島津貴久書状
「天文元年」三月廿四日 / 冊子 712頁
島津貴久が遠江守に、前日の勝利を受けて出陣を求め、先日の談合内容に従って速やかに来るよう促した書状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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「天文元年」三月廿四日 / 冊子 712頁
島津貴久が遠江守に、前日の勝利を受けて出陣を求め、先日の談合内容に従って速やかに来るよう促した書状。
(寛永三年)十一月廿三日 / 冊子 25~26頁
新納忠清・本田親吉が、当地の人々が当年の出物を皆済したことを確認し、倉衆から受取状を使者へ渡したと知らせる。百姓一分の出銀については、従来どおり申し付けておくよう指示する。
文安三年十二月十三日 / 冊子 416頁
前遠江守康令が、宮内五代内の三町五か所、薩摩郡内の四町五反、くきもと一町内の浮免五反・平田一町などを定め、熊少に志分を譲り、その後は一人だけが神領を相続するよう命じ、違背者を子孫と認めないとした譲状。
(文禄元年)6月18日 / 冊子 571頁
豊臣秀吉が、朝鮮渡海の遅れに不満を抱いた梅北国兼が佐敷辺で一揆を起こしたため、義久からの報告と首を討つ旨の命令を受け、現地諸将へ即時の成敗を指示した朱印状。 島津兵庫頭の不安を除くよう申し聞かせることも命じ、梅北一揆を島津家だけでなく豊臣政権の軍事命令として鎮圧したことを示す。
(寛永七年)三月三日 / 冊子 134~135頁
伊集院家の名字・家督について、松千代を定めた経緯、本人の名乗り、親族・関係者の同意と披露の手順を説明し、異論がないよう内談を求めた島津久元・喜入忠続の連署書状。
年月日未詳 / 冊子 318頁
山門院にいた島津守久を貴久が攻めた際、従軍中の勝久の居城を叔父遠江守十忠らが攻め、久豊の許しを得て勝久を追放したため、勝久が妻子を残して他国へ出奔した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 318頁
伊作大隅守勝久の女子二人について、一人は伊作遠江守十忠の室、もう一人は島津上総介久世の室となったことを示す系図。
年月日未詳 / 冊子 323頁
伊作遠江守十忠が勝久の旧領を求めたことを発端に、妻子・叔父との関係、安鶴丸をめぐる動向、伊作方の策謀と麑島への移動を記す。
永禄二年五月廿三日 / 冊子 73~74頁
正八幡宮へ前豊後守忠朝が寄進した金を本田紀伊入道が持参し、島津忠将が受領して三原遠江守へ渡したことを証する受取状。
寛永十年三月吉日 / 冊子 364頁
飯野白鳥権現の棟札。白鳥六所大権現宝殿一宇を再興し、島津家久を大施主・大願主、法印光盛を当座主、伊集院遠江守久族を物奉行として記した。
(応安元年)四月二日 / 冊子 51頁
島津氏久が執印に、先日相談した祈所の件は相違があれば別途処置すると伝え、あわせて寄田村牧を特別に預ける旨を知らせた書状。
(文禄元年)10月26日 / 冊子 610~611頁
島津義弘が大野金七・浮田与一へ、春川方面で明・朝鮮軍の攻撃を受けて加勢要請が来たため、兵を派遣し、自身の金化への陣替えも延期して春川の情勢を待つと伝える。 混乱のため十分な人数を割けないことを詫びながら、可能な兵を送ったので部隊に加えるよう依頼し、詳細は使者に託した。複数戦線間で限られた島津兵を融通した書状である。
仁治元年十月三日 / 冊子 175頁
大隅国台明寺が、守護代左衛門尉の下知に従い遠江守殿御下文案を進上したうえで、当山依怙の安堵、濫妨停止、国衙の勧農・修理用途などへの配慮を求めた請文。
文保2年11月2日(巻末目録。本文中の道義請文の日付) / 冊子 658頁/原整理番号 134
