島津義久書状案
(天正13年)4月10日 / 冊子 2頁
島津義久が賀恵九郎へ、元服について丁重な使節が訪れたことを大いに喜び、申し出のとおり承認すると伝える。元服の祝儀として馬一疋を贈り、まずは祝意を示した書状案。「隈本三人へ」の御書案として収録され、使節による元服承認と馬の贈答を伴う武家儀礼が簡潔に記されている。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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(天正13年)4月10日 / 冊子 2頁
島津義久が賀恵九郎へ、元服について丁重な使節が訪れたことを大いに喜び、申し出のとおり承認すると伝える。元服の祝儀として馬一疋を贈り、まずは祝意を示した書状案。「隈本三人へ」の御書案として収録され、使節による元服承認と馬の贈答を伴う武家儀礼が簡潔に記されている。
四月九日 / 冊子 88頁
島津実久が奈良原殿に、今度の弓矢で子息三人が比類ない高名を立てたことを賞した書状。無礼を詫びつつ、いずれ相手方へ赴くので対面の機会に詳しく話すと伝える。
年月日未詳 / 冊子 599頁
宮崎城主権藤とその子二人の首級を、小杉丹後守が山伏の一学坊を使者とし、検使の宮川を同船させて、筑後国水田に置かれた黒田如水(円清)の陣所まで届けさせたことを記す。続いて如水の返書を掲げる導入記事である。
年月日未詳 / 冊子 19~20頁
祁答院方の松坂城攻略を詳述する。天文二十四年十一月十八日、雪中に守兵が市へ出た留守を突き、梅北宮内左衛門尉が先登して城戸を破った。十八歳の島津忠平は矢五、六本が具足を貫いても負傷せず、大太刀で敵を斬り、味方は城主中村父子三人以下数十人を討って落城させた。忠平の小城権現への祈願と神助、周辺諸勢の反島津連携も記す。
(慶長五年)七月二日 / 冊子 549頁
島津惟新が少将殿に、内府の使者山口直友の命で小伝次兄弟三人と伏見で面会したことを報じる。源二郎母と子供三人が帰国を望み、源二郎も同意していると聞いたが、母が大坂城へたびたび推参して内府へ直訴したため早急な帰国を命じられたと説明する。帰国後に国人を惑わせ源二郎の心変わりを招く懸念はあるものの、上方に置けばさらに問題が深まるとし、兄弟の一人を当地に留めたい意向を伝える。
(寛永三年)十一月六日 / 冊子 24~25頁
島津家久が中山王へ、両将軍の上洛と行幸の成功、自身の中納言任官を報告する。今帰仁から同行した三人が京都でよく奉公し、行幸も見物できたことを称え、薫香合一つと印籠・巾着を贈る。
(寛永四年)正月十一日 / 冊子 28~29頁
中山王尚豊が島津家久の書状と薫香合・印籠巾着・杉原紙などの贈物に深く感謝し、京都へ供奉した琉球の小童三人への厚遇と行幸拝見を喜ぶ。返礼として七種の方物を別紙目録どおり進上すると述べる。
四月五日 / 冊子 91-92頁
入来院定仏が諏方入道に宛てた書状。三人の子息が奉公している旨を述べたうえで、与二重員と七郎頼重が定めに背いて他方へ参じたため、今後は父子の関係を断ち不孝者として扱うことを伝え、折を見て披露するよう求めている。
二月三日 / 冊子 104頁
森澄秀が澤殿ら三人に宛て、遠国のため音信が途絶えていたことを詫び、来訪する三人への支援を依頼した書状。宮主・法納所の件や、日向方面の境界・道中・宿所、神道に関する取り計らいを求め、詳細は使者三人から伝えるとしている。
二月三日 / 冊子 112(本文はNo.259・冊子頁104参照)頁
森澄秀が澤殿ら三人に、来訪する三人への支援を依頼した書状。宮主・法納所の件や日向方面の境界・道中・宿所、神道に関する取り計らいを求める。本文はNo.259と同文として省略されている。
四月九日 / 冊子 555~556頁
今度の合戦で奈良原氏の子息三人が比類ない高名を挙げたことを称賛し、証拠は十分であると伝える。自身が下向した際に対面するとした島津実久書状。
「寛永十八年」七月十九日 / 冊子 156~157頁
馬場三郎左衛門尉利重と柘植平右衛門尉正時が島津家重臣へ、領内の浦へ唐船一艘が着岸した件を報じた連署書状。船内を調査し、唐人二十三人と荷物の書付を厳重に添えて届けたことを了承し、詳細は二人の使者へ伝えたとしている。
