島津義弘(惟新)感状
慶長五年十月十日 / 冊子 595頁
島津義弘(惟新)が榊松三右衛門尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
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慶長五年十月十日 / 冊子 595頁
島津義弘(惟新)が榊松三右衛門尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
寛永十四年十二月五日 / 冊子 704~706頁
「覚」として、幕府が十一月二十六日付の奉書により肥後・薩摩勢へ天草一揆の鎮圧を命じたことを受け、有馬方面で一揆が起きた際の即応、一万人のうち動員できる兵数、川尻に進出した肥後勢との歩調、薩摩勢用の船の準備を問い合わせる。天草平定後の早急な報告、一揆勢の首級を目付衆に見せるため捨てないことも指示する。さらに松平隠岐守の条書、松平伊豆守らへの兵粮・音信、渋谷知兵衛尉の派遣、天草一揆が長引き上洛延期となる場合の報告に言及する。吉利織部祐が署名し、使者を川越三右衛門尉とする。寛永十四年十二月五日付。
年月日未詳 / 冊子 139頁/原整理番号 231
吉田与三右衛門の覚書。島原一揆の際、病中の島津家久を見舞うため初めて江戸から帰国した光久が、そのまま島原へ加勢しようとし、家久から御召の鎧二領を託された伊東祐昌が光久の陣で待ったが、加勢に及ばず帰国したと語る。宝永六年八月二十四日、八十一歳の吉田の話を家来坂元武右衛門が書き留めたもの。
年月日未詳 / 冊子 335頁
根白坂の豊臣方陣地を攻めて敗れた島津義弘が、木食興山上人・一色駿河守らの仲介で和議に応じ、人質を出して飯野へ帰った経過を記す。五月十九日に野尻の羽柴秀長陣へ出仕すると、さらに人質を求められたため、赤塚三右衛門・佐谷田覚右衛門を桑山重晴へ預けた。両人の父はいずれも島津方で顕著な軍功を立てており、その功績ゆえに子が質として選ばれた事情を詳述する。
文禄3年5月7日 / 冊子 784~785頁
義弘が赤塚三右衛門尉の到着を受け、又八郎の秀吉への御目見えが無事に済んだことを祝う。まず石田三成へ礼状を出し、今後も身持ちを油断なく整えるよう命じる。 龍伯の上洛を待つため渡海が延びた事情を確認し、すべて三成の指南に従うこと、伊勢弥九郎以下の供衆にも奉公の心構えを徹底するよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 612頁
島津義弘(惟新)の家臣鹿屋三右衛門が、関ヶ原から肥後路を経て帰国した経験と現地庄屋との旧交を生かし、八代方面に集結した黒田・加藤・龍造寺・立花らの兵数・軍法を探る。庄屋から、現地兵が少ないこと、伊集院源次郎が密使を送って船を求めたこと、海岸警備の必要、開戦時には肥後兵の多くが薩摩方へ属し得るとの情報を得て川上三河へ報告する。
(慶長五年)十一月十三日 / 冊子 613-614頁
島津忠長が伊勢平左衛門尉に対し、水俣方面の敵情と備えを詳報する。敵勢は黒田・加藤・鍋島らで、柳川・筑紫は残留したとの情報を伝え、少人数での下向は内応への期待によると分析する。宇土の又介探索・討ち取り、地下衆からの重ね人質、鹿屋三右衛門の内情報告、敵来襲時の慎重な出撃、矢羽不足への対応などを指示・報告する。
(慶長十七年)六月廿二日 / 冊子 364頁
慶長十七年六月二十二日、島津義弘が羽柴左衛門太夫へ、浅黄色の大箱や緋子・黒織の軍物などを使者浦上与三右衛門に託した書状。
