に城州伏見の仮館へ着き、一日留まった。十日に出発して川を下り大坂仮館へ着き、二日留まった。十三日に船で尼ヶ崎へ進み、播州を陸路で通って十六日に坂越へ着き、直ちに乗船して翌十七日に出帆した。二十七日夜に日州細島港へ着いたが、先の大火で民家の半ばが焼けていたため、供の人馬が到着するまで船内で三日待ち、六月二日に下船した。都濃、都於郡、高岡、高城、都之城、福山を経て九日に福山から船で鹿府築地亭へ着き、府城へ入った。都濃は秋月佐渡守種美領内、都於郡は島津加賀守忠雅領内の宿所との元注がある。その後、番頭喜入安次郎久福を謝恩使として江戸へ遣わした。久福は九州を進み豊前小倉から船で大坂へ渡り、東海道・伊勢路を経て七月十一日に江戸芝邸へ着いた。二十八日に登営し、家重へ重年の献物芭蕉布二十端・三種二荷を呈した。土岐伊豫守頼熙が取り次ぎ、久福自身も太刀一腰・馬代白銀一枚・紗綾二巻を献じて拝謁し、井上河内守利容の奏達を受けた。続いて西城の松之間で家治へ重年の献物三種二荷を呈し、永井伊賀守直陳が取り次いだ。久福自身は太刀一腰・馬代白銀一枚を献じた。八月六日に再登営し、西尾隠岐守忠尚が檜之間へ久福を召して回答の奉書を渡し、土岐頼熙の取次で紗綾二巻を与えた。同日、西城の秋元但馬守凉朝からも回答の書翰を受けた。二十八日に芝邸を発ち、東海道を経て大坂から船で西海を航行し、十一月六日に薩府へ帰って復命した。出典は重年公御譜。
宝暦八年四月十九日 / 冊子 672~673頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2016
宝暦八年四月十九日、忠洪が老中奉書を受け、熨斗目・長袴を着して登城し、黒書院で将軍父子に初めて拝謁した記事。幼少のため、一族島津淡路守久柄を同伴者に選んだが、当日は西城の親戚松平越中定賢が同伴したという注がある。家重へ太刀一腰・縮緬十巻・白銀二十枚・馬一匹、家治へ太刀一腰・白銀二十枚・馬一匹を献上した。家治への奏者は黒田大和守直純、取次の用番老中は本多伯耆守正珍。忠洪は三下段へ入り、初席へ退いて上意を受け、平伏して退出した。続いて家臣一族島津若狭久定、家老樺山左京久倫・島津主鈴久郷・高橋縫殿種壽が、各々家重へ太刀一腰・馬代銀一枚・縮緬五巻、家治へ太刀一腰・馬代銀一枚を献上した。番頭名越左源太恒篤らと、用人澁谷喜三左衛門貫通・宮之原甚五太夫通直・諏訪甚兵衛兼方・小林中太兵衛政央が、各々家重へ太刀一腰・馬代銀一枚・縮緬三巻、家治へ太刀一腰・馬代銀一枚を献上して台顔に拝謁し、金森頼錦・水野忠見が奏者を務めた。幼少の忠洪に代わり家臣九人が襲封の恩を謝したことは、通常の元服後の家臣拝謁と異なる旨の注がある。忠洪はさらに西城大広間へ登り、松平周防守康福に拝謁して前件を謝し、家臣九人も西城で礼を述べた。その後桜田邸で休息し、老中・側用人・若年寄の各位へ礼を述べ、先例に従い白銀十枚を献上した。また本営の老女へ各白銀二枚、表使女へ各一枚を贈った。出典は重豪公御譜。
宝暦八年四月 / 冊子 678~679頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2020
四月の御目見における家臣九人の献上物を記した控えである。一族の島津若狭と家老の樺山左京・島津主鈴・高橋縫殿の四人は、公方へ太刀・馬代銀・縮緬五巻、大納言へ太刀・馬代銀をそれぞれ献上する。番頭の名越左源太と用人の澁谷喜三左衛門・宮之原甚五太夫・諏訪甚兵衛・小林中太兵衛の五人は、公方へ太刀・馬代銀・縮緬三巻、大納言へ太刀・馬代銀をそれぞれ献上する。附紙には同じ内容で献上する旨の指示がある。
