島津惟新書状
(慶長十一年)九月九日 / 冊子 89~90頁
島津義弘(惟新)が入来院石見重頼に、川上掃部助が先に伝えた石見守の身上の件について返答がなく心配していると催促した書状。所領が少なく将来の成敗も難しいため、入来院後室が石見守を養子に望んだ縁組を少将殿と内談しており、古家である入来院家を一門・家中が協力して支えるべきだと説く。新田参詣に出立するため、九月十三日頃に届く返事を求める。
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(慶長十一年)九月九日 / 冊子 89~90頁
島津義弘(惟新)が入来院石見重頼に、川上掃部助が先に伝えた石見守の身上の件について返答がなく心配していると催促した書状。所領が少なく将来の成敗も難しいため、入来院後室が石見守を養子に望んだ縁組を少将殿と内談しており、古家である入来院家を一門・家中が協力して支えるべきだと説く。新田参詣に出立するため、九月十三日頃に届く返事を求める。
(慶長十二年)十月廿三日 / 冊子 132頁
慶長十二年十月二十三日、島津義久が伊集院石見重頼へ、陸奥守がその邸宅を訪れる際の饗応を気遣い、助けとして上酒二樽を贈った書状。
永徳三年十二月廿四日 / 冊子 123~124頁
渋谷重頼が向殿太郎入道に、父の譲状どおりの知行を承認し、所領に違乱・妨げが生じた場合には扶持を加えると約した安堵状。
至徳二年二月四日 / 冊子 128頁
渋谷重頼が、前年八月の二見参陣から佐敷への退却、和泉・水俣への合力、天草渡海時の供奉、佐敷城の守備に至る自身と親類若党の軍忠を述べ、後証となる証判を求めた軍忠状。
明徳三年 / 冊子 145~146頁
渋谷重頼が今川了俊の御教書に従い、島津上総介・又三郎方へ忠節を尽くすと誓った起請文。従来の守護人との共同を停止し、将軍家・公方の命令に応じて軍役を務めることを定め、違反時には諸神仏の罰を受けるとして入来院氏の帰属変更を明確にする。
応永十三年十一月十五日 / 冊子 223頁
渋谷重頼が、自身の後の所領は兄弟が複数いても器量を見定め、惣領一人へ一か所も残さず譲り、諸子へ分割した者は重頼の子孫と認めないと定めた置文。
応永十三年十一月十五日 / 冊子 223~224頁
渋谷重頼が子息菊五郎丸へ、薩摩国入来院内清色北方・市比野村半分地頭職などの所領に加え、筑前・筑後・甲斐・美作・相模の所領を譲り、器量ある惣領一人への一括相続と諸子への分割禁止を定めた譲状。
永享九年二月廿八日 / 冊子 377頁
渋谷重頼・重長が向四郎殿に、幼少時に父諸重が討死して譲状や妙勝以来の文書を失った事情を承知しているため、四郎重位が所領と田島の屋敷などを知行し、他者が妨げてはならないと証した連署状。
天正15年7月17日 / 冊子 351頁
重頼・野村良綱が上井覚兼へ、秀吉の下向後、大隅国が島津義弘へ与えられたため、末吉・財部も大隅の内として義弘から改めて給付されると伝えた連署状。その安堵の保証として北郷忠虎を人質に上洛させ、公役として在京させるよう関白の朱印が出たこと、上井村は当地で保護することを知らせる。
九月十日 / 冊子 148頁
入来院重頼が大井十右衛門に、五郎兵衛へ課した役儀に対する詫言について回答した書状。家中に役を命じられる人材が乏しいため、一時でも勤めれば本人のためになると説き、過去の遠流は惜しいが公儀上やむを得なかったとして、再度役儀を命じて勤めさせるよう求める。
永禄八年十月廿六日 / 冊子 141頁
永禄八年十月二十六日、日向国の城攻めで落城に至り、惟新公島津義弘が負傷したことを記す古戦書付。
永禄九年十月十五日 / 冊子 156頁
永禄九年十月十五日、島津義久が大軍を率いて小林城へ向かい花立口に陣し、義弘が大豆別府口から二之丸へ攻め入って戦ったことを記す。伊東方の援軍が来たため島津勢は陣を開いて退いた。
天正六年十一月十二日 / 冊子 626頁