(寛永九年)四月廿五日 / 冊子 265~266頁
島津久元が、加治木からの使者木脇三右衛門を帰国させること、新納織部佑の子将野介の鹿児島移住希望等の情報、国絵図の取り寄せ、惟新様に殉じた御供衆の氏名・知行高・道号を調べて妙円寺に石塔を建てる計画などを、喜入摂津守・川上左近将監へ報じた書状。
年月日未詳 / 冊子 435頁
入来院重高が桜田邸へ上り、東郷三右衛門を入来へ帰して家老重倍ら三名へ手書を与えたことを記す某譜の記事。
四月十九日 / 冊子 66頁
川口重昌が新納仲左衛門尉に、向町與三右衛門尉による禁制違反の処置について返答した書状。横目衆が披露したため公儀から詳しい裁定が出るのを待ち、その際に相手の書状内容を申し入れ、年行司へも通達するとする。
文明十六年三月九日 / 冊子 507頁
文明十六年三月九日の犬追物について、第一の手組に属する射手と各人の持足数を列記した手組。
(慶長十七年)六月廿二日 / 冊子 364頁
慶長十七年六月二十二日、島津義弘が羽柴左衛門太夫へ、春の祝儀と使札、御馬一疋の贈与に謝意を表した書状。
(寛永十一年)七月十一日 / 冊子 435頁
入来院重高が、支配未決着のため使者を下し、公儀への多額の出銀に伴う領内配当、借銀増加と諸士知行の上地を遅滞なく調えるよう家臣へ命じた書状。
正月廿九日 / 冊子 36~37頁/原整理番号 54
正月二十九日、川上久国・三原重庸が川越三右衛門尉の宿所へ送った連署書状。薩州様が暇を得て有馬へ直接下向するとの知らせを今晩受けたため、兵糧と船の手配を万事油断なく進めるよう命じる。出水・米之津へは差出側から連絡するので、受取側からも両所へ申し通し、少しも遅延しないよう求める。右飛脚による送達である。
二月十日 / 冊子 114頁/原整理番号 179
川上久国・三原重庸が川越三右衛門へ、当地に焼酎壺があると聞いたので便船の折に有馬へ送るよう命じ、向田の御仮屋にあるはずなので尋ねるよう指示する。
年月日未詳 / 冊子 667~668頁
加藤清正が咸鏡道から金山方面へ進む際、斎藤・立本・荘林隼人・龍造寺又八郎ら五千を先発させ、群盗に包囲された金山を救援した戦闘を記す。与三右衛門や伊東勘平・井出市左衛門以下二百余人が戦死し、援軍は遺骨を焼いて翌日帰陣した。 清正は咸鏡道を離れて二月五日に王城へ入り、休息せず五、六日間群盗を追討して城内を鎮静化したという。損害と戦後処理まで伝える朝鮮出兵記事。
八月十七日 / 冊子 70頁
差出人不詳者が矢野伊兵衛・大野吉兵衛へ、上方乱入の混乱下で自らがなお存命であることを伝え、三右衛門尉らの上洛や夫丸の派遣を指示した書状。自分が死亡した場合に備え、一人娘、借財の取納、後事の処置を五郎右様の判断で進めるよう詳細に申し置く。
五月十八日 / 冊子 522頁/原整理番号 91の1
財部善三右衛門が佐久間勘兵衛へ差し出した前書。続く古記録には誤字・衍文や不通の文句が多いが、本書のまま改めず書写したこと、古い実録として大意を汲んで読むよう求める。五月十八日付。
年月日未詳 / 冊子 353~354頁
上原氏二代目の源右衛門は国分で島津義久に近侍し、平田狩野らと兵具方を勤めたため、他の者が高麗へ出陣して加増を受けた際にも義久のそばに留め置かれた。忠恒への代替わりに際して墨色の「あめの御旗」を持つ使者を務め、その加増として五十石を与えられ、義久は本来百石を与える意向であったと伝える。
年月日未詳 / 冊子 444~445頁