年月日未詳 / 冊子 369~370頁
出典見出し「綱久公御譜中」の系譜記事。綱久の子女として女子三人と久統を掲げる。久統はのち久定と称し、又作次郎・左衛門と名乗った。正保元年十二月二十二日生まれで、母については島津美作久憲室と同母と記す。家臣北郷式部大輔久直の後嗣となり、寛文二年七月五日に早世した。
五月(独立年なし、目録は安永二年) / 冊子 372~373頁/原整理番号 1044/整理ID 1044
加治木家の跡相続を命じられ、その御礼を申し上げる際、家来三人が太刀を進上して御目見を仰せ付けられる予定だったところ、差次三家の者にも御目見を願いたいとの申出があったので、調査を指示したことを述べる。願書と調書に延享三年寅三月の一門方家来の例を添え、三家の者とも格を考究した扱いを知らせたところ、願いのとおり家来都合六人の御目見が認められたという。一門家については格別の扱いなので、外の一門三家も願い出ることができ、願い出ればその時の吟味に従って仰せ付けると示す。備前殿・因幡殿・若狭殿が御礼を申し上げる際の家来御目見願も、この例をもって吟味するので、帳面に誤りなく記し、このたび命じた趣旨を調書へ入れて申し出るよう求める。末尾は五月、仲、嶋津兵庫殿宛。写しは白木御文書五番箱六十七中にある。
本文年月日不記(当時の内分報告) / 冊子 267~268頁/原整理番号 372の1/整理ID 372-1
三郎が鎌倉へ参詣する予定だったところ、神川驛で行列先へ騎馬の外国人三人、うち一人女性が駈け込み、供の守衛が一人を打殺し、別の一人は重傷で逃れたという内分報告。注進後、騎馬五六十人ほどが鉄砲や抜身を持って殺害者を尋ねて追って来たと聞く。鎌倉行きを取り止め小田原驛に泊まり、当地から足軽を差し向けたこと、供目付山口彦五郎・肝煎児玉源右衛門らが対応していることを記す。小松家も小田原で人馬の差支があり滞在中と聞いたため、その評合で滞っているらしいと述べる。報告は内分として、閲覧後に捨てるよう求める。日時・発給者・宛先名は不記。人数・負傷と追跡は未確定の伝聞として扱う。
正文年月日不記(日向取締の追加指示) / 冊子 488頁/原整理番号 656の5/整理ID 656-5
薩摩少将に対し、御領となった日向の元郡代窪田治部右衛門支配地の取締を命じる。民心が方向を失い訴えが多い状況なので、確定した処置は追って伝えるが、まず人民が安業し貢米等が滞らないよう取り計らい、早く太政官代へ申し出るよう求める。年貢残穀・高辻帳を早く調べて内国・会計両裁判所へ提出し、取扱役人二~三人を在京させるよう指示する。乱妨・強盗が人民を掠め困苦に迫らせる場所があるとの聞得により、人数を早く差し出して鎮めることも命じる。各指示と伝聞を分け、正文に日付はない。
年月日未詳 / 冊子 146頁/原整理番号 254-1
伊地知季安の記事。この日、伊地知重政が内衆三人を有馬から帰したと記す。
二月廿七日 / 冊子 214頁/原整理番号 328
「田代衆中島原立の覚」。二月二十七日、肥前守殿家中の十三人が有馬城へ忍び入り、火を掛けて焼き払い、城へ乗り込んで敵を討ち取ったが、その数は不明とする。さらに、助命を願って投降してきた男女・子供が多数いたものの、一人も残さず皆殺しにしたと記す。
寛永十六年四月六日 / 冊子 403~404頁/原整理番号 518
市来八左衛門宗友は野村新兵衛・谷口助右衛門ら曖衆へ七か条を申し渡す。上様のため悪いとの風聞は小事でも早く報告すること、キリシタン宗門と一向宗を念入りに探索すること、老若を問わず気ままな者を調べること、御立狩倉へ行司衆以外が立ち入れば報告すること、諸事を曖衆三人で十分相談すること、宗友自身についても善悪を問わず注進すること、その他の情報も遠慮なく報告することを命じ、奉公として油断なく心得るよう求める。
10月17日(寛永19年の傍注) / 冊子 575頁/原整理番号 79
島津久通ほか二名の連署書状から抜いた三項目。籠屋の現在地は悪いとして、郡本の野付近へ移すよう命じる。夏の火事に関わる折田勘解由・真連房・田中善九が当面寺領で籠っていると聞き、召し出すべきか指示を求める。沖長門守の罪科については書物を差し出し、今回年寄衆にも呈上したが、まだ処分の仰せがないと報告する。10月17日付で寛永19年は本文外の傍注。冒頭に『前後略』とあり、差出人は『国老前条三人』『差出国老同前』と前条を参照するため、抄録自体から三名の署名を確認できない。