大友氏が伊東氏を日向へ戻すため八万余の軍を出し、高城を包囲した際の島津方の兵力構成を記す。義久以下の兄弟・一門十三人、一所衆八人、三州の地頭七十五人、文内地頭五十七人など総勢八万二千余とし、十一月十二日に大友陣を崩して梓山まで追撃し、耳川までに六万余を討ったとする。秋月・赤星・星野氏には事前の申し入れにより助命して本国へ送った。
年月日未詳 / 冊子 94~95頁
島津師久死後の薩摩国情勢をまとめた長文国史記事。今川了俊による軍事・統治上の指示、島津久哲・渋谷重頼・伊集院久清らの帰属と行動を追う。守護職と所領をめぐる対立が薩摩郡・伊集院方面の戦闘へ発展し、使者交渉と和議によって一時収束するまでを記す。
年月日未詳 / 冊子 127頁
島津国史として、至徳二年・南朝元中二年に相良前頼が探題へ背き島津方と連携したこと、佐敷・水俣・八代をめぐる宮内大輔三雄、渋谷重頼、今川了俊らの軍事動向、同年冬の犬追物と参加者順位を記す長文記事。
年月日未詳 / 冊子 139頁
島津国史として、忽翁公島津元久の名乗り・官職・法名を掲げ、嘉慶二年に渋谷重頼へ今川和元のもとで忠節を尽くすよう命じたこと、鹿屋周防介へ三俣院北方弁分長田名を安堵したことを記す。
嘉慶二年四月廿六日 / 冊子 139頁
足利将軍家が渋谷清敷(重頼)の味方としての忠節を賞し、今川宮内大輔和元と一所になお戦功を励むよう命じた御教書。
年月日未詳 / 冊子 209頁
応永十年、恕翁公が伊作氏を阿多郡田布施へ派遣し、同地を管領させたことを中心とする国史記事。田布施を拠点に阿多郡周辺の所領支配を整え、渋谷重頼ら在地勢力との提携・対立へ対応した。人員配置、所領の確保、軍事行動を通じて島津元久方が薩摩南部の支配を固める過程を示す。
年月日未詳 / 冊子 269~270頁
寛永九年五月十三日、島津光久の女子が誕生したこと、母は家村重治の女で、後に入来院石見重頼の室となり、承応二年十一月二十日に早世したことを記す光久譜の記事。
八月十日 / 冊子 177頁
今川了俊が左衛門佐に、澁谷五郎重頼の本領安堵を取り計らうよう求めた挙状。重頼が薩摩国で相応の忠節を尽くしているので恩賞を申し行うべきであり、本来の知行にも相違がないよう、その趣旨を披露してほしいと述べる。
八月十日 / 冊子 178頁
今川了俊が齋藤美濃入道に、澁谷五郎重頼の本領安堵を執り申すよう求めた書状。一族中には野心を抱く者もいるが、重頼らは当初から味方に同心して忠節を尽くしたので特別に処置すべきであり、不忠の者への見せしめにもなるとして、十分な取りなしを求める。
二月十一日 / 冊子 178頁
今川三雄が周防右京亮に、郷北方・中村郷楠本村・市比野名地頭職・倉野村について、澁谷五郎重頼の申請どおり相違なく沙汰してほしいと求めた書状。
四月廿一日 / 冊子 179頁
今川三雄が清色五郎に、澁谷五郎重頼の当知行分の安堵について、相違なく沙汰するよう取り計らってほしいと依頼した挙状。この時期に重頼が忠節を尽くしたことを評価し、機会があれば京都にも申し上げるよう求める。
延徳二年十二月廿四日 / 冊子 554~555頁
延徳二年、島津友久・忠幸が心を合わせ、田布施の諏方大明神二社の社殿を新造した際の棟札。大檀主に島津相模守友久・島津三郎左衛門忠幸、代官・地頭・律師・大工武本氏定・小工十八人など造営関係者を列記する。棟札本文では神仏への敬礼とともに、風災・水災・火災などの除去、領内安全、子孫繁昌を祈願し、十二月廿四日の造立であることを記す。
慶長五年十月十日 / 冊子 591頁
島津義弘(惟新)が頴娃弥市郎へ、関ヶ原合戦で粉骨し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経て帰国するまで片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行二百石を与える。あわせて、同文で石高のみ異なる感状を多数の随従者へ与えたことと、その宛名・石高を列記する。
正慶元年八月日 / 冊子 601頁
阿波国大野新庄内北方田島の在家・山海・荒野等に関する文保二年の正文を焼失したため、渋谷重頼らが先祖以来の知行と譲与を確認し、願證・定意・定秀・定阿・重頼の連署で証明した紛失証状。
