島津氏久偏諱宛行状
康安二年十二月一日 / 冊子 31頁
島津氏久が長谷場弥六に『氏純』の名を与えた偏諱宛行状。本文は名乗りを示す簡略な形で収録される。
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康安二年十二月一日 / 冊子 31頁
島津氏久が長谷場弥六に『氏純』の名を与えた偏諱宛行状。本文は名乗りを示す簡略な形で収録される。
文禄2年2月7日 / 冊子 668~669頁
薩州隈城内の城岡之門をはじめ、屋敷・田畠・山畑などの所在と面積を列挙して長谷場越前守へ与えた領知目録。 新知三十石に九石一斗を加え、先知行と合わせて六十石の役を勤める条件で付与したことを明記する。三奉行が連署し、給付地の内訳と軍役負担を結び付けた家臣知行文書。
文禄2年5月29日 / 冊子 701~703頁
薩摩国内の諸所に散在する田畠・屋敷を、地名、旧給人、面積ごとに列挙して長谷場越前守へ与えた領知目録。 中原・岩崎・畠田・柳原・長野田・横手屋敷など多数の土地をまとめ、長寿院盛淳・町田久倍・鎌田政近が連署して給付内容を確定している。
慶長五年十二月八日 / 冊子 721頁
長谷場氏文書に収める、島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近の連署宛行状。慶長五年十二月八日付で長谷場越前守への知行宛行を認めた文書で、本文は史料上で省略されている。
慶長五年十二月八日 / 冊子 721頁
島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近が連署し、合計二百四十石を加増分の知行として長谷場越前守に宛行うことを認めた宛行状。
(慶長五年)十二月十日 / 冊子 721-722頁
近衛信尹が長谷場越前守に、日本の情勢や帰国の見通しを伝えた書状。寒中の困窮を気遣い、皆が下国を望むものの内府との内儀が整わず日数を要していること、詳細は中原坊から伝えることを述べる。
慶長十九年六月廿七日 / 冊子 529頁
菱刈郡里村の長谷川氏に、薩摩国大口の浮免三石五斗を知行として宛行い、その高に応じて公役を勤めるよう命じた三名連署知行目録。
慶長十九年六月廿七日 / 冊子 529頁
薩摩国大口里名内の浮免五石余を長谷川刑部左衛門へ知行として宛行い、その高に応じて公役を勤めるよう命じた三名連署知行目録。
八月一日 / 冊子 207頁
薩摩から相手の土地へ下る者が頻繁に出入りするため、いつでも不届きがあれば隔意なく知らせてほしいと頼んだ島津家久書状案。
三月 / 冊子 209~210頁
境衆の男が長崎の高尾次右衛門尉宅に宿泊中、宿主の娘と馴染んで連れ立ち薩摩へ逃げ、等安から捕縛・引渡しを求められた件を相談した。男は以前家久のもとで鞍を作り囃子にも加わった顔なじみで、娘にも罪を負わせるのは不憫だとして、二人の命を助けるよう等安へ働きかけてほしいと頼んだ書状案。
六月六日 / 冊子 214頁
薩摩の京泊へ唐船一艘が来着し、船頭は前年薩摩で船を買って渡唐し、妻も領内にいる人物だと報告した。他所へは行き難いと述べているが長崎へ回すべきなら命じるので、京泊に留める間に検使を早く派遣するよう求めた書状案。
七月廿六日 / 冊子 214~215頁
大隅国波見津へ唐船一艘が来着したため長崎へ回航するよう度々命じたが、古船で不可能だと申し立てたと報告し、検使を派遣して適切に処置するよう求めた書状案。詳細は年寄衆から伝えるとした。
正平十四年六月廿一日 / 冊子 15頁
長谷場内五段と甘子木村内西牟田五段を兵庫允久純へ譲り、鶴一丸に本譲状を添え、公方役・地頭年貢を分限に応じて負担し、惣領と水魚の思いで末代まで知行するよう定めた連署譲状。
貞治四年七月十三日 / 冊子 42頁
長谷場氏純・久武が、墓へ寄進した水田ならびに『いのしり四つる』について、覺阿の取り計らいに任せ、少しも煩いを申し立てないと約した連署状。
貞治七年五月十八日 / 冊子 51頁
長谷場久武が、弥六跡の水田・屋敷について覚阿の取り計らいに従い、六郎を養子として譲与し、末代まで異乱しないと定めた譲状。