正徳二年二月廿五日 / 冊子 987頁/整理ID 3182
二月二十五日、宗対馬守義方が松平薩摩守側へ、領内の者三人が乗った一艘が前年六月十二日に朝鮮の済州へ漂着し、一人が生存、二人が溺死したと報じる。生存者は朝鮮側から書簡を添えて対馬へ送り返され、今月十九日に対府へ到着したため、使者を添えて長崎奉行所へ差し送ったと伝える。
天明八年申三月二十日(朱の日帳抜) / 冊子 985頁/原整理番号 2662の8/整理ID 2662-8
勘解由からの用件で篠原善兵衛が出頭したところ、かねて照会していた子女の母附書付三通を受け取り、ここに留めたと記す。雄五郎は天明二年五月十九日卯上刻出生、公辺へは天明七年に八歳として届出。亀五郎は天明四年二月二十八日夜子上刻、感之介は天明五年八月十七日朝辰上刻出生とする。三人の実母はいずれも島津式部少輔殿密子と記される。これは系図記載を検討する際に受けた説明であり、後続の朱返答では養女・女という記載方法が問題となる。
今14日六ツ半時比(正文月・年不記) / 冊子 412頁/原整理番号 590の1/整理ID 590-1
今十四日六ツ半時頃、三人が原市之進宅へ来て対面を願い、その場で打ち留めたという風聞を記す。その後、三人が老中板倉の門前へ願書を持参し、追い付いた原市之進の家来が二人を打ち取り、残る一人は先に中之口へ来て便所で切腹し、役人に見付けられ取押されたとの風聞だとする。名書は鈴木常太郎と同豊次郎が門前で死亡し、依田勇太郎は手負で養生中と注記する。末尾に三人の名前と陸軍奉行との関係を問う字の注がある。月年、風聞の発信者は本文に記されず、死傷の経過は風聞とその付注の報告として保持する。
辰十一月13日備後ほか三人略 / 冊子 616~617頁/原整理番号 798の1/整理ID 798-1
通達留。賄賂に類することがあってはならないと繰り返し命じ、当春にも指示しているとして、廉恥の風を行うよう求める。願事などに伴って不相応な贈物を受けることがあれば、この時勢には済まされないと戒める。留守中は中将様が諸事に厚く配慮しているので、廉直を心掛け、不作法がないようにし、諸役場の筆者・小役人までよく守って勤務するよう命じる。見聞も行うとし、不勤弁な者があれば上下とも迷惑が及ぶ旨を伝え、向々へ漏れなく周知するよう求める。辰十一月十三日、備後ほか三人略。具体的な不正事例や処罰実施は掲げられていない。
年月日未詳 / 冊子 19頁
『御譜中 義朝伝』。永暦元年正月三日、長田忠宗が湯殿で源義朝を沐浴させ、金王丸が湯衣を取りに出た隙に勇士三人が侵入して義朝を刺殺したと記す。義朝三十八歳。金王丸は戻って三人を討つ。一方、忠宗に招かれ酒席にいた鎌田兵衛尉政家は変事を聞いて立とうとし、勇士から刀を奪って二度刺すが、忠宗の長男に首を斬られ、同じく三十八歳で没した。金王丸と玄光は多数の士卒を斬るものの、忠宗父子は逃亡し誅殺できず、二人は忠宗の肥馬に乗って落ち延びたとする。
年月日未詳 / 冊子 251頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0534
某日記から、承応三年二月十七日に大口地頭新納加賀忠清が大口で六十歳で死去し、家来牧山清兵衛その他二、三人が殉死したことを抄出する。同年十二月に忠清の嫡孫新納次郎右衛門が大口地頭を命じられたことも記す。
貞享三年閏三月三日 / 冊子 752頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1978
椛山久孝・宇宿久輝・酒匂高昌が伊集院宮内へ、松木左門・同姓三四郎・同姓長次郎と召仕の者三人、計六人を高岡へ差し越すと伝える。能勢惣左衛門・酒匂吉右衛門の二人を押添えとし、翌朝卯刻に出発、穏佐筋を通行して高岡へ着いたことを確認するよう依頼する。
十一月九日 / 冊子 814–815頁/整理ID 2731
琉球人の口事について、綱場から桜馬場へ移して手鎖を申し付け、その後、駒木根邸で野村源助との出会いや通詞三人による口柄の確認を行った経緯を記す。手鎖を下ろした上で両奉行へ引き渡すよう伝える。