山門弥宗大法師如善の子・種友が如善の代として、新田宮燈油免田にあたる薩摩国宮里郷正富名内の田地一町五反について、代々の証文による知行を宮原太郎入道連心に押妨されたと訴え、違乱の停止を求めた下知案文。道義に連心を出頭させるよう二度命じても返答がなく、下総権守重雄に違背の実否を尋ねたところ、道義の文保二年十一月二日付請文は御教書の趣旨を伝えたことと、連心の子正光の請文があることを述べる。本文冒頭は『遠江守御下知案文』で、同日付はこの引用請文の日付として現れる。
応永二年二月廿九日 / 冊子 159頁
川上志摩家に伝わる応永二年二月廿九日の犬追物手組で、伊東氏・島津一族・稲津氏・野村氏らを組別に配置し、各人の担当数を記す。
宝徳四年五月十四日 / 冊子 426~427頁
宝徳四年五月十四日の犬追物について、島津氏・鹿屋氏らの参加者を組別に配し、各人の定数を記した手組。
(永正十八年)八月廿三日 / 冊子 633頁
本庄右述・臼杵長景・大神親照が連署し、三か国の弓矢と和議、近年の乱れについて申し入れた書状。
年月日未詳 / 冊子 723~724頁
天文三年八月十四日の永吉城攻防で、平田清宗・樺山氏・新納氏・三原氏・伊地知氏ら多数が戦死したことを、諸名とともに記す。
年月日未詳 / 冊子 110頁
北原家中の宗論と離反により白坂美濃守らが島津方へ付き、栗野・吉田・馬関田・吉松へ番兵を求めた経過を記す。横川城の北原伊勢守・新介を攻めて数百人を討ち、城を落としたのち、貴久・義久は忠勤への恩賞として横川を菱刈氏へ与えた。
年月日未詳 / 冊子 676~677頁
文禄二年三月、王城の日本軍十万余が攻撃を止めているなか、諸将が再攻勢を論じた経過を記す。晋州・慶州方面の城郭や朝鮮軍の守備を偵察し、鉄砲・弓による攻防、援軍・兵粮不足、城攻めの困難を具体的に検討する。 日本側の損害と兵力不足から大規模派兵が難しく、豊臣秀吉が明征服を果たせないことを嘆いたという結末まで収めた、戦略判断と補給制約が分かる長編記事。
寛永四年十月廿五日 / 冊子 46~47頁
飯野狗留孫山の三所権現宝殿一宇を島津家久が大檀那・大願主として再興した際の棟札。遷宮導師、当地頭、木屋奉行、大工の名を列記する。
明和二年二月十七日 / 冊子 61~62頁/原整理番号 181の11/整理ID 181-11
大目付が二月十七日、松平右近将監から渡された書付の写二通を諸家の留守居へ送る。書付を承知し、遅滞なく順達した後、池田筑後守のもとへ返却するよう指示している。宛先は松平陸奥守、有馬中務大輔、伊達遠江守、真田伊豆守、鍋嶋摂津守、秋月山城守、大田原出雲守、毛利能登守、織田丹後守、堀田梅之丞の十家の留守居。
明和二年三月二十六日 / 冊子 76頁/原整理番号 181の40/整理ID 181-40
大目付が三月二十六日、松平右近将監から渡された書付の写し二通を送り、その趣旨を承知して滞りなく順達するよう命じる。最後の受取人から池田筑後守方へ返却するよう指示する。宛先として松平陸奥守、有馬中務大輔、伊達遠江守、真田伊豆守、鍋島摂津守、秋月山城守、大田原出雲守、毛利能登守、織田丹後守、堀田梅之丞の十名を掲げる。朱書には、当日の朝に大目付池田筑後守から廻状と写し二通が届けられ、書付を有馬中務大輔へ順達して写しを差し出した旨を記す。
明和二年四月十三日 / 冊子 82~83頁/原整理番号 181の60/整理ID 181-60
四月十三日付の大目付廻状。日光山御法会に伴う紅葉山御宮での法会日割を、十五日卯上刻、十六日午上刻、十七日寅上刻と示す。阿部伊予守から渡された書付の写し一通を送るので、順廻の最後の受取人から大井伊勢守方へ返すよう指示する。宛先は御名の家と有馬中務大輔、真田伊豆守、秋月山城守、毛利能登守、堀田梅之丞、松平陸奥守、伊達遠江守、鍋島摂津守、大田原出雲守、織田丹後守の留守居。朱書には、今朝大井伊勢守から借り受けたため、本書を有馬中務大輔方へ順達し、写しを差し上げたと記す。法会の時刻通知、写しの送付・返却指示と、朱書による受領・本書順達・写上の記録を分けて示す。