履歴記事(逝去は安永元年壬辰十二月五日、出棺は同月二十日) / 冊子 350頁/原整理番号 976の14/整理ID 976-14
浄岸院の出生から養姫・婚姻、家族の事蹟、逝去と葬送をまとめた履歴。宝永二年乙酉二月十九日、京都で千代姫として生まれ、実父は清閑寺前大納言熙定、母は「家之女房」で後に玉勝院と称した。四歳で江府へ下り、宝永五年戊子七月二十五日、御台の願いによって常憲院の養姫となり竹姫と称する。享保十四年己酉六月四日に継豊との縁組が命じられ、同年十二月十一日に婚姻が整った。嫡子盆之助を独子とし、享保十八年癸丑五月朔日に女子菊姫が出生、宝暦五年乙亥十二月七日に筑前国主の嫡松平修理大夫重政へ嫁いだと記す。続いて宝暦十一年辛巳十二月四日の女子屋世姫出生と、十一歳の明和八年辛卯八月十日の早世を記すが、この女子の母は明示しない。重政が宝暦十二年壬午七月十四日に死去した後、菊姫は髪を卸して真含院と称し、継豊が宝暦十年庚辰九月十日に死去した後、竹姫は髪を卸して浄岸院と称した。六十八歳の安永元年壬辰十二月五日辰刻、芝の御守殿で逝去し、法号を浄岸院殿信譽清仁祐光大禅定尼とする。同月二十日卯上刻に御守殿から出棺し、薩州福昌寺へ送葬する。供は家老島津左中、側用人西恰之助、近習役薬丸猪右衛門、留守居有川勇馬、使番大野清大夫、御守殿添用達川上頼兵衛、中通目付伊東三左衛門、表目付平田主右衛門ほか、鎖口添番・医師・馬廻・新番・歩行の者が段々に命じられた。公儀の留守居番織田図書も国元まで遣わされるよう命じられたと結ぶ。
安永九年八月九日(朱書提出経緯は八月十一日) / 冊子 599~600頁/原整理番号 1696/整理ID 1696
島津重豪が、近来は持病が暑気に障り、例年の暖気の時節に出発しても道中が甚だ難儀であるとして、全快するまでの間は三月中に暇を下され、二月中に参府したいと願う。安永九年八月九日、御名。朱の付札は願いの通りとする。別の朱書は、例書を添えた願書を八月九日に倉橋三左衛門を介して御用番松平右京大夫へ提出し、十一日に朱書の御附紙を付して返された経緯を記し、関源八・有川勇馬にも触れる。病状そのものの治癒や実際の出発・参府完了を報告した文書ではない。
天明五年十一月八日 / 冊子 834頁/原整理番号 2289/整理ID 2289
重豪は、在国時節に差し上げる干鯛・残魚について、国許からの品が到着しないため、在国にあった品を献上してよいか伺う。十一月八日付の伺書と、留守居矢野清右衛門の呼出し、別の留守居伊木喜兵衛による御取次大竹三左衛門への御用付札提出を記す。
天明七年正月廿三日(年は朱書) / 冊子 922~923頁/原整理番号 2534/整理ID 2534
隠居・家督願の案文を十五日に留守居澁谷五郎右衛門が用番牧野越中守ほか老中へ持参し、内見を求めたと報告する。異存がなければ十八日の客対日に先例どおり親類方へ先手衆を添えて提出したいと申し入れ、随意にするよう回答を得た。用番と松平周防守には十八日に願書を出し、廿九日か晦日に隠居・家督の命が下ることを希望する内意も伝えたという。十八日に用番宅で願書が滞りなく受け取られ、大いに喜ばれたとの連絡を受け、倉橋三左衛門らへ挨拶し、一門などへの通知を指示した。願書受領は当地の詰合へ即日伝え、京・大坂へは本日便で知らせるとし、願書写しを添える。明姫・女中方への伝達と、そちらから佐土原へ知らせるよう依頼する。正月廿三日付、関山糺・市田勘解由・二階堂主計から四名に宛てる。