寛政6年9月(本文は9月、年次は配列による) / 冊子 79~80頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0264
亡くなった年月や法号が不知であった七霊について追号を与え、寺の祭引次に附祭とし、位牌・厨子・仏具等の安置を済ませたので帳面に記すよう命じる申渡書。忠昌公夫人を天眞妙幸大姉、久豊公後夫人を無染了心大姉、立久公先夫人を鏡堂妙圓大姉、立久公三人目夫人を芳雲慈光大姉、忠治公夫人を玉蓮元香大姉、勝久公夫人を天室眞光大姉、師久公夫人を得祥玄瑞明一房と列挙する。忌日は新たに追選しない旨を記し、忠隆公の夫人は元来不知として今回の位牌安置には及ばないという。9月、播磨の署名と伊勢貞矩の人物注を伴う。包紙は忠昌公夫人と師久公夫人の追号・位牌安置の書付一通、四十九号とするが、師久夫人の法号末尾を二房と記し、本文一覧の一房と異なる。立久夫人は本書三人目、No.204では第二夫人と記し、双方の表記を残す。
嘉永六年六月九日・廿二日~廿五日(記事)、前年十二月十六日(任官) / 冊子 140頁/原整理番号 203/整理ID 203
或日誌から、斉彬の叙任の達しと米国軍艦来航後の派遣を記す。嘉永六年六月九日の項は、前年十二月十六日に御城へ召され従四位上中将に任じられた旨の達しが前日八日に到来し、当日一統が席々で祝儀を行ったとする。六月二十二日の帰国着城の項は、去る三日に米国軍艦四艘が浦賀へ渡来したとの報告があり、着城直後に御小姓與番頭御用人勤の島津隼人を江戸へ派遣し、翌二十三日には若年寄島津右門も同様に派遣したことを記す。同二十五日には四本次郎左衛門を始め三十余人、与力三人、足軽二十八人の出立を命じたとする。
寛文10年4月12日 / 冊子 398~399頁/原整理番号 1-1
悟性寺の御石塔修補願について、申立ての内容に相違がないことを横目三人が確認し、公儀へ上申し修補を命じてもらうよう依頼する。寛文十年四月十二日付で伊集院宮内少殿に差し出した。
寛文10年4月12日 / 冊子 469頁/原整理番号 116-1
悟性寺の修補願の内容に相違がないことを確認し、修補を命じてほしいと伝える。横目二人と噯三人が寛文十年四月十二日に連署して伊集院宮内少へ差し出す。
本文日付:正嘉二年九月廿一日 / 冊子 351~352頁/原整理番号 五五三/整理ID TMP-P02-NENE4D-D0553
親綱と宗親が佐田村の所務・御公事等について和与する。 若宮田・新開発田・道・給畠等を条別に扱い、給畠一町五段のうち五段を宗親へ避渡した旨を記す。 親綱領内の屋敷・名田の知行を「蒙御成敗令落居之程者」と関係づけ、地藏女母子三人の件は在国時に子細を尋ね糺返する旨の宗親申上げを記す。 大淀浦に懸ける公事と支配時の通報を挙げ、今後は和与に相違しないよう定める。
本文日付:元亨参年四月廿一日 / 冊子 355~356頁/原整理番号 五六四/整理ID TMP-P02-NENE4E-D0564
藤原時義が下大隅南方内野里村の弁済使職及び相伝証文を譲る。 実子がいても「女子奉養禰寢殿子息亀壽殿」に永代譲与する旨を記す。 時義一期中は自身が知行し、その後は亀壽殿が女子三人を扶持する条件を付す。
慶安四年六月二十九日 / 冊子 194頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0384
孫兵衛の罷越しや通手形、肥後熊庄町を経由する使者の往来について事情を伝え、必要な取次ぎと返答を求めた加久藤衆の連署書状案。
慶安四年七月二日 / 冊子 194~195頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0385
御番留被遊の間の取扱い、境目や宿・通行、弥右衛門らの往来と使者への手形などについて状況を報じ、指示を仰いだ加久藤衆の連署書状案。
万治二年十月十五日 / 冊子 27~28頁/原整理番号 32
加久藤側の三名が山奉行の三原九兵衛へ、飛札を受けて御狩倉付と御用木留帳を調べ、書付を差し出したことを報じる。御狩倉付は御支配所の用向きでもあると添える十月十五日付書状。
年月日未詳 / 冊子 83~84頁/原整理番号 14