二月十四日、朱注は二月十五日の写送(安永五年の文脈) / 冊子 485~486頁/原整理番号 1347/整理ID 1347
嫡子がいる方は、その付衆へも知らせるよう求める。大目付から廻状と書付の写一通を渡され、陸奥守・大膳大夫に各方への通達を申し付けられたため、数通の廻状を相認めて回すことを伝える。二月十四日、松平陸奥守内諏訪九郎左衛門・田坂源太左衛門を記し、次頁には菅野勝三郎・齊藤源次・吉田隼太の名と、御次第不同の宛書欄が続く。宛書は御名と、有馬中務大輔・伊達遠江守・松平土佐守の各留守居である。小字の受領注は、薩摩守・土佐守は国元へ伝えること、有馬側は中務大輔の国元へ伝え、越侯・上総介へも申し聞かせること、伊達側は承知したことを記す。朱注には本文が到来したので写して差し上げた旨、二月十五日有川勇馬・左中様への記載がある。
九月十五日、嘉永六年十二月五日・十日・十四日など。共通包紙朱注は嘉永七年正月 / 冊子 144~146頁/原整理番号 212の1/整理ID 211-1
白木御文書十番箱中五十八番の道中行列鉄砲伺い一件の前半。包紙は上下の道中で鉄砲十挺を持つ伺書一通、留守居首尾書五通、江戸詰家老の問合書一通を列記し、嘉永七年正月の朱注を付す。本文の「の1~の5」は、近海の外国船来航に対する警衛命令を踏まえ、領内に置く鉄砲だけでは道中の急変に対応できないので行列内にも十挺を携行したいと願う書付と、その取次経過を収める。九月十五日の松平薩摩守の伺い、十二月十日の早川五郎兵衛による用番・用人への提出と御付札の受領報告、来年参勤に向け寅年二月中旬の国元発足に間に合う差図を求める十二月五日の内意、再提出・内見による催促の報告、十二月十四日の半田嘉藤次による箱根・福島等の関所への通達依頼が続く。報告は近江へ宛て、許可趣旨を国元へ知らせることや大御目付の留守居役名の申出も記す。
延宝二年十一月二十五日 / 冊子 640頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1589
光久が老中久世大和守へ、領内の転び切支丹の親類・縁者改帳の判形について大久保右京亮へ申し入れたところ、家来の判形で差し上げるよう渡辺大隅守・青木遠江守へ仰せ渡された旨を承知したと伝える。右京亮から詳しく聞き、別段の取持ちへの礼を述べる。
〔延宝二年〕十二月二十八日 / 冊子 640~641頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1590
久世大和守が松平大隅守へ、先月二十五日の書状による領内の転び切支丹の親類・縁者改帳について、大久保右京亮に照会した件を承知したと返答する。家来の判形とするのがよい旨は渡辺大隅守・青木遠江守に伝え、書面の趣旨にも留意する。判形の件は両人の奉行衆へ申し達したと記す。
延宝二年十一月二十五日 / 冊子 641頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1591
島津光久が大久保教勝へ、領内の切支丹宗門転び者の親類・縁者改帳の判形方法を問い合わせ、巡見使渡辺大隅守・青木遠江守にも承知させるので指示を求めた書状。
〔延宝二年〕十二月二十八日 / 冊子 641頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1592
大久保右京亮教勝が松平大隅守へ、先月十日・十五日の書状を受け、年頭礼使への配慮に謝する。領内の転び切支丹の親類・縁者改帳は、今後家来の判形で差し上げるよう久世大和守から渡辺大隅守・青木遠江守へ仰せ渡されたこと、改帳は新納又左衛門の判形で相済んだことを喜ぶ。
延宝二年十一月二十五日 / 冊子 641頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1593
光久が杉浦内蔵丞へ、領内の転び切支丹の親類・縁者改帳を家来の判形で差し上げるよう定まり、久世大和守から渡辺大隅守・青木遠江守へ伝えられたことを承知したと述べる。杉浦の取り持ちに謝意を申し入れる。