年月日未詳 / 冊子 74頁/原整理番号 63の7
大村重頼自記から、天正十八年の北条不服と太閤の小田原出馬に伴い、又市郎殿が正月十一日に飯野を発った経緯を引く。久保が石田治部少輔の陣で太閤に仕合を披露する話、有川雅楽助らを挙げた300人の賦、伊集院右衛門太夫のほか御小童・御道具・御馬取衆を含む鹿児島からの動員を記す。
年月日未詳 / 冊子 497~509頁/原整理番号 87の1
大村重頼の古戦書付を写した軍記。永禄元年以後の年次を追い、肝付氏との戦い、日向・大隅・薩摩各地の合戦、島津氏の出陣と帰陣、戦死者、所領・検地、寺社、朝鮮・琉球関係などを年代順に記す。
年月日未詳 / 冊子 157~158頁/原整理番号 45
大村重頼の古戦書付に見える近衛前久の鹿児島下向記事。天正四年四月、前久を歌会・連歌、御馬追、御関狩、花見、馬揃、犬追物などでもてなしたと記す。前久は九州の大名間の戦いを和談させようとしたが、島津義久が同意せず帰京したとする。
年月日未詳 / 冊子 171頁/原整理番号 68
『大村市兵衛重頼古戦書』の記事は、本文書集の四十五号とほぼ同文であるとして、ここでは本文を省略している。
年月日未詳 / 冊子 398頁/原整理番号 127
大林市兵衛重頼の自記に収める忠元の和歌。「詠月前郭公」の題で、明るい月に郭公の一声が響く趣を花や紅葉に重ねて詠む。清書には全文を入れるようにという付記がある。
年月日未詳 / 冊子 73~75頁
永和元年の改元と南朝天授元年の年紀を示し、野辺盛久らの旧領回復願い、今川了俊の九州諸国での軍事行動、北郷義久ら島津方諸将の戦功を記す。さらに、島津氏久が今川了俊との関係を断って南朝と再び和睦した経緯を詳述する記事。
天正十一年六月~十月 / 冊子 763頁
天正十一年六月から十月にかけて深江・堅志田・隈荘などで戦死した将士と、年月不詳の戦死者を列記した殉国者名録。新納忠嘉・白浜重仲・山内義裁・筑麻左近以下について戦死日や父祖を注記する。
年月日未詳 / 冊子 619頁
北郷忠能の譜は、庄内を元祖資忠以来の旧領として返還され、志和池・山田・野々見谷も代々の忠節と忠真退治の軍功により宛行われた経緯を記す。先に与えられた七か所と合わせ十か所・四万四千三百余石となり、家老四名へ各三百石を配分した。一族・家臣は喜び、都城を去って庄内へ移った。
八月廿四日 / 冊子 311頁
島津忠治が澁谷彈正少弼入道に、久しく音信がなかったため書状を送り、正八幡宮参詣の途次に相手の領内へ赴く予定を告げ、鷹を贈って賞翫を求めるとともに、世間の雑説について面談したいと述べた書状。
年月日未詳 / 冊子 224~225頁
新春、遠山の雪、鷹、田水、月、虫、秋風、霧、竹林、舟、霜、谷庵などを題に、家久と家臣十名が連作した多数の和歌と、家久の試筆二首を収める詠草。
天正4年4月 / 冊子 181頁/原整理番号 101
天正4年4月、近衛前久が薩摩鹿児島へ下向し、歌会・連歌・蹴鞠・鷹野・関狩・花見などを催したことを記す。島津貴久による大隅西征と鉄砲使用の回想も付す。
年月日未詳 / 冊子 370頁/原整理番号 75
五月六日に平泉の戸神の尾で相良勢二百余騎を討ち取ったと記す古戦の覚書。菱刈・大口を知行として支配し、その後に忠元が移されたこと、旗のもとに入り少し知行を与えられたことを添える。
正保三年四月二十六日 / 冊子 41~42頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0072
加久藤噯所案文。四人が伊主膳正へ、出水での大狩に伴い加州様が人数を召し集め、前朝出立したことを承知したと返答する。地元衆も加わる場合には事前の注進を頼み、今朝刑部様へ飛札し、求厂にも一人を派遣したと伝える。今回の狩の様子を詳しく聞いた時や帰宅時には知らせてほしいと依頼する。
年月日未詳 / 冊子 923頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2498