『上井覚兼日記』天正三年正月の記事を抜く。元日の社参と老中の三献、椀飯、十一日の酒席の献酬と座次を記すほか、同日の初談合で神社仏閣の修造、軍事、下大隅への移衆、菱刈、法度など五項目を地頭衆へ伝え、翌日に返答を受けたことを記す。十六日の寄合の席次やその後の出仕も載せる。
年月日未詳 / 冊子 458~460頁/原整理番号 266-4
記録所による家筋の調書。島津備前守忠清から新納家への系譜、養子・家督相続、所領の継承を史料に照らして検討する。
天福元年十月二日 / 冊子 163頁
僧智弘・僧実範・紀道房の三人が、満家院内の比志島・西俣・城前田・上原薗道などに関し、入道殿への奉仕、所職・給分と相互の違背禁止を取り決めた契約状。
天明五年冬 / 冊子 832頁/原整理番号 2280/整理ID 2280
伊佐郡山崎郷白男川村の農夫弥左衛門は、幼時に父を失って母を養い、結婚せず孝養を尽くした。同郷山崎村の農夫五郎左衛門の妻は弥左衛門の姉で、舅姑を孝養した。久富木村の農夫七左衛門の妻は弥左衛門の妹で、七十余歳の姑を孝養した。天明五年冬、重豪がそれぞれに品を与えて賞した。
卯11月連名(正文日不記) / 冊子 425~426頁/原整理番号 603/整理ID 603
先の朝廷召登命令に対し、文中で末家とする側の体調により家老だけを発途させ、少しでも快ければ大坂へ出るよう求められて保養していたが、まだ治まらず遅延を恐れていると申し立てる。淡路名代の毛利平三郎・家老毛利内匠・監物名代の宮庄主水が上坂し、藝州側の約束にも対応していると報告。大政の公議を尽くす方針を承知し、意外な干戈に至っても大膳父子に朝廷へ背く心はないと訴え、父子の勤王の至誠を取伝え幕府にも伝えることを求める。今日の機会を切望して西之宮へ到着したので、さらに取計らってほしいとの願い。卯十一月國貞直人・楫取素彦の連名で薩・藝両藩京都詰へ出す。病気と経過、政治的忠誠は願書の申立てとして示す。
年月日未詳 / 冊子 109頁
『若狭島津氏忠季譜』の記事。建保二年七月二十七日、大倉大慈寺御堂供養に忠季が将軍家の供奉人十三人の一人として随従したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 238頁
文応元年十一月十七日、将軍家が二所精進を始めるため御所から入道亭へ移った際、島津忠景が供奉二十三人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 246頁
弘長三年、御所で連歌五十句が催され、島津忠景が連衆十三人の一人として参加したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 101頁
永和二年冬、相良氏が伊東氏らと結んで守護領へ侵入し、守護命に背いた六十三人を旗下に集め、本原城を本営として都城へ迫った記事。北郷義久は平田新左衛門重親入道玄心・工藤蔵人ら勇士七十余騎と都城に籠城して防御し、島津氏久は救援のため自ら志布志の天ヶ峯へ出陣した。
年月日未詳 / 冊子 32頁
弘治二年九月五日、松坂野頸で釣り野伏を行い敵三人を討った。梅北宮内左衛門尉方、山田衆細田五藤兵衛方、鹿児島衆福島新左衛門方の各一人が高名を立てた。貴久は山田から松坂城向かいの尾まで馬を寄せて城の様子を見、忠将・忠平が供をした。
天正四年八月朔日 / 冊子 489頁
高原城攻めの出陣賦として、田方一町ごとに主従三人と送夫馬を出し、寺社・後家衆にも負担させること、無足衆は武人一人に詰夫を付けることを定める。飯米の自弁期間や普請具の算用方法も規定する。
天正20年4月26日 / 冊子 551~552頁
高麗へ渡る軍勢のうち兵粮のない者へ切手に応じて三人扶持を渡すこと、帰住した百姓・町人には米銭を相応に支払い、勝手に物資を取らないことを定めた掟書。留守宅の財物管理、犯罪者の上申、誓紙による法度遵守も命じ、占領地での補給と住民・財物の扱いを具体的に規制する。
(文禄2年)2月28日 / 冊子 675~676頁
奉行三人からの緊急書状を受け取り、順次送り届けることを報告する。熊牛次が一、二日中に帰る予定なので、義弘方へ向かう場合は事前に知らせてほしいと依頼する。 自身の帰路に送りを付けてもらったことや、日頃の厚意への感謝を述べた、書状配送と移動連絡に関する実務的な返書。