〔延宝二年〕十二月二十七日 / 冊子 642頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1594
杉浦正昭が松平大隅守へ、十一月十一日・十五日の二通を拝見し、公方の機嫌と宛人の勇健を喜び、年頭礼使による太刀の差上げに謝する。領内の転び切支丹の親類・縁者改帳を家来の判形で提出するよう久世大和守から渡辺大隅守・青木遠江守に伝えられたことを、宛人が喜んだ旨を承知したと返答する。
延享二年十二月十九日 / 冊子 866頁/整理ID 2315
十二月十九日、吉宗の退老に際して上使加納遠江守から吉貴へ賜物が届けられた。吉貴は受け取って謝礼を述べ、使者を通じてその意を伝えたと御譜に記す。No.2316~2320はこの賜物に関わる返書。
安永八年四月十八日(年は目録の配列) / 冊子 568~569頁/原整理番号 1606/整理ID 1606
昨年の参府の礼の際に上意を受けた直御請について、内意を申し上げると先規どおりでよいとの旨を承知したので、その後詳しく調べたと記す。参府と御暇の二度の礼で、召し出され取合を経て御機嫌を申し上げ、御懇ろの上意を受けて直御請を述べた段の旧記が見つかったため、このときも御暇の礼に際して前格どおり御機嫌を申し上げ、上意に対する直御請をしたいとして届ける。四月十八日、末尾の差出表示は「御名」。朱注では、大屋遠江守を通じて周防守から書面どおり心得てよい旨の殿中での伝達があり、御機嫌伺いと上意への御請について同朋頭原田順阿弥から周防守へ差図があったと記す。
天明三年九月十日・十四日 / 冊子 704~705頁/原整理番号 1984/整理ID 1984
重豪の帰国途上の差滞りを防ぐため、留守居付役桑山甚助を道中奉行大屋遠江守方へ遣わし内意を申し入れた交渉経過を記す首尾書。人馬継立等について勘定組頭・勘定方への取計いと規定の確認が必要であり、老中への内意申入れを経て松平周防守の承知を得た。九月九日の役人との面談で道中奉行から継立等の通達がある旨を聞き、宿の問屋役人からも品川宿への別紙の申し渡しを知った。新規で当分の威勢による厚い扱いのため、今後も同様に求めることは容易でなく、来春の参勤前に改めて内意を申し上げる必要を記す。九月十日、渋谷五郎右衛門。十四日の張紙は市田勘解由・松平周防守方への提出経過と口上書・触書の写しを取り揃えて差し上げた旨を記す。
天明四年十月十八日 / 冊子 765~766頁/原整理番号 2145/整理ID 2145
香奠輸送を滞らせないため、三回忌時のように道中奉行の触書を出すのがよいと留守居から提案があったことを伝える。七回忌には同様の扱いがなかったものの吟味を認め、大屋遠江守へ付役を遣わして前例と必要な人馬数を申し入れ、十月十六日に触書を交付された。返納方法は品川問屋にも確認し、先例と別紙二通に沿って処理するよう頼む。輸送者は伊勢路、触書は美濃路を通る場合があるため、現地で申し出るよう命じたことも伝える。
天明五年(転任祝儀、月日なし) / 冊子 791頁/原整理番号 2195の5/整理ID 2195-5
将軍転任祝儀の招請人名を10件列記する。老中水野出羽守、若年寄安藤対馬守、西丸若年寄井伊兵部少輔、奏者板倉左近将監・松平玄蕃頭、大目付大屋遠江守、作事奉行柘植長門守、普請奉行岩本内膳正、日光奉行井戸美濃守、佐渡奉行石野平蔵を官職・細字実名注とともに記す。
三月二十日(四月十六日到来。関連収納注記は天明八年) / 冊子 1010頁/原整理番号 2722の3/整理ID 2722-3