元禄七年十二月二十三日、光久の訃報が幕府へ達し、上使松平志摩守重頼が弔問に訪れて、賻銀五百枚を贈ったことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 69~70頁/原整理番号 60
天正六年頃の島津義久代について、川上久時・伊集院忠棟ら老中八人と、新納・鎌田・本田・伊地知ら使衆八人を分けて列挙する。加治木衆大村市兵衛重頼の旧記から原文どおり写した交名である。
年月日未詳 / 冊子 161頁/原整理番号 284-1
伊地知季安の記事。この日、伊地知重政が新納二郎四郎忠秀・大口地頭宮原壱岐守景之・高尾野地頭仁礼左近将監景頼・須木地頭村尾源左衛門重候を有馬の陣屋で饗応した。季安は、新納忠秀が大口地頭新納加賀守忠清の嫡男で、重政の婿養子・伊地知主膳重頼の実兄であるため饗応したのだろうと考証する。
年月日未詳 / 冊子 152頁/原整理番号 36
川越太郎重頼の三男重員を起点とし、重輔・重貞以下へ続く讃良氏の系図。重貞は修理亮を称し、河内国讃良郡を領したため讃良を号したと由緒を記す。貞與・重矩・重治、重純・重賢・重年、重寛・重朝・重高などの分流を示し、大膳亮・刑部太輔・土佐守・兵衛などの官途を添える。後半は重喬以下、貞盈・貞喬・貞能・貞敦・貞秀らを掲げ、貞秀について享禄年間の出生、母が和泉讃岐守女であること、島津貴久から宝刀を賜ったことを記す。末尾に貞行・貞資・貞勝・貞増、貞清・貞雄ら近世の子孫と善助・銀八・外記・七兵衛等の通称を載せる。
承久年間 / 冊子 176頁/原整理番号 56
高城氏の系図。初代重貞は落合六郎を称して高城を号し、承久の乱に宇治川で戦死したと記す。二代重秀(太郎二郎)から、三代重郷(河内守)、四代重藤(太郎)、五代重雄(小太郎・下総守)、六代義重(六郎太郎)、七代重豊(越後守)、八代重令(越後守)へ続ける。後半は九代重継(小太郎・下総守)、実弟との注を伴う十代重珍(三河守)、十一代重頼(彦太郎・越後守)、十二代重政(又太郎・周防守)、十三代重前(弥六郎・長門守)、十四代重鐘(六郎・周防守)を掲げる。さらに重治(異本は武蔵守)―重説(六郎太郎・左京亮)の系線を示し、『書入諸家系図』では重治を脱して重説を重鐘の子とする旨を注記する。末尾に後代の重貞(喜太郎・主馬允)―重善(小平次〔ママ〕・喜右衛門)の系線を載せる。
年月日未詳 / 冊子 206~207頁/原整理番号 72
祢寝式部大輔元就から祢寝駿河頼治へ続き、喜蔵重頼・覚内重昌、覚兵衛重好・平左衛門重貞・甚兵衛らの系線を示す。覚内重昌は吉利で死去し、覚兵衛重好は祢寝氏の称を避けて栗川口氏を名乗ったと記す一方、末尾の甚兵衛には祢寝氏へ復称したかとの考証注を付す。
酉十一月廿五日 / 冊子 509頁/原整理番号 87の2
真清が、加治木住の大村市兵衛重頼の古戦書付をもとに書写したことを記す覚書。酉十一月二十五日付で、前文書『大村重頼古戦書付写』の書写由来を示す。
酉十一月廿六日 / 冊子 515頁/原整理番号 88の5
真清が、加治木衆大村市兵衛重頼の旧記をもとに書写したことを記す覚書。酉十一月二十六日付で、88-1~88-4の諸外城地頭衆・老中等書上の書写由来を示す。
年月日未詳 / 冊子 122頁
兵庫頭忠平が二十八歳のとき飯野へ移り、その後に義弘と名乗ったことを記す大村市兵衛重頼の短い自記。
年月日未詳 / 冊子 285頁
『大村重頼古戦書附』の記録。慶長三年十一月、伏見で近衛家の取次により、島津義久(竜伯)と徳川家康が相互に礼を行った経緯を記す。竜伯が廿日に家康を訪れ、幸侃が伽羅一斤を進物として持参したこと、その後に家康も竜伯の屋形を訪れて返礼し、弓を贈ったと伝える。
年月日未詳 / 冊子 292頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0630
明暦二年四月二十六日、阿部忠秋が上使として恩詞を伝え、光久が時服百領・白銀千枚を拝領する。登城して謝意を述べた際、公が口ずから伝えて御馬一匹を賜ったと記す。閏四月十六日に江戸を辞し大坂・細島を経て六月八日に鹿児島へ帰着し、入来院石見重頼を江戸へ遣わして羅紗十間・樽肴を献じ謝礼した。