寛文七年八月十九日 / 冊子 679~680頁
虎寿丸一行が小野から加世田方面へ移り、伊集院勢の追跡を避けて潜伏・退避した経路を記す覚書。直林寺下・木場・田布施などの通過地、案内人、宿所、所持品の扱いを具体的に挙げる。長谷氏・和田氏ら関係者の支援を含め、逃避行の実務をたどれる。
年月日未詳 / 冊子 35頁
長谷場越前の回想。島津方が軍兵を整えて蒲生の居城へ進み、各所で矢軍・合戦を重ねても蒲生方が服さなかったため、さらに軍兵を増し、馬立・新城・新城(新梓)の三陣を置いて渋谷方との交通を遮断したと記す。
永禄十一年三月廿三日 / 冊子 195~196頁
永禄十一年三月二十三日、球磨・大口・入来院・祁答院・東郷勢が曽木城を攻めたが、城将宮原景種・越中守と佐多勢が防いだ経過を記す。敵は曽木を退いて市山城へ向かい、負傷療養中の新納忠元が出陣して白坂口を守った。さらに永福寺口で本田掃部兵衛尉・河野玄蕃允・長谷場菊四郎らが防戦し、敵将を鉄砲で倒して退却させた。
天正六年十一月 / 冊子 609~612頁
高城・耳川合戦で島津方が伏兵と横撃を用いて大友軍を崩し、深淵と耳川へ追い込んだ経過を長谷場越前の立場から記す。諸将の配置、味方の戦死、敵陣追撃と分捕り、合戦後の凱歌・帰陣までを回顧する。
年月日未詳 / 冊子 85~86頁
天正十三年八月十八日以降、島津義弘が肥州隈府方面の成敗を命じられ、諸軍を率いて出馬した経過を長谷場越前が記す。松尾の柵を越えて敵と交戦し、兵庫頭義弘の奮戦、敵将の討取り、諸隊の進退や戦死者を伝える一方、合志方との使者・太刀をめぐる争い、在地勢力の去就や帰順交渉にも触れる。肥後出陣の戦闘と調略を現場に近い視点でまとめた日記である。
年月日未詳 / 冊子 97~98頁
肥州八代の花山城を阿蘇方が攻めた際、鎌田左京亮政虎ら島津方が少人数で籠城した戦闘を長谷場越前が記す。敵は城を包囲して火を放ち、守兵は騎馬・弓・鉄砲で応戦し、城外へ打って出て挟撃した。武器を失っても敵を追う兵、負傷者、首級、討死の状況まで描かれ、花山合戦の激しさと個々の兵の動きが具体的に分かる。
年月日未詳 / 冊子 98~99頁
天正十三年閏八月十二日、薩摩・大隅・日向の軍勢が肥後の敵城を攻めた経過を長谷場越前が記す。城下の町を焼き、鉄砲・火攻めで城戸を破り、逃れる敵を追撃した。島津義弘・伊集院忠棟らが軍勢や兵船を差配し、城主の妻子・降参者の処置、占領後の守備配置まで進めており、攻城から支配確立までを連続して伝える。
年月日未詳 / 冊子 186~187頁
長谷場越前の自記。天正十四年六月十三日に義久が国元を出馬し、肥後八代に在陣して筑後・筑紫へ先陣を送った経過を述べる。島津義弘・歳久・家久、忠長、忠棟、北郷忠虎、新納忠元らの部隊と配下を列挙し、高良山から筑紫方面へ進む島津軍の軍勢編成・指揮系統を詳しく残す。岩屋城内の白兵戦ではなく、合戦前の動員と行軍を知る従軍記録である。
年月日未詳 / 冊子 188~189頁
長谷場越前自記。七月六日、筑紫方との防戦を破って町口・板城戸を突破し、筑紫広門の居城へ攻め入った過程を描く。河上左京亮が十文字・八ツ花形に切り回って奮戦し、多数の傷を負って倒れ、介錯された最期を中心に、城内へなだれ込む島津兵と双方の死者を記す。岩屋城ではなく、筑紫方居城攻略の白兵戦を伝える。
年月日未詳 / 冊子 209~211頁
長谷場越前の回想。七月十四日に武蔵方面へ陣を移し、天拝山を経て岩屋城へ迫った島津軍の配置と、二十七日の総攻撃を詳述する。鉄砲・石火矢・弓・長刀が飛び交い、城戸口や岸壁で敵味方が入り乱れ、長谷場配下も多数の死傷者を出した。高橋紹運方の頑強な抗戦、城内突入と落城、戦後の戦功・死傷確認に加え、安楽寺・太宰府天満宮などへの参詣や筑前での行動までを載せる、攻城参加者側の具体的な戦場記録である。
年月日未詳 / 冊子 250~252頁
長谷場越前が、伊東氏を助けた大友宗麟と島津氏の対立から豊後侵攻に至った事情を、自らの見聞として記す。島津家久軍の進路、険しい河川・岩場を越える行軍、敵城への接近、使者や内応者との折衝、援軍を加えて岡城方面へ向かう過程を詳述する。戦場の地形、偵察、陣取り、攻撃前の緊張が具体的に分かる自記である。