島津伊賀久金が、代替わりに伴う太守の誓詞の首尾を五名へ報告する。先月二十八日の誓詞に先立ち、松平周防守方へ留守居が呼び出され、用人から別紙の書付を受け取り、その日のうちに表方の使者を通じて受けを伝えた。大屋遠江守方の留守居へもあらかじめ問い合わせ、誓詞前書などの準備と書判を整えたうえで周防守宅へ出向き、誓詞を行う人々が揃った後、太守は別段に滞りなく誓詞を済ませた。退出後は供の留守居を通じて挨拶した。前年十一月の中将の家督内誓詞の際に問い合わせのあった経緯も踏まえ、今回の前書・案文などを添えて知らせる。三月二十日付、今井幸之丞・野元嘉三次の便で四月十六日到来とある。外包には、二月二十八日の太守の誓詞前書写、二月二十五日の周防守の書付、伊賀からの問合書の計三通を四月十九日に大炊から平山五郎右衛門へ渡し、本書を差し上げ、写三通を白木御文書六番箱へ納めた旨を記す。
3月(本文)、先月22日引結、3月12日祝物取遣。文化4年記事群 / 冊子 276頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0893
随姫と遠江守の嫡子伊達兵五郎との縁組内談があり、先月22日に双方の家老使者をもって引き結び、3月12日に双方の祝物取遣いも済み、両敬の旨が届いたので承知するよう関係先へ申し渡す。遠江守に伊達村候、兵五郎に村寿の注。3月・将監署、全七番箱中30番。口裏は将監殿から渡された書付の写、張札は御記録奉行江。包紙は将監殿から石原龍助の取次で命じられた書付1通を受け、白木御文書七番箱へ納置したとする。内談・家老使者による引結・祝物交換・届・記録保存を分け、婚礼済みとは扱わない。
文政5年7月25日(年は配列) / 冊子 618頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1859
重豪公御譜の記事。今茲夏七月二十五日、大家(将軍)が使番の佐橋甚兵衛桂富を芝邸へ遣わし、重豪に御鷹の雲雀を賜った。山内遠江守豊武が重豪に代わって受け取ったと記す。年は文政五年の配列による。使番の名は原本の桂富に従い、入力の柱富を訂正する。本文に雲雀の羽数は記されず、入力概要の「一羽」は除く。七月二十五日の使者・芝邸・雲雀・山内豊武の代理受領を一件として保持し、他の鶴・雲雀下賜記事と合算しない。
天保3年春(米寿祝賀作品群。作品に月日なし) / 冊子 904頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2548
平正義が島津重豪へ贈った和歌。「春日同詠老祝」の題に続けて「倭歌」と記す。行く末は遠く、君の千年の寿を祝うかのように、のどかな空から鶴の声が聞こえる、と詠んで長寿を願う。作者署名は平正義で、朱注が加藤遠江守と補う。正文所在は前掲作品と同じことを「全上」で示す。天保三年の米寿祝賀作品群に属し、具体的な月日は記されない。
天保3年閏11月2日 / 冊子 918~919頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2609-4
従四位上源朝臣斉興を正四位下に叙する位記。中務での兵欄・羽衛の職務に精誠を尽くすことを述べ、栄級を申べ、前件に従い主者が施行するよう命じる。天保三年閏十一月二日付で、二品行中務卿部仁親王宣、中務大輔卜部朝臣行學奉、中務少輔卜部朝臣久雄行を記し、大納言・中納言などの公卿の名と官位を列記する。「制書如右、請奉」「制、附外施行、謹言」「制可」に続き、大外記兼掃部頭造酒正助教中原朝臣師徳、右中辨の記載、関白以下の署名欄、兵部卿貞敬親王、兵部大輔説光、右大辨兼勘解由長官聰長、告正四位下源朝臣斉興奉を置く。さらに「制書如右、符到奉行」、兵部少輔兼遠江守利根、天皇御璽・朱印の表示、大録氏萬と少録欄を含む。本文から署名・施行・印の表示まで4頁を一資料として確認し、目録の日付と表題の文字層誤りを訂正する。
嘉永三年十一月十三日・十五日・十六日 / 冊子 110頁/原整理番号 164/整理ID 164
十一月十三日、大家の上使戸田山城守忠温が斉興の参府を問うて懇命を伝えた記事。十五日に斉興が登城して参府の礼を述べ、例のとおり懇命を受ける。十六日に上使深谷遠江守を通じて米二千俵を賜り、これをもって琉球使節を率いて参府したことに関係づけて記す。借金一万両を許されたNo.162とは、借用と米の授与を区別する。