長崎奉行の通報を受け、鹿児島西田町の吉兵衛宅に潜伏していた入満と吉兵衛父子を捕え長崎へ護送し、水責めで判明した南蛮宗徒六人を摘発した経緯と処罰を記す。
明和七年十月 / 冊子 314頁/原整理番号 15-2
島津源兵衛の願いを支持する連署口上。源兵衛が自分たちと同姓一族で、系図や感状を所持すると述べ、家筋を認めて取り立てるよう求める。明和七年十月付。
寛永十九年六月吉日 / 冊子 200~202頁
杉田伊与秀次・植木三右衛門尉正勝・根占権丞重昌の三名が島津光久・虎寿丸へ忠節を誓った起請文。別心なく奉公し、秘密を漏らさず、悪事の企てを知れば届け出ることを誓い、違反時には天地の神仏・薩摩国諸社・日本国中の神仏の罰を受けるとして、神名と罰文を詳細に列挙する。
年月日未詳 / 冊子 948頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2604
元禄九年春、肥後主膳盛康を琉球国在番奉行に任じ、久保田平左衛門・津曲平右衛門・二階堂三右衛門・橋元甚助らを副として琉球へ渡航させ、元禄十二年夏に任期を終えて薩摩へ帰国したことを記す記事。
正徳五年二月廿三日 / 冊子 207頁/整理ID 473
小笠原忠雄が、長崎表の御用で仙石丹波守・石河三右衛門が来着し、老中連名の奉書を持参したことを報じ、長崎奉行らとの連絡について伝える。
〈寛延二年〉十二月廿四日 / 冊子 237頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0664
伊勢兵部が十二月二十四日、嶋津主殿・樺山主計・義岡相馬・鎌田典膳・平田靭負に、島津加賀守の復源姓願いについて知らせた書状。先に願いの趣旨を問い合わせ、隅州へ申し上げた意向を前月二十五日の便の朱書返答で承知したと記す。その後、別紙のとおり願いについて仰せ出されたため、その書付を送って知らせ、隅州にも申し上げ、関係する役人へ伝えておくよう求める。受領側の朱記は正月十三日暁の到来を記し、「嶋津加賀守殿被復源姓事」と件名を掲げる。使いとして肥田木伊右衛門・星原喜三右衛門の名が添えられる。
宝暦十三年正月元日 / 冊子 972頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2764
重豪が宝暦十三年正月元日に判を据え、「長生殿裏春秋留、不老門前日月遅」と記した吉書で、「留」には「富カ」の校注がある。包紙には、二月十日に山田喜三右衛門から届けられ、市来瀬兵衛が白木御文書五番箱へ納めたと記す。
明和八年冬十二月(編年記事、日無記載) / 冊子 307~308頁/原整理番号 838/整理ID 838
原文の大隅郡佐多郷伊座敷村の農民清右衛門は、早くに父を失い、母に孝養を尽くした。母は足を患っており、清右衛門と弟三右衛門が背負ったり肩輿に乗せたりして、母の望むところへ連れて行き、このように約二十年支えた。この年冬十二月、官に命じて清右衛門へ廩米十五苞を与え、褒賞した記事。出典は重豪公御譜中。
正月25日 / 冊子 785頁/原整理番号 867
三原が肥前で弓を用いて類のない働きをしたことを喜び、家の弓の名誉になると称える。赤羽の矢は矢師の都合などですぐに調わず、当面は半次と山鳥の矢を送り、不要なら戻してよいと述べる。大納言・松平伊豆守の用で来る子三右衛門との対面を依頼し、うつぼは平内が調達に赴いているので出来次第送ると伝える。
年月日未詳 / 冊子 354頁/原整理番号 399