年月日未詳 / 冊子 281~282頁
九多縄城の留守を命じられた長谷場越前らが、阿蘇方の攻撃を受けて籠城した経過を記す。少数の城兵が鉄砲・弓・太刀で攻撃をしのぎ、敵の侵入を防ぎながら救援を待ったことが具体的に描かれる。
年月日未詳 / 冊子 282~285頁
長谷場越前が九多縄城の籠城から撤退し、日向へ向かう島津軍に合流するまでを長大に記した自記。城内の兵糧不足、夜襲、敵中突破、馬を失って徒歩で戦う者、落武者狩り、味方の離散と再集結が続く。三重城へ至る道中でも各地の城兵や農民勢と交戦し、武具・食糧の欠乏に苦しみながら退いた現場の極限状態を伝える。豊後撤退戦を個人の視点から追える重要史料である。
年月日未詳 / 冊子 292~293頁
長谷場越前らが敵の追撃を受け、山際や谷川沿いを夜通し退いた際の戦闘を記す。道を切り開き、鉄砲で応戦しながら日向方面へ離脱する切迫した状況が描かれ、退却中にも敵味方が入り乱れたことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 420頁
関白の意向を受けて島津義久らの帰国が決まり、石田三成の取り次ぎや船の手配、京都での別れを経て国元へ向かった経過を長谷場越前が回想する。 義久一行の帰国準備、贈答、鹿児島への到着・出迎えまでを具体的に記し、豊臣政権下での島津家の移動と儀礼を伝える。
年月日未詳 / 冊子 502頁
長谷場越前の自記。豊臣秀吉が高麗国王との取り決めが不首尾に終わったことへ憤り、和国の武兵を渡海させるよう命じたと記す。その船津として西国の肥前名護屋に石垣の城を築いた経緯を掲げ、朝鮮出兵前夜の対外認識と軍事拠点造成を伝える。
年月日未詳 / 冊子 737~738頁
長谷場越前が、島津勢の勇武と軍兵の士気、京都から渡海して朝鮮軍を追討した戦況を記す。多数の敵兵に対し、島津勢が寡勢ながら戦いを挑み、敵を敗走させた様子を具体的に描く。 秀吉の軍令や渡海後の戦闘を武功談として伝える自記で、島津軍の自己認識を知る上でも興味深い。
(慶長十一年)五月廿五日 / 冊子 74頁
長谷川藤広が島津忠恒に、使札を拝見した礼を述べ、唐船三艘が着岸したことを報告した書状。必要な御用物の扱い、江戸・駿府への報告、船の処置は忠恒の意向に従うと伝える。
(慶長十一年)七月三日 / 冊子 82~83頁
長谷川藤広が島津家久に、堺の町割がほぼ決着したこと、急ぎのため十分に報告できなかったことを述べ、黒船が長崎へ来着したので必要な用件があれば尽力すると伝えた書状。
(慶長十九年)五月十七日 / 冊子 527頁
長谷川藤広が帷子・単物・赤貝漬物などの贈答と使者の口上に謝し、唐船が着岸した際は唐人の事情に応じて処置すると述べる。江戸・駿河に変事なく両御所が息災であることも報じた書状。
(元和元年)六月八日 / 冊子 587~588頁
将軍への拝謁と馬拝領を祝し、山口直友から聞いた事情を踏まえ、伏見周辺の町割・居所などの措置に応じて今後の奉公を進めるよう伝えた長谷川藤広の書状。
七月廿一日 / 冊子 185頁
春以来上方にいた長谷川権六が帰国し、現地での用向があれば申し付けるよう伝えた。安許から島津領へ逃れてきたジュワン・テコスタという南蛮人二名を詮議して預かっているとの返報を受け、こちらで改めて取り調べるため引き渡すよう求めた書状。
三月廿日 / 冊子 297頁
唐船が不意に琉球へ漂着し、日本への渡海と帰帆が遅れるため荷物を保管したとの報告を受け、唐人の希望に沿って処置し、注文品の有無を確かめ、今後も帰帆に支障がないよう取り計らうべきだと助言した長谷川藤広書状。
八月廿二日 / 冊子 297~298頁
琉球へ漂着した悪党のうち逃亡した三人が捕縛・送致されたので早く受け取って処罰せよとの上意を伝え、残る四人が年内か翌春に到着するかを問い、できれば一括して処罰したいと述べた長谷川藤広書状。
永禄九年十月十五日~廿六日 / 冊子 154~155頁