安政5年7月16日死去(七月20日を忌日とする注);9月5日香奠銀 / 冊子 187頁/原整理番号 261/整理ID 261
斉彬公の御系図記事。安政五年七月十六日に薩府で亡くなり、享年五十、英徳良雄大居士順聖院殿と号し、福昌寺に葬ったと記す。死去日の脇には七月二十日を忌日とする注がある。九月五日、大家が加納遠江守久徴を遣わし、香奠銀五十枚を賜ったことを続けて記す。
文久4年子2月16日(朱書・承知注) / 冊子 341頁/原整理番号 486/整理ID 486
嶋津大隅守に対し、御用がある時には御用部屋へ出頭するよう命じる書付。文久四年子二月十六日は朱書で、同日の二条御城において御老中有馬遠江守から別紙の件を承知したとの注を持つ。冒頭は玉里へ現書を引き譲った文書のうち白木十一番箱十六番と記す。具体的な用件やこの指示後の出頭実績は記載されない。
2月27日(申渡・拝見);去11日二条城の伝達に言及 / 冊子 347~348頁/原整理番号 496の1/整理ID 496-1
松平修理大夫への通知。松平大膳太夫父子へ詰問し、万一承服しなければ征伐するため、討手の人数を出す準備をするよう内意を伝える。阿波徳島、因州鳥取、芸州広島、肥後熊本、豊後小倉、備後福山、播州龍野、備前岡山、出羽松江の諸侯と石高を列記し、紀州和歌山の紀伊中納言を御名代、奥州会津を副将と記す。松平肥後守と有馬遠江守には諸事を受けて尽力する役割を示す。続いて、去十一日二条城に留まるよう召された太守が、老中水野和泉守・酒井雅楽頭・有馬遠江守・土井備中守らの列座する場で、長州詰問と不服時の征伐を伝えられたとの報告を収める。別紙と準備指示を承知するよう命じ、二月廿七日七ツ後の夜に、諸士一統が御対面所で拝聞した注を持つ。条件付きの計画で、各諸侯の石高を出兵数・実支出に換算しない。豊後小倉は本文表記とする。
3月但馬;先月16日二条城の伝達・中村新介取次注 / 冊子 352頁/原整理番号 499の1/整理ID 499-1
少将に御用がある時は御用部屋へ出るよう、先月十六日に二条御城で御老中有馬遠江守が伝えた知らせが到来したので、一統が承知するよう向々へ通知する書付。三月但馬、中村新介取次で申し渡したとの注を持つ。二条城で少将へ出された指示と、その後の国内への周知を分ける。具体的な御用や出頭実績は記されない。
年月日未詳 / 冊子 383頁/原整理番号 485-1
『寛明日記』慶安二年八月二十五日条は、朝比奈源六・庄田小左衛門が伊達遠江守秀宗へ、先年勤めた公儀普請・役儀等の書付を送るよう求めたと記す。宇和島から届いた書付目録は両人から老中へ披露された。
(応安元年)4月2日、永徳2年 / 冊子 311頁/原整理番号 119-33
応安元年と比定される四月二日付、島津氏久が執印へ送った書状。先日約束した祈所の件は、相違があれば別途処置し、決して等閑にしないと保証し、寄田牧についても別儀として申し入れる。付随系譜は新田宮執印職の友弟(三郎、遠江守、法名願真)を掲げ、永徳二年に時宗専念寺が水引内大小路へ先祖代々の菩提所として建立されたが、建立者の執印の実名は伝わらず、年代から友弟の代と考えられるとの考証を添える。書状は『旧記雑録前編二』190号文書と同一と注記される。
応永28年8月23日、文安3年12月13日、永正11年頃 / 冊子 312頁/原整理番号 119-35
応永二十八年八月二十三日、島津存忠(久豊)が執印豊前守へ与えた宛行状。薩摩郡で十町分を割り当て、先例を守って領知するよう命じる。付随系譜は、新田宮執印職の康令(左衛門大夫、法名義光)、文安三年十二月十三日に父康令の譲状を受けた康秀(三郎、法名賢趙)、同職の友秀(三郎、法名浄官)、永正十一年頃に同職を襲った康隆(亀熊丸、遠江守、法名雪窓)を掲げる。宛行状は『旧記雑録前編二』1006号文書と同一と注記される。