旧伝集は、島原一揆の城攻めで討死した者は、鉄砲・弓・槍の三種の武器による傷で大方が死亡し、それ以外の深手や、手などを突然切り落とされる例はなかったという伝承を記す。大口衆の黒木三右衛門が若年に島原へ出陣し、長命して語った話だという。
島津義久代、朝鮮出兵期、島津家久への代替り時、原山御狩時 / 冊子 257頁/原整理番号 101
正本家蔵の上原氏覚書。本名字を伊作田入道甫済と伝え、市来の伊作田名と同所の小原城に由来する名乗りだが、系図がないため何代目から上原を称したかは不明とする。源右衛門の名は三代が相伝し、二代目は国分にいた島津義久へ特に奉公し、平田狩野、のち三原七左衛門・川上彦左衛門・川越三右衛門と兵具方を務めた。朝鮮出兵には義久の側に留め置かれたため出陣加増を得なかったが、家久への代替りに際して墨色の『雨之御旗』を運ぶ使者となり、加増五十石を受け、名寄も残るという。妻は吉田作州の娘で、一人娘が鹿嶋駿河守の妻となったため、弟源六左衛門―源兵衛の子・喜左衛門を兄方の養子とし、現源右衛門の父とした。原山の御狩では、本文に伏字を含む出来事で義久に働きを賞され、鉄砲・銀を拝領し、のち兼光作の長刀も受けたが、喜左衛門の江戸上洛中に二品とも家内から盗み出され、行方不明になったと記す。さらに大隅国曽於郡地頭となり、国中の城下ろしの際に城門道具を与えられた記事へ続くが、末尾は『自是切テ無し』として欠落する。
年月日未詳 / 冊子 268頁/原整理番号 107-8
二代目上原源右衛門が、島津義久の国分在住期にとりわけ奉公し、初め平田狩野、のち三原七左衛門・川上彦左衛門・川越三右衛門らと相役となって兵具方を務めた由緒書。源右衛門は義久の側近くに召し置かれたため高麗出兵に伴う加増を受けなかったが、島津家久(忠恒)への代替わりに際し、黒色の『雨の御旗』を奉持する使者を命じられ、その加増として知行五十石を与えられ、名寄も現存すると記す。国分へ帰って報告した際、義久はこの使者役には百石を与えるつもりだったのに少分しか下されなかったとの意向を示したと伝える。兵具方勤仕・朝鮮出兵不参加・御旗奉持・五十石加増を一続きの奉公由緒として説明する文書である。
元和6年(1620)5月13日 / 冊子 381頁/原整理番号 188-24
元和六年五月十三日、川上伊予守が喜入大炊助・蒲地四郎左衛門へ示した名寄目録。上小河院内で与三右衛門に関わる川添一反六畝内・下田一反一畝七分を掲げ、籾合計七俵二斗二升六合二勺、高にして二石六斗三升五合と算定する。編者注は、この文書を含む十八通の写しが蒲地四郎左衛門家にあると記す。
元禄十五年十二月十五日 / 冊子 403頁/整理ID 1359
十二月十五日、島津主計久年が宇宿伝左衛門・伊集院三右衛門・神宮寺外記へ、領分絵図の控の引渡しのため春成興五左衛門を派遣したという通知を承知し、その日役人から絵図・郷帳等を引き渡したと報じる。年来の御用完了を共に喜び、残りは与五左衛門から伝えるとする。署宛後の尚々では、遠方から鴨二羽を贈られた配慮に謝す。追伸は次条1360ではなく本条の末に属する。
元禄十二年八月十八日 / 冊子 148–150頁/整理ID 523
神宮司外記ほか佐土原側五名が家老五名へ、島津左京の上野中堂御手伝で生じた借金、扶助米五千石と運賃米七百石、銀への換算、十年年賦による返済、知行・扶持方の削減、家中倹約を整理して申し上げた口上覚。新たな借金を避け、家老が正道を守って家中を統制し、財政を立て直す方針を示す。
元禄十二年八月十八日 / 冊子 150–151頁/整理ID 525