飯野を境目として伊東・相良両氏と対抗するため、小林三之山城を攻撃した経過を詳述する。義久・義弘・歳久の軍が花立口・大豆別府口・寝谷口から攻め、義弘勢は二之丸まで進んだが多数が戦死・負傷したため退却し、追撃する伊東勢には伏兵で損害を与えた。帰陣後、横川側の不穏な振る舞いを諸将が訴え、成敗を求めたことも記す。
永禄十年十一月廿三日~廿五日 / 冊子 173~174頁
島津方が小林出勢を装って軍路を転じ、永禄十年十一月二十三日夜に般若寺越・構子木越から馬越城へ奇襲した経過を詳述する。義久・貴久が高地に陣し、義弘らが攻め上って井手籠父子以下多数を討ち、翌夜には周辺八城が放棄された。島津方は各城へ守兵を入れ、菱刈方は大口城へ集結して球磨の援軍を待った。
永禄十年十二月廿九日 / 冊子 178頁
永禄十年十二月二十九日、市山口の足軽が評議なく大口城下へ進んだため、球磨・大口勢が数手に分かれて攻撃したことを記す。西原川口で市来家利・平田加賀守・伊集院久慶が防戦したが多勢に敗れて戦死し、敵は市山城下まで迫ったものの、弓・鉄砲で多数を負傷させられて大口へ退いた。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 189~190頁
永禄十一年正月二十日、馬越から出た島津勢が大口方と羽作瀬で戦った経過を詳述する。川上久朗が飛田瀬で奮戦して戦死したと伝え、義弘は弓で敵先手を退けて味方を渡河させ、自ら殿を務めた。追撃兵の長槍を甲に受けながら多数を討ち、義久・貴久の援軍到着によって敵が退いた。長野仲左衛門尉・下島甚左衛門尉らの戦死や梶原某の追放も記す。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 194頁
永禄十一年二月二十八日、小苗代原で大口方の大軍と戦った経過を詳述する。肝付兼寛が諸軍を指揮し、新納久継が負傷、鎌田政年が敵中で下知を行い、面高真連坊が鉄砲で敵将牧野を倒した。新納忠元は白坂口で的場五藤と戦って数箇所の傷を負い、求麻方の勇士三名を守兵が討った後、貴久の使者から軍忠と市山在番への感謝を伝えられた。
永禄十一年五月上旬 / 冊子 198頁
永禄十一年五月上旬、山野・羽月・平泉の番替を大口方が狙って伏兵を仕掛けたため、日新が山野を相良方へ渡して一時和睦するよう勧めたことを記す。味方を多く失えば戦いの進め方が悪くなるとして、天意が巡れば敗れても後に勝てるとの判断から、相良氏との和議を成立させた。
永禄十二年三月十八日 / 冊子 215~216頁
永禄十二年三月十八日、深水頼兼が平泉へ向かう蒲池越中守主従十七人を討ち、和議が破綻した。平泉は後方を山野、前方を大口に挟まれ通路も断たれたため撤収も検討されたが、肝付兼寛・新納忠元は、平泉を捨てれば羽月一城では大河を隔てて維持できないとして百日間の守備を申し出た。義久が諸軍へ呼びかけると多数の兵が進み出て、番替えの日程を定めた。
年月日未詳 / 冊子 293頁
敵の猛攻を受けた島津勢が迎撃と退却を繰り返し、山田越前守らが高城への武具・兵糧輸送を担った経過を記す。戦功への褒賞や酒宴の記述もあり、敗走中にも軍勢を再編し士気を保とうとした現場が分かる。
年月日未詳 / 冊子 295~296頁
京都から来た豊臣方の軍勢が高城周辺へ布陣し、島津方約三百人が日夜防戦した状況を記す。喜入摂津守らの配置と各隊の構成、兵糧・武具の補給、少数の城兵が大軍へ抗する戦闘が続き、高城攻防の実態が分かる。
年月日未詳 / 冊子 296~297頁
天正十五年四月二十五日、豊臣秀吉が川内の太平寺へ着陣し、西国諸将の大軍と舟橋で人馬を渡した。平佐城へ降伏を迫ると、城方は「賢人は二君に仕えず」と旧主への忠義を理由に拒絶。二十八日には城門・藤崎小路で激戦となり、高木帯刀・谷山紀伊守らが奮戦して京衆・在地衆を感嘆させた。
年月日未詳 / 冊子 297~298頁
木食上人と一色宮内太輔が、豊州在陣中の島津方へ和睦の上使として来訪した。島津軍は帰国後に評定するため開陣し、細島・美々津を経て都於郡へ到着。義久は国の安全につながるなら上使の意向に従うと答え、和平後には伊集院忠棟を人質として遣わし、平野六郎左衛門に敵陣を見分させた。