天明七年正月四日・廿九日(記事中の出来事) / 冊子 926頁/原整理番号 2543/整理ID 2543
天明七年正月四日、柳生但馬守俊則・倉橋三左衛門久雄が重豪に代わって登城し、致仕を願ったと記す。廿九日には重豪が登城し、牧野越中守貞長を介して願いの許可を伝えられたと述べる。
文化元年子10月16日(朱注。享保・延享・宝暦の先例を遡記) / 冊子 280~281頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0063
大奥で召し仕えた女中が子を産んだ後に縁付を命じられた例、また子へ直接召し付けられた者があるか調べるよう命じられたことへの先例調書。浄国院(島津吉貴)の妾、郷田仲兵衛兼近女お幾・後霜林は子を産み、後に重富屋敷へ移った。重富留守居へ照会すると、当若狭殿の祖父周防殿(忠紀・注)が享保19寅9月に磯で生まれ、すぐ月桂院(吉貴側室)の養育となったが、延享2年乙丑3月21日に下屋敷から鼓川へ移り、同日母を勝浦山屋敷から召し移したと分かった。家元郷田安左衛門にも照会したが詳細不明で、形行いの次第は不知とする。吉貴の妾、近藤三左衛門嘉包女お政・後貞寿院は因幡殿の実母。吉貴逝去時まで御側に召し仕え、その後因幡方へ移り、今和泉留守居によれば延享元年甲子5月15日、因幡(初三次郎)の磯付高屋敷と道具を拝領、延享4年丁卯10月の遷去時も因幡の拝領なので磯屋敷で籠居した。宝暦2年申7月に居屋敷を拝領して家作し、翌3年酉には母子が喜入へ移った。有邦院(島津継豊)の妾、伊地知八四郎季鄰女おはんは本殿の実母で、知覧屋敷へ移った。享保17年子閏5月朔日に本丸大奥で出生し同日島津本久豪方へ引越し、直子の筋で養育された。延享2年丑12月朔日に北条織部から母を本殿方へ移す旨、100石の所務を一世下す旨を命じ、同日玄蕃から50石の所務を一世付けられたが、50石以外に本殿からの命はないとする。翌寅年2月26日、本殿15歳の時におはんが知覧へ移った。以上の先例は調べたが古い事なので細部は不明で、寛陽院(島津光久)の妾から子に召し付けられた人もあるものの、出産後の縁与等は見当たらないと報告する。文化元年子10月16日の朱注、記録奉行本田孫九郎・平山五郎右衛門、記録方添役橋口善兵衛、見習碇山八郎右衛門・本田休七・八田孝之進の六名を掲げる。居住・養育・道具・一世禄の先例と、縁付について確かな例を示せない調査結果を分ける。
11月23日 / 冊子 403~404頁/原整理番号 368の1
十一月二十三日、大迫休左衛門・唐仁原隼人佐・森田与三左衛門・久松四郎左衛門・森田八左衛門・野田内蔵丞・宇多与左衛門の各主従へ、真米・赤米各一斗五升を掲げる。小浦・片浦から出水へ向かう人衆乗船の上乗として、加世田衆中に同日以後三十日分の飯米を片浦で渡したことを記し、到着後も算用して支給するよう是枝喜右衛門へ伝える。
11月24日 / 冊子 413頁/原整理番号 376の3
十一月二十四日、大迫休左衛門・唐仁原隼人佐・森田与三左衛門・久松四郎右衛門・森田八左衛門・野田内蔵丞・宇多与左衛門の各主従へ、真米・赤米各一斗五升を記す。加世田衆中の上乗に十一月二十三日以後三十日分の飯米を渡すよう、三原源左衛門・永山覚右衛門へ命ずる。天草一乱に伴い小浦・片浦から出水へ遣わす乗船のための支給である。