神宮司外記ら計五名が高橋左門・野村太左衛門へ、島津左京方が銀五百五十六貫目と米五千石を借りたことを証した連署証文。米は一石六十匁替で代銀三百貫目、二口合計銀八百五十六貫目とする。来辰年から毎年銀八十五貫六百目ずつ十年年賦、毎年極月までに大坂御蔵屋敷へ滞りなく返すと定める。神宮寺外記の署には司との傍注がある。
元禄十三年十一月六日 / 冊子 246頁/整理ID 836
神宮寺純正・町田久置・伊集院久美の三名が嶋主計と与力衆へ、諸国絵図改訂に伴う日向国の用務を貴殿に命じられたと江戸から知らされ承知した、と答えた連署状。当方の絵図を正保年間に公儀へ提出したとおりに調え、追って使者により申し上げる予定と伝える。
元禄十五年十二月十二日 / 冊子 399–400頁/整理ID 1347
宇宿久明・伊集院久美・神宮寺純正が島津主計と与力衆へ、家老から淡路守領内絵図控を渡すと命じられたため、受取人の春成与五左衛門を派遣したと通知した書状。受取手続を指導するよう依頼する。
元禄十五年十二月十二日 / 冊子 400頁/整理ID 1348
宇宿久明・伊集院久美・神宮寺純正が肝付主殿とその家中へ、家老から淡路守領内絵図控を渡すと命じられたため、受取人の春成与五左衛門を派遣したと通知した書状。受取手続を指導するよう依頼する。
元禄十五年十二月二十二日 / 冊子 405–406頁/整理ID 1370
宇宿久明・神宮寺純正・伊集院久美が島津久年へ、淡路守領内の絵図・郷帳などを引き渡すよう命じられ、春成与五左衛門へ諸事を指図して首尾よく完了したと報告した連署請書。相手の配慮への謝意も述べる。
宝暦六年十一月三日~閏十一月十二日(記事) / 冊子 637頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1889
宝暦六年十一月三日、任期を終えた国目付二人が旅館を発った。家臣の従僕が扈従し、江戸留守居岩下方峯・使番佐久間村央・目付肥後八右衛門盛望と諸有司も同日に鹿府を発ち、横井を経て伊集院苗代川に泊まった。忠洪・継豊はあらかじめ家老島津主殿久馮に慰労を命じた。四日に市来湊・串木野・隈之城を経て森尾町、五日に西方を経て阿久根、六日に野田・高尾野を経て米之津に泊まった。七日に出水境を越えて肥後へ入り、九州の駅路を経て十五日に豊前大里へ着いた。船奉行土岐次郎八房常が二人の乗船を迎え、十六日に乗船して二十八日に大坂へ着岸した。二十九日に陸路で伏見、翌晦日に京都を経て、美濃路・東海道を進み、閏十一月十二日に江戸へ帰って復命した。在薩中に求められた城絵図と薩摩・大隅・日向・琉球の地図を提出した。記録奉行吉田用右衛門清純、記録方添役本田新右衛門親方・山田喜三右衛門有雄らが、各国の郡県・境土・番鎮・島嶼・津浦・山川・名勝・名産・城址・神社・仏閣などを編んだ二冊を「地誌要略」と号し、これも提出した。両使の質問百余条を後の参考として次に載せ、その他は煩雑なため省くとする。出典は重豪公御譜。
宝暦十一年七月二十七日~十月二十八日 / 冊子 856頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2536
七月二十七日、願いにより樺山久智・鎌田政昌の家老職を免じ、多年の労を嘉して政昌に終身の食として田禄百石を賜る。八月四日、島津久峯の席を久亮の上に進め、久暢・久金を家老に任じて久金を左中と改名させ、五日に四本庄蔵を近習役、高橋七郎右衛門を物頭に任じる。二十一日、国頭按司ら五十人を招いて前栽と琉球踊を観覧し、山田喜三右衛門を近習番に進め、九月九日には老中が奉旨して公驛で鷹の捕らえた鶴三羽を届け、二十二日以降は谷山で放鷹、洲崎で舟遊・水禽射猟、伊敷・吉野などで狩猟を行う。十月六日、有川勇馬を江戸留守居、篠崎蔵太左衛門を大坂留守居、長谷場伊角を納戸奉行に任じ、各地の訪問や狩猟、二十六日の大議館での琉球踊観覧を経て二十八日に吉野で狩猟する。
11月22日 / 冊子 400~401頁/原整理番号 362の3
十一月二十二日、片浦から立てた浦水手の受取を命ずる送状。船頭壱岐・蔵右衛門・市右衛門・弥九郎と宇兵衛尉以下を列記し、第一群を三十二人とする。さらに助之丞・与介・惣五郎・弥右衛門・三右衛門尉・神介・少右衛門・杢之介の八人を別に掲げ、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ受取を申し付ける。
正月14日 / 冊子 688~689頁/原整理番号 708
吉田久馬助が三原佐右衛門へ年頭の祝意を述べ、相手の無事を尋ね、天草で弓による手柄を立てたと聞いて喜ぶ。自分の兄・同名三右衛門尉が肥州で無事に過ごし、天草での手柄によって使番などを命じられ、加増などを拝領したことも伝える。末尾で、こちらで用事があれば申し付けてほしいと申し出る。正月十四日付。
正月14日 / 冊子 692~693頁/原整理番号 719の2
年賀と無音の詫びを述べ、天草で弓によって手柄を立てたと内々に聞き喜びを伝える。面談を望み、兄の同名三右衛門も肥州で無事に使番を務め、天草での武功によって加増を受けたと報告する。当地で用事があれば承ると申し出た、正月十四日付の三原左衛門宛書状。
正月20日 / 冊子 762~763頁/原整理番号 811
十七日付書状を受け、山田民部少輔の有馬使者派遣後の指示や三老間の相談、吉田次郎兵衛の使者派遣を伝える。黄門の病状が悪く、看病と使者対応が重なって諸事の細かな調整が難しいと述べ、霜月以来の腫物・痰血・吐血、四日頃からの息苦しさと食事低下を報じる。市来八左衛門・川越三右衛門との連絡を求め、軍衆・水手三万ほどの一か月兵糧のうち二十日分を既渡のため、人数を減らすよう天草の四名に相談する。
年月日未詳 / 冊子 764頁/原整理番号 815
市来八左衛門宗友を中取、岩切信尭・川上久康を物奉行、平田宗直・是枝快温を船奉行として米津に詰めさせたことを記す。川越三右衛門重能は京泊に詰め、舟手・兵糧を担当する。この日、高原士某が供夫一人を伴い米津に到着したと付記する。
年月日未詳 / 冊子 785頁/原整理番号 866
国分賦所日記の正月二十五日条に久右衛門の来訪・滞在を記す。続いて元日攻城時、寄手が退く中で三原重庸が城へ向き直り、犬追物で鍛えた弓馬の技で数筋の矢を放った働きを述べる。吉田印西がこれを聞き、息子三右衛門の使行を機に賀書・贈物を送り、対面も求めたとして、重庸の名声を評する。
11月13日 / 冊子 2~3頁/原整理番号 1-1
島津綱貴代の記録奉行・大田小平次久知が平山勘兵衛へ送った十一月十三日付書状。本田氏元祖について浅羽三右衛門へ問い合わせた結果、所持する伝記はいずれも異説であるとしつつ、始祖を宣化天皇とし、武蔵七党の丹党に属して秩父郡内の本田・榛沢を拠点としたこと、家紋は「田」の字を十字形に配したものと伝える。親経以前は詳しいが以後は不明で、系図作成には至らないものの、元祖の由緒を知り疑いが解けた旨を述べる。
元禄十六年三月九日 / 冊子 420頁/整理ID 1423
伊集院久美・町田久賢・神宮寺純正が島津久年と与力衆へ、懇切な指南により国絵図等が完成して滞りなく納められ、二人の使者が帰着したため、その旨を淡路守にも伝えたと報告し、謝意を述べた連署書状。